京都SFフェスティバル2019のアフターレポートを書く

以下の文章は2019年10月12~13日におこなわれた京都SFフェスティバルの個人レポートです。

わたしは何者か?

 第9回創元SF短編賞に「夏の結び目」という作品を応募し、大森望賞をいただいた者です。織戸久貴(おりとひさき)といいます。

 大学時代は京都にある推理小説研究会のひとつ*1でミステリを読んだり書いたりしていました。SFはたまに読んでいました。読書会で『都市と都市』を課題本に設定したのに当日だれも読み終わってない状況で泣きそうになりながら作者の逮捕歴を語ったり、『ノーストリリア』に出てきたのとおなじ固有名詞が杉井光作品にも出ていたな、とぼんやり思っていたりしていました。SFプロパーではないです。今期アニメでは『ぬるぺた』*2がすきです。優しくしてください。

 京都SFフェスティバルには2017年の本会に一度参加したくらいで(ジーン・ウルフ『書架の探偵』の話が聞きたかった、若島正先生の解釈がめちゃくちゃ面白かった)、合宿はSFの濃い人しかいないと脅されて怖くて行くことができなかった勢です。いやだって、知らない人がほとんどの場所に行くのって結構心が折れるじゃないですか。特に自分はSFの人間ではないと思っているフシがあったので、心理的ハードルがあったわけです。そういう人向けにこの記事を書いています。そのような不安が取り払われるといいと思っています。

saitonaname.hatenablog.com

 ところで自己紹介のつづきです。『ミステリーズ!』vol.95や『おうむの夢と操り人形』等に掲載された第10回創元SF短編賞の選評に”「夏の結び目」(PDF版が無料公開中)”と書かれていて、おや、となった目敏い方。上記リンクに飛べばそれが読めます。昨年6月に公開しました。内容を簡単にいいますと、一部の都市が水没した未来世界で『エンジン・サマー』や推理小説が鍵となる仮想空間SFです。なんだそれは。

 第10回創元SF短編賞にもこりずに作品を応募し、最終選考に残って賞を逃したところ、知人であるところの千葉集さん(同賞にて宮内悠介賞を受賞*3)と「せっかくだしそれぞれの応募作が読める同人誌つくりませんか」と話すことになり、ツイッターでたまたま知り合っていた谷林守さん(同賞にて日下三蔵賞を受賞)にも声をかけてみることに。

 そうして紆余曲折あってできあがったのが、

note.mu

 上記リンクの 『あたらしいサハリンの静止点』です。

 そして、京都SFフェスティバルで初頒布だ! と意気込んだのはいいものの台風19号の出現・接近により京フェスじたいそもそも開催できるのか? どうなのか? しかし頒布する同人誌は印刷会社から合宿会場に直接送るよう手配してしまったぞ! もうどうにもならないのでは? と焦ったのが前日夜までの話です。すでに記憶が曖昧なので以降書き記す内容が事実であるかどうかはわからないです。よろしくお願いします。

 

本会直前まで

  自分は関西在住だったので、当日になって新幹線の運休や見合わせなどに影響を受けることはなく会場の神宮丸太町駅周辺へたどり着きました。10時から11時ごろの京都は風と雨がまだまだ微妙で穏やかなものでした。

 会場に到着し、すでに椅子に座っていた千葉集さんに挨拶。そして谷林守さんにも挨拶。お互い同人誌の打ち合わせなどのためネットを介して声だけは知っていたのですが、谷林さんと直接顔を合わせるのははじめてでした。ほんとうに会えてよかったですね……。

 と、ここまで書いて気づきましたが、上記の内容では「お前結局ソロプレイじゃないやんけ」と思われる可能性が大なので釈明をします。

 基本的に京フェスの本会は一か所に集まってゲストの方々の話を聞くだけなので、参加のハードルはめちゃくちゃ低いと思います。気になる作家や翻訳者、編集者などの話がまとめて聞けるぞ、学割もあるぞ、と親切設計なイベントです。ときおり書店などで作家によるトークショーがおこなわれることがありますが、その開催時間や招かれるゲスト数が何倍かになってかつSFメインでやっている、という豪華なイメージですね。2017年に参加した、と前述しましたが自分はそのときはほぼソロの状態で来ていました*4。やることといえば受付で名前を書いて参加費を払って名札をもらうだけ*5なのでビビるようなイベントではないです。

 毎回立ち見が出るほどの盛況ぶりと聞いていたのですが、今回は開会直前になっても空席がぽつぽつとありました。やはり台風の関係で参加できなかった人が多かったのだと思います。到着できない方向けにライブ配信をできるようにした運営はすごいですよね*6。学生時代、ミステリ研の企画による作家の講演会を何度かお手伝いしたことがありましたが、そこまで考えてやったことはありませんでしたから……。SF研はやはり技術的に進んでいる……。

  

本会①:実験小説を語る

 ゲストは木原善彦先生と藤井光先生です。まず最初に、木原先生がわかりやすい実験小説の例としてブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』を挙げていたのが印象的でした。題材そのものではなくテキストの周辺情報である「速記文字による」といった言葉などによって、文章の性質や取り扱い方が既存の小説とは異なってくる、という意味合いにおいて実験小説の系譜にあたるということですね。

 続けてその子孫として挙げられたのが”Shadows in the Asylum: The Case Files of Dr. Charles Marsh”。精神病院のカルテ等が活字ではなく資料の複写といったかたちなどで本にまとめられ、それぞれの情報を拾っていくことで何が起きているかを把握する小説だそう。アーカイヴを集めて真相を推理するものはミステリ系のゲームなどでよく見る印象があります。個人のイメージなので実態はわかりませんが……。物理的な推理小説であれば「捜査ファイル・ミステリー・シリーズ」*7が近いだろうか、などと思っていました。

Shadows In The Asylum (English Edition)

Shadows In The Asylum (English Edition)

 

  いっぽう藤井先生は、実験がギャンブルとして成功すると面白い、という視点に立って語っていました。翻訳されたものであればサルバドール・プラセンシア『紙の民』やマーク・Z. ダニエレブスキー『紙葉の家』など。藤井先生はプラセンシアに次作の構想としてひとつひとつのページがすべてバラバラになりながらどの順番でも読める本?(紙の入った箱?)をつくりたい旨を聞いたそうです。

紙の民

紙の民

 
紙葉の家

紙葉の家

 

  またプラセンシアの理想に近い作品(元ネタ?)として木原先生が B. S. Johnson の”The Unfortunates”を持ってきていました。これも箱入りの本で、複数のセクションに分かれているそうです。検索してみたらウィキペディアがヒットしました。The Unfortunates - Wikipedia。記憶がテーマになっていて、その想起のランダム性がおそらく造本の形式やストーリーにオーバーラップしていくのかな、と。

  ほかにも『ものすごくうるさくてありえないほど近い』がすこし前に映画化したジョナサン・サフラン・フォアの”Tree of Codes”(ブルーノ・シュルツ「大鰐通り」の文章を削って新しくつくった小説、墨塗りではなくページから文字を切り抜きまくったという凝りすぎた造本)や福永信『アクロバット前夜』、スティーヴ・エリクソン『エクスタシーの湖』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』、Deepak Unnikrishnan”Temporary People”(インド系の作家なのですが、英語で教育を受けて? 書いている。大量に職業名の単語のみを並べて社会の様相を説明する章があったりする)などを紹介。

 なんとなくこの”Temporary People”の言葉の扱う位置などは以前に藤井先生が『ターミナルから荒れ地へ―「アメリカ」なき時代のアメリカ文学 』で提唱されていた「ターミナル言語」の話の延長にあるような気がしました。実際には違うわけですが、アメリカ移住者や第二言語(英語)で小説を書く人たち独特の言葉遣いとか、言葉を一歩離れたツールとして使い倒していこうという気概といいますか。

エクスタシーの湖

エクスタシーの湖

 
Temporary People (Restless Books Prize for New Immigrant W)

Temporary People (Restless Books Prize for New Immigrant W)

 

 このあたりまで、メモ用紙を忘れていた自分は京フェスのプログラムブックの余白にひたすら書名を書きなぐっていたのですが、普通に話が面白くて手が止まりました。以降のコマではメモを取ることを諦めました。そのため今後さらに真実性が薄まっていきます。ツイッターの限られた文字数での簡潔な文体の小説(いまは英語は280字だが以前は140字だったはずなのでかなり切り詰めた文章でないといけない)などが紹介されていました。

 また翻訳レクチャー、というかたちで四行ほどの英文の翻訳を事前に募り比べていくという企画もおこなわれました。翻訳対象はいわゆる子供向けのローマ字に親しむ本(知育用?)にあった”FERN”(シダ)と題された文章。四文字それぞれからはじまる文章があって四つ全体を通して”FERN”の説明になっている、というもの。日本にもありますよね、「あ」なら「あかい」りんごとか「あかい」消防車とかが描かれていたりする絵本みたいなやつです。

 各参加者の翻訳が紹介されたのち、藤井先生による訳も出されたのですが、その精度の高さに会場から拍手が送られたのがハイライトでした。バイオリンの先端にあるくるくる部分(≒シダ)を日本人にとってわかりやすくするために「柴犬のしっぽ」(だったと思う)に意訳したりと、頭を柔らかくしないと出ない感覚だなあ、翻訳者ってすごいなあ、と小学生みたいな感心の仕方をしていました。

 

昼休憩

 知り合いと合流し、昼食へ。外に出た途端、風で某氏のビニール傘が瞬殺されたのには笑うしかありませんでした。たぶんこの時間がいちばん台風のパワーを京都で感じていた気がします。また今回の京フェスには千葉集さんの後輩さんも何人か来ていて(いっぽう自分の後輩はだれひとり来ていないという人望、つながりの弱さ)、そのうちひとりが学生時代このあたりで過ごしていたこともあったという。いいご飯屋さんありますか、と訊ねてみる。それなら、ということで、

tabelog.com

 上記リンクの味見庵へ。大盛り無料がうれしいサービス。自分はそんな食べられないので大盛にしませんでしたが、学生街っぽい雰囲気がなんだか懐かしくもありました。というか京大周辺は馴染みがないと昼食探すのにも苦労しそうですね。ほんらいなら事前調査をすべきでしたが、同人誌と台風のことで手一杯でなにも考える余裕がなかった。後輩氏の采配に感謝。

 

本会②:アリスマ王vs魔術師 小川一水×小川哲対談

  前述の通りメモ(をする気力)が尽きたので記憶を頼りに。ほぼ『アリスマ王』の話はせず、小川一水先生が小川哲先生の来歴や創作姿勢を聞きまくるという時間でした。小川一水先生は『天冥の標』完結に際して去年の京フェス2018でゲストとしてたくさん語ったので、今回は小川哲先生のおもしろいところを引き出してやろう、という魂胆だったようです。

 そしてその魂胆は間違いなくアタリで、『嘘と聖典』収録の複数作に何度も出てくる父親モチーフについて作者の実体験とどのくらい落差があったのかであったり、学生時代に書いた小説のことであったり、岩波文庫を筋トレのように毎日読んでいたことでスタンダールが相対的にめちゃくちゃ面白く感じられたがそれゆえ罪悪感を覚えてしまったことなど(どういうことだ)、面白エピソードが尽きない不思議な時間でした。

 どちらかといえば作品の個別の内容に踏み込むというより作者の来歴やものの見方が一部見えてくる、といった印象で、なにをどうインプットしてあのようなホラ話群がアウトプットされるのか、という補助線が引かれていったような気がしました。小川一水先生の質問力といいますか、作家としての姿勢や興味がそれを暴きたい、というレベルにまで達していて、なかなかスリリングな時間でもあったように思います。

 とりわけ中間地点を省いて結論部のみすらすらと話していく頭の回転の速さが小川哲先生には何度も感じられて、あの小説のテンポ感はもしかして地で出しているのか……? 個人的に内心でおののくなどしていました。よくよく考えたら『PEN』に載せるからって「最後の不良」が出てくるのはやっぱり怖いな、すごいな、と思いました(小学生並みの感想)。

  最後にそれぞれの刊行予定や新作の構想などについて。小川一水先生は相変わらず壮大なスケールの話を書こうとしているのと『アステリズムに花束を』に収録されていた「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ 」の長編版(連作短編?)について、そして新作ミステリ(!)というのがうれしい告知でした。SFメインで読んでいる方だとあまりミステリ系の作品に向かわないかな、と思ったりもするのですが、小川一水先生の場合ミステリの要素をSFの設定やスケールで調理したお話を書くこともあって、それがめっぽう面白いんですよね。あきらかに悪いことをしてきた人が死の間際になると決まって急に善人になり遺産を分配していくのはなぜか、という謎を女の子と親戚のうさんくさいおじさんのふたりで解こうとする「くばり神の紀」(『トネイロ会の非殺人事件』に収録)とか。

トネイロ会の非殺人事件 (光文社文庫)

