死人主義

しびとしゅぎ、と読む。個人的には伝わりにくい読み方の題名や名前は避けたかったのだけれど、久々にタイトルを真面目に考えたので。基本的に○○の○○、ばかり。野性時代大沢在昌が短篇はそれでいい、みたいなことを言っていたけれど、結局はとっつきやすさの問題のようにも思える。
今作はDMSの『かくれおん ラストチャンス号』に掲載。
6月から7月にかけて何作かのネタを考えていたのだけれど、どうも推理小説として、自分の許せる水準のネタにはならなかった。よって推理短編は完成には至らず。そのころ自分の文体らしきものがどうやら出来ているらしい(意識はしていたが、認識とまではいかなかった)ことがわかったので、それを崩す作品を狙ってみた。自分の作品と他の人から読まれてバレないように名義も変えて、やってみた。おそらく、誰も自分のとは意識しなかったように思われる。
意識した文体は戦前〜戦後の探偵小説、というより久生十蘭。ふだん自分が使わない語彙を軸に、というのも面白い試みではあったけれど、自分の使っている文体では決してこんな話は作れないのだということに気づかされたので、その点に関しては勉強になったと思う。
まだ自分のなかで三人称の文に対して抵抗がある。推理小説であるなら、それが最もフェアであるように思えるけれど、いまの自分の実力では一人称のほうが誠実であるように思える。三人称の文の力加減が、いまだにつかめない。
文体の研究に関しては遅筆であることも問題としてあるだろう。
この半年でちゃんと書けたものは、短篇(5000字程度)二つ、犯人当て(解答編含め7000字程度)一つ、中編(原稿用紙120枚程度)一つ。数をこなさなくては、どうにもならない。ミステリに限らず、会話劇のアイデアなど、夏休み中にぽつぽつとあげていきたい。


 行きつけのバアでいつものように葡萄酒を舐めていると、今はもう画壇をにぎわすことはなくなったとある画家が隣町で余生を過ごしているのだ、と岡崎が酔った顔でうそぶいた。
 てっきり彼が酒の肴になるようそれを考案したものだと考えていたので、ハハァ、面白そうじゃあないか、と、その話に乗ることにしたのだった。畢竟、君は彼に会いに行ったというのか、と訊ねると、岡崎は、気になるんですかい、と調子よさそうにするものだから、さらにおだて上げて、彼の小噺に耳を傾けることにした。
 何故そこまでして一銭にもならないような事をしたのかと問われれば、その頃は特に言うまでもなく、時間と金と、それを費やすための身体だけは無駄に持て余していたのだから、と答えるだろう。そして何より、酒と語りという組み合わせに、根拠のない奇妙な安心感を抱いていた二十代特有の一時期に、私が身を置いていたから、と言うほかはないのである。
 さる画家は生来、気難しい性格をしており、どんなに相手が高貴な人間であろうと、気に食わないことがあれば声を荒らげては、相手の頬をその手で殴ることは幾度となくあったという。
 彼は十代最後の年から二十代の中頃まで、仏蘭西の『丘』と呼ばれるあたりに転がり込んではその日暮らしの生活をしていたという。『丘』で生活していた歴史的画家と言えば例を挙げるだけでも指の数が足りないが、彼はその画家たちの吸っていた空気を多分に咀嚼しては、自身の絵に昇華しようと切磋していたようである。その頃の絵はある時期まで丘の酒場や大衆食堂に飾られていたそうだが、とある画商が目を付けた折にすべて安い値段で買い取られてしまった。その半年後、五倍以上の価格で市場に出回ったらしい。もちろん彼自身にその金が支払われることはなかったので、彼の気難しい性格はさらに確固たるものになってしまったのは言うまでもない。
 日本に帰ってくると、鎌倉の長谷あたりに居を構えることにして、日がな一日、ひたすら自身の絵の探求にはげんだ。その頃は西洋画の輸入も一般的なものになってから何十年と経って、近くに大きな美術館もその十数年前に出来てはいたわけだが、やはり地元の気風もあったのか、彼がもてはやされることはなかった。
 唯一彼が交流をしていたのは一部の文士らであったが、彼らも画家と意気投合するというよりは、ご近所付き合いの延長線上にあるのだという心証が強かったという。しかし、最も評価される彼の作品群は、この時期によるものが圧倒的に多いというのもまた皮肉な話ではある。
 その後、彼の世間的な評価が高まるにつれて、その作品たちにあったはずの気概というものが失われていった。彼の作品は虚構の中にある。七里ヶ浜に寄せる波を描かせれば、そこにあるはずの自然のうねりが肥大化してカンバスの中に現れてくる。成就院の紫陽花を描かせれば、巴里の街灯のように輪郭を持たないまま幽霊のように浮かび上がる。後年の彼の作品には、そういった空気がまったくというほどなくなってしまった。
