2020年全般に聴いていた曲リスト(摂取記録:音楽編)

 11月に入ってアマゾンミュージックがアップデートされて「最近マイミュージックに追加した楽曲」一覧がUIから削除されたのでプレイリストをつくって生活していない自分は絶望していたのですが、最近になってマイミュージック→フィルタ→並べ替え:追加した日で対応できることに気づいたので助かった……(でも昇順降順の選択ができないのは間違っていると思う)。

 というかアマゾンミュージックはプレイリストをブログでもいい感じに埋め込み共有させてほしい、Spotifyみたいな感じで。リンクを貼るのではなく。YOUTUBEたくさん貼ると重くならないですか。重い。

saitonaname.hatenablog.com


シバノソウ「夏で待ってて」MV


電音部/茅野ふたば/アイドル狂戦士(feat.佐藤貴文)/佐藤貴文(BNSI)

 


Oboe Zegapain Adaptation Ending


死んだ僕の彼女 / rebirth and karma


上田麗奈「花の雨」 MUSIC VIDEO


Solitude 2:14am / Fading Away [Lofi beats]


Moon In June - 海鳴り/ uminari (Full Album)


BBHF『とけない魔法』Lyric Video


17歳とベルリンの壁 - 誰かがいた海 [MV]


TVアニメ『BNA ビー・エヌ・エー』ノンクレジットエンディング映像 / 『NIGHT RUNNING』Shin Sakiura feat. AAAMYYY


エイプリルブルー「花とか猫とか」


little moa - Trampoline (trailer)


Saint Vega "ネオンの泪 album ver." (Official Lyric Video)


Tamayomi ED Full - 『Plus Minus Zero no Housoku』 by Shinkoshigaya Koukou Joshi No


EASTOKLAB - New Sunrise (MV)


Pale Beach - Deadbeat


廃品回収 / 歩く人


odol - GREEN (Official Audio)


Francis and the Lights - Just For Us (Lyrics)


DSPS「我會不會又睡到下午了 Sleep till Afternoon」FULL EP


【安達としまむら】君に会えた日/メリーゴーランド 試聴Ver.(2chorus)


TVアニメ「SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!」ED映像【特別公開】


Sunny Day Service - いいね!【Official Full Album Stream】


VANILLA.6 1st Full Album "VANILLA.6" - Trailer


駒形友梨 / ララルハレルヤ(2cho Ver.)


XTAL - Aburelu (Full Album)


Madame Croissant New 7inch E.P.『Lyrical Dance c/w A.S.C.』Trailer


「Dropout Idol Fruit Tart」 OP Full 『キボウだらけの EVERYDAY 』


Fragile Flowers「終末の過ごし方 -The world is drawing to an W/end-」Full Album


For Tracy Hyde - 櫻の園 (Official MV)


SPOOL - スーサイド・ガール


Mameyudoufu - 時雨TIME (feat. 武井麻里子)


【限定公開】NEO SKY, NEO MAP! / 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 【TVアニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』エンディング映像】

『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』について

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芥見下々『呪術廻戦』第106話より

・そんなSFアンソロジーは2020年11月現在、存在しない。

・最近読んだ門田光宏『記憶翻訳者 いつか光になる』(創元SF文庫)がウェルメイドな記憶テーマのSFだった。ほかに記憶SFは存在するのか。たぶんある。

・あらゆる読者は自分だけの架空のアンソロジーを編みたい欲求を持っている。

・したがって編んでみた。

・架空のアンソロジーなので文章の長さも国の内外(おもに権利関係)も問わない。

・ついでに漫画も入れておきたい。同人作品からも入れたい。

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

  • 作者:門田 充宏
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 文庫
 

 

『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』収録作品一覧

瀬名秀明「最初の記憶」

星新一「午後の恐竜」

ウィリアム・ギブスン「記憶屋ジョニイ」

長谷敏司「地には豊穣」

今井哲也「ロスト・イン・パレス」

羽海野チカ「星のオペラ」

デュナ「追憶虫

安倍吉俊「ラナの世界」

テッド・チャン「偽りのない事実、偽りのない気持ち」

アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」

ジョン・クロウリー「雪」

 

 以上の11作品を収録する。当然のように分厚いアンソロジーになった。

 収録作を選ぶにあたり「記憶 テーマ SF」でネット検索したが、検索ワードが漠然としすぎていてまったくヒットしなかった。映画はいろいろ出てきた。ディック原作のあれとかあれとか。

 よって個人の偏った読書趣味が反映されている。ゼロ年代以降の作品が多いのはそのため。海外作品が既訳しかないのもそのため。すでに名作といわれているものばかりで面白みがないといえばないか。未読作品は入れていない。たとえば梶尾真治「おもいでエマノン」は鶴田謙二のコミカライズ版で履修しただけの人間なので収録を見送っている。

 あるいは、記憶テーマか、と問われると答えられないものも外している。たとえば宮内悠介「ディレイ・エフェクト」(「午後の恐竜」に似たシチュエーションで物語が展開されるが、これは歴史がテーマなのでは)、グレッグ・イーガン「ぼくになることを」(脳ではなく機械にアップロードされた意識の、自我の連続性は記憶の連続性とどう違うのだろう? うまく説明できない)など。

 以下、収録順に各作品のあらすじ(見やすさのため引用というかたちにしているが、正確な引用ではない)と簡単な解説を入れていく。

 

瀬名秀明「最初の記憶」

夜の虹彩 (ふしぎ文学館)

夜の虹彩 (ふしぎ文学館)

  • 作者:瀬名 秀明
  • 発売日: 2014/02/01
  • メディア: 単行本
 

 瀬名秀明『夜の虹彩 ふしぎ文学館』(出版芸術社)に収録。

 エッセイやコラムのライターである私はある日、知人から「一番最初の記憶ってなんですか?」と問われる。知人は科学館で展示のためのアンケートをおこなっており、それによれば年齢が下がっていくにつれ、記憶の内容が似てくるのだという。その記憶とは『強い陽射しを背にした人物の影』というものだったのだが、私にも同じ記憶があった。私はその出来事をコラムに書くと、読者からも次々と「私の最初の記憶も同じだ」と投書が殺到し――。

 怪奇・ホラーに近い掌編。なんということはない日常の一幕から次第に壮大なイメージへと物語が変容していくのはまさしくSFの手触りで、それと同時に瀬名秀明が比較的初期に目指していたディーン・R・クーンツ的なストーリーの転がしぶりを味わうことができる。タイトル通り、アンソロジーの開幕を飾るにふさわしい作品。

 

星新一「午後の恐竜」

午後の恐竜(新潮文庫)

午後の恐竜(新潮文庫)

 

 星新一『午後の恐竜』(新潮文庫)に収録。

 日曜日に男が目をさますと 「わあ、怪獣だ。怪獣だ」と子供がさわいでいる。窓の外を見やると、大きな恐竜がおり、妙な植物が生えている。それらの姿は鮮明に見えているものの、触ることはできない。妻は「蜃気楼のようなものじゃないの」と言うが、そのいっぽう、どこかの地下室では大ぜいの男女が忙しげに動いている。「おい、XB8号との連絡はまだ取れないのか」――。

 言わずと知れた名作のひとつ*1瀬名秀明が「最初の記憶」をテーマに物語を描いたとするなら、星新一はこれ以上ないかたちで「最後の記憶」を描いたのではないか。現実の世界に重なり合うように古代獣の姿が現れるのがじつに映像的にダイナミックで、センス・オブ・ワンダーとはこういうものであると見せつけてくれる。恐竜たちは時間とともに姿を変え、地球がたどってきた進化のドラマを人々に見せるのだが、いったいそれはなぜなのか。これはいったいなんの記憶なのか、ぜひ見届けていただきたい。

 

ウィリアム・ギブスン「記憶屋ジョニイ」

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

 

  ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』(ハヤカワ文庫SF)に収録。黒丸尚訳。

 ぼくは白痴/賢者(イディオ/サヴァン)状態で他人の情報を何百メガバイトも預かっている。意識のある状態では出入り(アクセス)できない情報だ。けれど取引相手のラルフィはここのところ記憶を引き出し(リトリーヴ)にこない。記憶時間の超過料金は天文学的になっているけれど、そのうちにラルフィはぼくに対する殺し(コントラクト)を依頼したという。ぼくが預かった記憶は”ヤクザ”の持ち物だった――。

 独特の訳語センスが光るサイバーパンクの記念碑的作品。ミラーレンズを嵌め込んだヒロイン・モリイの踊るようなアクションシーンや、ヤク漬けになったサイボーグイルカとの会話など、とにかくクールな演出が印象的。暗号化したデータを人の脳の内部に入れておくという人間の機械の一部としてみなすアイデアはわかりやすくてシンプルだが、決してそれだけが浮いていないのがこの作品の魅力かもしれない。『攻殻機動隊』が好きなら読んで損はないでしょう。

 

長谷敏司「地には豊穣」

My Humanity

My Humanity

 

 長谷敏司『My Humanity』(ハヤカワ文庫JA)に収録。アンソロジーゼロ年代SF傑作選』(ハヤカワ文庫JA)でも読める。

 宇宙進出時代、疑似神経制御言語ITP(Image Transfar Protocol)で記述した経験記憶を人間の脳内に書き込むことで、人類は未経験であるはずの他者の記憶を脳内に再現することを可能にした。疑似神経分野のトップメーカーに勤めるケンゾーは、その技術が民族主義者から英語圏文化による洗脳だと批判されていることを受け、日本文化調整接尾辞(アジャスタ)を開発していた。当初は歴史や文化の位置づけなど気にしていなかったケンゾーだったが、その考えは《特徴を強調した日本人》のITPをインストールしたことで一変する――。

 民族的アイデンティティを持たない技術者を主人公に、技術と文化の軋轢を描いた現代的な意識のある作品。記憶が個人の思い出ではなく、民族的な文化的背景として機能している部分に焦点をあてているのが特徴。序盤はなにがストーリーの核であるかを悟らせないためわかりづらい部分があるものの、中盤のITPを書き込んだあとのケンゾーの意識の変わりようは圧巻といえる。記憶を脳に書き込むというアイデアは「記憶屋ジョニイ」と同系列であるけれど、それとはまったく違う地平を見せてくれるはず。

 長谷敏司のSFはこれに限らず、技術が人間のこれまで持っていた常識や考え方といった感覚を強制的にアップデートしていく様子を描くことが多い。そのため読者は作中の変化にともない無自覚に持っていた思考を揺らがされることになる、ような気がする。

 

今井哲也「ロスト・イン・パレス」

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

  • 発売日: 2015/05/07
  • メディア: Kindle
 

 単行本未収録。雑誌『ヒバナ』2015年6/10号(小学館)に掲載。電子版あり

 「その小冒険は、いつもの町の近所の路地からはじまった。」

 わたしがハガキを出そうとすると、きのうまであったはずのポストが消えている。しかし近所の人に聞いても「そこにそんなものありましたっけ?」と返される。皆、ポストがあったことを忘れているのだ。そうしてなくなってしまったポストを探すうち、わたしは記憶のどこにもない路地に迷い込んでしまう。そこで出会った相手に場所を訊ねると、ここは記憶の宮殿で、自分はその倉庫番だといいだして――。

 漫画枠その1。『アリスと蔵六』の今井哲也が描く、オフビートなすこしふしぎ。忘れたものをめぐる冒険。いつのまにかへんてこな名前に変わってしまったコンビニに、牛のかたちをしたポスト、郵便局の地下、忘れられたものが送られてくるという記憶の宮殿。 日常から奇妙な世界へのつながりが、可愛らしい絵柄で語られるのが心地よい。そのいっぽうで、なにかを忘れてしまうことが悲しい、という素朴な感情が丁寧に扱われる佳品。こういう言い方はずるいのかもしれないけれど『年刊日本SF傑作選』に載る漫画が好きな人なら確実に気に入るはず。物語の着地のさせ方がべらぼうにうまく、記憶に残る作品とはこういうものだと思う。