トネイロ会の非殺人事件 (光文社文庫)

 

  小川哲先生はやっぱりといいますか、一足飛びの思考回路のホラ話を語っていました。とあるクイズ王の効率的な記憶の仕方についての小川哲先生なりの仮説というかアイデアを聞く限り、『嘘と聖典』収録作レベルかそれ以上のものがぽんぽん出てくるんじゃないかと思うわけでワクワクが止まらないですね。こういう新作情報をすこしでも早く生の言葉で聞ける、というのもイベントならではという感じがします。小説すばるの連載「地図と拳」も難航しているようですが、まとまったら読みたいですね。

小説すばる2018年10月号

小説すばる2018年10月号

 

  

 本会③:ホラーとSF――「未知」を描く2ジャンルの交点

 ゲストは小林泰三先生と矢部嵩先生。とにかくなんでも書くものを「SF」と思って書いている小林先生と反対になんでも「ホラー」と思って書いている矢部先生が互いに距離を測り合いながら会話していくうち、だんだんとふたりの波長が合いはじめこれはなんだかすごいものを聞かされているぞ……という一時間強でした。

 基本的には小林先生が前コマの小川一水先生のようにインタビューアーのような立ち位置から矢部先生の各作品を紹介し「あれはどういった発想から?」と個別に質問していくかたちで進んでいきました。とりわけ矢部先生の作品を小林先生がSF的な視点から考察していくのが新鮮でした。ほとんど小林先生版『〔少女庭国〕』別解みたいな話になっていき、 これがジャンルの交点……! という状態でした。

 とはいえ、いま現在『保健室登校』や『魔女の子供はやってこない』がアマゾンで地味に高騰しているのが惜しいな、とも思いましたね……。広く読まれてほしい。各位は電子書籍のほうで読んでください。『〔少女庭国〕』とはまた違ったテイストの暴力にやられること間違いなしなので。

  後半に差し掛かると今度は矢部先生から小林先生への質問が増えていきます。矢部先生の落ち着いた口調で「人体を破壊したり人を殺していくのがお好きでいらっしゃるんですか」と聞くシーンで会場が爆笑に包まれ、その後もナチュラルに滔々と小林先生とその残虐な描写への愛を語っていくのが印象的でした。そして気づけば矢部先生の会話のテンポ感が観客側全体にも浸透しており、直接参加してその場の空気を味わってないと得られない稀有な体験になっていたように思います。

 質問タイムではそれぞれの書くモチーフや個別の描写に対してどう自覚があるのか、といったことについて聞かれ、作品を書く姿勢について聞けたのが嬉しかったです。「イマジナリー小林泰三」先生を矢部先生が召喚しているのも影響下にあるからこそ独自進化した描写になっているのだな、と納得感のある話が聞けました。

 また余談ですが、クロージングのさい、千葉集さんおよび某先輩といっしょに、矢部先生にご挨拶へうかがいました。というのもすでに四年前、自分たちは矢部先生にお会いしたことがあったからです。

amf.hatenablog.com

 詳しい経緯は上記のリンクに(関西ミステリ連合OB会なる組織として自分は企画のお手伝いをしていました)。風のうわさではありますが、今回の小林先生と矢部先生の対談の遠因に、矢部先生が小林先生への愛を講演会で公に語ったことがあった、と伝え聞きました。ほんとうかどうかはわからないんですが、そうだったらいい話ですよね。この講演会の模様を記録した文書が世界には少部数だけ存在しており*8、いつかなにかのめぐり合わせで現物を見ることがあればこれがあの……と思っていただけると幸いです。矢部先生は相変わらずお優しい方でした。

 以上で本会は終了。これだけもかなりいろんな生の声が聞けたわけでかなりお得でした。未経験の方もまずは本会だけでも参加すると楽しいと思います。心細いなら友達をひとりでも無理やり誘っていくと気持ちはだいぶ緩和されます(これはほんとうにそうです)。作品を多く読んでなくとも楽しく聞けた、という人の話はよくうかがいましたので、これを読むきっかけにしていくこともできるでしょう。ハードルはどんどん低く下げていきましょう。

 

本会閉会後~夕食~合宿まで

 まだ風はありましたが、台風の勢いはだいぶ収まっていました。合宿会場から離れるとな、ということになり昼に食べたメンバーの一部と近くのからふね屋珈琲へ。迷ったらここに行けば失敗はない、の気持ち。カレーとかカツとかをみんなで食べる。

 なんとなく最近読んだ漫画の話に。ちょうど一週間くらい前にくずしろ『永世乙女の戦い方』が出ていました。個人的にはすでに『りゅうおうのおしごと!』がプロ棋士女流棋士奨励会の話を小説で十冊以上やっているという先例があるので、今後の差異化をどうはかるのか気になりますよね、と話す。『りゅうおう』で椚創多というどこかで聞いた名前の敵が出てくるのですが、そいつはAI将棋世代で一手ごとの評価点数を参照していたり、脳内で将棋盤の画像をつくらず棋譜の字を考えるだけで深く読んだりするんですよ、面白くないですか、と千葉集さんに伝えたところ、さっきの小川哲先生の仮説っぽいですね、と返してくる。たしかにデータを捨象して効率化計算しようとする(人間が機械を真似ていく)のはSFっぽい。

  とはいえせっかくだし、夕食のさい知人だけで集まらず知らない方も誘えば面白かったですね、コミュニケーション力が自分にあればよかったのに……(これから十五時間くらいずっとそのことを悔やむようになる)。京フェス参加するんですがご飯たべる人誘ってください、とツイッターでつぶやけば心優しいSFファンの方が来てくれていたかもしれないのに……。そこまで頭が回らなかった……。

 

 合宿:オープニング~①②

 合宿所となる旅館に到着。ほんとうに本会会場のすぐそばにあったんですね。同人誌の入ったダンボールも無事届いていることを確認。直前に大学ミス研の方から文学フリマ会場に機関誌を配送したはずがBOX(部室)に送ってしまい、当日虚無を売ることになった、という経験を聞かされていたので正直気が気でなかった……。

 旅館内部はかなり入り組んでいて、事前に館内見取り図を渡されていたのにまったく空間が把握できませんでした。ほぼ迷路。二階に上がるのに階段が複数あってそれぞれの先が分断されていたり、110と書かれた部屋なのに階段を経由しないとたどり着けなかったりします。毎年参加しているという某氏からは、とにかく行って覚えるのがベストですよ、と優しい顔で諭されました。

 そしてオープニング後には『あたらしいサハリンの静止点』の頒布。前述のリンクでも書かれていましたが、第10回創元SF短編賞日下三蔵賞、宮内悠介賞、最終候補作(自分のやつです)、そしてさらに新作三編の入った分厚い同人誌(370p)です。

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頒布時の写真。『劇場版ハイスクール・フリート』をよろしくお願いします。

 正直台風などの影響もあってそんなに参加者も多くないだろうからあまり買われないんじゃないか、と思っていたのですが、頒布開始から列が形成されるほどで、大変ありがたいことでした。無事搬入分は完売。拝謝いたします。なにより表紙イラストを担当してくださったのは『アリスと蔵六』の今井哲也先生!(すごいぞ!)。

 今井哲也作品をまだ読まれたことのない、という方におすすめなのは団地SF夏ジュブナイルの『ぼくらのよあけ』(全二巻)ですね。近未来、オートボットというロボットが家庭に普及しつつある世界で地球外からやってきた宇宙船(いまは団地になっている)と子供たちが出会って――というひと夏の冒険感のあるお話。とくに細かい描写がよくできているんですよね。たとえば学校に子供たちは当然のように携帯を持ってくるわけなんですけどマナーモードではなくスクールモードというかたちで送受信のうち受信だけができるモードに設定されたりする、とか。そういうディティールの在り方がとても考えられているので読んでいて素直に物語に入り込むことができる作品です。

 ほかにもすすめたいのは、ある日女の子がいつも見ていた郵便ポストが消えていたことに気づき、そこから日常のズレを意識しはじめてついには記憶の宮殿に迷い込んでいく、というすこしふしぎで鮮やかな読後感の短編「ロスト・イン・パレス」。これについては知り合いに読ませたところいい反応しか返ってこなかった傑作なのでぜひ。ヒバナ電子版で読むことができます*9

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

 

  また今回自分や千葉さん、谷林さんはディーラーズスペースという場所(大広間)での同人誌頒布をすることに決めていたので、合宿企画のすべてを聞くわけではなく、シフトをつくり売り子をしていました(自分は1と2コマ目が担当)。ふつうの参加者はぞろぞろと各自が気になっている企画部屋に向かっていて、ちょっとうらやましかったりしました。

 合宿企画も基本的には担当者の話を座って聞くスタイルなのですが、その場で意見や質問をフレキシブルに交換できる場なので、そこにいる参加者全員で企画をやる、という印象が強かったです。もちろん聞きに徹する、というのも全然アリなのでハードルといっても参加そのものよりも宿泊することじたいへのハードルさえ取っ払えば割に入っていきやすい場所なのかな、という気がします。

  企画がおこなわれているあいだ、店番している谷林さんと雑談。『あたらしいサハリンの静止点』収録作「八月の荼毘」を書くさいに谷林さんは『終わりのセラフ 一瀬グレン、16歳の破滅』を参考にしたとのことで、当日自分はその一巻を読んでいました。『終わりのセラフ』本編から八年前、世界がいかに滅亡したかを書くというエモーショナルな設定で、本編だと教官的位置にいたキャラクターが前作主人公のようなかたちで活躍する話です。谷林さんから、これがここで本編だとこうなっていくんですよ……とそっと教えられ、アァーッ! それ最高ですね! さっさと続き読みます! となりました。みんなも読もう。

 ついでに『終わりのセラフ』イラスト・漫画担当の山本ヤマト先生は一時期牧野修作品の表紙イラストを描いていたことはSFファンなら知っている方も多いと思うのですが、じつは数ページのPVふうSF漫画も描いていたんですよね。憑依都市っていうんですけど、と話を振っていく。えっ、あの憑依都市ですか。あの憑依都市です。

SF Japan (Vol.10(西暦2004冬季号)) (Roman album)
 

 《憑依都市 The Haunted》プロジェクトは山田正紀牧野修津原泰水森奈津子瀬名秀明吉川良太郎によるシェアワールドSF企画で、基本的な概要についてはSFJAPAN2004年冬季号を読めばわかります(原稿用紙240枚の合作資料小説「The Scripture 聖典」、作品内年表、キャラ設定資料、座談会などなど)。

  簡単に設定をいうと、地獄(イオ・ミヒ、量子コンピュータによって実在が立証される)からやってきた存在に人類が次々憑依され怪物になって世界がめちゃくちゃになる、という伝奇ふうSFですね。いっぽうで研究者たちは人間を実験体として使い脳に特殊な腫瘍をつくり地獄を認識する手段を探っている……。

 そのなかでジル・ド・レの憑依体となった少年が暴走し神奈川県Q市をさらにめちゃくちゃにしてしまう。ジル・ド・レは触れたものをカバラ錬金術(!?)でゴーレムのように変異させるのですが、そうして暴れた結果、周囲がティフォージュ城と現実のビルのモザイク状の建築に成り代わるというトンデモぶり。そんな混乱の起きたなか、さらにジャンヌ・ダルクの聖痕を持つ少女が現れて……という話。

 これをかいつまんで吉川良太郎先生が外連味たっぷりに語り、それを山本ヤマト先生がイラスト漫画にしている、と伝えたら案の定、めっちゃおもしろそうじゃないですか! と反応をいただけてなによりでした。そのあとさらに某氏がやってきて吉川良太郎が好きなら「ぼくが紳士と呼ばれるわけ」もいいですよ、とご教授いただきました。19世紀フランスを舞台にアルケミーパンクをやろうとした作品だそうです。めっちゃおもしろそう。さっそく注文しました。

  企画が終わるたび、ぞろぞろと参加者がまた大広間に戻ってきます。合宿から来ていた知人に、どうでした、と訊ねると、世界のSF情報がモリモリ集まってめっちゃ読みたくなりました、といわれました。特に今回は2コマ目までに「英語圏SFの部屋」「東京創元社と最新海外SFを語る部屋」「東北大SF研、中国SFを大いに語る」があり3コマ目には「魔術的リアリズムに見るSF――ラテンアメリカ文学部屋」もありましたから多国籍感がかなりあったのではないかと思います。自分も聞きたかった。とりあえず参加した方にどんな話があったのかちょっとだけ教えてもらうなどしました。あと世代は違うものの、自分とおなじミステリ研の先輩が合宿に参加していてびっくりするなどしました。世間は狭いですね。

 

