2014年8月/9月/10月

溜め込んでしまったので、まとめて書く。

魔術師を探せ! (ハヤカワ・ミステリ文庫 52-2)

魔術師を探せ! (ハヤカワ・ミステリ文庫 52-2)

長編『魔術師が多すぎる』は魔術が登場するミステリとして有名だが、いかんせん中古の値段が高いので未読。比較的安いこちらも同じダーシー卿シリーズで、日本オリジナル短篇集。「その眼は見た」、「シェルブールの呪い」、「藍色の死体」の三編。作品の細かい内容はほかのサイトでも見れるので他の点について。まずウィキペディアには「科学に代わって魔術の法則がすべてを支配し〜」とあるけれど、前情報なしで読もうと思っていたときはいわゆる異世界(中世ファンタジー的な)ミステリの系譜と考えていたため、実際は歴史改変SF的なものだとわかって驚いた。舞台はイギリス史で有名なジョン失地王が王位を継承しなかったifの世界で、英仏帝国なるものがその後800年以上続いており(!)、それが魔術世界の礎になっている。ということはアキテーヌ(フランス南西部)を失うこともなければ大憲章もない世界なわけで、歴史解釈から魔術が生き残っている世界がつくられているというのは結構面白い。ほかにも敵対している国の陰謀が顔をのぞかせていたりとスパイ小説っぽさがあったり(これは出版された時代の風潮か)、登場人物たちはそういった国の事情で動いている。あくまで魔術は状況設定の道具といった印象。『多すぎる』が先に出版されたせいか、訳者あとがき(文庫では281ページ)には「『多すぎる』の解決は〇〇のヴァリエーション〜」というネタバレがある。それだけはよくない。

土曜日の子ども

土曜日の子ども

傑作。自分の周りでは暗すぎると言われている印象があるけれども、それはいわゆる日常の謎と呼ばれるタイプの作品の視点設定にあると思う。北村薫加納朋子の初期作品は謎を解くこと=見えている世界が解釈によって広がっていくことなので、成長や喜びにつながる色合いが強いし、逆に視点人物が不快に思うようなことに遭遇した場合はその語り手自身がそれをうまく和らげている。つまりプラス面では謎や人物に寄り添おうとするし、逆にマイナス面では距離を保とうとする。もちろんそれは自然な人の態度なのだから、シリーズが進み、シリアスな事件になればそれに対してその人物が向き合うストーリーになっていくことにもなる。けれども『土曜日〜』は常に一定距離から淡々と出来事を描写するし、記述者だけでなく、探偵役もそういったある種不干渉に近い姿勢をとる。そこをどう捉えるかで、読者の印象が変わってくるのだと思う。
現実の切り取り方としては『土曜日〜』はリアリティのレベルはほとんど現実にあるもので構成しているし、人物の行動については論理だけしか判断材料としない。それは前述したとおり、寄り添うことにならない。むしろそれは、人を推理の前で記号化させることだと思う。だからこそ曇りなく見つめる探偵の視点があるし、それでしか向き合えない事件も存在するのでは、と個人的には感じた。またこれは単なる勝手な深読みなのだけれど、視点人物は連作の最後の事件から、記憶をさかのぼって過去の事件を書いている節がある。だとするなら、世界と向き合う方法として、出来事と一定距離を保つ書き方を選んだとも言えないだろうか。ならばそれも、人としての態度そのものではないだろうか。なんて。

シャーロック・ホームズの気晴らし

シャーロック・ホームズの気晴らし

短篇集の二冊合本から一部抜いて、選集のような形での出版というよくわからない形態なのだけれど、とにかく出来がいい。特に前半三編は申し分ない。パスティーシュでありながら、親子の支配や妄執といったテーマが過去の出来事と現在の事件とで重なりつつ、歴史や文学をめぐる解釈ととにかくめまぐるしいけれども心地良い。贅沢の一言に尽きる。というより語ることがまったくないくらい面白い。

両シチリア連隊

両シチリア連隊

モナ・リーザ,バッゲ男爵―他 ホレーニア短篇集 (1975年)

モナ・リーザ,バッゲ男爵―他 ホレーニア短篇集 (1975年)

白羊宮の火星 (福武文庫)

白羊宮の火星 (福武文庫)