 今井哲也の雑誌掲載短編は現在そのほとんどが入手困難になっている。編者も読めているのはごくわずか。出版社各位は今井哲也短編集を出版してください。是非。

 

羽海野チカ「星のオペラ」

ハチミツとクローバー 10

ハチミツとクローバー 10

 

  羽海野チカハチミツとクローバー』10巻(クイーンズコミックス)に収録。

 「空いっぱいにうすボヤけた蟻のようなものがうごめいている しばらくするとそれは集まって 最後にガサガサと音を立てながら ボクの耳の中に入り込んでくる」

 砂嵐の吹く荒野と深い深い谷とその底にある河でできている星、イグルー。そこで暮らすボクはうんと小さい頃からくりかえしおなじユメをみている。ボクは周囲からは「捨子の巨人」「毛なしの宇宙人」と呼ばれている。なぜならまわりと違っていて体毛がほとんどなく、背が彼らの倍くらいあり、交易にやってくる宇宙船が捨てたポッドのなかで見つかったからだ。そしてボクが14になった日、父さんは一族のみんなでお金を出し合い、ボクを宇宙大学に行かせることに決めたという。大学ではボクとおなじ姿の人がいて、彼女の国の言葉を学ぶうち、ユメのなかの虫たちはすこしずつ鮮明になって――。

 漫画枠その2。『ドラえもん』に登場する”ひみつ道具”をひとつだけ使ってお話をつくるという企画で描かれた作品。このアンソロジーに収録されたという情報だけでそれがなんであるかわかる人は一定数いるはず。とはいえ『ハチミツとクローバー』という長編の最終巻に収録されている短編のため、入手難易度は低くとも読んでいる人は決して多くないのではなかろうか(そもそも短編ひとつを読むためだけに10冊もあるシリーズに手を出すだろうか?)。

 羽海野チカは『三月のライオン』を読めばわかるように、コミカルなユーモアとシリアスを同時に成立させることができる作風で、「星のオペラ」は記憶≒その人にとってのルーツ、というテーマを優しく包み込んでくれる。人間ドラマらしい感情をSFで描くという手つきはどことなくケン・リュウの短編に似ているかもしれない。

 

デュナ「追憶虫」

 『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社)に収録。斎藤真理子訳。

 結婚して二十年になるユンジョンはある日、自分が恋に落ちたことを自覚する。相手は通っている読書会の会員のアン・ウンソン。しかしその感情は自分のものではない。すぐさま医者にかかると「追憶虫ですね」と診断される。ユンジョンの目と脳のあいだには米粒ほどの大きさの地球外寄生虫が隠れていた。追憶虫は呼吸器を通して感染し、前の宿主の記憶を次の宿主に伝えるという。ならばこの感情は、いったい誰の記憶なのだろう――?

 韓国SF。日本語訳で25ページとかなり短い。が、記憶の流入による自己の変容というネタを扱いつつ、前の宿主は誰だったのか? とミステリの要素でぐいぐい引っ張ってくれる。中盤までのテイストはどちらかといえば奇想小説に近いのだけれど、オチのツイストでおっと思わせてからあたらしい視界が開けていく構成になっている。けれどもむずかしい概念や理屈はまったくない。こういうのを技巧派というのか。

 作者のデュナは覆面作家で、高槻真樹によるシミルボンでの紹介(https://shimirubon.jp/columns/1699798)が詳しい。これから翻訳が進んでほしい作家のひとり。日本語のWikipedia記事(デュナ - Wikipedia)がなぜかある。

 

安倍吉俊「ラナの世界」

isolated city 02

 安倍吉俊『isolated city 02』(同人誌)に収録。2010年発行。2020年現在、一般的な流通では入手不可。中古市場であれば入手可能か。

 近未来、あらゆる電子的ネットワークから隔絶されている街、マウラー。そこに暮らすロボット工学者の孫であるサティはある日、不審な二人組の男を見つける。男たちは持っていた手紙に書かれた住所を手がかりになにかを探している。宛先には「ラナ」の文字。しかしその差出人の住所は存在しない。

 翌日、サティはヴィクトリアという少女に出会う。昨日の男たちはヴィクトリアの父とその部下で、手紙は彼女の大叔母で女優のレナ・レルヒに孫のマルコが十数通も宛てたものだという。彼女を含めた三人は遺産相続などのため、この街に住んでいるマルコに会いに来たのだった。サティはマルコ探しを手伝おうとするが、調べてみるとマルコ・レルヒという人間はどこにもおらず――。

serial experiments lain』『灰羽連盟』の安倍吉俊による同人SF作品。漫画でも小説でもなくト書きの脚本で構成されている。『isolated city』は「人間の意識は何によってもたらされるのか」という作者ならではの想像力のもとに書かれており、シリーズ二作目にあたる「ラナの世界」ではSFミステリの枠組みを使いながら、存在しない誰かを意識のうちに抱くことについて模索されている*2

「……誰かに私がいる、って心から信じさせることができたら、その人のニューロンの回路を借りて、その人の心の中に、『私』という構造を発生させられるのかな? その時、『私』はそこにいるのかな?」というサティが中盤でこぼす台詞はそのまま物語のテーマにオーバーラップする。登場人物たちの思考は最終的にある種の仮想を共有するまでに発展するが、それもまた仮想のなかのひとつであり、SFでありながらあたかも幻想小説の迷宮に足を踏み入れてしまったかのような読後感を残す。

『isolated city』は同人作品のためか、『02』で物語は止まっている。もともと『キリシュとわたし』という作品の外伝として書かれたもので、本編については『ユリイカ』の特集号*3でその一端に触れることができる。

 

 偽りのない事実、偽りのない気持ち

息吹

息吹

 

  テッド・チャン『息吹』(早川書房)に収録。大森望訳。

 ジャーナリストのわたしは新しいライフログ検索ツールRemen(リメン)に関する記事を書いている。リメンはユーザーが過去の出来事について言及するのを見つけると、視界の左下隅にその映像記録を表示する。リメンの画期的なアルゴリズムはそれまでの検索ツールの不便さゆえに民事事件や刑事事件といった正義の場だけに限られていたライフログ検索を、きわめて個人的な状況でも使えるようにした。その結果、放置されていた膨大なライフログは家庭内の口論で利用できる証拠の山になった。リメンについてフェアな文章を書くために、わたしは自分でもそれを使いはじめ――。

 ライフログというすでに現代にあるサービス・技術を近未来に敷衍し、記録と記憶の齟齬から人間の齟齬を取り出してみせた傑作。この小説が技術をめぐるSFとして面白さを成立させているのは、シングル・ファーザーの独白と並行して語られる、口承文化を持つティヴ族のパートがあるからだろう。ティヴ族の少年は文字の読み書き(ふだんわたしたちはあまり意識することはないが、これも立派な「技術」である)を宣教師から習うことで意識をゆるやかに変革させ、同時に読者の意識もまた相対化されていく。あたかもその様子は「あなたの人生の物語」の語り手に起こる変革をアナログな手法で語りなおしたものともいえそうで、しかしその結末はひどく苦い。

 けれどもそれだけで終わらないのがさすがテッド・チャンというところで、最後のページで語り手の「わたし」はかなり怖ろしいことを言い放つ。ここで生まれる読者との距離がどこまでも絶妙で、これがなければ「偽りのない~」はただのよくできた人間ドラマでしかなく、SFの傑作にはなりえなかったんじゃないか。そう思わせる凄みがある。

 

アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)
 

 アンソニー・ドーア『メモリー・ウォール』(新潮社)に収録。岩本正恵訳。

  アルマの寝室には、電子レンジほどの機械があり、〈ケープタウン記憶研究センター所有〉と書かれている。そこから出ている三本のコイル状のケーブルが、自転車用のヘルメットにどことなく似たものにつながっている。壁は紙片で覆われ、紙のあいだで、数百のプラスチック製カートリッジが光っている。それぞれがマッチ箱ほどの大きさで、四桁の番号が刻印され、一個の穴にピンを通して壁に留めてある。ケープタウンでは、裕福な人々から記憶を取り出し、それぞれをカートリッジに焼きつける医者が六人いる。アルマは七十四歳の、認知症の患者だった――。

〈新潮クレスト・ブックス〉というレーベルから出ているとおり、SFというよりは文学寄りの作品。設定は、上記のあらすじからだいたい想像できるとおりと思っていい。認知症の女性に、過去の記憶を再生する装置が与えられる。それがエンタメ的にツイストされることはない。とはいえ表4を見ると、円城塔がコメントを寄せている。「老若男女を自在に描くドーアの筆は、魔術的な域に達する」。どう魔術的なのか。

「メモリー・ウォール」を一読すればその答えは容易に理解できる。カートリッジに閉じ込められ、機械を通してよみがえる記憶。ただ文章を読んだだけであるのに、いま自分は、記憶そのものに手を触れているのだ、というふたつとない感覚が一瞬で呼びおこされてしまう。はじめて装置を使ったアルマはつぶやく。「なんてこと」。それは読者にとってもおなじだ。読者は彼女の人生に同期しまったあとは、もう逃れられない。他人ではいられない。あとは呪われたように100ページもある物語をめくるだけだ。

 チャンがSFの語りによって人間存在を解体してみせたなら、ドーアは文章の精度だけで人間のすべてを構築してしまった。ヘヴィな作品であることは間違いないけれど、記憶を扱う手つきは収録作のなかでもっとも繊細で、それゆえに目をそらせない。

 

ジョン・クロウリー「雪」

古代の遺物 (未来の文学)

古代の遺物 (未来の文学)

 

  ジョン・クロウリー『古代の遺物』(国書刊行会)に収録。柴田元幸編『むずかしい愛 現代英米愛の小説集』(朝日新聞出版)でも読める。畔柳和代訳。

 これから私が出会おうとしているのは、死から救われたジョージーではない。それでも、彼女の人生のうち私と過ごした八千時間が残されている。「ワスプ」が撮影した妻の記録は「パーク」にファイルされ、そこにある個人用の安息室からアクセスすることができるようになっている。「パーク」の言葉を借りるならば「霊的まじわり」だ。けれども安息室には「アクセス」と「リセット」のレバーしかない。再生する記録を選ぶことはできず――。

 テッド・チャンとおなじくライフログを扱ったSF。とはいえ書かれた年代はずっと前の80年代で、にもかかわらずその態度は現代のわたしたちの感覚にかなり近い。仮に膨大なデータを保存したとしても、その膨大さゆえに検索性の問題が生まれ、目的の情報にあたることはとても難しくなる。それどころか、思い出したとしてもすぐにまた脳裏から消え去ってしまうことすら起こりうる。それはそのままわたしたちの記憶に対するイメージそのもので、けれども、だからこそ大切なことを気づかせてくれる。物語の終盤で語り手が述べる記憶とは、わたしたちに与えられた魔法のようなものかもしれない。ゆえに「雪」こそがアンソロジーの掉尾を飾るにふさわしい。

 クロウリーの記憶を扱ったSFといえば、ほかに『エンジン・サマー』があげられる。クリスタルの切子面に収められた文明崩壊後の未来における人々の記憶を、天使に向けて物語として語りかける切なく美しい作品。

 

編者あとがき

 以上11作品を紹介した。これ以上言うことはない、といって終わりたいところだけれども、語り残したことは大いにある。まず収録しようと思っても具体的な作例が見つからず(あるいはこちらが読めておらず)、紹介できなかった系統の作品について。

・記憶喪失もの

・完全記憶もの

・前世の記憶もの

・未来の記憶もの(未来予知? 時間SF?)

・多重人格もの(記憶といえるか?)