合宿③:魔術的リアリズムに見るSF――ラテンアメリカ文学部屋

 詳しい内容とについては企画側でもあった谷林守さんがレポートに書いてくれています(こっちのほうがずっと丁寧です)。

note.mu

  企画者本人たちが種本ですといっていましたが気になった人は寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』と『魔術的リアリズム』を読むと基本的な概観は掴めるだろう、という印象でした(あくまで寺尾史観。とはいえ自分は積んでいますが……)。ラテンアメリカ文学と呼ばれる作品群をなにから手に取っていけばいいのか、といった話から個別の作品の読みどころ、各国の政治情勢や作家の立ち位置、翻訳状況などについて詳しく語っていただきました。

魔術的リアリズム―二〇世紀のラテンアメリカ小説 (水声文庫)

魔術的リアリズム―二〇世紀のラテンアメリカ小説 (水声文庫)

 

  また基本的にSFの話だったので触れられることはありませんでしたが、ボルヘス『伝奇集』収録の「死とコンパス」は観念的ミステリの大傑作だと思います。あとボルヘスひとりだけで書いているとすごい肩肘の張った出来になる印象がありますが、カサーレスとの共作だとチェスタトンやポーをパロディにしたような軽妙な味わいのミステリなどもあって、そういうのから入っていくと文章の複雑さとかに苦労したり挫折したりせずに読めていけるのかな、とも思いました。魔術的リアリズムか、というと全然そんなわけではないのですが……。

ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

 

  クロージングのさいにとある大学SF研の方?(だとおもいます)が、日本作家でラテンアメリカ文学の影響を受けた人はいるか、と訊ねられていたので、自分は石川宗生『半分世界』を挙げました。 どこまで影響関係があるのかわかりませんでしたが、とくに「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」はかなりその雰囲気がある印象の作品だと思います。いま調べたら飛浩隆先生によるインタビューで「とくにメキシコやグアテマラでのスペイン語留学のとき、文学コースで学んだラテン文学は現在の作風の基礎になった気がします。」*10と答えていますね。

 とりあえずそう伝えたところ、代わりにドミトリー ・グルホフスキー『Metro2033』とその続編が面白いので読んでください、といわれました。ラテンアメリカ関係ねえ、でも気になる。ありがとう大学SF研の方。たしかゲームにもなったやつですね。アマゾンで検索したらストロガツキー『ストーカー』がいっしょにサジェストされたのがちょっとおもしろかったです。

半分世界 (創元日本SF叢書)

半分世界 (創元日本SF叢書)

 
Metro2033 上

Metro2033 上

 

  また補足ですが、ラテンアメリカ文学の叢書《フィクションのエルドラード》全レビューがなされた同人誌があるそうです。今回企画者の方々がごっそり関わっています。自分は関係者分っぽいやつを奪い取るように京フェス合宿会場で買わせていただきました*11。ほかにもカルヴィーノ評論やレイナルド・アレナス論、ウェルベック論なども入っておりかなりおすすめの同人誌です。ネットで買えます。

booth.pm

 

合宿④:2019年の神経科学とフィクション

 神経、自由意志……えっと準備電位とかですか? くらいの知識しかなかった自分だったのですが終始質問や意見が飛び交っていてとにかくその場にいるだけでなんか色々な知識が飛び交っていて楽しい、という空間でした。基本的な内容は以下のリンクが公開されています。

scrapbox.io

 治療とかに使われる技術や方法がどうしてそうなるのかはわからないが、とりあえず結果が出せているのでやっている(バグ技か?)みたいな話やfMRIがフィクションで描かれるほど万能というわけではない、といった話などは大変興味深かったです。終始へー、とかほー、とか、とにかくうなずきまくっていた記憶があります(わかっていない)。

 それからベンチャー企業Neuralinkの開発したBMIのなにがどう画期的だったのかを説明していただけたのはかなり助かりましたね。いつまでもこういう話を聞いていたい。

 最後に神経科学と関連性のあるフィクションについて。草野原々「幽世知能」はそういう文脈にあるとはわかっていなかったので(ほんとうに恥ずかしながら)、なるほど~、と思うなど。主に挙がった作家はグレッグ・イーガンテッド・チャン、ピーター・ワッツ、ダリル・グレゴリイなど。グレゴリイは『迷宮天使』以外に「二人称現在形」という短編がSFマガジンに掲載されていたんですね。国内作家だと、伊藤計劃長谷敏司、伴名練。神経科学をフィクション内で昇華していくさいの描写についてどこまで実際の科学に近くするべきか、などといった話も出て、そういう点でも刺激を受けました。

 SF周辺の話題になると、とにかく楽しくワイワイヒートアップしていく部屋で、もっとSFが読みたいな、と自分も改めて思いました。

S-Fマガジン 2007年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 01月号 [雑誌]

 

 

合宿:全コマ終了後~朝まで

 予定されていたすべてのコマが終わり、寝る人は寝部屋へ。自分は大広間でほかの企画部屋に参加した人と内容を交換したり、サンデー連載漫画の話や『まちカドまぞく』、『グランベルム』の話をしていました。いやあのアニメ両方とも面白いんですよ。お話の途中までで語られていたものが一気にガラッと雰囲気を変える恐ろしさが両者にはあるし、おすすめです。

 とくに『グランベルム』は魔術ロボットバトルロイヤルもので、生き残ったひとりが願いをかなえることができるっていう結構手垢のついた設定でそのあたりはまあ大味ではあるんですが、とにかく主人公のキャラ造形とストーリーをしっかりやって13話でまったく違う景色に連れていってくれたのがいい。百合パワーも強いし、終盤はニュータイプ思想バトルに(冗談ではなくほんとうに)なるし……なにより9話の戦闘特殊BGMがドビュッシーのピアノなんですよ!!! いやほんとうにめちゃくちゃいい……。みんなも見よう。

granbelm.com

 そのあとオキシタケヒコ先生、麦原遼先生と谷林守さんを含めた何人かが話している場所に合流。オキシ先生はとにかく楽しく明るく話してくださる人で、自分は「プロメテウスの晩餐」の続編めっちゃ楽しみにしてます! とファンムーブをするだけだった……。いやほかにも話しましたが……。白土三平の忍者ものがいわゆるファンタジーではなく地に足のついた説明でやっていたことがSF読者になる経験になった、と嬉しそうにオキシ先生がおっしゃっていて、この人はほんとうにSFがすきなんだなあ、と改めて圧倒されるなどしました。「ミステリは最後に風呂敷を畳んで一点に収束しますけど、SFは最後にボールみたいにバウンドするんですよね」(記憶は曖昧)と語っていたのが印象的でした。

ミステリーズ!Vol.86 (ミステリーズ!)
 

  だいぶ各人が眠くなって去っていくなか、自分と谷林さんがよくわからないフェイズに入って(というか自分だけが一方的に入って)、アイデアとかセンス・オブ・ワンダーをどう捉えたらいいのかわからないんですよね、という話をした記憶があります。

 念頭にあったのは森下一仁『思考する物語』のセンス・オブ・ワンダー≒異化効果をどう捉えるべきか、だったんですが書名が思い出せなくて曖昧な言葉しか使えず、変な絡み方になってしまったのは猛省しています。ほんとうにすみませんでした。そのあとも某氏に、この文体が~、と説明になっていない説明をどう考えても自分よりもずっと理解しているであろう相手に向かってはじめるのはほんとうによくありませんでしたね……。その節はほんとうに申し訳ありませんでした……。

 自分が言いたかったのはSF読者はなにを以て「これがSFなんだ!」と思うのか、あるいはSFとしてどこに興奮を覚えるのかがわからない、といったところで、うまく谷林さんがキャッチしてくれて山本弘トンデモ本? 違う、SFだ!』を紹介してくださったのはすごい助かりました。先日ようやく注文したのが届き、とりあえずまえがきを読んで、あ、これはいい本だな、と感じています。ほかの方でも、こういったSFを知れる本があったらご紹介いただけるととても嬉しいです。

思考する物語 SFの原理・歴史・主題

思考する物語 SFの原理・歴史・主題

 
トンデモ本?違う、SFだ!

トンデモ本?違う、SFだ!

 

  しばらくして広間に戻ってきたオキシ先生からSF漫画を調べているという某氏を紹介されました。持っていたのは雑誌『奇想天外』のSF漫画大全集(別冊、細かい号は失念しました)。そこに載っていた手塚治虫小松左京の対談をぱらぱら見せてもらいこのふたりに共通点などがあるといった話。京フェスはどこに行っても詳しい人がたくさんいてすごいですね……。ついでにこのあたりのSF漫画入門編として米沢嘉博『戦後SFマンガ史』や上級編として奇想天外のまんが評論連載に加筆を入れた小野耕世『長編マンガの先駆者たち』を教えていただきました。 

戦後SFマンガ史 (ちくま文庫)

戦後SFマンガ史 (ちくま文庫)

 
長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで

長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで

 

  そして気づけば朝に。もうさすがに話し疲れていてこのあたりは記憶がまったくなくなっています。寝ることはなかったんですが、ほとんどぼーっとしていたんだと思います。ニュースでは関東や東北がすさまじい景色になっていて、新幹線が動かない、台風一過で昨夜の空がきれいだった、天気の子、といった情報が頭をするすると抜けていきました。

 解散後は千葉集さんと後輩氏といっしょに三条河原町まで歩き、朝ご飯を食べて帰りました。京都市役所前あたりで、はいふりOVAの納沙幸子がかわいい、という話をしていた記憶があります。劇場版ハイスクール・フリートをよろしくお願いします。

 家に着くと、なんだかすごい二日間だったな、と思いながらベッドに倒れ込みました。SFで育ってきた人が集まってSFについて語りまくるだけでこんな熱量が出てくるんだな、という驚きがいちばん大きかったんだと思います。ほぼほぼ異文化交流レベルでした。ミステリメインで読んでいる人も来たら来たで結局楽しいんだと思います。

 というわけで来年も参加したいですね、という気持ちでいっぱいでした。次はもっといろんな人に声をかけていくようにしたいですね(たぶんできない気がする)。

 

告知について

 さて、今回の京都SFフェスティバルで頒布した『あたらしいサハリンの静止点』ですが、来月の文学フリマ東京でも頒布します。ペーパーとかつきますか。なんにもわかりません。各人が乗り気ならなにか追加であるかもしれません。あんまり期待はしないでください。

 またSFではありませんが、Re-ClaM編集部さん発行の『Re-ClaM』vol.3クラシックミステリの特集に短い文章を寄稿しています。自分は恐れ多くもエラリー・クイーンについて書いています。新しいことは言っていませんが、古典ミステリ入門紹介といったようなブックガイド企画になっていると思いますので、ミステリにちょっと興味あるな、という方はぜひお立ち寄りください。

c.bunfree.net

 

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 現物は帯で隠れていて気づきにくいんですが、真ん中の「あたらしい海」(拙作です)の女の子ふたりはスカートの丈の長さが違うんですよ。なにも指定しなかったのに拾ってくれた今井哲也先生ほんとうにありがとうございました。

 

 

 

*1:同志社ミステリ研究会

*2:https://nullpeta.com/

*3:そのあたりの経緯は第十回創元SF短編賞の思い出。 - 名馬であれば馬のうちを参照のこと。

*4:あとで知り合いが近くに座っていたことに気づいた。

*5:事前申し込みの場合は振り込み。

*6:事前申し込み登録をした参加者には、当日の模様を撮影したライブ配信をおこなう旨が告知されていた。

*7:マイアミ沖殺人事件 (捜査ファイル・ミステリー・シリーズ 1) (1982年)雨月荘殺人事件―公判調書ファイル・ミステリー (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集)

*8:BIRLSTONE GAMBITに収録されたが、現在は入手不可能。

*9:ほかにも大量に単行本未収録作品があるのですが、まとまってくれないかな……。あと#らくがき 吹雪まんが(ネーム) - 今井哲也のイラスト - pixivもおもしろかったです。

*10:Webミステリーズ! : 石川宗生さん『半分世界』刊行記念・飛浩隆先生によるインタビュウ!

