2015年1月/2月

また書くのをサボってしまった。月イチくらいなら書けるだろうと思ってはじめたのに、と思ってブログをさかのぼって確認したところはじめから月イチルールは守れていなかった……。例によって記憶に残ったものを。


 謎の人気を博している「ミステリ夢十夜」はどんなものかと読んでみると、火村が一方的に状況に振り回される話がいくつかあって、それ単体だと正直なんとも言えない出来。なのだけれども、ふと円居挽作品の探偵役(というべきだろうか?)が自分に有利なように状況をセッティングして勝負を挑んだりしているのを思い出した。有栖川有栖作品にも円居挽作品にも『緋色の研究』もとい『ピンク色の研究』の対決シーンを彷彿とさせる作品があるが(特に円居作品は意識的にオマージュをしている節がある)、探偵の持つ素養というか属性的なものがパロディ化されるにしろ見えてくるのは面白い、のかもしれない。「オノコロ〜」はハードカバーが出たころに先輩から趣向を聞いていたが、作中での登場人物による言及がなければ別のネタとして処理されていたのでは? と思ってしまった。

象と耳鳴り―推理小説 (祥伝社文庫)

象と耳鳴り―推理小説 (祥伝社文庫)

 再読。三年か四年ぶりくらいに読んで、思っていた以上に自分がこれを意識していることがわかって驚いた(読むときであれ書くときであれ)。それぞれの短篇に統一感があるわけではないのでうまく書くことができないが、記憶であったり、言葉の端に含まれている意味であったり、生活態度と地続きにある犯罪であったりと、いわゆる事件の舞台としての日常ではなく、普段生活しているなかでできているものの捉え方が起点になっているような推理の筋道がどうも自分には魅力的に感じられる、のかもしれない。澤木喬の推理小説を自分が面白いと思うのもそのあたりが関係しているような気がするが、なぜ自分が魅力的に思うのか? ということについてはまだ言語化できないのが苦しい。

 トリックだけを取り出してみてみるとやっぱり歪というか、もちろんそれは北山作品だけに言えることではないと常々思うのだけれども、その歪さが許されるのが法月綸太郎いうところの「純粋トリック空間」の偏在化*1なのだとすれば、トリックが特権性を持ちうるのは現実世界よりももっと抽象化された物語世界なのかな、とは確かに思ったりもする。ただ精緻化を求めるファンタジーからメルヘン的な文法に移行した(そのゆるさゆえにトリックが成立する?)とする法月の見方の先にあるのは、トリックの特権性ではなくそれを暴く側にある探偵の特権性なのであって、『少年検閲官』ではそれが主題として描かれていたように感じる。だからこそヒーローとしての探偵をどこまで肯定的に描けるかどうかを本作の問題にするのかと思ったけれど、それは保留されてしまった印象がある。
 と、ここまで書いてきてトリックと探偵の相補的(共犯的)な関係を否定しつつヒーローとしての活躍を物語にする、という軸は自己言及だらけのミステリの枠組みで捉えると難しいけれども、単純な子供向け(?)番組ものとして考えると恐ろしくわかりやすいような。世界中にはガジェットというものが散らばってあって、ある気質をもった人がそれに触れると悪さ(犯罪)を起こす。ヒーロー(探偵)はその悪さを暴く。これだけならば勧善懲悪だけれども、そこからさらに善悪のない物語として封印(的なこと)をする、という一工程を入れると途端にニチアサ的雰囲気になるというか。いやニチアサにまったく触れていないのでほとんど偏見なのだけれども。また適度に入ってくるダークな設定(少年兵というかガンスリ的というか)にどうオトシマエをつけるのかは、やっぱり気になるところ。わかりやすい枠組みで書くのは楽だとしても、その分設定が浮いて最後はストーリーに跳ね返ってくるものだろうからそのあたりは期待したい。
 それから重箱の隅をつつくようだが、前作『少年検閲官』と登場人物のもっている知識などに色々と齟齬がある。文庫改訂はしてくれるだろうか。

 初期クイーン長編にあるような消去法推理を四つもの事件に散りばめられた大量伏線で、という大変明確なパッケージングがされている作品で、好きな人はとことん好きになると思う。個人的には大変好み。たぶん今出版されていたら脇が甘いとかたくさん言われるのだろうということはわかるけれども、ロジックが機能するよう電話のトリックについてディスカッションし、可能性を排除するという手順の踏み方はフェアであろうとする気概が読み取れるし、好感がもてる。なにより捨てトリックのディスカッションが読者を飽きさせないためのフックで終わっていないのがいい。時代的に自分は推理できなかったけれども、その部分の真相に関わる推理はなるほどと思えたし、著者の他作品も手にとってみたいと思う。
 以下は裏表紙からの引用。

 推理小説は、驚きの文学です。(…)でも、ただ驚かせるだけというのでは、悪戯好きの子供と同じになってしまいます。紳士を相手にしている以上、こちらもフェアに騙さなければなりません。用意周到に伏線を張り、手掛かりをちゃんと残す、これこそが本格推理小説だと思います。

 正しく。見習いたい。
 あと合宿先にAVを持ってきた人物(一部シーンは女子に見られている)を推理する前振り的事件は、正直本編の殺人事件よりも公開処刑感があったので(個人差アリ)、アマゾンで微妙に高騰している本だとしてもちゃんと語り継ぐべき案件だと思った。