サイコメトリーもの

・コメディ、ギャグテイストの作品

 いま思いついたものを列挙しただけでもかなり漏れがあることは容易に想像ができそうだ。全体の色合いとしてシリアス寄りのアンソロジーになったことについては、選者の趣味が出てしまった、ということにしてご容赦いただきたい。比較的有名な作が多く収録されることになったのも、ひとえに選者の見識不足ゆえ。

 記憶を扱ったSFとしてはジーン・ウルフの名前があがってもいいはずだけれど、これについては紹介する側が作者の意図を読み切れていないので、あきらめることにした。代表作でいえば、長編『新しい太陽の書』の主人公セヴェリアンは完全記憶の持ち主だし、『デス博士の島その他の物語』に収録されている「アメリカの七夜」は語り手の食べ物に幻覚剤が仕込まれており、旅の記述のうち抜け落ちたもの(記憶?)が存在する、とされている。などなど。記憶と信頼できない語り手はたぶん相性がいい。

 前世の記憶でSFということであれば水上悟志スピリットサークル』はまさしくそれではないか、とも思う。輪廻転生がテーマで、物語が進むとともに主人公は複数の過去生・未来生を追体験し、隠されていた世界の事実と魂の因縁があきらかになっていく。けれど次第に現在の生であるはずの自我が浸食され、混濁していく。たった6巻しかないにも関わらず、過去生をひとつ経験するごとに大作映画を見終わったような疲労感に包まれるのもすさまじく(おそらく意図的にそうなるよう描かれている)、水上は『惑星のさみだれ』以外にも面白い漫画をばんばん描いていることを各位は知ってほしい。

 ほかに記憶が入ってくる漫画といえば植芝理一『大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック』があるか。亡き父の学生時代の記憶が息子に混入し母親にどきどきしてしまうという怖ろしいシチュエーションを描く漫画。

 まだ見ぬ作品であれば、小川哲がクイズ王を題材にした小説を書こうとしていると去年あたりからほうぼうで耳にしている*4。クイズ王は問題に正解するために(記憶容量を確保するために)自分の大切な記憶をどんどん消していく――、とかなんとか。出たらぜひ読みたいところ。

 

その他

 記憶SFが一定数あることはわかったが、記憶ミステリはあるだろうか?

 題材としてはありそうだけれど、作例はあまり思いつかない。近年の作であれば、榊林銘「たのしい学習麻雀」があるか。頭を打って記憶喪失になった主人公がルールもわからないまま麻雀対決をおこない、その勝負のなかで法則性を推理するといったシチュエーション重視のミステリだ。

 あるいは恩田陸「ある映画の記憶」という傑作がある。幼少期に見た映画『青幻記』の記憶がとある人物の死と重なり、その潮騒のイメージが最後には読者の心を言いようもなく埋め尽くす。幼少期の記憶をめぐる謎ということであれば、石黒正数それでも町は廻っている』の「一ぱいのミシンそば」の回がある。あれ、もしかして結構作例あるのか? じゃあ山川方夫「夏の葬列」も入れていいか? いいよ。

 とはいえ今回アンソロジーを編むにあたり思いあたる作品を片端から探し出して(処分してたものは買いなおして)再読してあらすじをまとめるだけで疲れてしまったのでこれ以上はやらない。世のアンソロジストはすごいのだ。ありがとう、ありとあらゆるアンソロジストたち。あなたのおかげでいまのわたしがいます。

 そしてだれか代わりに記憶ミステリ傑作選を編んでください。サイコメトリーものがあるといいな。というわけであなたの知っている作例があればミステリ・SF問わずコメント残してくれるとうれしいです。

 さて、楽しい時間もあっという間、そろそろこの『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』もお別れの時間です。またいつか、どこかのだれかの追憶で会いましょう。時が戻ったら。来年は『ゼーガペイン』放送15周年ですね。では聴いてください、ROCKY CHACKで「リトルグッバイ」。消されるな、この想い。


Rocky Chack - Little Goodbye

 

*1:世間的には時間SFとして認知されているのではないか。児童書のアンソロジー『SFセレクション(1)時空の旅』(ポプラ社)に収録されているくらいなので。

*2:この発想の萌芽は『lain』の作中にも見出すことができる。

*3:ユリイカ2010年10月号 特集=安倍吉俊 『serial experiments lain』『灰羽連盟』『リューシカ・リューシカ』・・・仮想現実の天使たち (ユリイカ詩と批評)

*4:筆者は昨年の京フェス2019で聞いた。

あなたの知らない(百合)について 島本理生「七緒のために」

 中学生の私が放課後の美術室で絵の具のパレットを洗っていると、喧嘩中で口をきいていない友人が横にすっと立っている。彼女は黒々とした瞳でこちらをうかがいながら、折りたたまれたルーズリーフを渡してくる。それは開いてみると手紙で、なぜか上半分が切り取られている。そして残された半分には、次のような文面が記されている。

『私たちの関係について上に書いたけど、雪子ちゃんはきっとショックを受けそうだから捨てました』

「残りの手紙もちょうだい」と手を出すと、相手は「雪子ちゃんが怒った顔をするのは、不安なときなんだね」とすました顔で言い返して去っていく。

 そのようなつかみどころのない、しかし忘れることのむずかしい記憶の描写から語られる島本理生「七緒のために」は、ふたりの少女の交流のはじまりから終わりまでをどこまでも痛々しく切り取った青春小説だ。そのなかでつづられる雪子の友人、七緒のふるまいは、遠慮がないというよりは、他者との距離を必要以上に近づけて、ときには相手の精神そのものまで握り込んでつぶしてしまいかねない、制御のきかない不安定さをはらんでいる。

 転校してきた教室で私が自己紹介をしていると、スケッチブックになにか描いている少女がいる。その子が七緒だ。彼女は昼休みになると、完成した絵を見せてくる。「只野さんが、美人さんだから描いてみたの」といって。紙には雪子が描かれていたが、そのとき着けていた銀縁の眼鏡のフレームは、勝手に赤色のものに変更されている。お礼を言って紙を受け取ろうとすると、絵は奪い取られてしまう。「これは私が大事に取っておくから」

 七緒は雪子との関係を結ぶにあたって、頼まれてもいないのに常に場を見えない力で強引にコントロールしようとする。名前を聞いたときには苗字で呼ばないように誘導するし、読書の趣味を聞けば「普通だね」と返し、しかし、読んでいた文庫本のページを破って渡してきたかと思えばそこには電話番号が書かれていて、自分に連絡をするときのルールを秘密めかして伝えてくる。

 いっぽうで雪子は、転校前の学校では周囲に馴染めていなかった。現在進行形で両親の仲も悪い。彼女は孤独で、周囲に理解者もいない。だからか、どこか強引な七緒を振り払うこともなく、急速にお互いの距離を縮めていくことになる。

 仲良くなるうち、七緒がことあるごとに口にする打ち明け話やその奔放な態度は、七緒自身を通っている学校とはべつの世界の住人であることを強調し、雪子をつよく惹きつける。街で男の人に声かけられて、キスをした。雑誌の読者モデルをしている。小説家と文通をして、何度も会ったことがある。年齢をごまかしてライブハウスのステージに立った。教師にばれないようドロップスの缶を学校に持ちこみ、携帯用ラジオでFMを聴いている。そのいっぽうで、母親を「使用人」と呼んだりする。

 それゆえに自然と、雪子は次のように考える。

(…)七緒はこんなにすごいのに、どうして学校内では普通の子のふりをしているんだろう、と疑問を抱いた。

 その疑念は、物語が進むにつれ次第に解かれていく。学校生活に慣れたころ、七緒は特別な女の子というわけではなく、ただ周囲から距離を置かれているだけであることに雪子は気づく。ほかの生徒たちから、七緒と雪子が「羊飼いとその友達」呼ばわりされていたからだ。羊飼いとは狼少年のことで、要するに七緒は嘘つきとして認識されていた。

 塗り固めてきたもののほころびに、雪子は触れている。しかし七緒をつよく遠ざけることもできない。雪子はすでに七緒の存在に吸い寄せられてしまっているからだ。それは彼女の語りからも伝わってくる。

 たしかに七緒は話の筋が時々通っていないし、いちいちわざとらしいし、相手の心を引っ掻くようなことばかり言うけれど、少なくともその言動は、目を閉じた後も真夏の日差しのように焼き付いて、強い影を残す。

 次に雪子が取ろうとした行動は、だから七緒の理解者になることだった。「それなら、ずっと信じる。七緒のこと」と雪子は彼女に言う。たとえ彼女の言動がきっかけになって周囲から疎まれ、いじめの対象になってしまっても、雪子は七緒を見捨てようとしない。彼女のことばが「ほんとう」であることを受け入れようとする。

 けれど物語は痛々しく、閉じた関係に光明がまったく見えないまま突き進む。雪子はやがて、七緒の虚言のもとになったものがなんであるかに触れてしまう。それはどこまでも平凡なもので、最初に彼女に見た特別さの欠片もない。にもかかわらず、雪子自身も、そのほころびを七緒に指摘することが、もうできない。しかし七緒はその奔放さでわかりきった嘘を繰り返し、何度も雪子の友情を強引に試そうとして、最終的にふたりの関係は修復のできないかたちにまで歪んでしまう。

「七緒のために」を読んでいて哀しくなるのは、かたくなに嘘をつき、生傷をつくりつづける七緒を救う方法がどこにもないからだ。物語のなかで、七緒には嘘をつく理由が、おぼろげながらあることが示される。けれどもその問題すべてを受け入れ、解決するのには中学生の雪子は幼すぎるし、反対に大人では遠すぎる。そうして周囲をも傷つける七緒の言葉は、雪子の心をついには突き放してしまう。

「女の人は、けっして女の人を心から好きになれないんだよ。雪子ちゃんだってそうでしょう。だから、わたしのせいじゃない」

 終盤、心の離れてしまったあとのことがすこしだけ語られる。そこでは答え合わせのように、雪子の隠れていた気持ちが明かされる。それはある意味で、七緒だけが気づいていた「ほんとう」だった。だからほんのひとときであっても、彼女たちはたしかに通じ合っていたはずだった。

 この小説は結局、救われなかったふたりの物語だ。けれど、その関係はたんなる嘘だけではなかったはずで、きっと消えない傷跡のように、あなたの皮膚に残りつづける。

 

七緒のために (講談社文庫)

七緒のために (講談社文庫)

  • 作者:島本 理生
  • 発売日: 2016/04/15
  • メディア: 文庫
 

 

あなたの知らない(百合)について 村松真理「ソースタインの台所」

 幻になってしまうかもしれない百合小説を紹介する。

 けれども、これをただの百合小説として紹介するのには、ためらいがある。

 村松真理「ソースタインの台所」は『文學界』2006年8月号に掲載された作品で、だからジャンルとしては純文学ということになる。ただし、このためらいがあるというのはたんに純文学の文芸誌に載ったからというわけではない。それについては後述する。

 以降、詳しいあらすじを書くので、百合小説を百合とわかってから読むのが嫌な人(もうこの時点で逃げることはできない、申し訳ない。だからとりあえず詳しい内容を知りたくない人)は上述の文學界をアマゾンで高騰した値段で買い求めるか、大きめの図書館でバックナンバーを探して読むことを推奨する。

 

 

 物語はアメリカに留学している院生秋野のもとに、教採に落ちたが一年のアルバイトののち民間企業に入った岩本(私)がふらりとやってきてくるところからはじまる。彼女たちは不味いアメリカ米を一緒に朝食として摂り、気の置けない会話をする。

「不味いだろ」

 と彼女は私に言った。

(…)

「不味いだろ。無理しなくていいから」

 私は咀嚼しながら、箸の下の白いご飯と彼女を交互に見た。それは噛むと硬いくせにあっけなくもろっと崩れ、歯ごたえもなく粉っぽいが、舌に変に癖のある後味が残る。

「ごま塩をかければまだ食える。というよりかけないと食えない」

 私と同じように、ただ白米を山盛りにした茶碗を前にした彼女はそう言うと、ごま塩の小瓶を振ってその上にばらまき、私の方に押してよこした。そうして黙々と山を崩して咀嚼している。