*11:あとで谷林守さんのぶんだったと知った。すみません。

世界、っていう言葉がある。

 HDDのデータが消えたショックから立ち直りつつありますが瀬名秀明デカルトの密室』参考文献リストを閉鎖する前のHPから個人的にコピペしていたテキストデータが消えていたことに気づき、ちょっとだけまだダメージを受けています。

 ところで瀬名氏と法月氏が対談している文章で「セカイ系」について語っている部分があったことを思い出したのでメモ代わりに記す。

法月 社会的な関係性に興味が移ってきたとおっしゃいましたが、ちょっと前にセカイ系をめぐる議論が一世を風靡しました。社会に相当するものが脱落して、個人の内面と世界の危機が直結するという話ですが、瀬名さんからみて、セカイ系はいかがですか。

瀬名 ぼくはそのへんはあんまり読み込んでいないのですが、それこそ自分の身体性がどこまで感じ取れるかの問題ではないかと思っています。若いときには身体性が抑圧されて自分が小さく見えるわけです。そうした時、リンクを張ったところにポンと飛ぶしか、自分の知りうる世界がない。それで自分の知っている世界を書いたら、たまたま身近と遠くに二極化したのがセカイ系だった。そういうことではないでしょうか。(…)

  瀬名の指摘はおおむねその通りにみえる。とはいえ思春期特有の肌感覚というか、語り手であるところの人間に見えている範囲(よくも悪くも「半径5メートル」と評されていたところ)にはじめて理解の及ばない他者≒異性が「たまたま」現れるのは決して不思議なことではないし、よくあることといっていい。またこの出会いが比喩でもなんでもなく世界の秘密として魅力を持って視点人物の心象風景と同期していく≒世界が美しく色づいて見える、というのは思春期の実感としてかけがえのない構成要素のひとつではないか、と個人的には思う。

 さて、セカイ系と呼ばれるジャンル(そもそも定義じたいがおかしいのだがここでは保留する*1)においては主人公の(自己陶酔的と揶揄されたりする)自意識だけが肥大化し、結果、世界と個人を天秤にかけて問われる、という極端な事態が発生する。けれどもそこで、そのような考え方は思想として短絡していて危うい、と指摘するのもどこか危うい気配がある。大切なことを見落としてしまうのでは、という予感がする。

 というのも、そういうことを指摘して終わる人間に、主人公は決してなれないということ(なりたくないと思っていること)が物語においてはずっと重要な意味を持つはずだからだ。ここで生じている問題とはむしろ、世界と個人というものが分かちがたく結びついてしまった状態であること、つまり解決の困難性に気づくことそのものではないか。

 ゆえに、ジャンルへの印象から二者択一という作品構造にのみ話を還元するのは、かえって大事なものを読み落とす可能性がある。そこでは不条理さの現前という問題が忘れられてしまっている。

 もしスケールの大きさによってショックを受けて惑わされているのなら、いったん話を抽象化してもよい。事は地球全体の問題に及ばなくてもよい。世界という言葉は、主人公が認識している範囲を指しているはずだ。ゆえに中高生にとっては、教室や部活動といった日常の生活空間もひとつの大きな世界として認識される。そして、そういうものに隠れているどうしようもなく不条理なものを知り、その問題を解決することが困難であると気づくこと。どういうことか。あえて単純には解決しえない例をひとつあげるのなら、いじめを考えてもらってもいい。だからここでは、自分の眼前でかけがえのないものが失われてしまうのを見逃してもよいのか、という心の高潔さが問われていることになる。

 たしかに物語的な配置に都合のよさを感じ取るのは大人の自由かもしれない。けれど高潔さを捨てなかった勇気を一方的に否定するのは、前述した不条理とおなじだということに気づかないといけない。思春期の少年少女たちが一時的な逃避行に向かっていたのは、そういう無理解や大人の汚さからどうにかして抜け出そうともがいていた証拠のはずだからだ。

 最初から答えようのない二者択一が問題とされたとき、まず考えなくてはいけないのはスマートな回答ではない。むしろ、そのような問いが発生してしまうという不条理さを自身の肌感覚で捉えることのほうがずっと大事なはずだ。またそこに社会という中間項「なぜ?」が抜けているとするならば、その不条理と個人の距離はより近くに見えることになる。つまり不条理は、純粋な事実として(ただそういうものとして)当事者に降りかかっていることになる。

 にもかかわらず、主人公が立ち向かっていく手段は、持て余していた自意識くらいしかない*2。子供たちはじゅうぶんに戦うための武器を持っていない。スマートな解決は、最初から許されていなかったのだ。

  それでも、答えを出そうと不条理に向き合っている。違う、と声を上げて抵抗しようとしている。身も心もぼろぼろになっている。そうやって傷ついていった彼らを、だからこそ自分はいとおしいと思うし、大丈夫だ、といって抱きしめてあげたい。半径5メートルの距離でも傍観者にしかなれない大人にできるのは、きっとそのくらいなんじゃないかと思う。

 

瀬名秀明ロボット学論集

瀬名秀明ロボット学論集

 

 

(※)補足:物語的な配置の(あるいは男の子にとっての)都合のよさ、つまり異性≒世界の秘密という短絡を大人の汚さが裏切るという事象については、すでに『言の葉の庭』において自覚的なアンサーがなされている。

(※)補足2:『雲のむこう、約束の場所』においては不条理の「なぜ」をSF的な設定や歴史により一定レベルまで説明しているが、主人公とヒロインを取り巻く世界という作品構造はかえって強固なものになっている。よってテーマ成立のために中間項をわざと省いていた(省かなければ物語は成立しなかった)と減点評価を下すことにあまり建設的な意味はないと思われる。また遠く離れたふたりが共鳴し合う、という状況は村上春樹作品のエコーに近い。公衆電話と携帯電話はきっとどこかでつながっている。

*1:セカイ系とは何か』を読まずセカイ系を語ろうという愚をおこなう人間はいないと思うが。

*2:こうした状況設定は多くのライトノベルやギャルゲーにも用いられている。それらが多くの読者に感情移入を促す装置だというのなら、大多数の読者は持たざるものであるという事実を肯定することになる。

ゼロを失った男の話

 いつもなにかを失う予感がある、と彼女はそう言った。

 ――『雲のむこう、約束の場所

 過去の真のイメージはさっとかすめ過ぎていく。それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ。過去はそのようなイメージとしてしか、しっかりととどめておくことができない。(…)というのも、自分は過去のイメージのなかで意図された存在なのだという認識をもたなかったあらゆる現在とともに消え去ろうとしているのは、二度と取り戻すことのできない過去のイメージなのだから。

 ――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について Ⅴ」山口裕之訳

  ところで今朝、自分の使っている外付けハードディスクがクラッシュした。ちゃんと確認していないけれど、たぶん5、600GBはなくなったんじゃないかと思う。スマートフォンや別のドライヴに保存していたのもあったけれど、だいたい15年分くらい聴いていた約2万曲のデータが消えていった。

  すでに終わってしまった歴史や思い出そのものを救済することはたぶんもうかなわない。けれどそう思った途端、どこか長い夢から醒めたような気もしている。夢と喪失、そして忘却というテーマからいつも思い出すのは『雲のむこう、約束の場所』のことだ。村上春樹アフターダーク』の登場人物のように眠り込むサユリという少女はひとり、廃墟のような世界の夢を見る。その長い夢のなかで彼女は大切な感情を育てていくのだけれど、物語の最後、目を醒ますと同時にそのことを忘れてしまう。だから、それがどんなに特別なものであったのかを思い出せない。遠い憧れも、淡い思いも、相手の呼び名も、大切な約束も全部失くしてしまう。残ったのは、なにか大切なものがあったけれど、それがなんだったのかわからないという心だけだ。それでもなにかを失ったことに気づいている。そして、消えちゃった、といって彼女は泣き出す。それでも主人公の浩紀は言う。

「大丈夫だよ。目が醒めたんだから。これから全部、また――」

  ベンヤミンは世界を「いまだ―ない」ものと「かつて―ありえた」ものを重ね合わせるようにして見て、そのさきにあるものを捉えようとしていた。それは虚構ではあるけれど、星座のように不思議と手を伸ばしたくなるようなものに思える。

 もともと自分のものではないはずなのに、とりわけひどく悲しいと口にすると嘘な気がしてしまう。でも、ただこうやって空白が満たされていくのが、なぜだかひどく懐かしいと感じる。それでも、だからこそ、ぼくたちは大丈夫だ。だって、あとはそうやって生きていくだけなのだから。


『JFK空港』People In The Box / Covered by rionos

 ゼロ(年代)を失った男なので、この曲を聴くたび『CLANNAD』の一部シナリオが夢の記憶みたいにちらついている。

『刀と傘』個人解説へのお便りについて

saitonaname.hatenablog.com

 今年1月の文学フリマ京都にて、サークル〈ストレンジ・フィクションズ〉が頒布した『異色作家短篇集リミックス』というものがありまして、先日、そこに掲載していた「正‐情念小説としての『刀と傘 明治京洛推理帖』解説」に対するお便りが届きました。どなたかは存じ上げませんが、まず拙文をお読みいただきありがとうございます。また丁寧なお手紙を送ってくださりありがとうございます。商業作家ではない自分が先生と呼ばれることには違和感と困惑しか覚えないのですが、それはさておきです。

 同人誌には上記リンクに書いたものと基本的には同じ内容のもの(誤字脱字、ちょっとした言い回しの変更は除く)を掲載しています。また手紙をお送りいただいた方の名前は伏せさせていただきます(ペンネームなのか本名なのかわからなかったためです)。

 

 今回はそのお便りに書かれていた意見・感想に対する返答を以下に続けさせていただきます。ですが、なにぶんこういったことには不慣れですので、ちゃんとした回答になっていないかもしれません。また個人的理由から急いで書いたものになってしまったので誤字脱字があるかと思います。その点ご容赦ください。 

 さて、要約すると、いただいたお手紙の指摘は次の六点に絞られるでしょうか(カッコ内はこちらが補ったものであり、いただいた文章中にあった表現ではありません。またこちらの解釈がほんらい意図されたものとは違っているかもしません、重ねてご容赦ください)。

・伊吹作品を「正‐情念小説」としているが、その定義は不適切ではないか(実際の作品内容とズレがないか)。
・「正‐情念小説」というが、それはたんに「反‐情念小説」ではない、と述べているだけではないか(解説としての具体性に欠けるのではないか)。

・「心の動き」というものには読者側のものと作中人物側のものがあり、前提としている「反‐情念小説」と提唱した「正‐情念小説」とでは議論の階層が違い、論点がかみ合っていない(論点を取り違えているのではないか)。
・「反‐情念小説」との対比が連城作品ではなく、巽昌章の提唱した概念との対比に終始している印象を受ける。連城作品そのものを無視してはいないか。
・また作者自身の言葉でない概念(=「反‐情念小説」)を取り入れて使うのであれば、その検証をしておくべきではないか(実効性・妥当性の検証を怠っているのではないか)。

・そもそも「反‐情念小説」という概念じたいが作品の実態から離れたものではないか(解説の土台として使うのは不適切ではないか)。

 以上のことについて、いただいた文章を適宜引用しながらお答えできれば、と思います(もしかすると引用が恣意的なものに感じられるかもしれませんが、こういった答え方のため、そうならざるをえない部分があります*1 )。

 加えて、当該作品について、時間の関係上ちゃんとした再読などができなかったため、もしかしたらこちらの記憶や読み方に誤りがある可能性があります。いただいた文章からは連城作品をかなり読み込んでいるように見受けられましたし、そういった態度に対するこちらの臨み方はいくぶん不誠実に映るかもしれません、と先にお伝えしておきます。

 

「正‐情念小説」の定義と作品内容のズレについて

 当該解説において、自分は以下のように書きました。

 連城三紀彦『戻り川心中』(ハルキ文庫)の解説で巽昌章はその作品について、シナリオ作家志望だったという作者の経歴に重ね合わせ、次のように述べている。

「つまり、作者は一方で私たちをひきこまずにいないような劇的な場面を差し出しながら、それを包むひとまわり大きな真相を用意し、「カメラを引く」ことによってそれをあらわにしてみせるのだ」と。またとりわけその「花葬」シリーズと呼ばれる連作については、読者の抱く「心の働き」を利用して背負い投げをくわされるという意味で「反―情念小説」とでもいうべき存在だと規定している。

 とはいえ、筆者がここで述べたいのは、伊吹亜門の作品が連城作品とまったく同じ傾向にあるということではない。むしろ伊吹作品においては、あたかもその「カメラ」の取り扱いが、連城作品とはネガとポジが反転したかのような様相を呈しているのだ。

(…)
  つまり伊吹作品は、連城作品と並べて語るのであれば「心の働き」にどこまでもフォーカスした「正―情念小説」といってよいつくりをしているのだ。

  まずひとつ目は、これに対する疑義ですね。以下に引用します(カッコつきの三点リーダは中略、ほかは原文ママ)。

(…)『刀と傘』と花葬シリーズでは反転しているというふうに解説なさっていますが、その際に「心の動き」というものを無視して対比を行ってしまってもよいのでしょうか。『刀と傘』に納められた短編に読者の「心の動き」を利用した作品というのは収録されていなかったように思います。(…)「ミステリとしての枠」を意識させて読者にミステリとしての偽の構造を印象付けるというテクニックは使用されていると思うのですが、それは情念の領域ではなくどちらかというと理性の領域に区分されるものではないか、と思います。そうしたものに「正‐情念小説」と名付けるのはあまり不適説ではないのではないか、ということを思いました。

  ここで「ミステリとしての枠」を意識させているのがどの作品なのかはわかりませんが、基本的な論旨はこういうことでしょうか*2

「反‐情念小説」が読者の「心の働き」(厳密には違いますが、これは「感情移入」のようなはたらきに近いと個人的には考えています)を利用することによって背負い投げをするものである、という定義を援用するのであれば、「正‐情念小説」たる伊吹作品も読者の感情移入を利用しているはずである。にもかかわず、それに該当する部分は見当たらない。つまりこの援用≒定義じたいが適切ではない。

