SOW小説と叙述トリック

 以下の文章は、叙述トリックSF小説は似ているか、ミステリにSF的な面白さを導入できないか、という浅知恵に基づいて書いたものです。

 けっして体系的に読めているわけではないものの、ミステリはその構造上、登場人物の整理をしてからでないと事件を起こしにくいので、SFのようなキャッチーな(ビジュアル的に訴えやすい/読者を捉えやすい)ものに比べると、スロースターターな小説ジャンルなのでは、ということはきっとたくさんの人が言及してきたことだと思っている。そうしてその多くが無根拠なイメージに基づいて(しかし一定レベルの実感を伴っている)のはなぜだろうとよく考えている。自身もそうした無根拠に思う一人だからだ。ミステリにSFのような魅力を付加できないものか(SF設定のミステリ、のようなジャンルミックスではない形で)と思ったことは一度や二度ではない。隣の芝が青く見えるだけなのかもしれないが。

 話を進めてみる。ミステリがスロースターターであるとはどういうことか。要は、読者を牽引するだけの魅力をどの段階で提示できるか、ということのスピードの遅さだと考えている。いわゆる「魅力的な謎」をみせることによって読者がそれを不思議に思い、答えを知りたくなってページをめくらせることができる段階に到るまでかかる時間が他のジャンルに比べて遅いのでは、ということだ。作品によっては時間軸を組み替えること(冒頭に謎→そこに到るまでのいきさつ→冒頭のシーンに戻る→推理をはじめる、など)でこうした問題を回避しているものもある。となると、このあたりはプロットの構成次第と言えるかもしれない。とはいえ、魅力的な謎だけで読者を引っ張ることができるかどうかは、さらに重たい問題としてのしかかってきているように思う。

 そこで以前から、その立ち位置ゆえに考えの材料にしてみたいと思っていたものが、叙述トリックだ。例外はあるものの、簡潔に定義するなら「作者から読者に仕掛けられ」、「情報の欠如を巧みに使って誤導へと導く」トリックということだろうか。精緻な分類をするためには人称の違いであったり、その目的ごとに場合分けする必要があるように思うが……そこまでは踏み込まずにおいて、ひとまず叙述トリック一般として扱いたい。
 今現在では帯に某作家のコメントが載るだけで叙述トリックかもしれないと読者が思ったり、「先入観を持たずに……」「再読必至!」「最後の/最初の一行で騙される!」といったアオリ文から叙述トリックが作中に使われているのでは……と推察することが一種のギャグ(を含んだ皮肉、あるいは皮肉を含んだギャグ)として言及されることもある。叙述トリックである、ということがひとつのネタバレであるにもかかわらず、NAVERのまとめ記事でそのトリックが使われている作品が紹介されているのは、一部の人にとっては理解不能な状況だと思う。

 しかし、こうした状況が(たとえ皮肉を含んでいるとしても)ギャグとして受け入れられているということを踏まえるならば、それだけ多くの人に浸透しているものであって、叙述トリックに騙されることそれ自体を期待して読む人も一定数いるということなのだろう、とも思う。つまりそうした人たちにとっては、叙述トリックが用いられることそれ自体が、牽引してくれる魅力の要素として成り立っているのではないか、ということだ。叙述トリックは前述したように基本的に「作者から読者に仕掛けられ」たものであるので、作中における謎と最終的に結びつくことはあっても、大抵は事象のレベルが違うために(事件中に用いられるトリックは犯人が作中人物に仕掛けるものであるのだから)、謎が提示された段階では結びつくことはない。けれど、事前情報を得ることで、結びつけた状態でミステリを読み進めることができる。青春ミステリ、ハードボイルド、日常の謎本格ミステリ、……大きい枠組みでなく、細分化されたジャンル小説のうちひとつを手に取るように、叙述トリックの用いられた小説を選びたいと思うことはそこまで不自然でないように思う。コース料理についてくる食後のデザートが食べたいために、それを注文するようなものだろうか。その是非は問わないが。

