ミステリ短篇深夜徘徊その4 北村薫「ビスケット」

気を抜いたら年が明けて、前回の更新からひと月が経っている。年末に書き終えるつもりだったのだが。
このコラムじみたものでは最後に扱った作品で、話題にした四作品のなかでもとりわけ知名度の低い作品だと個人的には感じている。なぜならこの作品は北村薫の短篇集でなく企画アンソロジーの本(『探偵Xからの挑戦状!3』小学館文庫)に収録されているだけなので、手にとっている人の分母が少ないと思われるからだ。けれども、この作品を扱うだけの理由はあったように思う。



 昨年(執筆時なので、もう二年前)の本格ミステリランキングで高評価を得た某作品のフェア・アンフェアをめぐって、知り合いのあいだでちょっとした議論になったことがある。その議論の内容というのが、いったん本を閉じて、伏線に関する情報をインターネットで検索するのが自然か否か、というものだった。
 トリックを暴くキーとなるアイテムの情報を知らなければ、まず解答には至れないという点がそこで重要とされる問題だった。けれども、それは専門知識と呼べるほど限られた情報でもない。そのキーアイテムの名をネットで検索すれば必要な情報はまず手に入るからだ。
 その某作品の是非について話すのはまた別の機会に譲るとして、こうしたネットの情報を使った推理をおこなう作品があったことをふと思い出した。
 それが北村薫「ビスケット」だ。同作者『冬のオペラ』(中公文庫・角川文庫)における探偵、巫弓彦が登場するシリーズの、十八年ぶりの新作だ。今作品は、視聴者参加型のテレビドラマ『探偵Xからの挑戦状!season3』の第二話のシナリオとして執筆された作品だが、ドラマ版と小学館文庫に収録された小説版とで内容は微妙に異なっているので、その点には注意してほしい。

■物語の概要
 名探偵巫(かんなぎ)弓彦を先生と呼び、みずから記録者となって姫宮あゆみが三つの事件に遭遇してから(『冬のオペラ』)十八年の月日が経っていた。そのあいだに彼女は巫とはまったく関係のないミステリを書き、新人賞を受賞し、作家として暮らしていけるようになっていた。
 四月、姫宮は東京のとある大学を訪れていた。大学主催のトークショーに出席するためで、相手はジャック・トリリンという客員教授アメリカ人で、ミステリ作家でもあった。大学の正門で待っていたのは、依頼の電話をかけてきた村岡と、トークの司会役を務めるという関屋のふたりだった。
 ふたりから聞いた話だと、トリリンは茶道、華道、香道に興味をもっているのだという。そのうち茶道や香道は実際にやっているらしく、後者は関屋の妻を通して習ってもいるようだった。また、デザイン関係の学者らしく、日本の家紋にも興味をもっているという。
 けれども、そのトリリンがいつまでもやってこない。不審に思って彼の研究室に行くと、バットで殴られたトリリンが死体となっていた。さらに、その右手の人差指、中指、薬指が、三本ぴったりくっついていながら、親指と小指は左右に開かれ、《一・三・一》という恰好になっていた。
 村岡いわく、前日にトリリンはダイイングメッセージについて話していたという。けれどもこの奇妙な指の形について、その場では結論は出なかった。
 姫宮は、十八年ぶりに巫に連絡をとった。事件のあらましを聞いた彼は、トリリンの知り合いに《竹河》という人物はいましたか、と聞いた。村岡に問い合わせたが、そういった人物はいなかったという。

■ドラマの形式による推理法の演繹
『探偵Xからの挑戦状』はいわゆる視聴者参加型の犯人当てドラマであるが、放送前にケータイ小説として問題編が配信され、視聴者はそこから犯人を推理し、解答を提出する参加形式となっている。
 とはいえ、この小説、どうやらもともと犯人当てではなかったらしい。あらすじからもわかるとおり、ダイイングメッセージものといったほうが正しい。謎の焦点も、やはりその解読にあった(ドラマ本編に挿入された作者によるメッセージでは、論理的に犯人は指摘できないという旨が述べられていた)。
 さらに、ドラマ化するにさいに必要な演出などの問題もあって、映像と文章とで、情報にかなりの齟齬が生まれている。小説を読むだけなら犯人指摘は可能であるが、ドラマ版では不可能になっているという問題もある。
 もちろん犯人当てであるので、たとえダイイングメッセージものであっても、一般視聴者が問題編を読んで、犯人を指摘できるようにしなくてはならない。そこで導入された推理の方法が、インターネットによる検索だったのだ。

■インターネットを使った推理のフェアさについて
 この作品では、まず探偵の巫が犯人に最初に辿り着くのだが、そのあと、記録者である姫宮も犯人の正体に気づく、というプロットになっている。これはさきほど述べた、一般視聴者でも解答可能であるという証明になるのだが、もちろんネットを使わなくとも答えに気づくことはできる。だがそれには、ある専門知識が必要とされる。源氏香に関する知識だ。
 源氏香は香道で香りを当てるときに使われるマークのことで、五本の縦線に対し、横線を引くことで、五つの香のうち、どれが同じ香であるかどうかを示す。その組み合わせのそれぞれに『源氏物語』の巻名が付されている。
 視聴者は「関屋」「竹河」というワードから『源氏物語』、そしてそれらと香道から源氏香を導き出すことができる。問題編がメールで配信されているということは、視聴者にはインターネットを使用できる環境にいるということだ。ゆえに、どの視聴者も解答に気づく機会はあった、といえるのだ。
 ダイイングメッセージものでありながら、その作品形式ゆえに冒頭の問いをクリアして、一定レベルのフェア性が保たれているのが面白い。