 上記のように判断しました。基本的にネタバレをするつもりはありませんが、今回は『刀と傘』収録作の「弾正台切腹事件」を例にして一部ぼやかしつつ答えたいと思います。

「弾正台」の基本プロットはシンプルな密室トリックの謎解きですね。自刃したとされる被害者の状況が明らかに疑わしく、犯人と目される人物も存在しているものの、現場が密室状態であったという前提のためそこに加えられた作為を解かなくてはならない。ここから「ミステリとしての枠」を一定層の読者が想定する、と判断しますと、いただいた文章の論旨にそぐうものになるでしょうか。たしかに、ここには読者によるキャラクターへの感情移入といったはたらきは見えません。あるのは人物の配置関係やトリックという核への興味でしょう。

 ですが「弾正台」のラストに至るとき、読者はこうした思考を捨てる一文に出会うようになっています。具体的に言いますと、107ページの傍点部分ですね。ここで描かれる裏の動機はあきらかに合理ではなく、感情を優先したものではないでしょうか。この瞬間、理性の犯罪(≒密室殺人)だったものがじつは情念の犯罪であったということに気づかされます。そして同時に、冒頭部から配置されていた歴史的な背景や策謀、そしてキャラクターのたどってきた人生そのものが歯車のように噛み合います。

 その殺人における決定的な噛み合いの瞬間を《読者は》なにによって基礎づけるでしょうか。むろん記述されていた《感情》によってです。そして次に記述されるのは、その劇的なシーンにフォーカスしていく描写(≒カメラ)です。「師光の頭に、二つの影が浮かぶ。」以降の文章は、短いながらも雄弁にその加害者と被害者の関係性を語ってくれます*3。自分は伊吹作品のそういった部分を解説で以下のように述べました。

 そして謎解きの段階に差し掛かったとき、カメラは決して引くことはなく、むしろその焦点を合わせた一瞬にだけ、ようやくかすむように見えるひと握りの真意を拾ってみせている。その点にこそ、伊吹作品の特色はある。

『刀と傘』はこうした決定的なシーンの持つ雄弁さを、キャラクターの抱いた感情と映像的にリンクさせることで読者にイメージとして喚起させています。類似した演出例であれば「佐賀から来た男」56ページの傍点部の「~名残だったのではないか。」以降に連なっていく文章でしょうか。ここでもまた、極限の状況における加害者と被害者の関係性が短いながらも雄弁に語られています。

 この謎解きに至った段階で(ようやく語り手が一歩だけ客観から主観に踏み込んでいき)、「読者にキャラクターの関係性のイメージを喚起させる」技術こそが『刀と傘』の特色だと自分は思っています。ですから伊吹作品においては読者の「心の働き」を利用してだます、というものではなく、あくまで推理とも直感ともつかないギリギリの極点で感情に踏み込んだ記述を持ってくることで、読者とキャラクター間の「心」を同期≒認識させる「働き」がある、という点が重要だと思っています。

 ではこうしたシーンの持つ雄弁さは連城作品のどこにあたるかといえば、作品の大部分にちりばめられた印象的なシーン群でしょう。いただいた手紙のなかで言及なさっていた「桐の柩」内の描写をあえて例にあげるのならば、兄貴が「桐の花」≒きわの匂いを嗅ぐシーンや傘を燃やすシーン、意味ありげにあらわれる花札、そして扇子を燃やすシーンなどです。映像として魅力的でありながら同時にキャラクターの存在や関係性をより強く読者に訴えかけていく部分です*4

 だいぶ雑で取り落としが多いのが申し訳ないのですが、対比関係を図にしてみました(このくらいざっくりしたほうが掴みやすいでしょうという判断です)。

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 連城作品≒花葬シリーズの多くには、冒頭から幾度となくキャラクターを映像的なかたちで読者に結び付けていこうとする描写が挟まれていきます(これらはよく抒情的と評される文章のことだと思います。あたかも映画のワンシーンであるかのような)。そうした構図やイメージを多用することで読者に一定の「心の働き」≒感情移入を喚起させながらもじつはそれを裏で利用し、逆転の妙を見せるのが「反‐情念小説」なるものではないかと思います。

 いっぽう伊吹作品では基本的に事件に対する簡潔な報告書から始まり、歴史的な背景やそこに生きるキャラクターの立ち位置などが順番に配置されていきます。たしかにここでは読者の感情移入ははたらきません。

 しかし推理が佳境になると、伊吹作品ではそれまで語られなかった(踏み込まれていなかった)他者に対する視線≒関係性があたかも決壊したかのようにいっきに現前化します。客観から主観への移行ですね。伊吹作品は、この推理におけるイメージ喚起の瞬間をかなり映像的に記述することに注力しています。おそらく、連城作品における映像的な記述のテクニックを(自覚的か無自覚的なのかはわかりませんが)取り込むことによって「正‐情念小説」なるものをつくりだしているのではないか、と自分は考えました。

 ですから、たしかにここでは「心の働き」を「利用して」はいないと思います。むしろやっているのは「心の働き」の強調≒瞬間的な結晶化でしょう。ですから両者にとってカメラ(≒映像的記述)の《利用目的》はネガとポジのように違っているのです。伊吹作品におけるカメラのフォーカスには、構図の逆転やだますこと(「ミステリとしての枠」に対するサプライズとしての部分もありますが)よりもキャラクターの内面性を鮮やかに描くこと(≒感情というキーに基づく理解と続く映像的に雄弁な描写により、ストーリーやキャラクターの関係性を読者の心の働きに訴えかけること)に大きな強みがあるからです。

 もちろんより正確にいえば、伊吹作品におけるテクニックは、連城作品のイメージ喚起とその書き換えにおける熱量の折衷あたりが妥当かと思いますが、傍点の直後に語られていくさいの文章が持つ独特の湿度は、連城作品の描くシーンの湿度に類似したものがあるのではないか、と個人的には考えています。ただこれは主観的な部分によるものが大きいのであまり強くは言えませんが……。また「桜」に関してはこうした映像によるイメージ喚起が連城作品と同様に冒頭からちりばめられていたうえでなお、その先でさらにフォーカスしていくものがある、という文脈で取り上げたつもりです。わかりづらかったのであれば、それはこちらの落ち度によるものだと思います。

 もしこうした映像的な描写によるイメージ喚起のテクニックによって読者とキャラクターの心情を瞬間的に同期させるダイナミズムが伊吹作品には存在していない、と判断していらっしゃるのであれば、たしかに「正‐情念小説」という言い方は不適切に感じられたでしょうし、そこにズレがあるようにみえていたかもしません。あるいはこの考え方そのものに関心できない、という認識であればそう取っていただいても構いません。また厳密ではなく、具体的な議論でもない、という認識に対しては、以下に続く文章で部分的ではありますがお答えできるのではないだろうかと思っています。

 

 解説としての具体性/「心の働き」の論点について

 次の指摘に移りたいと思います。以下引用です。

(…)あるいは、無機質な物語が登場人物の内へと迫っていく中で構造が転換し、登場人物の情念が明らかになる、ということを「正‐情念小説」と定義しているのかもしれませんが(…)、それは「反‐情念小説ではない」と述べているだけであって、『刀と傘』の特異性を語ることにはつながっていないではないか、と思います。動機を主眼に置いたミステリはそうした構造を必然的に備えているからです。

 また、次のような指摘もありました。

(…)そうした「心の動き」に関する対比論は巽昌章が主張する「心の動き」と同じ層にある「心の動き」、すなわち「物語を受け取る側」の「心の動き」と同様の階層にある「心の動き」と対比しなければ成立しえないはずです。作中人物の「心の動き」と、作品外部にいる読者の「心の動き」では明らかに議論の階層が異なり、対比をしようにも論点がかみ合っていない以上、「正‐情念小説」という議論は成立していないのではないか、と愚鈍な読者である私は思わざるを得ないのです。

 このふたつについては、前述した部分である程度までは回答できたのではないか、と考えています。

 まず「正-情念小説」という言い方について、いわゆる否定の否定を重ねているだけで、具体性がないのではないか、というご指摘として理解しました。

 とはいえ、自分は連城作品および花葬シリーズを「反‐情念小説」と捉える考えを起点にしてみえてくるものを語っているのであって(作品間の対比関係については前述しました)、ある種の影響関係もしくは類似性から伊吹作品を捉える解説をしたつもりです。ではその連続性/類似性がいったいどこにあるのか、という部分についての言及がすくなかった、という指摘であればその通りだと思います。またそれが単純な文意として理解するさいに「反対の反対」=「ただの表」のようなレトリックのあそびにかかずらっているものとして判断されたのであれば、こちらの説明不足だったと思います。

 ですが、それが動機を主眼としたミステリと同様になってしまうのではないか、という指摘はちょっと違うのではないか、と考えます。「佐賀から来た男」を仮に動機を主眼としたミステリとして(ネタバレを避けつつ)の評価軸から判断するのであれば、「限定的な状況下で生まれる独自の動機」の面白さ、ということになるかもしれませんが、それだけではもうひとつの動機である、56ページの傍点部がなぜ傍点部であるのか、という問いには答えることができません(なぜならこちらの動機は限定的な状況下だけでなく、キャラクターの関係性と不可分なものとして描かれているからです)。

 キャラクターの関係性までを「動機」への「推理」あるいは「直感」によって描き出す/取り込んでいくことのダイナミズムに伊吹作品の強みはあり、それは「反‐情念小説」としての連城作品が使ってきたモチーフ/テクニックでもあるがゆえに、ようやく「情念小説」という共通項がなんであるのかがみえてくるものだと思っています*5。自分はその特色を「あたかも人々がひそかに結んだ「最後の絆」が推理によって鮮やかに解かれる」ものと記載しました。そしてこの「最後の絆」とは「夕萩心中」の以下の部分からの引用であることも解説で述べました。

 情死事件というのは、現世では愛を成就できない男女が来世に夢を託した結果起きる事件である。さまざまな事情で結ばれることのない二人が、死を最後の絆としてたがいの心を結ぼうとするものである。

 このキャラクターの関係性に対するまなざしが、ほかの動機を主眼としたミステリ群にも同様に適用できるものとは、申し訳ないのですが、思えません。何度も述べますが、連城作品との連続性/類似性からみえてくるものを解説したいのであって、その前提部分に対する同意がえられないのであれば、残念ながら見ているものが違いますね、としかこちらからは答えられないところです。なら最初からそう説明しろよ、という向きもあるかもしれませんが、それについてはこちらの言葉が足りなかった、ということでお詫びいたします。

 それからもうひとつ、「正‐情念小説」の指摘する「心の働き」はキャラクター側のものだが、巽昌章のいう「反‐情念小説」の「心の働き」は読者側のものであり、比較として噛み合っていないのではないか、という指摘です。

 すでにお答えした部分ではありますが、基本的にこちらは連城・伊吹両者とも作中の出来事への映像的描写→読者へのイメージ喚起、というところは通底しているものと考えています。解説ではこのあたりがとてもわかりにくく、かつ省かれて書かれているのはその通りで、心苦しいのですがこのたびの回答をもってご容赦いただければと思います。またこちらの提示する作品間の共通性についてよくわからない、とおっしゃるのであれば、やはり見ているものが違いますね、としか言えません。申し訳ないです。これ以上の説明は現状できかねます。

 

連城作品そのものを無視していないか

 引き続き、すこし長いですが引用します。

 また、解説の中で用いている反‐情念小説との対比が、連城三紀彦の小説ではなく、巽昌章の提唱した概念との対比に終始しているような印象を受けました。評論中においては対比例として「桜」と「菊の塵」あるいは「佐賀から来た男」と「菊の塵」を提示していらっしゃいますが、その他の作品との対比はできなかったのでしょうか。また、対比の際にも表面的な犯人像であったり、被害者像であったりという部分で肝心の構造的な対比、「反-情念小説」としての構造と「正-情念小説」としての構造の対比は行っていらっしゃらなかったと思いますが、それはメインテーマからはずれた議論ではないか、と個人的には思います。

(…)表面的な対比に終始していると、作品自体の共通性というのはそれしかないか、という印象をどうしても抱いてしまいます。そうなってしまうと(…)「反-情念小説」という一つの通説との対比でしかなくなってしまい、花葬シリーズという物語は無視したまま解説が展開していくようにどうしても思ってしまいます。

  という部分についてですが、「桜」について「菊の塵」と「表面的な犯人像」をなぞって解説しているだけのものとおっしゃりたい旨はその通りだと思います。ただし「これは言い過ぎかもしれない」とこちらは断っています。それ以上の過剰な意味や読み方を付与したつもりはありません。