 そう思っている矢先、叙述トリックとSFはある部分でとても似ているのではないか、と考えるようになった。
 きっかけは、瀬名秀明が2001年のSFセミナーで語った一部分にある。(詳しくはhttp://www.sfseminar.org/arc2001/sena/
 ここで瀬名は森下一仁『思考する物語 SFの原理・歴史・主題』(東京創元社)を引用しつつ、なぜ他のジャンル小説読みとSF小説読みとがコミュニケーションを取れないかを説明している。読者がどう読むかについてのくだり(「これはSFである/でない」といったところ)は十年以上前の講演なのか? といま読んでもクリティカルなもののように思え、目を丸くしてしまうが、ここでは触れない。今回の話に絡むのは、引用されている森下の主張である、SFの本質がセンス・オブ・ワンダーにある、という考え方だ。その本では他のジャンルにはないSF小説独特の体験にセンス・オブ・ワンダーという精神的体験があると仮定し、それを定義しようと試みている(このあたりの説明は前述した瀬名の講演「5)なぜSFとわかりあえないのか」で簡潔に述べてられているので、このブログの文章と並行して読んでいただくとわかりやすい)。
 森下はその精神的体験を「わかる」という現象として、人工知能学者のマーヴィン・ミンスキーのフレーム理論を手がかりに定義している。「わかる」ということはどういうことか。例えば「犬」ということが「わかる」とは、犬のフレームには「動物である」、「四本足である」、……といったふうに枝分かれした情報のスロットがあり、その全体(統合された知識)を把握したこと=「犬がわかる」になる。
 次の図は森下がジュディス・グリーン『言語理解』(認知科学研究会訳・海文堂出版)から引用し、改変した犬のフレームを一部省略したものだ。「犬がいる」という言葉を読んで現れるイメージには必ず決まった部分(スロット)があるが、その種類や大きさ、色、飼い主、……など、情報不足な部分もある。もちろんそのそれぞれのスロットもさらに枝分かれすることになる。情報不足な部分を埋めることで、より具体的な犬の描写になっていく。

 森下はセンス・オブ・ワンダーを、「日常的現実の枠組みから離れ、新しい世界観に親しむことによって得られる感動」という。つまり、現実的な枠組み(フレーム・因果関係)とは違った状態の枠組みをわかる体験として捉えている。しかし、現実と違った枠組みというだけでは、ファンタジーとSFの違いを明確にしていない。ではそれらの違いはどこにあるか。
「ファンタジーはあるフレームのスロットに”間違い”を導入したものであるが、その”間違い”の影響は他のフレームには及ばない」という。つまり、「象のように大きい」「犬」であったり、「角の生えた」「馬」などが無秩序に存在している、ということだろう。ファンタジーは「そのような逸脱を可能にした原因が、他のフレーム――とりわけ、舞台となる世界そのものを歪ませたりしない」。これに対しSFは、「ひとつのフレームの逸脱が、他のすべてのフレームと関係している」という。「影響が次々と広がり、もっとも大きなフレームである世界全体に及ぶ時、我々はセンス・オブ・ワンダーを感じる」のだという。
 
 では強引なやり方ではあるが、こうしたフレームをミステリに当てはめた場合、どうなるか。事件というフレームは多くのスロットによって成り立っている。事件発生時はこうしたスロットのほとんどは空白の状態であるが、集めた手がかり(情報)をもとに探偵(および読者)は事件を再構成していくことになる。SFが情報を並べていくものだとすれば、ミステリはそれとは逆に情報を当てはめ、推測していく小説だとも言える。そして本格ミステリであれば、一定の情報が集まった(スロットが埋まった)時点で、空白の部分、その多くは「犯人は誰か?」という問題が解けるようになっているはずだ。
 以下の図は、ミステリにおける殺人事件をフレームを用いて示したものだ(あくまで便宜的なものであってこれが正確なものというわけではない)。

 つまり探偵は、これらのスロットに関連する(さらに枝分かれしているはずの)情報を集め、結びつけていくことで、真相を演繹し、推理という形で披露する。しかし、叙述トリックが用いられた場合、読者はこの結びつけの作業を正しくおこなうことができなくなる。叙述トリックは「情報の欠如」を利用した誤導のトリックであるからだ。たとえば、読者は容疑者のうちある人物を男子トイレにいるという描写から男性と推測する(ここで事件フレームにおける容疑者Aのスロットには男性と組み込まれる)が、実際はただ男子トイレにいただけで、性別は女性であったことがのちに発覚するという誤導のトリックが用いられたとする。またこの事件において「犯人=男性」ということが筋書きのなかで確定しており、かつそれまで容疑者Aがもっとも犯人像に近い人間だったという推理が行われていた場合、その推理に基づく事件の真相は瓦解することになる。
 つまり容疑者Aのスロットに”間違い”が誤って導入されたために、他のフレームとの関係が誤った状態のまま結びついてしまい、それがのちに暴かれることで関係するすべてのフレームに影響をおよぼすということになる。叙述トリックによる事件という意味体系の変容による驚きは、センス・オブ・ワンダーの経験プロセス(そしてその快感)と似通った形を取るのではないか。先の本で森下がブラウンの「ミミズ天使」を例にしてSFの世界変容、因果関係について説明しつつ、ミステリとの類似性についても言及しているのは意識的ではないだろうが*1、”間違い”による因果関係の導入を「あたかも現実であるかのように」書くことは叙述トリックの目的(誤導、つまり読者を錯覚させること)とも一致している。