 瓶をつかんで振り掛ける。白黒の点々が一面に振りかかったそれを箸に乗せて口に入れ、噛む。大ざっぱな味に雑な塩と、胡麻の味が沁みこんでうまかった。

「ううん」口の中がいっぱいなので首を振った。

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「じゃあ訂正するけど」と彼女は淡々と言った。頭の後ろに、寝癖でひよこのように柔らかい逆毛が立っている。

「君が嘘をつかないことは知っているが無理はしているだろう。そうだろ」

 私は何だか後ろめたいような気がした。無理はしていなかったが嘘をついたことはあるかもしれなかった。十三歳からの十一年間は決して短い時間ではない。

「いや本当に不味いとは思わない。確かに日本の米とは違うかもしれないけど、同じ米だって観念が強力にあるわけじゃないから。こういう食べものだと思えばけっこう美味しいけど? じゃあ君は不味いと思うの、そんなに」

「思う」と言って黙々と米の山を減らしている。

「じゃあ何で食べてるのよ。他にパンだってシリアルだって幾らでもあるでしょう」

「二十三年間、朝は米しか食わなかったからだめなんだ。どうしても。こんなアメリカまで来ても、こんな米しかなくても」

「ふうん。わたしは二十三年間シリアルかトーストで育ち続けたし、どっちもないときはあるものを何でも食べていたから、むしろ朝和食なんて食べたことはないわね。あんまり米という食べものに執着がないのよね。だからこれだって、米だから特別どうとか思わないから、不味いとは思わないわけよ。別に不味いものじゃないんじゃないの、これ自体は」

「親が来た時に食べさせたら哀れむ目で見られた」

「それは、君のお母さまだもの。ほら、わたしは絶対味覚というものが皆無だから。『陰翳礼讃』を読んだら羊羹食べられるようになるんだから」

「全然わからない」と秋野は口を一杯にしながら噴き出しそうになった。

 「中学の時そういうことあったでしょう」

「覚えてるよ。それがどう関係あるのさ」

「君が毎朝常食にしてると思うと、突如として親しみがわくということよ」

  最初から長い引用になってしまったが、もしこの部分を読んで彼女たちの心安い関係に好感を抱いたのであれば、その期待は裏切られないといっていい。

 物語はふたりのディアローグを中心に展開される。上記引用部の「十三歳からの十一年間」という積み重ねの感触が会話やふるまいのすきまからにじむようにあらわれ、読者をその心地よい空間に誘ってくれる。

 加えて秋野のハスキー・ヴォイスで男言葉を使うというキャラ設定には、漫画やアニメを経由してきたような軽妙さがある。ふたりの会話と並行して回想される学生時代のエピソードによると秋野は人気者で、岩本はその妹分として周囲から認知されていた。それゆえふたりはさながらカップルのようにはやし立てられることもあった。そうした部分にはフィクション的な、あえていうならば百合的なわかりやすさがある。岩本が秋野に憧れて学校に行くときの服装を彼女に寄せていくくだりも、エピソードとしてわかりやすい。

 しかし読み進むにつれ、「ソースタインの台所」はそうしたフィクション的なわかりやすさ心地よさだけではない、ふたりの微妙な心の距離も描き出していく。彼女たちは中高とおなじ場所に通っていたが、大学では別々の道に進み、物語がはじまったときは一年ぶりの再会だと記されている。だから秋野は久しぶりに会えた岩本をできるかぎりもてなそうとする。

「ねえ」と私はまだ奥のキッチンにいる彼女を呟くように腑抜けた声で呼んだ。「ねえってば」

「何」

「毎日忙しくて時間ないんでしょう」

「あるとはいえないね。圧倒的能力不足だから」

「ねえ超人的努力なんてしなくてよかったのに。わたしなのに。別に部屋がどんなだって驚いたりしなかったわよ、絶対」

「だから嫌なんだ」

 彼女は瞼をぐっと上げて、半ばひとりごとのようにそう言った。

  秋野と岩本のふたりはくだけた会話をするが、それははお互いを敬い、思いやることのできる関係だからだ。それゆえに馬鹿馬鹿しい理由で口論もする。

 秋野が岩本のためだけに手間のかかる掃除をするように、岩本は秋野のためにつくろうとしたアラビアータが辛くないだけで苛立ってしまう。「タバスコある?」としかめ面で訊くと、それに触発されるように秋野も興奮する。

「わからない」と静かに言った。

「何が」

「タバスコとか言ってさ。これで普通に美味しいのに」

「だって、」と私は彼女の抑えた、しかしいやにはっきりとした語調の重さに感情を煽られて、何も考えずに子供っぽく声を上げた。

(…)

「一体君はなんなんだ」

「何? わからない。わかるように言って」と私は言い返した。

「覚えてるか。君は昔、辛いものが大嫌いで、できることなら寿司はわさび抜きにしてもらいたい、お刺身にもいらない、でも中学生ともなれば恥ずかしくてそうも言えないって言ってたんだぞ」

 ふたりの口論は関係の破局には向かわない。むしろ彼女たちの心を、立ち位置をすり合わせていくために描かれる。何度も繰り返される明け透けな会話は、だから楽器のチューニングのようなものかもしれない。お互いの持っている記憶や思い出を声に出して確認し合うのもおなじだ。それゆえにふたりのことばは最終的にぶつかるのではなく、重なって笑い合って終わる。読者としては微笑ましくもある。

 しかし、それが終着点というわけでもない。

 むしろ大事なのはこの先ではないか、と思わせるものが「ソースタインの台所」では描かれている。口論をした彼女たちはようやくむかしの関係を取り戻しただけだ。そのようにしてどこかだしにして語られてきた学生時代のエピソードはいかにもひとつの物語らしくまとまっていて、けれどそこから時間をかけたために青春としてあったはずの熱は失われている。

 だからか、岩本(私)は次のように回想をまとめ、現在を評する。どこか一定の距離感をもって。

 思い出してみると何だか気味が悪いような哀しいような気がした。いったい私たちはあれから長い時間を進んだからいま似たようなことを言うのか、それとも少しも進んでいないからそうするのだろうか。

 学生時代、秋野に近づこうとしていたはずの岩本は卒業後、「ごく自然に彼女の格好の真似をやめていた」。だからその語りには、ただの一過性のものだったのかもしれない、という考えがちらついている。そうして現在に残っているのは、そのいっときの熱を失ってしまった、落ち着いた大人同士の関係かもしれない。

 しかしだからといって、ふたりの将来になにか特別よいものが待っている、というわけでもないことが示される。

 岩本はたまたま部屋にあったソースタイン・ヴェブレンの伝記(最後は狂人のようになってひとりで暮らす)を読んで「可哀想」という。対して秋野は「わたしもそうなるような気がするんだ」とこぼす。「そうやって味噌汁も作れなくて、計算だけし続けて年をとって、変人とか何とか言われて、足下を鼠が走り回ってて、きっとそれでもわたしはまだ、ばかみたいにコーヒー豆をがりがり挽いてて、毎朝まずい米を炊いて一人で黙々と食いつづけてるんだ。きっとそうだと思う」

 この物語を、ただの百合(を描こうとした)小説とみなして紹介することにためらいがあったのは、だからこの部分があったためだ。「ソースタインの台所」はかつて姉妹のように、フィクションのように周囲から扱われてきたふたりがいたとしても、その先が見えないことを強調しようとする。

 描かれているのはわかりやすく(あえてわるくいうならば)安全にはやし立てて消費できていた関係でも、ハッピーエンドでもない関係だ。仮に百合のようなフィクショナルな関係がふたりのはじまりにあったとしても、そのアフターストーリーがどうなるかはだれも教えてくれない。ふたりのあいだにあった特別ななにかは簡単に消えてしまうかもしれない。

 だから物語の終盤、そのわかりやすさ、フィクションらしさに自覚的な目配せをするかのように、秋野以外の友人との回想が短くはさまれる。読者がふたりの関係を好ましく思っていればいるほどに、その言葉はつめたく響く。

「あんたたちは、女同士でくっついちゃうのかと思ったけどね」

(…)

「知らないかもしれないけど、後輩なんかは結構騒いでたんだよ。あの二人はうちの学校のナントカとナントカだって」

「何それ?」

「知らない。何か少女漫画の登場人物の名前」

  そして、そのわかりやすさに反論をするように、周囲から消費されるような関係を否定するかのような岩本の独白がつづく。そこには十一年の時間をかけたぶんの諦念がある。

 私は彼女に触れたいと思ったことはない。彼女になりたいと思い、同じものを見たいと願いはしたけれども。他の誰かに対しても触れられたいという気持ちを覚えなかったと同じに。(…)驚くほど簡単な接触の先にはいつも、不毛の荒野が拾っている。(…)

 同じ服を着たところで同じものが見えるわけではないことをもう知っているのだ。

 けれど、それは絶望に終わらない。物語は最後になって熱を、力を取り戻そうと切実にもがく。

 でもだから何だ、と私はまた思った。十一年も経ったけれど、そのどんな短い刻にあっても、彼女がくれるものなら私は何でも嬉しかった。たとえ私たちが重ねることのないそれぞれの単線上にいて、鏡に映る自分の姿に斬りつけつづけているのだとしても。その結果互いに触れ合いたいとは微塵も思わなくても。

 それが何だ。

   この独白のあと、物語は岩本による決意を込めたうつくしい語りかけで終わる。それがどのようなものなのかはじっさいに読んでほしいので書かない。

 ただ、岩本の考えるふたりの在り方は、他者から一方的に消費されることや性愛、その他のなにかといった単純な関係にからめとられることを否定しようとする。そのうえで、つよい関係を取り結ぶことを目指そうとする。

 この小説が発表されたのは2006年で、だから2020年現在の価値観とは微妙に差異があるかもしれない。百合をはじめとしたフィクションで描かれる、任意の人間ふたりの形成する関係性は現在(むしろ過去においてもそうかもしれないが)単純に消費されるものばかりではないはずだ。当時(意識されていたかはわからないが)百合の枠外を希求しているようにみえた小説も、現在からすればまっとうな百合作品じゃないか、と述べることは容易かもしれない。

 だとしても、他者の手によって単純にみなされる関係に回収されないことを望み終わるこの小説は、やはり語られぬままになってほしくない。

 すくなくとも自分が一定のためらいを以て、括弧つきで(百合)を好む理由のなかには、そのようにわかりやすく回収されることをつよく否定する物語が根底にあるからだ、という気持ちがある。

 あなたにとっても(百合)がそうであるならば、この小説はきっと救いのように響くはずだ。

 

文学界 2006年 08月号 [雑誌]

文学界 2006年 08月号 [雑誌]

  • 発売日: 2006/07/07
  • メディア: 雑誌
 

 補足

村松真理の小説はほとんど書籍化されていない。ウィキペディアを参照すること*1

日本文藝家協会編『文学2009』および『文学2013』に短編がひとつずつ収録されているが、現在市場には流通していない。2009に入った「地下鉄の窓」はBLを読んでいる少女がBLで読んだことあるシチュの経験をもとに酔った語り手を介抱する話。

・別名義(村松茉莉)の唯一の単行本『夢想機械 (トラウムキステ)』 は近未来、カプセルのような装置に入れられて幸福な記憶とともに売買される少女とそれを管理する男のSF。百合要素は特になかったはず。詳しい内容はタニグチリウイチ氏が書いている*2

・「ソースタインの台所」的な、くだけた会話をする親友同士の関係を描いた作品はほかにもある。三田文学新人賞受賞作の「雨にぬれても」や「三十歳」など。前者は「ソースタイン」のうまくいかなかったふたりのパターンをつい想起してしまう。

・百合に近い関係を内包している小説であれば、『三田文学』2015年秋号に載った「水の中の最後の地」が傑作といえる出来。メンタルが限界になってしまった語り手のもとに学生時代ちょっと助けただけの元いじめられっ子がやってきて、世界の終わりごっこをして彼女の心を救う話。回想のなか、台風の日に自転車を無断借用して駅までふたり乗りをするシークエンスが無限によい。