 また「佐賀から来た男」についてですが、こちらも「菊の塵」同様「表面的な被害者像」をなぞって解説しただけものという指摘として受け取りましたが、そちらは若干、違っているかと思います。自分は「「ひとまわり大きな真相」に当事者が直面するという事件の構図」が「菊の塵」に「酷似している」という点を強調する旨を書きました。ですからここには単純な被害者像のみの類似ではなく、謎解きという根幹の構造にかかわる部分があったものと認識しています。そのように読まれていなかったのは残念です、としか言いようがありません。またネタバレの性質上これ以上は述べられませんが、「未読の方」向けにそれらの作品を「読み比べてほしい」と書きました。この部分について「表面的な議論/対比に終始している」とご指摘いただいても、特にお答えできることはありません。なぜならそのようにしているからです。あるいは「佐賀から来た男」と「菊の塵」の構造が類似している、と判断するのは間違っている、というご指摘だったのであれば、ある程度はこちらのスタンスをお答えできたと思うのですが。とはいえそれは議論の本意ではないように思います。

「反-情念小説」としての構造と「正‐情念小説」としての構造の対比がなかったという指摘はもっともだと思います。それについては前述した定義に関する部分で改めて説明したものと考えます。残念ながら現状、これ以上の踏み入った説明はできかねます。ご容赦ください。

 連城作品を無視しているのではないか、という意見はそのように受け取られたのであれば、申し訳ないですがこちらの落ち度だと思います。今回の解説のフックとして「反‐情念小説」という概念を提示し、そこへの類推から伊吹作品を読み進めていく補助線を引く、というかたちをとったつもりでした(そのうえで「桜」や「佐賀から来た男」と連城作品を並べたつもりでしたから、その補助線の引き方が「表面的」にすぎないと思われたのであれば、対して言うことはないからです)が、そもそもその出発点のところに異論がある、というご指摘としても受け取りました。こちらについてはのちほど答えさせていただきます。

 

「反‐情念小説」という概念の取り扱いについて

(…)「反-情念小説」という通説を本当に正しいと思っていらっしゃるのでしょうか。作者自身の言葉でもない限り、他人の構築した概念を自分の解説の中に取り入れるのであれば、その検証を試みるのが評論をする立場の人間が最低限行うべきことだと思います。まして、そこを起点に自分の論を展開検証しないままに概念を用いるということは普通ありえないことだと思います。

 ここでいう「検証」というのは、議論として妥当性/実効性があるかどうかを検証する(堅固な議論であるかどうかを調べる)ことの意、として受け取りました。そして、それをこちらが怠っている。なぜなら検証したはずであれば、この概念を使うはずがない(べきでない)、と考えていらっしゃるものとして受け取りました。

 というのも、いただいた文章は次のように続いているためです。

(…)結論から先に申し上げますと、巽昌章の解説は優れたものではあったとしてもやはり的外れな議論に終わっているように思えてなりません。例えば、「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程はどこにも存在していませんし(ハルキ文庫版181ページに「今から思うとそれには別の含みがあったのである」という一文がある以上、連城三紀彦が読者に像を作らせようという意図がなかったのは明らかです)、「桔梗の宿」や「藤の香」といった主人公のキャラクターの透明度が低い作品においては読者が心の動きによって騙されている、というよりも主人公自身の方向を誤認した心の動きに読者が同調しているという構図のほうが実態に近いのではないか、と思います。そうした構造の物語と、読者の心に直接像を形づくらせる構造を持った物語(「戻り川心中」「夕萩心中」など)をひっくるめて一つの構造として捉えるのはやはり困難であるように思いますし、実態から離れた理論的な話にどうしても終始してしまいます。つまるところ、あの議論は他の議論の土台として存在できるほど強固なものであるとはどうしても考えづらいため、先生の「正-情念小説」という議論も空虚な議論の上に積み重ねられただけの土台のない建築であるようにしか思えなくなってしまいます。

 とのことです。いくつか議論が混在しているところがあると思いますので、順番に答えていきたいと思います。

 まず巽昌章の考えへの批判に対し、自分が反論を試みるのもどこかおかしな話ですが、援用した立場として(あくまで自分による解釈として)お答えします。

 巽による『戻り川心中』(花葬シリーズ)の解説の骨格および魅力は類推、もしくはいったん抽象化することによって作品に隠れていた部分を照射していくことにあります。「カメラ」という考え方はこの類推から生まれたものです。そして、そのような考えを述べる前に、以下のように書いています。

 連城三紀彦は、シナリオ作家志望だったという。私はあまり、その作家の履歴と作品を直結することを好まないけれども、この「花葬」連作に、スタジオのイメージを重ね合わせる誘惑には抵抗できない。

 

 つまりこの時点で、巽自身は作品の外部からイメージを輸入して語っていくこと(乱暴にいうなら、作品本位ではなく解説者本位であるという旨)を断っています。ですから巽が述べようとしているのは、あくまでそれぞれの作品を抽象化してみせたうえでみえるものはなんなのか、という視点の導入でしょう*6。いただいた文章からではそのような考え方に同意できなかったのか、もしくはそれを巽の解説から読み取れなかったのかはわかりませんが、すくなくとも見受けられるスタンスとしては抽象画を前にして「写実性がない!(だから評価に値しない)」*7とおっしゃっているようにしか感じられませんでした。そもそも作品を取り扱う態度や理念が根本から違っているのですから、それをご理解いただけないのも仕方のないこととは思います。

 とはいえ、です。巽の解説ではその概念がやはり連城作品を捉えるのが不十分だったのは部分的に正しいと思います。なぜなら解説内では「桐の柩」についての言及だけは避けられているからです。ですが「「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程はどこにも存在していません」という指摘は、批判としてはちょっと惜しい気がします。そもそも巽は「「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程」があるとは述べていないからです。批判するべきなのは、巽が「桐の柩」への言及を不自然に避けていたこと、つまり議論の不徹底さではないでしょうか(そうおっしゃりたかったのであれば、たしかにその通りだと思います)。『刀と傘』解説において、その部分への言及がなかったことを批判したい、というのであれば正当な指摘として受け取らせていただきます。

 ただ、「ハルキ文庫版181ページ」の記述をもとに「作者が読者に像を作らせる意図がなかった」。ゆえに巽の考え方は妥当しない、というのは指摘としてはあまり的確ではないように思います。というのも巽は、作者ではなく、読者の側がどうしようもなく男女間の情念を描写から感じ取ってしまう「心の働き」つまり「紋切り型の世界」という構図の誘惑に注視しているからです。ここに巽解説といただいた文章における認識の相違があるように思いました。あえて表現を借りるなら、いただいた文章では巽解説のやろうとしていることを「ミステリとしての枠」≒「理性の領域」として判断していらっしゃるようですが、こちらの認識としては巽はその誘惑を「情念の領域」で語っているものと認識しています。

「桐の柩」ではおっしゃる「一文」に至るまでに、いくつもの「心の働き」を喚起させるシーンが導入されています(もちろんそれは決定的なものではないのですが)。当該作では、兄貴ときわというふたりの関係性≒情念≒その終着点としての殺す相手、加えてそこに挟まれた語り手が右往左往するという不安定なイメージを読者に植え付けるのに成功しています。それを「今から思うとそれには別の含みがあったのである」という一文を読んだ瞬間に読者が全部拭い去ることができるとは到底思えません。というよりそもそも「別の含み」というのはハルキ文庫版184~5ページにまたいで語っている言葉の解釈にまつわる部分のことであって、181ページの一文までに何度も語られていた男女の関係(≒情念の物語)がその記述によってただちに棄却されるものではない、とこちらは考えているからです(いただいた論旨の読み違えがあったらすみません)。

 また「桐の柩」の結末で語り手が直面するのは、その情念の物語が、当初考えられていたものよりもさらに複雑で歪なものだった、という事態だと思います。ですがその物語のイメージは同時に、読者の持っている紋切り型の思考をさらに強固なものへと深める効果(≒心の働き)を発揮していたのではないでしょうか。

 兄貴が最後に取った行動はまさしくその型の表れとでもいえませんか。その物語にすこしでも読者が共感するところがあったとすれば、それは巽の指摘である「私たちの心がいかに紋切り型に弱いかという事実を、残酷に暴きたてるといった面」ともなりますし(なぜならミステリとしてはその事実を冷酷に記載するという謎解きの側面が存在し、「一歩引いてひとまわり大きな事件の構図を発見する」という着想がそこでは捨てられていないからです)、しかしそのいっぽうで「作者はその彼らの愚かしさを、切り捨てかねて」いるそぶりを見せていなかったでしょうか(結局のところ、これは個人の読み方、主観でしかないので共有できるものではないのかもしれませんが……)。

 ただ、一部の作品において「主人公自身の方向を誤認した心の動きに読者が同調している」といったほうが実態に近いのではないか、という指摘はとても重要だと思いますし、同意します。というのもこちらとしても、そのような語り手の持つ心の動きと「読者が同調する」ことは、ストーリーやキャラクターの関係性を読者の心の働きに訴えかけることという前述した伊吹作品の強みにもつながる視点だと思っているからです。その文脈において、先に指摘なさっていた「作中人物の「心の動き」と、作品外部にいる読者の「心の動き」では明らかに議論の階層が異な」っているという部分の問題はその同調によって解消されないでしょうか。

 たしかに、連城作品における情念に対するアプローチのよりどころ(信念といってもよいかもしません)をいったん抽象化したなかで浮かび上がらせようとする巽の試みは、個別具体的、細かい技巧的な部分に対する解釈としては甘いところがあるのかもしれません。ですが、だからといってその「理論的」な部分が立ちすぎて「実態から離れ」ている(イコール論じるに足らない)、と即座に切り捨ててしまうべきであるようには思えないのですが……。というのがこちらの考えです。

 さて、ここで改めて「検証していたならば、巽の概念を援用するべきでないことに気づくはずだ」というご指摘に対して答えることができるようになったのではないか、と考えます。

 これらの話をもとに返答を考えますと、第一に、「抽象化」「類推」といった巽のやり方を、いただいた文章では「検証」できていないように見受けられます(もしくはその意図や価値を認めていない、ということでしょうか)*8。こちらとしてはそれを認めたうえで議論を進めよう、という立場です。ですから意見が異なるのは仕方のないことだと思います。価値基準が違っていれば、そこに対する態度が違ってくるのも当然です。第二に、その態度が「空虚」で「理論的」だと判断していますが、すくなくとも「理論的」であること≒「空虚」≒価値がないことである、とただちに結論づけるのは早計ではありませんか。たしかにあなた自身が理論的な解説そのものに価値や魅力を感じない、という限りにおいて、その認識は間違っていません。ですが、その価値基準を異なった相手にも適用し、それによってこちらを一方的に断じるのには違和感を覚えます。それは個人的な(もしくはその周囲によってかたちづくられている)価値基準の押し付けになっているのではないか、という懸念があるからです。

 ここではどうしても自分の不見識を強調することに、もしくは意地悪な言い方になってしまいますが、「他人の構築した概念を自分の解説の中に取り入れるのであれば、その検証を試みることが評論をする立場の人間が最低限行うべきこと」であるとするルールをどなたかが明記していらっしゃったのでしょうか。それとも明文化されていない、いわゆる紳士協定のようなものだったのでしょうか。どちらにせよ、自分はその文化圏に属していなかった、ということになります。よってこちらの解説が文化的ではない、とおっしゃるのであればそうかもしません。ですが、それが致命的に悪いことなのかどうかについてはこちらとしても判断しかねます。

 あるいは、いわゆる「ファクトチェック」的な文脈で「検証」のことをおっしゃっていたのなら、たしかにこちらの理解が足りていなかったと断言できます。自分がおこなったのは当該文章における「反-情念小説」の「定義」と、それが文章内でどのような意図をもって用いられていたのか、ということの確認までだったからです。それが作品個別の描写と照応するかについて、個別具体的なチェックをすべてやった、とは決して言えません。

 とはいえ、こちらは抽象的な概念を厳密にファクトチェックするための具体的な方法を知りえません(また、それがあるとは思えないのですが)。もし小説の評論や解説というものを数学的な証明*9のようにすべきであるとお考えなのであれば、それは理念としてはあってもよいと思いますが、偏った考えに寄りすぎていませんか、と反論させていただきます。こちらとそちらとでは概念の認識に違いがあることがおわかりいただけたかと思いますが、その好悪を判断する基準をどのように設置するかについては(そちらにとっては自明のことなのかもしれませんが)、すくなくともご説明されていたようには思えませんでした。そもそもそこに好悪を持ち込めるという認識が偏っているものとご理解ください。

 そして、そのような価値判断のやり方が評論にとってあるべき理念だとお考えであるのなら、それがはたしてジャンルにとって長期的に利益を生むかどうかを考えてくれたらうれしいです。考えてくださるだけで構いません。

 前述したとおり、類推、もしくはいったん抽象化することによって作品に隠れていた部分を照射していくことにこちらの目的はありますから、その過程で捨てられているものに目を向けられていても、残念ながら立場が違うため応答のしようがない、ということが結論になります。またおなじ比喩を重ねることになりますが、抽象画と写実的な絵画には、双方同様に価値があるものとこちらは考えています。