『両シチリア連隊』を読むために、過去に刊行されたものも読んでみた。短篇集のほうはびっくりするほどの傑作揃い。表題作の「モナリーザ」は、ダ・ヴィンチのアトリエで製作中のモナリザを見た男がそのモデルである女性に惹かれ、破滅へと進んでいく作品で、「バッゲ男爵」は戦争中の語りがどんどんと幻想世界になっていくエグみを持った作品。『白羊宮の火星』でも、ほかの短編でもそうだが、どうもホレーニアには変身というものが何作も書かせようとする重要なモチーフとなっている印象がある。翻訳作品が少ない以上、おいそれと言えるものではないのだけれど、『白羊宮の火星』の終盤では「変身なくしては帰還はありえない」(うろ憶えなので間違っているかもしれない……)といった旨のことを登場人物に言わせているし、短篇集の作品でも、変身テーマのものは多い。『両シチリア連隊』だけを読むとわからないモチーフが他作品ではメインテーマになっていることもあるので、そういう点では油断ならないというか。
またこれは自分が聞いた話を咀嚼したものなのであまり信用ならないものの、「無調音楽」の概念が『両シチリア連隊』に近いのではと思った。音楽には調性というルールがあって、最終的に鳴る音が決まっているのだけれど、無調音楽がつくられる手前のロマン派では、なかなかその落ちがやってこない曲=転調をくり返す曲や調性の曖昧な曲がつくられたそうだ。それはいわば音楽の解決を先延ばしにしていくもので、その転調の追求が無調音楽に向かうのだとか(ここでの追求は、調性の否定ではないらしい)。ただ、その話を聞いたとき『両シチリア連隊』読んでいるときに感じた、解決がどこにいくのか、どんどんわからなくなっていく印象に類似していると思った。ホレーニアはべつにミステリが書けなかったわけではないし(それは訳された短編を読んでわかった)、むしろ、『両シチリア連隊』ではそのミステリをひたすら転調させていく作品だったのではないか。その追求が、一見わけのわからない小説になっているのではないかとも感じられた。もちろん、作者なりの児戯が作中には散りばめられているし、構造としては中井英夫的なものが現れているという訳者の指摘は、もっともだと思う。

さよなら神様

さよなら神様

飯城勇三が『エラリー・クイーンの騎士たち』のなかで、有栖川有栖作品の探偵とワトスン役(助手でなく記述者)の持つ情報の違いについて述べていたけれど、これはその情報格差を極限まで高めた作品集になるのだと思う。探偵は全知で答えが確定している以上、仮説でじゅうぶんミステリは書けるということをやっているし、また情報格差があるということは、探偵が本来重要だと思うことをワトスン役が推理の材料として重要視しないことにもつながる。つまり探偵が意図的に事件を振り回す権利を持っていることになる。個人的に面白かったのは「バレンタイン昔語り」よりも「比土との対決」で、皮肉った展開にはなるほどと思った。あと視点人物の小学生が確率の計算を苦もなくやってのけているのには笑った。たしかに推理には必要なのだけれど、神童かよ、と。

素晴らしい。以上。

全十巻の短編オムニバス。瀬名秀明「Gene」*1のなかで触れられていて、気になったので読んでみた。連載時期が80年代末〜90年代なので、ところどころ賞味期限切れのネタがあるものの、神仏関係が出てくる話の切れ味が尋常じゃない。お坊さんが神の存在を数式によって否定したり、死んだ人間がまた人間になるためにはさまざま生物の生をまっとうしなければならないのに、わざと捕食者に食われることでそのスピードを格段に上げようとしたりと、その身も蓋もなさが面白い。非合理なところで合理性を発揮させるユーモアセンスというか。

トリックスターズ (電撃文庫)

トリックスターズ (電撃文庫)

ライトノベルの本格推理にはどこか振り切れていないというか、謎の小粒感、物足りなさがあるのだけれど、これは別格。いままで読んでいなかったのを後悔しているくらいには出来が良い。ひたすら騙そう、楽しませようという勢いがあるし、ヤングアダルトっぽさもある。探偵と犯人の騙し合いはわくわくするものなのだと思い出させてくれる。創元から新作が出るそうなので、それまでには既刊を読み進めていきたい。