伏線回収と認知のあり方とか初期クイーン作品のロジックが嫌われる理由とかいまいちよくわからない印象論が先行する理由とかを考える

 鮮やかなロジックなどと言われるときに想像されるのはエラリー・クイーンの国名シリーズなのだけれど、実際本格ミステリを読んでいて、論理の運用それ自体に鮮やかさを感じられるかといえば微妙なところなのではないかと思うときがある。なぜなら論理は突き詰めれば突き詰めるほど飛躍の余地がないわけであって(だからこそ「論理のアクロバット」などというなかば矛盾した表現が使われることがある)、ほんらい鮮やかさ巧みさといったものとは無縁のものであるはずなのだ。よく数学的と言われるような論理の運用こそがクイーンの鮮やかさを示すのであれば、1+1=2は鮮やかさの象徴となってもいいのだろうけれど、文系人間の自分にとっては納得ができない。四則演算はあくまで四則演算でしかない。そのくせ美しいロジックとか意味不明なことを言うから必要以上にクイーンを嫌いになる被害者が生まれるのだ。しかし実際のところ、客観性・論理性といったものに対して、鮮やかさという主観的表現が噛み合うのは不思議とクイーンになっている。その原因を自分なりに考えたいと思う。


推理小説において「わかる」とはどういうことか

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

 理解の補助線として上記の本を使いたい。手にとったのはたぶん瀬名秀明(つまりは『デカルトの密室』)関連だったと思うのだけれど、手元の「『デカルトの密室』から次の一冊へ──ブックガイド」という今はなきサイトをコピったデータのなかにはこの本がない。なぜ手にとったのか……。とはいえ、この本のなかでは「知能とは、常に変化し続ける状況に合わせ、その時にもっとも適切な行動を選び取る能力」と定義しており、瀬名も何度かそのような表現で語っていた記憶がおぼろげながらある。おそらくだが、ほかの参考文献リストかブックリストのなかにあったのだろうと思う。

 本書の概要としては脳の高次機能障害学という分野を研究している著者が、認識の仕組みについて実体験を交えながら述べたもの。通して読んでみると、この認識ができるという状況・現象について、比較的きれいに場合分けがなされているので、ふだんおこなっている思考というものについて改めて理解することができる。そしてこの場合分けを無理やり推理小説に敷衍してみると、伏線がどのように用いられるのか、ということについて考えることができそうな気がする。
 というのも「わかる」というものがどのように生まれるのか、と考えることは、読者にどのようにすれば「わからせる」ことができるか、という考え方につながるからだ。なのでまずは本文の内容をざっと自分なりに組み換えて整理してみる。著者の言い方とは意図的に変更している部分が大いにあるので、実際の中身が気になる人はちゃんと読んでください。そんなこと書いてねえぞ、と言われても責任は取れない。あくまで補助線として。そして、これらの考えを敷衍したうえでクイーンについて触れていきたい。



■心のはたらきは二種類ある
 まずは前提となる部分。「わかる」というのは心のはたらきのひとつであるが、この心のはたらきは二種類に大別される。
・感情→一定の傾向はあるが、具体的でない。「わかる」というのはこの感情によるものでもある。
・思考→ある程度かたちのあるものを取り扱う。その際「心像」(=著者による造語。心理的イメージの意。ここには視覚化できない概念も含まれる)を最小単位とする。また、心像は客観的事実ではない。心像は経験を通じて形成される。

 知覚したものを特定のものとして認識できる(わかる)のは、知覚できた心像を、記憶のなかの心像と照らし合わせ、同定できているからだ。たとえばある人物が「これはペンです」とペンを見ながら言うことができるのは、その人が知覚しているものが記憶のなかにあるペンのイメージと合致しているから、ということになる。では、この知覚と記憶との同定がひとりの人間によるものではなく、相互間になるとどうなるのだろうか。


■わかるための手がかり
 相互間のコミュニケーションのためには、記号(文字・数字など)や音韻の組み合わせ、すなわち言語が用いられる。
 記号は、音韻と記憶心像の結びつきによってはじめて意味が理解できる。たとえばふだんわたしたちが「1」を見た時に思い浮かべるのは、「1」=「いち」という発音であり、この音韻が「ひとつ」という記憶(心像)と結びついているために、「1」という数字が何を意味しているのかが理解できる。この結びつき(意味づけ)がなければ「1」という記号自体に意味は見いだせない。