 あまり建設的だったとはいえませんが、応答としては以上のようなものになります。ご指摘いただいた考え方をしっかり深めるすべをこちらはうまく理解できたとは思えませんが、そうした進め方をしよう、するべきだ、という強い意思と誠実さは感覚的ながら受け取らせていただきました。また「理論」が立ち行かないということであれば、それに対置されるのは「実践」の道だと思いますが、それは評論というより創作の領域のように感じたくもなります。そのような作品に出会えれば幸甚です。あるいは実践的な評論というものがもしあるとするならば、そちらも見てみたいな、と思います。

 

最後に

 議論にかかわることではありませんが、手紙の末尾に書かれてあったので、いちおう以下に引用させていただきます。

(…)文中において失礼な表現をしてしまった箇所もあるかもしれません。決して侮辱や中傷といった悪意からの表現ではないということをなにとぞ御理解いただきたく思います。

 上記のように理解しました。理解したうえでのお話になります。こういう態度は真面目さの表れだと字義的には感じますが、そのいっぽうであなたは自身のことについて語るとき「愚鈍な読者である私」や「私の浅薄な読書体験」*10などと書いています。これじたいは正直あまり褒められたことではないので、やめたほうがいいかと思います。

 へりくだることが美徳とされるのは一部の文脈ではその通りです。ですが仮に、あなたがほんとうにその自虐を正当なものと思っていらっしゃったとしても、これはさすがに過剰な行為にしか見えません。しかも自虐したうえで相手に対する批判を持ってきているのですから、暗にこちらがその自虐以下の存在であるように皮肉っているのか、と一歩引いて考えざるをえなくなります。そのように取らせる余地を感じます。そのような作為が文章から読み取れるようになっています。

 つまりあなたの態度はこちらから見ればじゅうぶん失礼なものですし、これを受け取った人間のうち、おそらく一定数は不愉快になります。そのような「悪意からの表現」がほんとうになかったのであれば、今後はもうすこし視野を広げていってください。なにがいけなかったのか、と友達に相談してみると非常によいと思います。

 ですがもし、ちょっとくらいなら相手を不愉快にしてもいいだろう、という気軽さでわざとこれを書いていたとするのなら、あなたは、一層タチが悪いです。

 なぜなら見ず知らずの相手に手紙を送るにあたり、推敲してこのような表現を削らなかった段階で、あなたの見識を疑いたくなってしまったからです。

 あえてあなた流の言い回しでお伝えするのであれば、あなたは自身の言葉が他者にとってどういう意味を持つのかさえ「検証」していらっしゃらない、ということになりませんか。不特定多数に向けた言葉ならともかく、今回はお手紙ということで、一対一のコミュニケーションがほんらいの目的だったと考えたいのですが、真面目にそれをする気がなかったように思われました。文面からは、たんにあなたの憂さ晴らしに付き合わされているのではないか、という疑念を振り払うことができませんでした。オイオイ、友情はバッドコミュニケーションからだろ、と肩を叩きたかった可能性があったのかもしれませんが、あいにくとそういった文化圏にこちらは属していません。

 つい茶化すような言い方になってしまいましたが*11、言い直します。

 これはあなたの議論がすぐれているとか、正しいとか、検証に足るとか、そういったお話以前の問題です場合によってはこうした些細な箇所により、あなたの発言じたいがそもそも信頼に値しないのではないか、と心象的に判断されてしまうことにもなりかねません。これは品位だとか、尊厳だとか、およそ人間がだれかと関わっていくにあたり、大切にすべきことの問題にあたるからです。

 つまりあなたの文章は最初から「こちらを対等な人間として認識していない」ということをわざと表明している、ということです。それを構わないと思っているうえで、悪意はない、ともおっしゃっていることになります。こういうやり方をされると、ふつう、多くの人は返事をすることをためらいます。内心でかなり引きます。関わりたくないな、と思います。本は熱心に読むのに、手紙を受け取る相手の「心の働き」を平気で無視できる感性を持った人間なのだな、と悲しくなります。

 もしこういったこと*12をほかの方にもなさっていらっしゃるようでしたら(違うのでしたら単純にこちらが嫌われているだけなのだな、思うだけですので問題ありませんが)、即刻やめたほうがいいです。それは将来的にあなたの友人や家族、所属する組織・団体などに不利益や不名誉を与える可能性があります。ですからほんとうにやめたほうがいいです。簡潔にいうと、それは友達をなくすやり方というものです。ほんとうにやめてください。

 書いててほんとうに悲しい気持ちになってきたのですが、以上になります。お手紙ありがとうございました。お手紙そのものについては、自分の考えを練り直すよい機会になったと思っています。あなたにとってもそのような実りのある機会であったなら、と切に願います。あなたが今後、よりよい読書生活を送ることを心より祈念しております。とりいそぎ、ご返事まで。

 

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で

 

 

*1:よく小説系雑誌の時評とかでありがちなのですが、質問に対し応答すると互いの認識がそもそも違っていることに気づかず最後まですれ違い、距離だけが遠のくことを懸念しています。結果的にそのような文章になっている可能性が高いのですが、それはお許しください。また念のため書き留めておきますが、いただいた手紙の内容については本記事での引用の許可をいただいております。

*2:ここでは「心の動き」と書いていらっしゃますが、おそらく「心の働き」のことだと勝手に理解しています。「動き」と「働き」とでは文意の捉え方が変わってしまうのではないかと懸念しますが、これについては以下触れずに進めていきたいと思います。

*3:「弾正台切腹事件」で描かれる加害者と被害者の関係性はそれほど濃密なものではありませんが、『刀と傘』における、かつては志をおなじくしていたはずの人物たちが直面してしまう断絶、というモチーフの変奏パターンになっています。

*4:もちろんこれらのシーンが出てきた段階では、関係性の本質を明確には語ってはいないのですが、読者に「どのような関係なのだろう」とキャラクターを印象づけることには成功している描写だと考えています。そしてその印象が、「逆転」とまではいかないまでも、のちの推理によって裏の心理と歪みをも同時に描き出している作品であると捉えています。

*5:そう書かれているようにみえなかったのはこちらの落ち度です。

*6:巽昌章によるメフィストの時評をまとめた『論理の蜘蛛の巣の中で』でのスタンスは、基本的に同時代の作品における共通項をあえて抽象的に取り出し、そこからなにがみえるのか、といったものだったと認識しています。『戻り川』の解説も同様、花葬シリーズをあえて並列化/抽象化させ、そこから思考を進めていくものだったと捉えています。

*7:いくぶん権威主義的な言い方に感じられるかと思いますが、これは自分が適切な説明を思いつかなかったためです。あくまで比喩としてご理解ください。

*8:「ハルキ文庫版」とわざわざおっしゃていますから、こちらの引用部だけでなく、巽の解説そのものもすでに一読している、という認識で語っています。

*9:雑に述べています。

*10:こちらは引用しませんでしたがお手紙のなかにそのような表現がありました。

*11:そのような感情のはたらきをおさえられませんでした。ご理解いただけるでしょうか。

*12:手紙を送ることそれじたいを指しているわけではありません。それはとても勇気のいることだと思っています。ここでお伝えしたいのはあなたが他人の信頼を最初から得ようとしない方法を自覚的に選んでいる、ということです。その自覚を持つだけの文章力と読解力はあったものと認識しています。

摂取記録:音楽編

タイトルの通りです。インディー系のCDも配信中心になってサブスクに入りやすくなったためか、まったくCDショップに通わなくなりましたね。アマゾンアンリミテッドミュージックばかり使っています。今年買ったのでアニメ系を除くと一枚しか。


higimidari - 25's flask


Easycome 「旅気候」


揺らぎ - Unreachable (Official Music Video)


Hibou "Opia" (Official Audio)


anemoneyouth - TOMORROWS (audio)


SPOOL - Be My Valentine (Music Video)


ARAM - 真夜中を (Official Music Video)


SAPPY『pathos』(Official Music Video)


Laura day romance / sad number (official music video)


Charlotte is Mine - Somewhere [official music video]


Now, Now - MJ (Official Music Video)


The Postal Service - Such Great Heights [OFFICIAL VIDEO]


Japanese Breakfast – Rugged Country


Still Dreams "Try!" (from Theories)


softsurf - Blue Swirl

 


Superfriends - Superfriends (2018 New Album Trailer)


Luby Sparks | Thursday 'Album Version' (Official Music Video)


Most Emotional Music: "White Forest" by Cicada


submerse - Sleepover


Sakuraburst - Harpsinger (Full Album)


Next Time Passions - Another Wish (Lyrics Video - HQ Audio)


Kero Kero Bonito - Make Believe


PREP - Line By Line (lyrics)


Sobs - Telltale Signs (Official Video)


공중도둑 (Mid-Air Thief) - 왜? (Why?)


Yumi Zouma - In Camera (Official Video)


the embassy - sorry


Boy Pablo - Dance, Baby!


Hot Flash Heat Wave - Head in the Clouds


Tom Misch - Your Love (feat. Alexa Harley)


ベランダ「しあわせバタ〜」- MV


sora tob sakana/ささやかな祝祭(Full)


ポポロコネクト - ツナグセカイ (Official Music Video)


attlee『Weave my echo』Trailer movie


藍坊主「アンドロメダ」MV(2019.7.10 Mini Album「燃えない化石」Release)


LUNKHEAD「朱夏」MV FULL


Kitri "Mujunritsu" Music Video [official] With Subtitles/Lyrics- キトリ「矛盾律 」ミュージックビデオ(オフィシャル)


Minuano 3rd Album『蝶になる夢を見た』


TVアニメ「ひとりぼっちの◯◯生活」OP&EDシングル試聴動画


【まちカドまぞく】オープニングテーマ「町かどタンジェント」&エンディングテーマ「よいまちカンターレ」試聴動画


アイカツフレンズ!ミュージックビデオ『あるがまま』をお届け♪


Ghostlight - Wendy

なにもわからないし百合とSFを雑に語る

 こりずに百合の話(とSFの話)をします(要するに一個人によるナイーヴなぬるい雑語りです)。こいつ雑だな、と思った方はここでページを閉じることを推奨します。

 以下、すべてが雑になっていきます。遊戯くんの罰ゲームみたいですね*1。結論は特にありません。ごめんね。でもわたしは百合が大好きです。定義はしません。言いたいことはそれに尽きます。

 

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

 

  さて、百合SFアンソロジーが盛況だそうですが、ちょっとした想念があります。というか、いくつかの感情のレイヤーがあります。百合作品がさまざまなグラデーションを持って存在しているように。

 フェアがおこなわれること自体はとてもいいと思っています、世界に百合が増えてうれしい。たのしい。もっと広がってほしい。早川書房のアティチュードについてはSFマガジンの最新号に載っている「世界の合言葉は百合」で端的に語られています。2019年の百合事情に関心をもつ人類が読むべきテキストのひとつでしょう。 

SFマガジン 2019年 08 月号

SFマガジン 2019年 08 月号

 

  じゃあお前は一体なにに対して想念を抱いているのか、となるわけですが、百合とSFというふたつのジャンルを同居させたさい、非対称な関係性が生まれるのではないか、ということについてです。まったくもって不毛な議論である可能性が多分にありますが、とりあえず話をしていきたいと思います。

 前段階として、おなじく早川書房のnoteに掲載された記事をみていただきたい。

https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0

 ここで草野氏は百合SFの創作論について、以下のように述べています。

草野 ハードSFの致命的な弱点は、SFファン以外には面白くないということです。メインが科学的な説明で、いろいろな物語がありますが、最後には科学的な説明にパスする。でも、それがSFファン以外にはカタルシスがほとんどない。長々とした説明を読まされても何が面白いのか、というのが正直なところではないでしょうか。だから、ハードSFはSFファン以外には広がらないという悲しい現実があります。しかしこれをハード百合SFにすると、科学的な説明の場面が、女性同士が会話している場面になります。これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。

「これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。」正直いうと、この態度に自分は違和感を覚えました。実際に前述のアンソロジーに収録された「幽世知能」はまさにこの言葉の体現とでもいうべき作品なのですが(その点ではある意味すごい出来の小説ではあるのですが)、この考え方って「SF」が「百合」に擬態しているだけでは?*2 とも素朴に思ってしまったからです。どういうことか。

 心では百合を擁護したい、支えていきたい、と感じているのですが、この擬態した(と思われる)百合作品を読者であるおれ自身は愛することができるのだろうか? いやすでに無条件に愛することをしてしまっているのでは? という宇宙的恐怖です。いやほんとうに恐怖しかない。ジャンルの生存戦略(これはとても正しいし、市場の原理にも即している)におれという個人の意思や尊厳といったものは簡単に乗っ取られてしまうのではないか、というアイデンティティ・クライシスです。まさにSF的体験。見慣れているはずでありながら異形でもある存在を果たしておれは愛せるのか……*3

