2013年10月

新刊奴隷ちゃんの旅は続くらしい。

貴族探偵対女探偵 (貴族探偵)

貴族探偵対女探偵 (貴族探偵)

タイトルほど対決している感じがなかったのが。女探偵の推理を貴族探偵の推理が否定して解決、というパターンなわけだけれど、前者の推理が普通すぎて、いわゆるワトソン役の推理とさして変わらない。貴族探偵に女探偵が反論してさらにそれを否定していく、みたいな推理合戦を求めていたのは自分だけか。それじゃもう長篇になるのか。

警官の騎士道 (論創海外ミステリ)

警官の騎士道 (論創海外ミステリ)

発売時期が遅すぎた。もっと早ければランキング上位に入る気がする。とはいえ発表は12月になるから、どうなるか。ウリとしては、見取り図やらタイムテーブルやら読者への挑戦やら言われていたが、400ページを越えるボリュームはそういうロジカルな側面よりも物語的な側面を強くしていたように思える。事件の発端となる冤罪や、登場人物の過去に起こった事件に対するふるまいの理由、犯人の事件当時の目論見、そのすべてがだれかしらの「名誉」(反転)に関わるようになっていて、最後にそれがテーマとして現前化され、物語のなかで何度も反復されていたことに気づけるようになっている。原題に入っているarmourと現場に残されたアレが相似的な意味合いをもつことも作者の狙いのうちか。

オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)

オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)

表題作を講談社ノベルスの年鑑で読んだとき、あまりにも『エコール』*1に似ていたからどうとらえていいかわからず、結末にたどり着いたときになるほど、とうなっていた。ところがサークルの人に聞いてみると『エコール』を知らないから、そういう読み方にはならなかったらしく、説明の難しい温度差があった。とはいえ後日、劇場版のまどマギ新作を観て、自分はいわばループものの二周目や改変ストーリー的な読み方をしていたらしいことに気づいた。一定の情報がプールされている状態で、それとは異なるものを見せられたときに感じる違和とデジャビュ。それ自体が受け手にとっての謎として立ち上がると、一気にストーリーに引き込まれることになるわけで。

『新世紀新曲』*2で前作がこきおろされていた気がするが、これもおそらく同じようにこきおろせる。東は星星峡2013年9月号の連載で「最適よりも偶然に身を曝せ」、「統計的に標準な人生に基づいたライフプランに従い、リスクヘッジをすることがほんとうに正しいのか」と、この作品と呼応する内容を述べている。確率操作の可能性への言及。作中ではそれがタイムトラベルの可能性として現れる。そしてこれは、その操作の可能性を自らの意志で否定する物語だ。同じ時間に同じ相手と同じようにセックスをしたとしても前回と同じような子供が生まれるとは限らない。ゆえに今の世界を受け入れる。役割を受け入れること、あるいは責任を果たそうとすること、という視点は推理小説読みの目線からすれば、法月的な方向性に向かったのでは、とも言えるかもしれない。
しかし「復活の批評」で大澤が東に対しておこなっていた批判に沿うのであれば、それは「確率的な苦痛」を捨ててしまうことになりうる。絶対的な他者としての偶然性に対峙するとき、結果としての現在を肯定することでそれを乗り越えようとすることは、ある種の確率操作的な意味合いをもちうるからだ。それは乗り越えることでなく、回避することだ。この小説を読んだとき、物語によって保守的な揺り戻しがおこなわれているような気がして息苦しさを覚えたが、それ以上はうまく言えそうにない。

9月から何度もちょくちょく読んでいるが、作家論というよりも、構造レベルの視点が見えてくるので面白い。有栖川有栖の章を読んでいるときには殊能将之の某作品を連想したし、各章の視点がほかの作品にも適用できるように思える。