ミステリ短篇深夜徘徊その1 久生十蘭「黒い手帳」


『カメレオンvol.29』に、「ミステリ短篇深夜徘徊」と銘打って、エッセイを四つ、書かせてもらった。内容としては国内のミステリ短篇について。ネットでよく言われていることと自分が考えていることにどうも違和感を覚えたことと、そして会員同士でもっと推理小説を体系的に語り合えたらと思い、見開き2ページでひとつの作品を扱ってみることにした。いま現在、サークルでおこなっている「レビュー」は基本的にネタバレを避ける方向性なのだが、それでは踏み込んだ話もできないので、今回はネタバレを前提としたもの。エッセイとしたのは、扱う作品によって評論とまではいかないものもあったからだ。3000字程度では評論というより、小レポートに近いだろう。タイトルはもちろん『深夜の散歩―ミステリの愉しみ』から。

いちサークルの機関誌ということで出回る数もそこまで多くないことを鑑みて、自分がなにを書いたのか忘れないうちにこちらに載せることにする。適宜、誤字脱字を直したり(なぜ気づけなかった)、掲載時には書けなかった情報も加えてみる。




 久生十蘭はよく、言葉の魔術師と称されるという。
 短篇ひとつをとっても、その描写や題材がもつ魅力についうっとりとしてしまうことがある。ストーリーテリングも心に残るものがあって、じっさいにはありそうもない奇妙な話を展開したかと思うと、感情の波に襲われるようなお涙頂戴のオチをもってきたり、わけのわからない風呂敷の包み方をされて、こちらが声を出せないうちにサッと幕を閉じられたりする。しかもよくよく考えてみれば、その包み方がじつに絶妙なのだから恐ろしい。
 加えて、一読しただけはまず気づけない描写が隠れ潜んでいたりするということもある(明敏な読者と違って、鈍感なわたしには気づくのがとても難しい)。二度、三度、あるいは時間をおいて久々に読んでみると、その超絶技巧にはっと気づいて、ようやく目から鱗が落ちる、という具合だ。理解の足りないことのほうが多いのでは、という不安も同時に残っている。
 さて、どうしてそのような苦手意識をもちながら、この作品を取り上げたかといえば、やはりこの「黒い手帳」に泡を吹かされたからという一点に尽きる。推理小説の読者がこれを放っておくのはどうなのか、とにかく文章媒体に残しておいたほうが面白い話ができるのでは、と思ったのだ。
 たとえ木下古栗や多くの読者が、てか、それってアンタの気のせいじゃね?*1 とぼやいたとしても、気になるのだから仕方がない。この悪癖はやめられない。ミステリ読みという生き物はウンウンうなりながら、一冊の本を手に深夜を徘徊しつづける病気を患ってしまっているのだから。

■物語の概要
 賭博の研究を完成させた男と、遊学のパトロンを突然失って、困窮することになった夫婦。夫婦はどうにかして男を殺し、その研究成果である手帳を奪おうとしている。そのことに気づいた自分は、その一部始終を観察したいという想念に煩わされる。
 しかし物語は奇妙な転倒をみせる。自分は夫婦による殺害を阻止しようとし、逆に男は賭博研究に欠陥があったことと、夫婦の妻に恋をしていることに気づき、自殺を図る。しかしその自殺も夫婦の手によって止められてしまう。
 その後、夫婦は男を殺そうと思ったが思い直したことを自分に伝え、去っていく。残された男のもとへ行くと、男はまた自殺を図ろうとしていたが、死に切れないままでいた。そして自分に、窓から投げだして貰いたいと頼み込む。男はポケットの手帳を自分に渡す。そして男は真黒な闇の中へ落ちて行く。
「自分はこの手帳をストーヴの中へ投げ込んで、この出来事にキッパリとした結末をつけるつもりだ。もう二度とこのことは思い出すまい。」
 そう書かれたところで手記(すなわち「黒い手帳」という作品)は終わる。