 やがて、彼は第一線を退くことになるのだった。
「……彼は今も鎌倉に住んでいるのじゃあなかったのか」
 私がそう聞くと、岡崎はそういうわけでもないのだ、と言いたげな表情をしながら、かぶりを振った。
「言ったでしょう、今は隣町にいるんですよ」
「どうして、鎌倉のほうがずっと過ごしやすい環境だろう」
「さてね、癇癪持ちの考えることなんて、凡人のワタシにはわかりませんよ」
 でもアナタなら、と岡崎は意味深に呟いた。
「……私ならどうしたというのだ」
「だって、文士じゃないですか」
 と、ここまで来て、岡崎がどうやら嘘をついているわけではないことを悟った。どうも彼には、どうにかして画家と私とを引き合わせてみたい、という想念を滲み出している節があった。こちらとしても、その画家に一度は会ってみたいものではあったが、現在の彼がどのような生活をしているのかわからないし、癇癪持ちである御仁に対して若者がとるべき態度というのも私自身、よくわからなかった。
 結局、その話は面白くない冗談、というもので片付いたと思っていたのだが、それから二週間ほど過ぎて岡崎から書簡が届いた。
「画家の件、快く了承して戴きました」
 要約してしまえば、その程度の内容のものであった。
 岡崎の書簡によれば、画家は第一線を退いでからは、長らく筆を手に取ることもなかったという。彼を再び油絵の世界に引き込んだのは、後年の彼を蝕んだ病症であった。その悪化を食い止め、彼の関心を別のものに逸らす手段として、筆とカンバスとが用いられることになったのだ。
「彼、アルコール中毒症だったんですよ」
 画壇から退いだ故のストレスから来るものだったのかどうか、今となってはわからないが、巴里の遊学時代から友のように親しんでいたそれに別れを告げる必要が生じたらしい。筋金入りの癇癪持ちが酒を控えようと考えること自体、私には俄に信じられないことではあったが、そのために住んでいた家を引き払って、ほとんど山に接している場所に移り住んだのだ。聞いたところではアルコールだけでなく、煙草をくゆらせることもなくなったという。身につまされる出来事でもあったのかもしれない。
 その画家を訪問することに関して、こちらも了承する旨を岡崎に伝えると、しばらくして詳しい日付などを指定する連絡が届いた。それまで自身の原稿を書いて日々を過ごしていたが、やがてその日が近づいてくると、どこか奇妙な高揚を胸に感じていた。

 画家の家は隣町のはずれにあった。一昔前の成金が別荘として建てた家をそのまま買い取ったのだという。家の作りは西洋ふうではあったものの、『丘』にあるような建物とは似ても似つかないものだった。それを見た際に、あの画家は居住にはこだわりをもたないのだろうか、と少々不思議に思った。
 表口の扉を叩くと、三十代に入る手前くらいだろうか。若い女中が出てきた。 私が自分の名を告げると、女中は、
「―先生でございますね、お待ちしておりました」
 と、甲斐甲斐しくおじきをするものだから、そういった形式張ったものに慣れていない私は多少手間取る羽目になった。
 画家は既に五十代半ばであったが、その病状は一時期、大分ひどいものであったらしい。昇り降りの負担もあるので、現在は建物の一階のみしか使っていないのだという。そのため二階はほとんど物置くらいにしか使い道がないらしい。また一階は大きく分けて、居間、書斎、食堂、寝室とがあるが、画家は居間を改装して自身のアトリエにしているのだと女中は言った。彼女の態度は実に慇懃なもので、付け入る隙をこちらには全く見せない様子だった。
「先生、―先生がお見えになられました」
 小さいが、はっきりとした発音で述べると、彼女は居間の扉を開ける。それに促されるまま、私はアトリエへと足を踏み入れた。
「ヤア、よく来たね」
 と、丸椅子に腰掛けて、筆と木製のパレットを手にもった男性は嬉しそうに顔をほころばせた。
 その画家に直截会うのはこれが初めてであったが、どんな人物であるかは雑誌や新聞記事で知っているつもりだった。そしてそこに一貫してあったのは、決して顔を崩さず、常に何かを奪われまいと―一朝一夕で奪えるような技術などないというのに―する意志であった。
 だが、今この目の前にいる画家は誰だというのか。その所作は別人といっても相違ない。逆立つようだった髪は萎え、無骨とも言えたその腕は既にやせ衰えていた。その顔や手の隅々には、いくつもの皺が経文のように這っているのが見えた。
「椅子があるから、そこに座りんさい」
 と、画家が言った。
 はっとして、これは失礼、と返す。客人用の椅子に浅く座ると、画家との距離は半歩程度になっていた。改めて、自分の名を告げると画家はまた嬉しそうに頬を緩ませる。
「君の名前は聞いているよ。ここ最近の文士でも、悪くない視点だと僕は思う」