 なにを言っているのか、と思うでしょうが、これを読むまで自分は、百合SFとは、百合-SF間における均衡関係の下で書かれる作品のことを指していると無邪気に思っていたのです。が、そうではないかもしれない。

 つまり百合SFとは、SFの文法に支配された百合なのかもしれない。

  上記のような想念が生まれたのです。

 いや、想念でもなんでもないじゃねーかと思うでしょう。実際、その通りだと思います。SF的世界観のなかで語られる百合、これこそ当然だと。むしろ至高じゃないのか。でも、おれにもよくわからないんだ……この違和感が……。自分のなかでなにが起きているのか説明できない……。 

 ただひとつ感じているのは、上記のような書き方で百合SFがつくられた場合、百合というのはSFという世界に包括された存在にしかならないのではないか、ということです。つまり原理的に「百合<SF」しか描けないのではないか。ならば限りなく百合に擬態したSFは、果たして百合といえるのか? 百合をテーマに据えたSFがSFという枠組みを越えて百合という世界を飲み込むことはありうるのか? そもそも「百合>SF」っていったいどんな作品なんだ? おれはこの問いに永遠にとらわれ続けている……わからない……なにひとつ……これっぽっちも……。そもそも百合じたいわかっていない……。

『アステリズム~』収録作は、むろんそのほとんどがSF的な世界観のもとに描かれる百合でしたが、伴名練「彼岸花」はもしかするとこの不均衡を限りなくゼロにしようとしていたのではないか、とも感じています。吉屋信子的な大正時代少女小説(文体というレイヤーから世界観をつくりだすこと)によってSF的な部分にフェティッシュに接続しようとしていた。わたしには「百合≦SF」にもっとも近い作品に見えたのもたしかだった……。いや、これこそ百合SFの完成形なのでは? これ以上の作品がありうるのか……だが……(ここで手記は途切れている……。

  

(上記に似たパラドックスとして、「推理>小説」なのか「推理<小説」なのか、というジャンル的な問いかけが存在しています。もしかすると筆者の考えていることは、これに近い、解決することのない不毛な議論なのかもしれませんね。おわり。)

    * 

 ところで同性愛テーマのSFとして「たったひとつの冴えたやりかた」という短編があります。小谷真理は『女性状無意識〈テクノガイネーシス〉』(勁草書房)でティプトリーに触れるなかで(注釈ではありますが)以下のように書いています。

★Joanna Russ, "Letters", Extrapolation, vol.31, No.1, 1990, p.83.「死」と連結される「愛」に関して、ジョアンナ・ラスは一九八〇年に受け取ったティプトリーの私信から、彼女が「内なるレズビアン」に近い感性を持っていたのではないかと示唆している。ホモセクシュアルな「愛」とは別の制度との過酷な確執を生ずるため、この「愛」の成就はしばしば「心中」というかたちをとる。ティプトリーはラスへの手紙のなかで、自ら同性愛的メンタリティを持っているのではないかと告白しているが、ラスへの私信後、そのアイディアをもとに「たったひとつの冴えたやりかた」を書くことになる。

 むろん当時は「百合」として読まれていたはずもないわけですが、現代の観点から百合としても読み取れる作品となっています(同性愛は百合の必須条件ではないが、それはそれとしてジャンル内文脈のひとつとして成立する)。川原由美子先生挿絵バージョンもぜひぜひ限定復刊してほしい。しないと思うが。

 ここで重要なのは「ホモセクシュアルな「愛」とは別の制度との過酷な確執を生ずるため、この「愛」の成就はしばしば「心中」というかたちをとる。」という部分です。つまり時代の変わりつつあるいま、新しい百合とSFはこのかたちからいずれは逸脱していくだろう、ということですね。というかすでに逸脱しつつある。われわれは未来に生きている。特別でありながら確執を生むこともない世界や、まだ見たこともない世界が開かれている。

 また百合作品ではありませんが、両性具有者(ゲセン人)の登場する『闇の左手』*4について、作者のル=グウィンは「性は必要か?」でいわば思考実験として「それを使ったにすぎない」と述べています。

(…)それは問いであり、答えではありません。過程であって、決定された状態ではないのです。サイエンス・フィクションの本質的な機能のひとつは、まさしくこの種の問題提起にほかならないとわたしは思います。慣習的な思考方法の転換、われわれの言語がまだ言葉を見出していない対象に対するメタファー、想像力の実験です。

 ジェンダー的な文脈を大いに引きずってはいるものの*5、百合とSFはこの部分に答えることができるのか。これについても考えていきたいものです。百合SFは名の通りのジャンルである以上、百合という関係性をフィクショナルに(SF的な文脈において)強化する方向にはたらくと思われますが、そうではないSFならではの百合の捉え方は存在しうるのか。百合的なセクシュアリティをSFは分解/再構築できるのか*6

 百合というジャンルにグラデーションがあるように、今後の百合SFはグラデーションをみせることができるのか。『アステリズム~』はまだこの出発点に立っている段階だと感じています。わたしはこの先になにがあるのか見てみたい。知りたい。ジェンダーSF的な文脈においてはどうなるかも気になっています*7

   *

  そして百合ではなくBL側に近い文脈ではありますが、世界には『スタートレック』の/(スラッシュ)フィクションというものが存在しています。

 スラッシュフィクションとはファンフィクション(二次創作といっていいでしょうか)の一種で、『スタトレ』ではおもに女性ファンによる、宇宙船乗組員カーク船長と副官スポックのポルノグラフィ=K/Sフィクションが盛んであることが『女性状無意識』で触れられています*8

 また彼ら(KとS)はおもに同性愛的な関係として描かれていますが、同時にスポックは地球人とヴァルカン星人の混血でもありますから、さらに複雑な関係性ともいえます。「(…)男でもない、女でもない、両性具有でもない両者のあいだには、従って現実にはありえない幻影の絆が要請される」。

 ですが、このムーヴメントは同じファンなどから反感を買ってもいました。

(…)ただし彼女たちのキャラクター凌辱行為、とりわけポルノグラフィ化は、著作権問題を重視する製作者側やオリジナルのプロットを尊重・継承しようとする他のファンたちとの間に厳しい対立を深めることになった。

 悲しい出来事ですね。また、ほかにも事件がつきまとっていました。

 それは、一例をあげると、ゲイ・サイドからの非難であったりした。アメリカで、いくらカーク・スポック関係が従来の男女概念を逸脱するものだと理由付けたところで、一見男性同性愛にしか見えないため、女性による「同性愛凌辱=同性愛差別」ではないか、と糾弾されたのだ。これには当の実作者たちが当惑した。何しろ、彼女たち自身は「愛の物語」だと信じていたからだ。

 それに対し小谷氏は、これらスラッシュフィクションや日本のやおい文化における「男性」が通常の「男性」を指しておらず、むしろ「女性」たち自身、あるいは理想を体現する塑像として描かれている旨を述べる研究者たちの見解に触れています。また、「やおい」とは一見、同性愛を描きながらもゲイ小説ではない(男性≒一角獣的)ことや純粋なポルノグラフィとも違うことなど、一方向からの解釈が成り立たないことも指摘しています。

 したがって、この現象を、ゲイ・セクシュアリティ「性の商品化」問題やゲイ差別問題と混同・断定してよいものか。或いは、フェミニズムの批判する女性性の商品化問題を反復(パロディ化)してしまっているものとして嘲笑してすませてよいものか。

(…)

 しかし、注目すべきは、表層上の物語と、その中で描かれている意味内容との不一致が提示する「可能性」なのである。

 百合を取り巻く状況も複雑になっているといえます。「性の商品化」や「性」そのものの取り扱いについては何重ものレイヤーが存在していますし、作品内で描かれる関係性の切実さや豊かさを見逃すことはできません(百合のなかにはそれをコメディ的に消費していくことのできるものさえあります。それが許容される世界にまでなりました)。一方向的に断ずることはできません。

 二次創作的なものの見方を即座に排除することもすべきではないでしょう。読者が尊いと思うことは止められませんし、それは意味あることだと考えます。やおい文化と同一視することはむろんできませんが、「可能性」が捨てられることだけは間違いなくあってはならない。SFと百合が殺し合ってはならない。ましてや外部が殺しに来てはならない。

 わたし個人はかつて中学生くらいのころ自分の好きな作品がBL的に読まれることにショックを覚えたことのある人間ですが(わたしはナイーヴです)、いまはそれを否定すべきだとは思っていません。その土壌のなかで価値ある作品が生まれる可能性は間違いなくあるからです。

 おそらく今後、さらに百合ブームが強まるとしたならば既存のSF作品に百合を見出す動きが高まるでしょう。でも殺すべきではない。たしかにその動きはともすると暴力的に見えるかもしれません。ただそれは、未来をすこし先取るだけだと考えます。

 結婚しましょう ゆっくりと愛情を育てて恐怖を乗越えましょう

 突拍子もないことを提案しているのではないわ

 未来をすこし先取るだけ

 わたしたちの世代が結婚を考えるころには

 遺伝子の劣化や生殖技術の発達で男性はいらなくなっているはず

 今世紀中に男性はその役割を終えるわ

 もしそうならなくてもつぎの世紀は男性につらい時代となるはず

(…)

 だから結婚はそれほど特異なことではないの

 現在でも困難な道だけれど選択肢のうちだし

 それに女性同士の結婚は

 ななめの音楽の旋律のひとつ

 

   いつか生まれるであろう至高の「百合(=)SF」を、わたしは心から待望します。

 

 

女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説

女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説

 

 

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

 

  

眠れぬ夜の奇妙な話コミックス ななめの音楽1 (ソノラマコミックス)

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眠れぬ夜の奇妙な話コミックス ななめの音楽? (ソノラマコミックス)

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*1:初期『遊戯王』に出てくる「モザイク幻想」――視界がすべてモザイクに埋め尽くされて実像を見ることができなくなる――のことを指している。

*2:草野氏はSFの拡散・浸透を理解しているためこのような発言をしていたのかもしれません。

*3:この感覚は、百合読者としての自認はあるものの、SFの熱心な読者としての自覚がなかったために生まれた不安と言えそうです。

*4:ただし小谷真理は『女性状無意識』のなかで『闇の左手』における主要キャラ同士の関係性をスラッシュフィクション的な「幻想の絆」の理論的展開を先取りしたものとして触れている。

*5:ル=グウィン自身は『闇の左手』の真の主題を「性や女性意識」とはしていないとも語っている。

*6:SFは既存の枠組みをテクノロジカルに破壊していくことのできるジャンルですが、百合という枠組みに対してそれが限定的にセーブされてしまうことへの矛盾も感じている可能性があります。その世界における”特別”とはいったいどんな意味を持ちうるのか。

*7:またル=グウィンは『夜の言葉』において、SFと女性の関係について「SFとミセス・ブラウン」で語っている。

*8:小谷の著作じたいは1994年の出版。ファンマーケットにK/Sジンというジャンルが拡大したのは1976~77年のことだという。

摂取記録:音楽編

タイトルの通りです。

 


Lycoriscoris - Flight (Continuous Mix)

 


Two Door Cinema Club - Beacon HD

 


巴山萌菜 - A.(アンサー)


Clematis「サンダーソニア」Music Video


空中ループ「梢」ミュージックビデオ


Wolf Alice - Don't Delete the Kisses


CHVRCHES - Graffiti (Lyrics)


Fickle Friends - Broken Sleep (Official Video)


Ancient Youth Club / Stay (from "For, Emma")

 


Maison book girl / 鯨工場 / MV


Porches - Leave the House


[M!002] colormal - merkmal (Full Album)


パソコン音楽クラブ 1st Album " DREAM WALK " Trailer Movie


Orland - Love's On The Way


flowers - in love with a ghost


Brothertiger - Fall Apart


kolme / Why not me


Fusq - Perfume!


Chouchou - UTOPIA


スーパーノア「なつかしい気持ち」MV


tipToe. - クリームソーダのゆううつ Music Video


Snail's House - いつもの道 (itsumo no michi)


I Mean Us - You So (Youth Soul) [Official Music Video]


あのキラキラした綺麗事を(AGAIN) / Poet-type.M


Sigur Rós - Route One [Part 1 - 1080p]


Shanghai Restoration Project - Alpha Go (Official Music Video)


sora tob sakana/knock!knock! (Full)


【キラッとプリ☆チャン】「スキスキセンサー」をぬるぬるにしてみた【4K60fps】


POP ETC - We'll Be OK (Official Video)


The 1975 - Give Yourself A Try


CY8ER - カタオモイワズライ (Official Music Video)


国府達矢 "薔薇" (Official Audio)


Shiki - Melody of life(Official Music Video)


宇宙ネコ子 「君のように生きれたら」


ヤマノススメ サードシーズン ED FULL "色違いの翼" by Aoi & Hinata

 

warbear 『Lights』(Music Video)

 

 

「あさがおと加瀬さん。」オリジナルサウンドトラック

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CUFFS さくらむすび音楽集

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