 センス・オブ・ワンダーの体験を求めてSF小説を読む人と、叙述による驚きを求めてミステリを読む人。それぞれの志向は違うかもしれないが、まったく違う景色を見たい、という点では目的は近いものなのかもしれないと思う。というのも、森下はセンス・オブ・ワンダーについて、次のようにも述べているからだ。

しかしながら”センス・オブ・ワンダー”は、その性質上、一過性のものである。同じものが、新鮮な感情をもたらすことは二度とない。それはもう「予想もつかないもの」ではなくなるからだ。

 ミステリの面白みのひとつに、初読の一回性と一過性の凝縮された興奮があると思うが、叙述トリックはその密度をさらに高めたものだ。結末を知ってしまえば二義性をもった不確定な文章は決して立ち現れることはないだろうし、形式が限られている(作中トリックとは階層が違い独立したトリックになりやすい)ために似たようなものに遭遇する可能性も高い。免疫がついて、トリックを見破ることもできるようになるだろう。そのとき、叙述トリックに対する新鮮な感情は残っているか。しかしこの点について正しい判断はできない。センス・オブ・ワンダー叙述トリックが似た形式を持っているのでは、ということだけが現時点では言えることだろう。

 さらに言えば、データベースに基づく推理がある以上、叙述トリックに限らずどのようなトリックも読者にとって二回目以降は見破られる可能性はある。読者は自分の読書体験をもとに小説中の出来事を推理するからだ。読書量が多ければ多いほど、正答率が高くなる可能性は否定できず、既知のトリックが陳腐なものに見えることもあるはずだ。こうした読者がこうした推理を使用できないよう、情報に制限を掛けるために作者が意図的に叙述トリックを用いることもある。メタレベルでの偽の証拠とでも言うべきだろうか。このあたりについては勉強不足であるので、詳しいことは言えない。

 しかし、ここまで考えてきたときに、フレーム理論的に推理小説を捉え直すことは、叙述トリックだけに関わるものである、というふうには思えなくなってくる。意味体系の変容に付随する驚きは、そもそもミステリが得意とするものではなかっただろうか。密室と思ったら密室ではなかった、容疑者リストにない人物が真犯人だった、凶器とは思わえないものが凶器として利用された、証拠品は被害者が残したものではなく犯人が意図的に残した偽物だった……などなど、ミステリの解決編はフレームのスロットを意図的に操作してしまう役割を担っている(たとえそれが同時に決定論幻想を生み出してしまうのだとしても)。情報操作的な仕掛けはなにも、叙述トリックだけにあるものではない。ただ形式および演出上、それがもっともわかりやすい形で与えられるのだということではないか。

 だからといってこうして図式してきたことが無意味だとは思わない。結果的にこの図式がプロットカードとトリック累計を組み合わせたようなものになってしまったのかもしれないが、それをもとにより面白いものがつくることができるのであれば、叙述トリックの牽引力を越える情報操作のミステリというものを見いだせるかもしれない。プロットカードは類例的な作品をつくりためだすだけに使われるものではないだろう。

 また結局、当初あったはずのミステリのスロースターターという問題は先送りにされてしまったわけであるが、魅力的な謎ではなく、魅力的な情報操作のプロセスをいかにみせていくのか、という観点は、SFや他のジャンル小説と読み比べて考えていく必要があるように思う。いまだ生煮えのようなものの見方であるが、現時点で考えているのはこのようなものだ。問題はうまく発展させることができるかどうかは、まったくわからないところか。それにしてもこの考え方が、どこか保守的原理主義的な考えに聞こえてしまうような気がするのは一体なぜなのだろう?

思考する物語―SFの原理・歴史・主題 (Key library)

思考する物語―SFの原理・歴史・主題 (Key library)

*1:ネタバレ反転:「ミミズ天使」はある人物の人生の「記述」が混乱するさまを描いている(!)