 彼の言葉に相槌を打ちながらも、駆け出しの青二才をここまで褒めるとは、一体どういうことだろうか、と終始疑わずにはいられなかった。
 画家との会話は続き、やがて彼自身の絵の話に差し掛かった。
「僕は今、何よりも自由に絵を描くことが出来るのだよ」
 と、画家は言った。
「誰に指図されるわけでもない。何をモチーフに選ぶのかも、何の色も使うのかも、この僕一人の裁量で決められる」
 アトリエにはいくつものカンバスがあった。そこに描かれた作品に全盛期の彼の面影はなかった。写実的な姿勢でありながら、あまりにも平坦すぎる絵でしかなかった。その絵の表面に現れた色も、どこか褪せて見えた。彼の作品のもっていた、あの抜け出しがたい虚構性は、もうどこにもなかった。
 画家の家を出たあと、町と家とのちょうどその真ん中に差し掛かったところで、女中が私を後を追って走ってきた。
「何か、忘れ物でしたか」
 と、問いかけると、女中はいえ、とかぶりを振りながら額に浮かんだ汗を袖で乱暴にぬぐった。
「どうか気を、悪くなさらないでいただきたいのです」
 女中の表情は、どこか懇願するようなそれを見せており、先程見せていた慇懃さとは全く別のものをその瞳に宿らせていた。
「アナタは文士なのでしょうから、先生がこうやって過ごしていることをどこかの雑誌に書いてしまうかもしれません。ですが、それをしないでいただきたいのです。どうか、先生を放っておいてやってください」
「そんなことは、決して」
「原稿料のかわりでしたら、いくらでもワタシが用意いたします。それで満足なさらないのなら、」
 そこで彼女は顔は唇を強く結んだ。
 彼女のすべてはあの画家への尊敬から生まれていたのだと悟るには、この数十秒の会話は、推理の材料としては余りあるとすら思えた。
「……そんなことはいたしませんから、どうか肩の力を抜いてください」
 私はそう女中に告げた。また画家を訪問したのは単に他人の紹介によるもので、自作やエセーの取材としての訪問ではないことを続けて伝えた。
 その旨を理解すると、彼女は自身の行動の浅薄さを恥じ入り、何度も謝ってきたが、それに関しては詮なきことであったので黙殺することにした。
 それから二人して町の方へ歩き始めた。こちらは自分の住む町ないし行きつけのバアへと向かう道で、彼女は画家に与える夕食の材料を買い揃えるための道だった。
「……あの人には、もう昔のような絵は描けません」
 道すがら、女中は私にそう告げた。
「もう、あの人自身、すべてわかっているのです。あの頃描いていた線を追うことは出来ないことを。それを補って余りあるほどの技術ですら、アルコールに毒されたその手では、カンバスに押し込めることが出来ないことも」
 言葉が頭の中をさまよっている。今、彼女に言うべきことを探しても手からすり抜けていくようだった。それが腹立たしく思え、私は煙草をくわえた。ライターで火を付ける。女中はそれを興味深そうに見つめていた。
「私も、吸って良いでしょうか。煙草の味を、まだ知らないのです」
 そうかい、と言って、私はもう一本それを取り出すと、彼女にくわえさせた。火をつけてやったあと、女中はその先がわからないのか、私に戸惑うような視線を送る。吸ってみろと促すと、案の定、煙を深く吸い込んで咳き込んだ。
 少し落ち着くと、目にしみて嫌な感じですね、と呟いたあと、
「死人なら何も感じないのですし、これも良いことなのかもしれませんが」
 と煙を吐き出して言った。死人とは誰のことか、と訊ねると、あの人のことですよ、と女中は答えた。
「あの人は、もう自分が画家として死んでいることを知っていますから。今、描いているのはみな死人の絵なのです。お酒も煙草も必要とするのは、お墓に入ったあとでしょうから」
「……確かにそちらのほうが、理由としては美しいね」
 そう言うと、女中は照れくさそうに、そうですね、と微笑んだ。
 彼女と分かれる段になって、ひとつ頼み事をされた。
「もしまだ煙草が余っているようでしたら、箱ごといただけませんか。新品だと一生分には多すぎるので、アナタのをいただきたいのです」
 私は快く煙草を渡し、いつものバアへと帰ることにした。

 それから数日後、岡崎がこれまでにない形相で私のもとへやってきた。何事か、と聞くと、とある新聞記事の夕刊を突きつけてきた。
 そこには『油彩画家、―氏邸全焼』という見出しと、焼けたあの家の写真が記されてあった。出火原因は寝煙草によるもので、家が町はずれにあったがために近隣住民が異常に気付くのが遅れたと書いてある。見つかった死体は二名分で、男女それぞれ一名ずつ。警察の見解は単なる事故、とするようだった。
 けれど、と、岡崎がぽつりと言った。
「あそこにいる画家も女中も、煙草は吸わないハズなんですよねえ」
 燃えて崩れ落ちた家の写真は、あの画家の絵に似ている気がした。