・現状読める最新作は同人誌『てんでんこ』2020室井光広追悼号に掲載された「従姉の居どころ」で、語り手の女性がひとまわり歳の離れた従姉を訪れ、ふたりでパンとワインで語らいながら従姉の隠しているとある不思議な関係に気づく話。雨の夜のしっとりとした描写、海辺の潮のにおい、酔いができあがっていく過程が心地よい。

・各出版社は村松真理の作品群を書籍化するべきである。

 

 

夢想機械 トラウムキステ (T-LINEノベルス)

夢想機械 トラウムキステ (T-LINEノベルス)

 
三田文学 2015年 11 月号 [雑誌]

三田文学 2015年 11 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2015/10/10
  • メディア: 雑誌
 


言語SF「グラス・ファサード」創作メモ

 昨年、第三象限というサークルで頒布した同人誌『あたらしいサハリンの静止点』が先日、Amazon Kindleで配信開始されました。

 ありがたいことに同人誌刊行時は『本の雑誌』の時評(のちに21世紀SF1000 PART2 (ハヤカワ文庫JA))に収録)で紹介されたり、『SFが読みたい』のコメント欄にて紹介してくださる方などがいらっしゃいました。

 で、自作の話になるのですが、最近スマホのデータ整理をしていたら収録作「グラス・ファサード」のメモが出てきたのでそれを転載したいと思います。

 すでに読んでくださった方向きなので(ネタバレがあります)、これがああなるのか、と思っていただけたら。読者への感謝サービスのようなものとお考え下さい。こんな作品未満のものしかサービスできませんが……。

 読んでないよ、という方は『あたらしいサハリンの静止点』をご購入ください。ぜひ。

 とはいえ書いたメモはほとんど参考になっておらず、実作に生かされている部分はすくないです(プロットを立てない書き方をしているのでメモも散漫になってしまう)。人の頭というかメモのなかがこうなっているのか、という参考例になったら幸いです。

 では具体的に「グラス・ファサード」がどういう作品かというと、冒頭に入れたエピグラフでわかるようになっています。はずです。

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ベンヤミン×きんモザ

https://twitter.com/nanamenon/status/1197876536549859328?s=20

https://twitter.com/nanamenon/status/1197876536549859328翻訳?s=20

 

  そういうわけでして、言語といえばベンヤミンの提唱する翻訳理論および純粋言語、言葉の橋渡しをする通訳者を目指す主人公のいる『きんいろモザイク』からSFを書いてみようと思ったのが発端です(どういう発端だ)。だから最初のメモには以下のような文言が記されています。

きんいろモザイク一話
「Don't worry! Maybe we don't speak same language, but we can communicate as long as we try to listen to each other's hearts!」
「大丈夫! 言葉が通じなくても心は通じるから!」
 しない、心配する、おそらく、わたしたち、しない、話す、同じ、ことば、しかし、わたしたち、できる、伝える、ほど、の限り、において、わたしたち、試みる、すること、聴く、に、それぞれ、他者の、所有する、心、

 ここを出発点かつ終着点にしようと考えていました。それを一単語ずつ訳したものが後半の文言で、このような訳し方は行間逐語訳と呼ばれます。ベンヤミンもこのようなかたちでの聖書訳を理想としていたようでした。創作での例は多和田葉子「文字移植」がそれにあたります。英語はアニメをリスニングした自分のつたない能力によるものなので間違いがあるかもしれない……それも楽しんでください。

 次に行きましょう。

グラス・ファサード
世界を断片化し、無限に引用する装置
パウル・クレーの同名の絵画からつけられた。
「一人の少女が消え、そして再生する」

 タイトルの元ネタですね。ベンヤミンとクレーの関係は有名で、「新しい天使」という作品をベンヤミンがえらく気に入り、買い取って自分の雑誌のタイトルにまでしたというエピソードがあります。

 装置、と書かれている通り、じっさいの作中にでてくる同名のアプリとはまたべつですが、結構初期の段階で「グラス・ファサード」のエピソードは引用することが決まっていました。エピソードが具体的にどういうものかは検索するか『あたサハ』をご購入ください。

 主要キャラの設定も考えていました。キャラ設定は比較的終盤に書いた記憶があります。

エリカ・ラッセ
人工言語学者
言語における意味生成の空間=言語場というアイデアを発展させる
「わたしたちは言葉に共感することによって意味を受け取る」
生まれながらの母語喪失者
14歳までは英語を話していたが、ホームステイに来た紫苑の日本語に触れ、自分のほんとうのことばがどこでもない場所にあることを実感する。その後、複数の言語学習プログラムを使うことにより一年あまりで日本語を習得。

のちに言語場生成プログラム〈パリンプセスト〉を開発
ベンヤミンの小論に存在する「行間逐語訳」
および、日本語における「ふりがな」からアイデアを受ける

 ここもじっさいの設定から乖離していますね。アプリが〈グラス・ファサード〉ではなく〈パリンプセスト〉になっているあたり、名前は悩んだようです。〈パリンプセスト〉という名前から浮かぶイメージを当初はアプリにしようと思っていたのですが、なんとなく既視感があるので設定ごと変えたのだと思います。

  もうひとりの主人公(語り手)シオンの設定もありますが、設定年代といいかなり違っています。結局もっと若くなりました。

宮下紫苑
技術書の翻訳などをしている
学生時代(高校・大学)にエリカとルームシェアをしていた。
SF作家の叔父がいる。
2018年:『言語存在論』が発表される。
2029年:〈パリンプセスト〉の基本思想がうまれる。
2031年:大学卒業前。姉が殺害される。同時にふたりの計画がはじまる。
2033年ウェアラブル携帯端末(イヤリング)普及開始。
2035年:大学院を卒業。〈パリンプセスト〉国内版運用段階へ。
2040年:〈グラス・ファサード〉現象がはじまる。

  SF作家の叔父はたぶん作中冒頭に出てきた作家ですね。結局血縁関係にあるのは話に合わないと思って切ったことを憶えています。それでも落ちと含めてどうするか悩みましたが。

 2018年の『言語存在論』は重要書で、これがなかったら「グラス・ファサード」は書けていませんでした。面白い本なので言語に興味ある人は読んでみると楽しいと思います。言語に対する思考の転換が得られます。

 

 まっとうなメモはこのあたりまでで、あとはひたすら書きなぐりが続きます。時系列もシーンの順もぐちゃぐちゃなので、断片として受けとってください。断片のそのさらに断片が実作に入っているイメージです。

 小説の地の文みたいななのは、イメージボードみたいなものだと思います。本編に組み込まれるかはわからないけれど、雰囲気を掴むものとして。

その物語を読み、ようやくわたしは未来の意味を知った。


追想モザイク
言語支援ソフト、グラスファサード
論文や小説を登録することで引用可能性が上がる、またリーダビリティや影響力などが数値化される?

エアメールが届く。

あなたはだれかとだれかがわかり合う瞬間を、繋がり合う瞬間を再現した。

それを共感や情動の発生とみることは容易い。わたしたちはそのような心の動きを持っている相手を自分とおなじような人間として捉える。

人間はことばに道具としての価値しかみていないが、それ以上の親愛をじつは抱いていたのではないか。スポーツ選手にとってのシューズのような。奏者にとっての楽器のような。言語に共感するシステムを彼女は明示させた。そして、世界の人々は、母語を失ってしまった。

アイデンティティをそう簡単に取り替えることはできない。わたしは他者の痛みを理解できない。

エリカはとあるsf作家と親交があった。そこから研究のアイデアを見つけたという。
わたしはそこを、訊ねる。
未来が見えなくなったんだ。いきなりね。

もともとはスペースオペラや冒険活劇を主軸とした作家だった。しかし、ある時期を境に人間存在の境界や、知性の有り様に興味を持つような作品が増えていく。
ネットのレヴューサイトには、むかしは気軽に読めたのにいまでは暗くてつまらないと書かれているのが散見される。

あなた、雨、いる、わたし、わかる、ない

わたし、持つ、いた、待つこと、あなたの、ことば、ずっと、しらない、どうして

 SF作家とじっさいに語らうシーンは本編にはありませんね。どうにかして登場させようか考えていた時期のものだったのでしょう。

 ほかにも長い文面を書いて雰囲気を掴もうとしているものがあります。ほぼほぼ没になっていますが、こういうのを書いておくと、本編でなにをテーマにして書くかがわかってくるのであなどれないところです。

あれは小学校の道徳の授業だったはずだ。自分の意見をうまく表明できない人には選択肢を先に用意して、それを提示することで意思決定をスムーズに集約できるのだと、それが正しいことのように書かれていた。
しかし精神的な直観をしりぞけるように、わたしたちは日常のあらゆる決定を理性よりも感性に頼って暮らしている。
だからこそ、そのような選択制の提示は思いやりとして成立する。その一方で誘導尋問といった言葉も成立する。

かつて人間の支配者は細胞に潜む微生物だという説が広まったことがあったね。わたしたちはいわば彼らの乗り物であり、情報を快適に伝えていくための手段でしかない、と。
あるいはわれわれを支配しているのはある価値観念である情報遺伝子、ミームだと述べた学者もいた。
だが、どの学者も情報というパーツそのものの道具性を疑うことはなかった。あらゆる生物は常に情報を伝えることを至上命題としているはずなのに。

差し出されなかったことばの群れ
世界の有限性を破壊して、ことばだけを守ろうとした?
運命という意味を変えなくちゃいけない
わたしたちは断片に生まれたひとつの生命で、その反対には無限がある
だから世界はほんとうの母語をみつけようとするようになる

わたしたちは類似性という概念を使うことて言葉を共有する。主語述語や文法といったものは言語を客観的に示したものではなく、相対的に捉えるためだったが、その役割がいつか逆転し、共約可能性という世界観をつくりだしている。

 

いくつもの言葉が、星座のように瞬いている。
発生された瞬間を憶えているわけではない。けれどアーカイブスがそれを教えてくれる。エリカが木の枝を拾い、優雅な曲線を地面にきざみつける。難しい単語はわからなかったけれど、それがわたしの名前を記したのだと理解できた。葉陰のあいだから差し込んだ光のモザイクが揺れて、ことのはを撫でる。
わたしは嬉しくなって、同じように小枝を握った。エリカという字を、わたしはelicaと綴ったらくすくすと彼女は肩を上下させた。
それからなにかつづけて言う。聞き取れたのは、アリス、という名前だけだった。
いまならなにを言ったのかわかる。文字を組み替えるとべつの名前が浮かび上がるのだ。
エリカはふたたび枝を動かし、今度はわたしの名前を書き換えた。
シノ、と聞こえた。日本風の名前だと思った。
わたし音が向こう岸に渡り、地面に書かれたことばとなって返ってくる。たったそれだけのことに胸の奥がくらくらと熱くなった。

 いっぽうでまったく生かされていないネタもあります。

ことばの戦争
互いの世界の言語を爆弾のようにぶつけ、世界観をゆるがそうとする?

夜の遺産
大人たちは発狂したが、未就学の子供たちは生き残った。それはことばを理解できなかったからにほかならない。

 

断片化された歴史に生きる人々
モザイク世界
モザイクは常に完全性を希求する
そこにある人々にわれわれは侵略されている?われわれは正しいとされる世界にとってのいわばバックアップにすぎない?
ヘーゲル的な歴史は完成しない
世界は複製されることでかろうじてそのかたちを維持している。
あらゆる世界の言葉は侵略されてしまった

言葉を過去に送ることにより、世界の進歩速度を上げていく?
ドッペルとの対話データがミラーコーパスとして記録され、そこに生まれた思想やアイデアが共有されるビジョン?
その一方でドッペル同士は相互浸透し、話者に新たなアイデアを植え付ける
言語的フィードバック

 たぶんイーガンの仮想世界とか「ルミナス」「暗黒整数」の言語版をやろうとしていたんだと思います。少年漫画かなにかのネタっぽい。作品に合わないので没になりました。

 雰囲気を掴むための断片はまだまだありますね。

世界がコーパスだとするなら
テキストや発話を大規模に集めてデータベース化した言語資料

言葉の翻訳は単純な情報の復元ではない。翻訳は原作を補ってつくりかえる。救済する。

わたしたちはいくつもの言葉を持っているけれど、そのどれもが正しい名前を指し示すことはない。それがバベルの意味だ。

ことばは意味を伝達しない、伝達可能性を伝達する

言い間違いもまた、伝達される

ことばそれ自体は倫理的に問われない
問われるのはそれを発する主体だけだ

ことばは叫びであると同時に、呼びかけでもある。エリカは、その名において、わたしを名指している。


たとえあなたの言葉が世界を傷つけることになっても、わたしはあなたを愛するから。

 

メタ言語の存在しない言語
=純粋言語
=神に向けられたことば?