■小説版について
 ではここからは犯人当てとしての「ビスケット」ではなく、推理小説としての「ビスケット」について語っていきたい。
 中編連作集『冬のオペラ』は、いわば探偵版ドン・キホーテだ。この作品世界には、名探偵が存在するためのそれらしい根拠はどこにもない.。ある日、自分が名探偵であることに気づいたものが、ただ名探偵であろうとするだけだ。憧れでも遊びでもない、孤独な人の姿がそこにあった。
 そして十八年後。当時二十歳だった姫宮あゆみも、いまでは四十手前だ。幾人かの登場人物は他界し、姫宮を取り巻く環境も変わった。そしてなにより、名探偵の存在が、さらに厳しくなってしまった。
 
■名探偵の存在意義
 巫は、自分の推理を述べるさいに、次のようにいう。

「飛躍です。そこにこそ、昔ながらの名探偵の意義があった。あることとあることの、思わぬ結び付きを発見する。常人では分からぬ一本の道を、空から見たかのように示す」

「ビスケット」の事件の状況は「冬のオペラ」と酷似している。大学の研究室での教授殺害。ダイイングメッセージに、その解読方法までもだ。けれどもひとつだけ大きくちがう点がある。それは記録者である姫宮が、巫と同じく解答にまで辿り着いたということだ。彼女は、十八年前には不可能だった方法で推理をおこなった。その方法こそ、前述したインターネットだ。

だが、現代にはコンピューターというものがある。京都の事件の時、わたしには、それを使うことなど出来なかった。だが、今は違う。現代では違う。名探偵の脳の働きを機械で代用することが出来るのだ。

 もちろんこのことは以前からいわれてきた。「現代において、名探偵の活躍する場所はない」という話は、ミステリをかじっている人間なら聞いたことがあるはずだ。難しい暗号解読などは、機械の力を借りたほうが圧倒的に早く片がつくし、警察の科学捜査や組織力は決して無能ではない。
 けれどもこれは警察どころではない。ごくごく普通の人が名探偵の特権であったものを自由に行使できる環境が生まれている。ドラマ放送時、投票者のほぼ四人に一人が源氏香の関屋という答えを示すことができた、というデータもある(問題が簡単であったということもいえるが)。
 こうしてみると「ビスケット」は、時間の経過とともに、名探偵がその特権性のひとつを失い、記録者が彼に追いついてしまった物語だともいえる。そして、こうした状況を、姫宮あゆみは「領域侵犯」と呼んだ。
 
北村薫の問題設定の難しさ
 多くの作家が名探偵の自明性に対してエクスキューズを用意してきたのに対し、舞台設定という点も含め、北村は無理のない書き方を努めてきた。そして『冬のオペラ』はあえてその自明性に真正面から挑んだ作品だった。
 北村がこの「ビスケット」でおこなったことは「冬のオペラ」という過去の事件の更新だったといえる。その更新はまた、『冬のオペラ』で模索された探偵像を、作者みずからの手で期限切れにしてしまった。
 ここでデビュー以来、現代の探偵を描いてきた北村が、ベッキーさんシリーズで昭和という舞台での探偵像を描いたこと。そして再び「ビスケット」で現代へと小説の舞台を戻したということに注目したい。あくまで想像にすぎないが、巫弓彦がこれから遭遇するであろう事件は、北村自身が避けられないと考える探偵の問題として浮かび上がってくるように思える。
 仮にこれが妥当な読みであるとするなら、北村は袋小路に入ったと考えられる。「ビスケット」の発表から二年経つが、いまだ続編は出ていない。それは、この探偵像という問いに明確な答えが示せないままでいるからではないか。

■補遺というかあとがき
 これを書いてからもう四か月以上経っているのだが、いまこの問題について考えてみると、この読み方はやはり間違っているように感じる。過去の作品を更新したのは作者自身、狙ったものだと思うけれども、作者自身が避けられない問題として考えているかと思うと、そうではないのでは、という気がする。昨年、『名探偵の証明』という作品が出たが、探偵の抱える問題は縮小再生産されていただけであったように感じたし、となれば探偵の存在意義はもはや問題提起として前景化させるのには弱い材料でしかないのかもしれない。後期クイーン問題がそこまで重く扱われなくなったように、現在においては、自明性を疑い続けるという推理小説のヴァリエーションとして探偵が描かれているだけなのではないか、と思えてくる。個人的な感想にすぎないけれども。
 また仮に問題提起をおこなったとしても、それが直接読者にとっての問題として成立してくれるのか(作者‐読者間の意識の共有)というべつの問題も出てくる。ジャーロ最新号や本格ミステリベスト10では、本格というジャンルそれ自体のルールが共有されない状況に関する話がそれぞれ円堂都司昭北山猛邦から発せられていたようであったし(問題への意識の仕方はそれぞれだが)、自己言及的な推理小説(への自己言及)がどこまで成立するのかもわからない印象がある。加えて「ビスケット」に対する反応それ自体があまりネットでも多くない状況であったのだから、じっさいのところは、巫シリーズの続編それ自体が期待されにくい状況になっているのかもしれない。


冬のオペラ (角川文庫)

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2014本格ミステリ・ベスト10

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ジャーロ NO.49 冬号 (光文社ブックス 111)

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