「ペーパー・ドラゴン」を新訳してみたついでにオススメする。

サークルで一般には頒布しない、会内誌をつくろう、という話を5月あたりに同期としていた。
そのさいほかの会員がまったく読まないような小説をつかってクロスレビュー小説を書くという企画が立ち上がり、自分が同期に無理やり読ませたのがジェイムズ・P・ブレイロック「ペーパー・ドラゴン」だった。日本での初出はおそらくS-Fマガジンの1987年12月号の現代ファンタジイ特集。その後、ハヤカワ文庫の『80年代SF傑作選(下)』に収録。自分がもっているのは前者のS-Fマガジンのほうで、同期に読ませたところ、「ところどころ意味がわからない」と言われた。
S-Fマガジンに載っていた山岸真の解説によると、「アメリカの書評家もこの作品には手こずったのか、Strange(奇妙きわまりない)を連発するのはまだいい方で、この短編の発表されたアンソロジーを書評するのに、この作品だけ言及しなかった人もいるくらい」だという。世界幻想文学大賞、SFクロニクル読者賞受賞。

舞台はカリフォルニア北部の海岸沿いからサンフランシスコまで。田舎の町でガラクタを組み合わせて竜を作ろうとする男がいて、それを見守る青年によって話は語られる。ある日、青年が目を覚ますと、家の中に何匹ものヤドカリが侵入していた。町の博士いわく、その町は数百万匹ものヤドカリたちが渡り鳥のように旅をする通り道になっているという。日をおうごとにやってくるヤドカリの数は減っていくが、代わりにその大きさを増していき、いつしか豚と同サイズの巨大なヤドカリまで現れる。そのヤドカリが男のもっていた竜を壊してしまったことから物語は転がっていく。
こう要約して言うと、現代を舞台にしたファンタジー作品のように思われるのだが、このあと物語はどんどん陰うつな方向へ向かっていく。この作品では、ファンタジーの世界がだんだんと現実の世界に食い殺されていく過程が、つまり人が夢を見ることを失っていく過程が描かれる。機械じかけの竜は力を失って動かなくなるし、予言された出来事はいっさい起こらない。主人公の語りも不鮮明で、たびたび現実世界をファンタジー世界のフィルターを通して見ようとする。終盤になると、その姿は次第に滑稽を通り越して、憐れとしかいいようがなくなってしまう。
けれど、それでも、と夢を見続ける人々につい共感してしまうのが読者であるのだから、この作品はもっと受け入れられるべきだと個人的には思っている。

また中村融は自身のブログでブレイロックのノスタルジックさをブラッドベリと並べており、ところどころ現れる情景描写には郷愁を誘うものがある。「ペーパー・ドラゴン」はほかにもアジア圏(おもに中国)に魅せられたファンタジー描写や、イメージのつながりの皮肉・切実さが素晴らしい。タイトルのペーパー・ドラゴンとは主人公の語り手がサンフランシスコのチャイナタウンで見た竜で、春節祭(中国の旧正月)の催し物。獅子舞が竜になった図を想像するとわかりやすい。


話を戻そう。
自分にとっては上記のような魅力的な作品だったのだが、前述のとおり、同期には好評とは言い切れなかった。理由を聞いてみると、「翻訳の印象が悪い」とのこと。訳は中原尚哉によるもので、一読するとわかるが、(おそらくわざと)堅苦しい、漢語調にちかい文体が使われている。おそらくいま訳し直したら、だいぶ雰囲気の違うものになるのではないだろうかという話をした。仲間うちで配るぶんなら翻訳も問題ないだろうとことで、その場のノリで、試しにやってみることに。

訳してわかったことは、電子辞書とグーグルがいかに偉大であるかということ。地名や町名、さらには通りの名前まで検索ができるのは強い。中原訳では、通りと町の名前を取り違えていたり、誤植と勘違いしたのか別の単語に読み替えて訳している部分もあった。向こうの風俗や単語から連想されるイメージに関しても、いまはネットで観光サイトや旅行ブログの閲覧、画像検索ができるので、間違いが大幅に解消できたと自負している。
著作権の問題で、翻訳した文を載せることはできないが、個人的にはよい経験になった。ひとつの短編を訳すのにとんでもない時間はかかってしまったが。

興味のある人は読んでみてほしい。いまでは古いタイプの物語かもしれないけれど。

80年代SF傑作選〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

80年代SF傑作選〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)