手段の正当性と目的の正しさを決定するのは、決して理性ではなく、手段の正当性を決定するのは運命的な暴力であり、目的の正しさを決定するのは、しかし神である


翻訳者の課題=純粋言語
言語一般および人間の言語について

  上記の救済とか伝達とかバベルとかはベンヤミンの用語ですね。ベンヤミン的なSFがなんなのか探っていくイメージで小説のパーツを書いている。そこに倫理的な視点が入り「グラス・ファサード」がじっさいの作品らしくなっていくわけですが。まあそうした結果ベンヤミンからは離れていくのも事実なんですが、難しい。

 少年漫画というかSFアニメ設定はまだありました。

聖女ジャンヌの生まれ変わり
聖女は神託を聞いた
彼女を通して神の言語=天使の言語
を見つける
しかし失敗する?
あるいは悪魔の言語なら可能ではないか?と考える
聖なる存在を穢すことで、悪魔に変え、それによって地獄に触れることを可能にさせる

中動態として、彼女はことばそのものだった
それを破壊されたかなしみ

名前、つまり名付けによって世界が現出する。カバラ的?
神に向けられている証言=言語=翻訳を人間のもとに支配しようとするプロジェクト
神的暴力という記述、技術化
位相の反転

言語が狂うことによって空間認識が変わる?
異世界からものを持ち込めるようになる?

言葉は世界を壊したりしない。けれど、ことばが壊されたとき、ひとつの世界は終焉する。

人間が成長とともに文法的誤りを意識できるように、歴史の文法を用意できるならその誤りを修正できる?伊藤計劃すぎ?

主人公アリステラ?
アリステア
男性名? 親が古いスパイ小説が好きでね
あなたの名前は?
わからない
じゃあつけようか
ステラってどうかな
名前とは、認識の純粋な媒質だ。

星座的認知。ステラ。サイファ
人間の日常的、社会的コードを補うための技術。共約可能性。
告発に使われる? 言葉の真実性を求めて。裁判や政治の場ではその効力を認められなかったが、人の心象という領域において言葉の価値をはかる指標として機能する。
晩年のソシュールが目指そうとした言葉の内にある深層部。純粋な記号的処理には見えないなんらかのありよう。

 このあたりは生かされなくてよかったな、と思いますね。

 同時に悪い意味で煮詰まっていく頭も見受けられます。

わたしたちの世界観は言葉を記号として取り扱い、それらを交換することによって互いを認識するというきわめて即物的であり水平的な感覚のあり方だ。
でも、それは言葉の本質なのだろうか。言語はいっさいの垂直性を得ることはないのだろうか。
ちぎれていく雲や草木の揺らぎが風という存在を示唆させるように、言葉はそこによって名指されないものを映し出しはしないか。

言語は暴力だ。
その是非を問うことさえできない。
メキシコ先住民を宗教的に征服しえたのはカスティーリャ語の浸透がある。ここには暴力と癒着する言語がある。

無限という空間において、全体という意識は後退する

廃墟的な歴史の救済
=読者の参入によって救われるもの?
=読者こそが天使である?

 実作でできなかった部分だなあ、と感じますね。手に負えない話。

 それからまた実作に近づいていくのがわかります。あまり生かされてはいませんが、こうして断片というかソナーを打ち込まないと書けなかったんでしょう。

違う言葉として認識するのは簡単だった。そこにひそんでいる韻律構造が耳慣れていないからだ。

なら、わたしのぶんはあなたにあげるよ
パンケーキでも切り分けるみたいに、彼女はそうつぶやいた。
互いの言葉を理解できないわたしたちは、そうやって声を交わし合った。
そのときのわたしたちはほんとうに言葉を知らなかった。いまこうやって振り返ることができたのはライフログという記録が残っていて、それに触れることが可能だからだ。

わたしたちはお互いを見て、それを理解するための言葉も知らなかった。髪も肌も目も違っている相手を定義することができなかった。使用する個別言語も異なっていた。

わたしたちはお互いの言語で書かれていた本を持ち寄り、それぞれ一文ずつ声に出して読みあった。物語は絡まっているようで不思議とひとつのモザイクをかたちづくっているように思えた。

あのころのわたしたちにとって、言葉は意思という目的を伝える手段ではなかった。ただ声を、言葉を、交わし合うことによって得られるものがあると知っていた。

わたしたちの異なる言語を媒介する翻訳者はどこにもいなかった。にもかかわらず、わたしたちは心を伝え合うことができた。

言葉は不可逆的に世界の有り様を変えてしまう。言語が世界観をつくるというサピアウォーフの仮説は仮説でしかなかったけれど、その否定は言語が人間の思考様式のひとつであるという観点を崩すものではない。公理でも学説でもない。純粋な、言語という存在が世界を分断する。意味をなさない音の連なりでさえ、認識した瞬間にそれは世界を切り裂くナイフになる。

問題はサピアウォーフの仮説を証明する言語をわれわれが認識発見できないことにある。

わたしたちふたりのうちひとりが言った。
どちらが?

生成文法において、言語は学習するものではなく、環境の影響を受けながら遺伝的なプログラムに従って成長するものとされている。

人間の深層部にある言語能力を底上げした結果、闘争が生まれる?もともと互いにあったはずの冷静な距離感が奪われていく?

わたしたちが有していたはずの不可共約性はいつのまにか失われていて、そこにあった心地よい耳朶の震えはもう思い出せない。あのときあったはずの言葉のモザイクは、綺麗にならさらてしまった。

世界的なシンガーが独自言語をつくり、ゲリラ的に配信をはじめる

 ようやく最後のほうで、エリカの設定に近い断片もありました。 これをいくらか改変して本編に組み込んだみたいですね。

二歳か三歳のころから、わたしは会話が怖くて仕方なくなった。
わたしはいつもことばによっては身を分けられていた。ことばには見えないルールがあり、わたしは必死にそれを憶えようとした。
ことばが使えなければ、排除されると思った。

 言葉に対する恐怖みたいなものは書きたかったのですが、語り手の形式上書けなかった部分ですね。もっと上手いやり方があったらよかったのですが実力不足です。

 シオンの設定も同時に用意していたようです。

「あなたもまた、生まれながらの母語喪失者だった。違いますか?」


「人間はほんとうの意味で他者の痛みを理解することができない」
「だから、わたしたちは倫理を変える必要があった」
「なにを」
「わたしの姉は五年前に殺されました。高校時代から雑誌モデルをやっていて、顔を知られていたためです。病院に運ばれたあと、加害者がインターネットに殺害予告を立てていたことが発覚しました。ですがそのときにはもう加害者は飛び降り」
「物語を読むことが他者への共感能力を高めることは多くの研究で明らかになっています」
「そこには自分ではないだれかのことばがある」
「なら、世界そのものを他者の言語にしてしまえばいい」
「そう、思ったんです」


〈グラス・ファサード〉は人の知能を高めたわけではない。
ことばに対するの人の関わり方を変えただけだ。

 このあたりも基本はおなじで細部をどんどん作り込んでいくさいに変えたようです。グラス・ファサードがカッコつきになっているので、おそらく終盤のメモですね。

 なぜ推理小説っぽい会話文なのかというと自分が推理小説で育った人間だからです(”事件”後コッツウォルズに隠れた主人公たちを日本人記者が尋ねるという書き出しではじまるバージョンもあった。没にした)。

あなたたちの技術はことばを豊かにしただろう。だがそのいっぽうで、ことばを奪ってもいる。

 こうした糾弾するような文面もありました。

 そして最後です。最後に残っていた文章は祈りですね。本編に関係ない言葉。

わたしが望むのはただひとつ。
この瞬間を、永遠に。

 これあとになって気づきましたが、百合SFアンソロジー(ハヤカワ文庫)の帯文パロディになっていますね(この感情を永遠に)。百合が書きたかった、という作者のつよい思いが感じられます。百合は祈りだ。僕は祈る。

 

 以上で創作メモは終わりになります。6000字未満くらいでしょうか。

 こうして振り返るとプロットを書かない代わりに大量の脱線文章を書くことでメインとなるプロットを浮き上がらせるようにしている、という大変非効率な書き方をしていることがわかりますね。みなさんもぜひ真似して非効率な執筆ライフに役立てください。人の頭のなかはほんとうによくわかりませんね、と我ながら思います。

 それではKindle化された『あたらしいサハリンの静止点』をよろしくお願いします。感想がTwitterなどにあったら喜ぶのでそうしたいと思ったらそうしてください。もちろんしなくても結構です。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

凪のあすからを誤読するまとめ

凪のあすからを誤読する」という全話レビューブログのまとめです。以下リンク。各話ネタバレがあります。ちゃんと見た人だけが見てね。約束。

 

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凪のあすからを誤読する19(25~26話)

 残すところ2話となりました。思えば遠くへ来たものです。もうここまでくれば筆者はただの台詞を機械的に引用するパーソンになるしかないのですが*1、気を緩めずやってやりましょう。ついに感動のフィナーレだ!

 

 

第25話 好きは、海と似ている。

 おふねひき前日。準備が進んでいます。光とまなかのもとにやってくるあかりと晃。晃はまなかに振られたことを根に持っているようです。おじょしさまにはペンダントが。「なまかの」「そうだよ。このペンダントのなかに、まなかさんの好きが詰まってる」それを奪い取る晃。しかし転んで、海に落としてしまいます。

 飛び込む美海。思いが溶けていきそうになるペンダントからは「ひーくんが好き」という声が。「やっぱりそうか」と紡。「やっぱりって、どういうこと?」5年前の回想。網にもう一度かかったとき。12~13話ですね。

「ひーくんは、海なの」

「え?」

「わたし、海から出てきて、太陽が輝く地上は楽しくて、どきどきしたけど。海がそこにあったから、だからこそ地上に憧れることもできたんだって、気づいたの。わたしは海のそばじゃないと、胞衣が乾いて、息ができなくなる」

「それって、光を好きだってこと?」

「……」

「どうして泣くんだ」

「ちーちゃんの気持ちがわかった。ひーくん好きなの言わないでって。わたしも言わないでほしい。誰にも」

「それでいいのか?」

「……うん」

  現在へ。「どうしていままで黙ってたの」と美海。対して「言わないでって言われたから」と返す紡。好きな相手からのはたらきかけはもう済んでいることになります。「きっと、好きは海と似ている」「楽しさや、愛しさだけじゃない。悲しみも苦しさも、色んなものを抱きしめて、そこから新しい思いが生まれる」それを聞いて浮かび上がる美海。「両想い、だったんだ」

(光とまなかさんは両想いだった。おふねひきで、まなかさんのだれかを好きになる思いが戻ったら。そしたら……そしたら……)

 夜。一緒の布団で横になるまなかと美海。「わたしが悪いの。わたしが好きをわからないから」と耳をふさぐまなか。「波の音が消えない」美海が手をあてると音は消えます。「すこし、このまま。いい?」

 紡の家。作業をしているちさきのところへ紡。「要から聞いた。お前の気持ち」「な、なにを?」「嘘つかなくていいんだ。もうなにも」「違う」「お前だけじゃなく、向井戸も」それから紡はまなかのほんとうの思いを教えます。