■語りの形式
 この作品はすべての出来事が終わったあと、「自分」が「苛立たしい時間をまぎらわすために」書いた手記という形式をもっている。そこで重要となるのが視点、記述者の問題となる。一人称の手記による語り=騙りの図式はミステリの読者にとってはおなじみのパターンだろう。
 自分は「この黒い手帳をめぐって起こった出来事を見たままに書いて見ようと思う」と述べているが、その真偽を確かめるすべはない。あくまで作品はこの手記の記述のみで完結しているからだ。それゆえこの語り手がいわゆる信頼できない語り手である可能性は否定できない。また同時に、どこまでが正しい記述で、どこまでが間違った記述であるかの判断は不可能だ。
 あえて書き手の存在する上位世界の出来事をを記述しない状態で物語を完結させ、真偽の判断を意図的に不可能にするという小説はすでに前例がある。その点でいえば「黒い手帳」のような小説は珍しくはない。
 けれども「黒い手帳」は、他の手記形式の小説と一線を画する。その理由は作中にいくつも記述されている、偽書の存在にある。

■作中の読者(探偵役)を排除するウイルス
 手記形式の存在する小説は、いくつものレベルに分けられる。単純なかたちでは、現実‐作中現実‐作中作、といった階層(構造)だ。手記はこのうち、「作中現実」の人物によって書かれた「作中作」、という最下層に属する。
 だが、「黒い手帳」は偽書という存在を紛れ込ませることで、現実‐作品(作中現実‐作中作)という最上位世界での関係を強制的に作り出す。なぜなら、偽書が書かれているという判断は、最上位の世界、すなわち現実の読者のもつ情報によっておこなわれるからだ。つまり、作中の記述に偽の記述が混じっているという根拠を、現実の読者は最初から掴まされていることになる。
 ここで注意すべきなのは、本来、作中作としての手記は、読者(現実=作中)‐作品、という構造を生むにもかかわらず、「黒い手帳」の場合はこの構造をあきらかに必要としていないことだ。なぜなら「黒い手帳」のテクスト内に偽書が存在しているという現実世界における判断は、作中現実の読者には不可能だからだ。作中現実(実際におこったこと)を現実の読者が知りえないのと同様に、作中の読者(たとえば警察や、ボトルメッセージを拾った第三者)も現実を知りえない。よって作中現実の読者という探偵役は必要とされていない。

■作中作という形式の本来の目的
 手記形式のミステリ(すなわち信用できない語り手)は偽証行為を目的とする。つまり、間違った情報を相手に伝えること、あるいは、一部の情報を伝えないことで、読者(探偵役)をミスリードする(あやつる)役割をもっている。
 また作中現実描写のない作中作のみからなる作品では、たとえ現実世界の読者がメタ的な視点をもっていても、真相にたどり着くことが形式上不可能となっている。ふつう、この形式の前提を利用して、作中作によるミステリのプロットは組まれることになる。

■ウイルスの目的
 ではなぜ、「黒い手帳」には偽書というウイルスが作中に紛れ込まされたのか、という問題がここで生じる。このウイルスは作中人物に仕掛けられた罠としては、形式上意味をなさない。「黒い手帳」はさきほども書いたように、作中現実の読者による判断を排除するような形式になっているからだ。
 ではここで逆に、この作品が真実である、と読者に信じこませるのではなく、虚偽であると気づかせることが目的であると考えたらどうだろうか。手記そのものの虚構性に気づいた読者が、つぎになにを考えるか。

■読者の推理
 形式上、真相にたどり着けることはできない。ただし、読者はここに書かれていないことを推測することは可能である。虚偽の供述としての手記、という前提で「黒い手帳」を読んだとき浮かび上がってくる推理はある。
 つまり、真相が故意に曲げられたという可能性だ。たとえば、男が死に至った理由の捏造。この手記を書いている自分が、男の賭博の研究手帳を手に入れようとして、男を窓から突き落としたのではないか。そうした推理とも言い切れないような物語の余白を想像することができるはずである。
 また「黒い手帳」の記述は男の手帳を処分する前に終わっている。自分が本当にストーヴにそれを投げ入れたかどうかも定かではない。