ワンス・アポン・ア・タイム?日本語版

ワンス・アポン・ア・タイム?日本語版

 小説だけでなくゲームも。プレイヤーに配られた物語カード(たとえば「醜い」や「いじわるな」であったり「森」、「怪物」、「毒におかされた」など、じんぶつ、もの、ばしょ、ようす、できごとの五つの種類のカード)を材料として使い、各自に与えられた結末カードの内容に沿うように即興でお話をつくっていくゲーム。基本的には物語の主導権(手持ちのカードを減らす権利)をうばいあう、もとい語り手の話にいちゃもんをつけあうのがゲーム進行の要になっているけれど、遊び慣れてくるとプレイヤー各人の欲望がだんだん可視化されるふうになっているのが面白い(おそらく間違っている遊び方だ)。
 与えられたカードの図柄に流されるとどうしても童話ふうな語りになりがちなので、慣れてきたらSF要素とかをわざと盛り込んで語りだすと話の規模や振り幅が増えて、楽しい人は楽しくなるのでオススメ。唯一欠陥なのは手持ちの結末カードによって難易度が変わることか(ハッピーエンドだとお話をまとめる手順が大変なのに対し、バッドエンドはストーリーがなかばでも問題なく終わらせることができる)。


アカイイト

アカイイト

 PSNでプレイ。母が他界し、身寄りのいなくなった主人公は遺産整理のため、夏休みを使って父親の実家のある田舎を訪れる。といったあらすじを聞いて好きかもしれない、と思った人はたぶん楽しめるのでは。ノスタルジー成分があるので。世間的にはコンシューマー向け百合ゲーの草分け的存在だそうで、割と有名な作品らしい。
 基本的な筋書きは自分の生まれの持つ血のために怪異に襲われる主人公とヒロインが手を取り合って立ち向かうという伝奇バトルもの。ストーリー本編のボリュームは個別ではあまり多くないものの、それぞれのルートで触れられる話が相関的に伏線となっていて、序盤から上手いミスリードを使ってくる。そのせいかふたりか三人ぶんくらいまで進めないと尻切れトンボ感が増す印象がある。あと本編よりも定期的に脱線して語られる伝奇的なウンチク話が割と面白いので、そのあたりを知らない人には新鮮に思われるはず。落語が好きな主人公というとすぐに北村薫が浮かぶけれども、たぶん関係はない。
 百合もののゲームとしては恋愛ものというよりは家族をなくした主人公が新しい(親友・擬似家族的な)関係を結ぶ、というのがほとんどだけれども、血をテーマにしている伝奇ものであったことと、ヒロインとなるキャラクターもみな家族をなくしているというお話の背景があって、ストーリーに一応の普遍性ができていたのが一定の人気を得た作品になった理由なのかな、とプレイしていて感じた。


 約二時間の大作アニメ。傑作だということはほうぼうで言われているだろうからいまさら強調する必要もないだろう。
 現在テレビで放映されている『アイドルマスター シンデレラガールズ』の監督である高雄統子、シリーズ構成の高橋龍也が関わっていて、特に高雄統子という人が得意としている演出が割と有名だということを最近調べていてわかった。よく言われているのが、陰影の対比をうまく使って画面的に心情説明をする手法で、現在放映しているアニメシリーズにも使われている。けれども何回か見ていくうちにそういう手法だけに頼っているわけではなく、20人超の登場人物の関係性をいかに画面(カット)で説明するか、といったことを映画の尺で計算してつくっていることがなんとなくわかってきた。
 とはいえこの作品にかぎらず、そういった映像手法を文字情報にうまく還元できないかと去年の春あたりからずっと考えている。以前、『イヴの時間*2というSFアニメ連作で、流れている映像と登場人物の(心情・状況)セリフのシンクロをさせつつ、実はそのシンクロ自体がミスリードだったということをやられたことがあったためだ。似た手法を使ったものはないかとは思うのだけれども、自分が映像面の知識をもっていない、かつ意識的に見ていないと気づけない場合もあるので、なかなか見つけられないのが実情。変則的な叙述トリックに使えそうな気がするのだけれども。
 ヒントはないかとスタッフコメンタリーを聞いていると、アニメキャラクターの表情は描く人によって変わるが、小物や手、足などはそれほど変わらないので心情を説明する演出に使える、というふうなことを監督や演出担当の方が言っていて感嘆した。言われてみれば当然なのだけれど、まったく意識していなかった。たぶん画面に映るもの=地の文というミステリ的な見方が自分のなかにあったとしても、写実からデフォルメまで、いかようにも描けてしまうアニメが地の文としての一貫性をどのように担保するか、というレベルまで考えが及んでいなかったからだと思う。アイドルマスターのテレビアニメシリーズでは極力イメージ背景(たとえば桃色のふわふわした背景)を使わないことであったり、シーンによってキャラクターをデフォルメさせないことを意識しているとか。
 そういえば大橋崇行の『ライトノベルから見た少女/少年小説史 現代日本の物語文化を見直すために』(笠間書院*3細田守おおかみこどもの雨と雪』について、花というキャラクターの内面描写(説明セリフ)がほとんどされないことと実写映画の手法が接近しているようなことが書かれていた気がする(うろ覚えだが)。実写映像での伏線とアニメ映像での伏線のもつ属性や情報量の違いについて考えると面白いかもしれない。