「わたし、ほんとうに最低だ。願ってた。昔から。いまもずっと願ってた。光がずっとまなかを好きでいてくれるようにって。まなかもずっと光に守られてほしいって。大好きな4人で、なにも変わりたくなかったから。光とまなかには、両想いであってほしかった。それがわたしたちの変わらない、昔からの関係だったから」

「いまはそうじゃない。4人の関係を守りたいからじゃない。お前は俺のことが好きだ。だから、ふたりには両想いであってほしかった」

  ちさきの変わりたくないという思いが、5年かけたいま変化を求めていることを紡は指摘します。そしてまなかの想い人が光である以上、紡の好意をちさきは否定できなくなったことに。このシーンの会話はこれまでの物語の状況説明に聞こえますが、じっさいは紡がちさきを説得しに≒口説きにきているシーンでもあります。最後の壁が崩されたちさきはもう拒絶の意志を見せません。ちさきを抱きしめる紡。「駄目……駄目……」といいながらもそれ以上はなにもないちさき。(わたしだけが幸せなんて……駄目……)最後のモノローグが駄目押しの状況説明になっていますね。だからここはまだハッピーエンドではない。

 胞衣を塩水で濡らす美海。偶然、外に駆けていく光を見つけます。追いつく美海。船を調べようとしていたらしい光。会話をすっとばしてまっすぐに訊ねる美海。

「まなかさん好きなんだね」

「な、なに言ってんだお前」

「好きなんだね」

「……ああ。まあな」

「もっと言って。もっと言って。まなかさんが好きだって」

「ば、馬鹿じゃねえの」

「言って。色々してあげたお礼に」

「どういう趣味だよお前……」

「言って。お願い」

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キメキメのカット。月夜にシルエットが映える。ほぼ恋愛映画でしょこんなの。

「……まなかが好きだよ」

「もっと」

「まなかが好きだ!」

「もっと……もっと!」

「おい、お前いい加減……」

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アップを先に出さず、シルエットの変化で説明するかっこよさ。

  泣いているのに気づく光。「美海……」そして逃げ出す美海。「どこ行くん」「帰るの!」

(痛い。光を好きな気持ちが痛い。もっともっと、痛くなって。光を思うのが限界になって、投げ出したくなって。そしたら、わたしは……光を諦められますか?)

 ついに美海も名実ともに限界になりました。いい加減にしてくれ。

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『凪あす』名物こと限界になると映える景色。この廃線はこの話にしか登場しない。

 おふねひき当日。紡のおじいさんもやってきます。造船所で準備をする女性陣。それを覗いている晃。まなかに気づかれて逃げるも、呼び止められます。「あのね、わたし、言うの忘れちゃってたことがあるの」「お手紙ありがとう」うれしそうな表情をする晃。浣腸して去っていきます。「好きは、ありがとうなんだね」そして波の音。

 いっぽうちさきと要。ちさきは要に「あの、ありがとう」と感謝を伝えます。しかしそれから要は真面目な表情に。

「ちさき、変なこと考えてないよね。今度は自分がおじょしさまの代わりになろうとかさ」

「ずっとみんな一緒だったの。わたしだけ地上でずっと……」

「駄目だよ」

「要……」

「駄目だから」

  比良平ちさきa.k.a.めんどくさこじらせヒロイン大賞の本領が25話に至っても遺憾なく発揮されています。彼女の5年間は紡といられた幸福とひとり冬眠できなかった罪悪感でできていますから、それを帳消しにできる(できるとは言ってない)おふねひきは魅力的な自殺(逃避)に見えるんですね。

 夕方。御霊火とうろこ様が到着。浜につくられた祭壇に。おじょしさまを見つめるうろこ様。「毎度のことながらまったく似とらんのう」「実際のおじょしのがずっといい女だったって?」と光は訊ねますが、うろこ様は否定します。

「ちんちくりんのそばかすだからけ。身体も弱くてのう。生贄なんて言葉を使っても、飢えた地上の人間にとって、結局は体のいい人減らしだったんじゃろうなあ」

「あんた、おじょしが好きだったんだろ?」

(…)

「おじょしのこと、地上に帰しちまって、ほんとにそれでよかったのか?」

「儂はこう、海神の肩甲骨のあたりに生えておったんじゃ」

「え?」

「右手の鱗だったなら髪を撫でてやることもできた。左手だったなら腰を抱き寄せることもできた。しかし剥がれ落ちた瞬間に海神とは別のものになってしまった。そうなればただの鱗。しかも肩甲骨の鱗じゃ。おじょしのなにを語れるか」

  おふねひきがはじまります。美海、さゆ、まなか、ちさきが御霊火を貰い受け、船が出航します。美海が直した旗を振る光。祝詞(?)とともにおじょしさまが落とされようとするとき、凪いでいたはずの海が5年まえのように荒れはじめます。そして大波が船を呑み込み、まなかとおじょしさまを海に引き摺り込みます。

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大波の様子。『凪のあすから』で最も暴力的なカット。

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13話との比較。25話のやばさがわかる。紡は二度も似たような目に合っている。

 まなかにはもう胞衣がありません。海のなかでは息ができない。すかさず飛び込む光、美海、紡、ちさき。要はさゆを助けます。まなかのモノローグ。

(海のなかがこんなに苦しいなんて。激しい。痛い。怖い。わたしをずっと守ってくれていた海が)

 まなかに追いつこうとする美海。彼女の周りにまなかの剥がれた胞衣のようなものが。それを見た紡が語ります。

「美海の気持ちに海が反応している。向井戸は光が好きだ。そして美海も。向井戸の思いと、美海の思いはよく似ている。だから、海に溶けた向井戸の思いが、輝きだしたんだ」*2

 美海がまなかを捕まえ、ふたりを思いが包み、まなかに胞衣が戻ります。

「やっぱりだ。美海ちゃんとこうしてると、とっても楽になる」

「わたしの胞衣が光を好きだって叫んでるからだよ」

「え?」

「光だけじゃない。海を、みんなを好きだって叫んでるから」

  思いの輝きが増しますが、竜巻がふたりを襲います。美海はまなかをかばい、海底へ流されていきます。追いかける光と紡。たどり着いた先はおじょしさまの墓場。その中央に倒れている美海。救い出そうとする光ですが、見えない力に阻まれます。胞衣の糸のようなものが美海を繭のように覆っていきます。

「ひーくんが好き」という声が落ちてくるおじょしさまとともに聞こえ、そこに意識を失いそうになる美海の思いが重なります。

(光。好き。わたしは光のことが、大好き。大……好き)

 叫ぶ光でエンディングです。あらゆる感情が限界になり、海に結び付けられています。好きは海に似ている。それ以上言うことはありません。心して向き合いましょう。

 

第26話 海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。〜Earth color of a calm

  光たちが美海を助けようとするいっぽう、海上の船は接岸し、あたりは騒然としています。「僕、もう一度行ってくるよ!」と海に飛び込む要。あかりは氷の上にまなかを引き上げるちさきを目撃します。まなかのモノローグに合わせて物語が映像で語られます。長いですが引用します。

(美海ちゃんに抱きしめられて、なくした気持ちが、すうって、呼吸するみたいに戻ってきて。そう、呼吸するみたいに。わたしだけじゃなくって、色んな気持ちが心のなかに入ってきた。美海ちゃんのお母さんは、美海ちゃんのお父さんに恋して、地上を目指した。あかりさんが、紡くんのおじいちゃんが、駄菓子屋のサツキさんが、コージ兄さんが、わたしの知らない色んな人が、誰かを愛するために、地上へ。そのなかに、おじょしさま。

 おじょしさまは泣いていた。輝く海で感じていたのは、海に溶けた物語。海神様の物語。海神様は生贄だったおじょしさまを愛するようになって、そしてつらくなっていった。おじょしさまは生贄になる前に、地上に思い人がいたこと。自分のせいでふたりの仲を引き裂いてしまったこと。おじょしさまは、それを一言も責めなかった。けれど、海神様は、彼女を愛すれば愛するほど、どんどん苦しくなっていって。思い人を忘れられず、隠れて涙するおじょしさまを地上に帰そうと決めた。

 だけど、海神様は知っていた。地上に残してきたおじょしさまを思い人は、おじょしさまを失った苦しみに耐えきれず、帰らぬ人となったこと。だからこそ、海神様はおじょしさまから、誰かを好きになる気持ちを奪った。その気持ちを持っていれば、愛する人を失った気持ちに耐え切れず、思い人と同じ道をたどってしまうかもしれない。凪いだ海はおじょしさまの心。もう激しく荒れることはない。愛を失った、平静の心)

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在りし日のおじょしさま。子供がまなかと光になっている。

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凪いだ海。好きと海は重なる。まなかはおじょしさまの感情も理解した。

 まなかとちさきのところにやってきた要。まなかは人工呼吸を施そうとしますが、胞衣があることに気づきます。目覚めるまなか。海が光りはじめます。「美海……美しい海」とまなか。涙がこぼれます。「海が語り出したか……」とおじいさん。言葉の理解は追いつきませんが、エモーションによってすべて感動できそうなシーンです。海神様の思いが美海(とおじょしさま)を生贄として取り込み、安定した状態でしょうか。

 海底では美海を救い出そうとする光ですが、弾かれてしまいます。「待て光。もうやめておけ。いま無理に連れ出せば、向井戸と同じことになる」と紡。「じゃあ黙って見てろって言うのか!」その場にうずくまる光。「美海は、ずっと海を見ていた」と回想。「光を待ってる」という小学生の美海*3。「きっと助かる方法はあるはずだ。軽率に動かないほうがいい。村のほうで、なにか異変が起きてないか見ている」と紡。社殿の前に行くとうろこ様が。

 いっぽうおじょしさまの墓場にいる光。

(まなかが俺を好きになってくれる。俺はずっとそれを望んでた。いちばん近くで、いつも笑ってたかった。まなかの笑顔を守りたいって。でも、陸に上がってきて、不安に押しつぶされそうな俺を、いちばん近くで守ってくれていたのは……。なのに、俺は、お前の気持ちに全然気づかなくて……。お前、すげえ傷つけて……)

「俺……お前、なんなんだよ。お前、アホだろ。どうして俺みてえなの好きになったんだよ。まなかと両想いだって……美海、お前がこんなになるようなら駄目なんだ!」

(お前があかりのこと好きになってくれたから、こんな幸せな眺めがある。だからあいつにも、思い出させてやりてえ)

「あんなのは違ってた。やっぱりお前の言う通りだった。好きにならなければつらくならない……」

(誰かを思えば誰かが泣く。誰かを犠牲にして傷つけて……そんなのが好きって気持ちなら……)

「人を好きになるって……最低だ……! 奪ってくれよ海神! 俺の誰かを好きになる気持ち、まるごとどっか持っててくれ! そんで! 美海を助けてくれぇ!!」

  まなかにとっての光が海だったように、5年後の世界にやってきた光にとっては美海が海だったという切り返しがここで語られています。

 光の気持ちが海に広がっていきます。それを氷上で感じ取ったのか、「大丈夫だよ、ひーくん」とまなか。「美海ちゃんの気持ちは……」

 眠っている美海、しかし意識はあるようです。

(泣いてる。ああ、光は馬鹿だなあ。海神様も馬鹿だ。海神様、どうしておじょしさまの心を奪ったの。だって、おじょしさまは……ああ、教えてあげたいな。海神様に、光に。誰かを好きになる気持ちは……)

 うろこ様のもとにあった御霊火が柱のように燃えたかと思うと、龍のように汐鹿生村を勢いよく駆け抜けていきます。海神様の意志。それぞれの家先にも火が灯ります。

(光に伝えたい。こんなふうに、わたしを思って泣いてくれる人を、好きになってよかったって)

 墓場に海神様の意志がやってきて、打ち捨てれられていたおじょしさまたちに火が移ります。助けようとする光の手に、まなかのペンダントからの輝きが。

(光が教えてくれたんだよ)