■虚構の論理
 読者の推理はこじつけにすぎないが、読者が虚構性を意識することで見えてくるものがもうひとつある。それは作中を支配している論理、いわばルールだ。このルールに近いものは、男自身の台詞に暗示されている。

(…)すると、どうだ! またその通り目が出てくるじゃないか。負けようとあせればあせるほど勝ちつづけるのだ。(…)仮りに賭博にシステムがあるとするならば、このような微妙な状態に於てのみ存在するのだ

 この論理は賭博だけに限らず、作中の登場人物の行動にも適用される。男を殺そうとした夫婦の計画は自分によって阻まれたと同時に、観察者であろうとした自分はいつの間にか彼らの計画に介入している。そして自殺をはかった男はあろうことか、彼を殺そうとした夫婦に命を救われているし、二度目の自殺にも失敗する。そして自分は当初の目的から大きく離れ、殺人を犯すことになり、手帳を手に入れた。望んだことと反対のことが結果になるという、賭博の論理が物語を支配している。
 そしてこの論理は、読者が真相を想像するときにもまた、適用される。望んだ真相は、決して手に入らない。ここで作中冒頭にある言葉が思い出される。

 それは黒いモロッコ皮の表紙をつけた分厚な手帳である。断末魔の血の一刷毛でも塗られてあれば、これで相当精彩を帯びることになろうが(…)

 作中に出てくる賭博とは、カジノのルーレットのことだ。そして、ルーレットのもっともわかりやすい賭け方には、二つの色、どちらかに賭けるというものがある。それはあまりにも有名すぎる言葉で表現される。
 赤か、黒か(ルージュ・オア・ノアール)。
 狙った目を出せるのは、玉廻し(クルウピエ)である十蘭ただひとりだ。


■補遺
 上記の論を補うようだが、この作品そのものの虚構性を考えると、もはやこの話そのものが盛大なほら話にしか思えなくなる。発表年は1937年で、長谷部史親『日本ミステリー進化論』(日本経済新聞社)における「黒い手帳」の紹介では、「この『黒い手帳』が書かれた時代には、まだ洋行帰りの日本人が少なく、外国を舞台に選ぶだけでも充分に非日常的であり、読者にとってはまた魅力的であった。」という記述があるが、だからといってパリのアパルトマンに日本人が三組もいるものだろうか。どちらかというと海外作品の翻案というやり口の全く逆のような形、加えて限られた舞台の描写しかない話運びはどこか演劇的でもある(十蘭はパリで演劇を学んでいた)。このあたりは個人的な感覚なので、正しいとは言えないが、演劇に「第四の壁」という言葉が存在するように、十蘭がかなり読者(=観客)を意識した書き手という印象が読んでいると芽生えてきやしないだろうか。錯覚だろうか。
 また、偽書についてのみ言及したものの、作中にはじっさいに存在する本も出てくる。これらが混在するがゆえに、どこかほら話くさいというべきか。確認できたのは、「摘要毒物学」(R.A.Witthaus, Manual of Toxicology)→http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/ncid/BA21074020.htmlと、「毒物学教本」(Kunkel, Handbuch der Toxikologie)→https://openlibrary.org/books/OL23525913M/Handbuch_der_Toxikologieのふたつ。作中に出てくる「ポリモス錠」という薬品は致死性のあるものらしいのだが、同じ作者の「水草*2(「鶴鍋」の原型作品か)に記述があるくらいで、具体的にどのような薬なのかは不明だ。本当にわからないことだらけで、だれか教えていただきたい。

「黒い手帳」は岩波文庫久生十蘭短篇選』でも、青空文庫*3でも読めるようなので、一読されたし。

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

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日本ミステリー進化論―この傑作を見逃すな

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