(誰かを好きになるの、駄目だって、無駄だって、思いたくねえ)

(そう。駄目じゃない。好きな気持ちは、駄目じゃない)

  輝きとともに、繭が破れます。光は美海を救い出し、脱出を試みます。火に呑まれていくおじょしさまたち。「海神様……おじょしさまの気持ち……海に……」つぶやく美海。それからあたりに「忘れたくない。忘れたくない。わたしは、あの人を忘れたくはなかった」と声が。「だけどなにより、子供たちと、あなたの日々をなくしたくなかった。わたしのなかの、愛する心」おじょしさまの声です。それを聞いた光と紡、美海。

 そして笑い出すうろこ様。

「なんて愚かなんじゃ。神が聞いて呆れる。海神よ、おじょしから愛する気持ちを奪っておきながら、その愛が誰に向けられたものかまではわからなかったと言うか。そして、いまごろになって海に溶けたおじょしの本心を知ったと言うか」

(…)

「おじょしさまの代わりにまなかを手に入れ、海に溶けた海神の感情は落ち着き、海は凪となった。傷つかなければ波が立つこともない。しかし、そこに悲しみはないが、同時に喜びもない」

「御霊火は海神の意識、でしたね」

「ああ。御霊火はいままで自我を捨て、神としての役目を全うしてきたが、海に溶けたおじょしの心に思い出したんじゃろう」

「うろこ様……」

  崩壊していくおじょしさまの墓場。あたりにはおじょしさまの思いが光の粒として漂っています。「そう。儂は鱗。海神の鱗……」光に手を触れるうろこ様。(けれど……海神と同じく、おじょしさま……あなたを永遠に愛している……)

 そこにやってくる光の父、灯。「冬眠はどうしたんだよ!?」と訊く光。「海と地上の人間のあいだに生まれた子供は胞衣を失う。(…)しかし美海がいる。美海には胞衣がある。ならばこれから先の希望も残されている」と灯。そもそも冬眠の目的は海の人間たちだけで子孫を残せる環境になるまで待つことでした。その前提が破られたということでしょうか。そして「晃に会わせてくれ」と灯。冬眠中も意識はあったようです。「お前の声は届いていた。お前の気持ちも届いていた」

 海上では光がやわらいでいきます。まなかのモノローグ。

(永遠に、変わらない心。時の流れに変わっていく心。そのすべてが、間違いじゃない)

「おかえりなさい」

(凪いだ海が、動き出す)

  波が生まれはじめます。「あれを見ろ」とおじいさん。汐鹿生の人々が目覚めて氷上に出てきました。そこには光たちも。泣き出すあかり。船を出す地上の人々。再会を喜び合います。これまで出てきたカップリングもここで収束していきます。紡とちさき。要とさゆ。

(好きは、海から生まれる。穏やかで、優しくて、激しくて、痛くて。それでも、どこまでも優しい海。好きは、海に似ている)

 向かい合う光とまなか。しかしまなかはその横を抜けていきます。美海。

「美海ちゃん。よかった。よかったよ美海ちゃん」

「お前なあ、俺の心配は?

「ひーくんは頑丈だもん!」

「頑丈って」

「頑丈のがっちがちだもん」

「まなかさんが、まなかさんが、ちっちゃいころから知ってるまなかさんだ! おかえりなさい! まなかさん!」

  泣きながら抱きつくまなか。彼女に好きという感情が戻った証拠の涙。

(すべては、海から生まれる)

 後日。漁協の前を走っている晃。海に飛び込む音。

 人の声で賑わっている海中。朝食を摂る光と灯。

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社殿の再建もはじまっている。冬眠中にあった暗い色調もなくなっている。

 登校する光と要。まなかは忘れ物。「まなかとは相変わらず?」と要。

「デートでもすればいいのに。せっかく両想いだってわかったのに、なんの進展もなしって問題じゃない?」

 「ばっ、いいんだよそういうのは」

「いつかのちさきみたいなもの? 変わりたくないって」

「いや、変わってもいい」

「え?」

「だけど、変わらなくたっていい。自由だ」

  遅れて走っているまなか。そこに晃が。胞衣があります。海上にあがるふたり。漁船にいる紡。「今日、行くんだよね」「ちょっと、大学に戻る前に見ときたいなって、海」紙飛行機。後期エンディングで見たことある色合い。そしてふたりして、呪いの魚の真似「また会おうネ」「あた会おうネ」

 それを見ている光と要。光のモノローグ。

(まなかと紡が出会ったとき、運命の出会いだと思った。だけど……。運命なんかなにひとつない。すべては自分たちで変えてゆける)

 学校。髪型を変えるさゆ。美海のモノローグ。

(地上で暮らしていたわたしは、海の人を好きになった。その初恋で流した涙は、優しい海に溶けていった。すべてを溶かしたその海は、これからも新しい命と新しい思いを生んでいく)

 転びそうになるまなかを呼び捨てにする美海。変化の兆し。

 冬眠が終わっても、紡の家で暮らしているちさき。おじいさんは退院したようです。

 光のモノローグ。

(いつか来る地上の終わり。どうなるかなんて、まだなにもわからないけれど、思いがきっと変えていける気がする)

 サヤマート。あかりの描いたポップ。共同開発。地上と海が手を取り合っています。

 浜にできた祭壇にいるうろこ様。

「海神様。まっこと面白いですなあ人間というものは。傷ついても、答えはなくとも、それでもひたすらあがき、夢を見て、その思いが大いなる流れを変えることもあるやもしれん。ほう。ぬくみ雪がやみましたな」

 飛んでいく飛行機。

 海辺を歩くふたり。日差しが陸のほうにあるので早朝ですね。「ねえ、ひーくん覚えてる?」とまなか。あたりにはただ波の音だけが響いています。

「5年前のおふねひきのとき」

「終わったら俺に話したいことがあるってやつだろ」

「うん。覚えてた」

「忘れてたのはお前だ」

「でも、言葉にしなくても」

「もう伝わってる」

「海に溶けて、空気に溶けて。時間を越えて、伝わる気持ち」

「この世界には、たくさんの思いが輝いている」

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世界一美しいラストシーンのひとつ。エンドロールもなく、情感だけがある。

 ここでエンディングです。

 さあ、涙を拭いて。ぼくたちにはまだ仕事がある。

 このエピローグでのふたりは、それまで着ていた浜中の制服ではなく、波中の制服に戻っています。会話では「5年前」と言及してますから、時間は長く経っていないはずです。入道雲があるので気候としても夏でしょう。となるといったいふたりはいつ制服を用意したんだ、という野暮な疑問が浮かぶわけですが、この映像が5年後であるとはどこにも明言されていません。

 ですからここでは複数の可能性を考えることができます。5年前にこういう時間をふたりは過ごしたことがあって、その映像に合わせてふたりの会話が重なっていただけ、とも考えることができますし(実は回想だった)、曖昧な時間のなかに溶けた彼/彼女たちによる心象風景と捉えることもできます(回想ですらなかった)。台詞に合わせてまなかと光以外の5人は現れたり消えたりしていますし、画面そのものが思いによって構成されていると見てもいいはずです。解釈は自由だ。

 でもやっぱり答えが知りたいじゃないですか、と考えるも『凪のあすから』のファンブックも公式設定資料集も2020年現在では中古品しか出回っていらず、価格も地味に高騰しているという現状。公式の見解を現状手にする手段はなかなかない。しかしヒントはありました。美術監督東地和生氏のツイッター。2018年の投稿。

 「あったかもしれない世界。」どこまでシリアスに受け取るかによって印象は変わるかと思いますが、単純な時間軸で考えると違和感が生じるのは間違いなさそうですね。5年の時間が経って明かされるというのもエモです。そこまで考えてツイートなされているわけではないと思いますが……。

 というわけで『凪のあすからファンブック アクアテラリウム』もしくは『凪のあすから設定資料集 デトリタス』をお持ちの方、譲ってもよいという方はご一報ください。お待ちしています。あ、東地和生氏の美術背景画集『Earth Colors』もあればぜひぜひご連絡ください。

 そろそろ話すことも尽きてきましたが(というより終盤は情によるパワーで殴っていく作品なので解説することがありませんでしたが)、ここまでお付き合いいただいたみなさんに向けて、2020年に『凪のあすから』を視聴するルートだとなかなかたどり着かない情報を出して締めることにしましょう*4

 お手数ですが、以下の動画をご覧ください。


凪のあすから 電撃20周年祭 上映PV

 2012年、凪のあすからの製作発表PVですね。ナタリーによる作品製作発表の記事が同年8月*5なので、この動画は10月のイベントで上映されたようです。

 見ていただければわかる通り、作中にはほとんどでてこないシーンばかりで構成されてます。まさしく企画段階といった感じ。造船所はまんまですね。

 小さなステージでおじぎをするまなかとかどういう経緯だったのか気になりますし(ぬくみ雪はあるし魚も泳いでるし波路中でしょうか)、紡のデザインはどちらかというと女性向け漫画っぽさがあります。

 出てくる言葉も爽やか青春ものっぽさがありますね。とはいえ、この爽やか青春ものっぽさは放送前の2013年8月のPVでもしぶとく生き残っています。


「凪のあすから」PV

 PV開始15秒の「水面に揺れる、光の欠片たち。それは生まれたての、柔らかい気持ちたち。あなたに伝えたいから待って。あの海が凪ぐまで、もうすこしだけ待って」を信じて本編第1話を視聴したらさすがに温厚な人間でも吐いてしまうと思う。詐欺でしょ。いい加減にしろ。関係者は正式に謝罪しろ。すみやかに設定資料集を再版しろ。

 さて冗談は措いといて、前述の上映PVの1:28~、波の寄せる浜を俯瞰で撮った構図はそのまま本編のラストシーンに使われていますね。

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上映PV版。夕陽が差している。

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最終話。朝日が差し込む直前。浜にできた波跡は同一と視認できる。

 こうして企画段階はまなかひとりだけだったのが、光とふたりになり、美しいエンディングとなったわけです。そう思うと泣けてきますね。

 まあじっさいのところ世界の終わりが確実に避けられていたわけではなく、海神様の気持ちがようやく報われたというだけでしかありません。それに伴い海が感情の変化そのものを受け入れただけで、これからはどうなるかわからない。

 わからないけれどそれを肯定して生きていこうよ、というのがこの『凪のあすから』の結論です。そしてそのこれからをつくるのが彼/彼女たちという話でもあります。だから終わりゆく世界をどう生きるかの話。

 セカイ系的にどうなの、という部分に関しては、非人格的なルールそのものに物語によって人格性を与え、そこに感情的な救済をもたらすことで理不尽なルールそのものを失効させたのが『凪のあすから』です。セカイ系の系譜にはあると思いますが、セカイ系そのものにない手法で物語を解決に持ってきたという点で『凪のあすから』は画期的ですし、単純なセカイ系フォロワーとしてはなかなか語れない作品でしょう。構造が多層化してしまっている。

 しかし結論は単純です。海は好きに似ている。荒々しくも優しくもある。彼/彼女らは自らに生まれた海を、感情を、変化を受け入れた。だからこそ波の音で世界が包まれている。まなかはもう耳をふさぎません。凪の海は終わったのです。

凪のあすから』のタイトルの意味がようやく伝えられ、そして幕は下りていきます。

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ところでこれ森博嗣っぽくありませんか。

 オチ!!!(おしまい)

*1:最初からそうだった。

*2:さすがにこのあたりの説明は野暮ったい印象だが、思えば野暮ったい設定周りのことは紡が担当する役回りになっていた。デトリタス。

*3:以前20話のとき紡は美海の理解者だという話をしましたが、その理解者になった瞬間はこのときかもしれない。凪のあすからを誤読する15(20話) - ななめのための。

*4:筆者は2020年3月に『凪のあすから』を視聴し、5月28日に2周目を終えた。

*5:電撃大王×P.A.WORKSによるオリジナルアニメの製作決定 - コミックナタリー