 わかるという感情を起こすには、送信者・受信者の両方に同じ心像を喚起させる必要がある。単語の意味が互いにわかっているから会話が成立する。送信者が受信者の知らない言葉(心像)を一方的に使うのであれば、当然ながら受信者はその意味を正しく理解できないということになる。むろん、同じ音韻であっても送信者と受信者とで喚起する心像が違っていれば、情報は正しく伝達されないことになる。これがごく一般的な話でもあるのはいうまでもないだろう。


■記憶心像の種類
 では思考の最小単位である記憶心像には、どのようなものがあるのか。それは大きく二種類に分けられる。意識に呼び出しやすいものと、呼び出しにくいもののふたつである。

○陳述性記憶→意識に呼び出しやすい記憶(心像化できる)
a出来事の記憶(エピソード、場所、時間、感情、考えなどの集合)
b意味の記憶(概念、約束事の記憶)
 ア…事柄の意味…社会共通の概念など、単体で心像化できるもの。≒名詞。
 イ…関係の意味…数字や親子関係など、複数のあいだでの比較がなければ心像化できないもの。
 ウ…変化の意味概念…「スワル・タツ」「ハシル・アルク」など、変化の前後両方によって心像化されるもの。≒動詞。

○手続き記憶→意識に呼び出しにくい記憶(心像化できない)
 九九、文法、歩き方など。手順を繰り返すうちに心像(意識)が省略されてしまったもの。言語化が難しい。

 上記の記憶によって「わかる」の土台が形成されている。繰り返すが、送信者−受信者間でコミュニケーションが成立するのは、基本的に言語(記憶心像)の正しい伝達がおこなわれるからである。この送受信で用いられるのは、言うまでもなく陳述性記憶のほうだ。


推理小説における記憶の役割
 さて、ここでようやく推理小説の話となる。推理小説は文章記述によってつくられているので、その伏線も当然ながら陳述性記憶が中心となって扱われる。文章は基本的にいくつもの事柄・関係・変化の概念の組み合わせによって構成され、それが連なることで一連の出来事の記憶というまとまりになる。これは推理小説にかかわらず、小説一般においても同じことであろう。ただ推理小説がほかと違うのは、これら記憶の組み合わせ(伏線)が物語の終盤によって、もう一度検証され、語り直される(回収される)ということであろう。ここに「わかる」を生み出す手続きが存在している。

 どういうことだろうか。たとえば解決編で探偵役が説明する際「あのとき○○さんはAをした」であったり「事件現場にはAがあった」と述べるのは、出来事の記憶に言及しているということであり、「実はAはBするためにあった」とそのあとに続くのであれば、その記憶Aがほかの出来事あるいは意味の記憶Bと(AにはBという意味があるという形で)同定されることにより、伏線回収がおこなわれる。このとき、読者のなかで「あの描写にはそんな意味があったのか!」といったような心のはたらき(=わかる)が生まれるということになる。
 つまり読者の思考レベルにおいて探偵役がおこなっているのは、「A=A」という単純な過去の出来事(記憶)を別の視点から語り直すことで、新たに「A=B」という記憶心像の結びつけをさせること、そしてその結果、「わかる」という感情レベルの現象を引き起こすよう仕向けることなのだ。

 それゆえ、読者に真相を見抜けないようにする(ミスリードさせる)ということは、行動/証拠Aと意味B(目的Bといってもよい)という記憶心像の相互の結びつきをさせないようにするということでもある。たとえば、首無し死体が人物Xの死という意味で描写されたとして、解決編ではそれが替え玉トリック(じつはXは生きていた)として推理されるのは立派なミスリードといえるだろう。つまり、ミスリードとは読者に真相とは違った記憶心像を植えつける技術である。

 またミスリードと同時に、伏線回収のためには、伏線となる出来事/意味記憶を読者にちゃんと植え付けておく必要がある。探偵の語りによって喚起されるべき心像は、そもそも読者が覚えていなければ(あるいは知らなければ)意味を失ってしまう。読者が「えっ、そんなことあったっけ?」と思ってしまった場合、解決編における驚きは本来の効力を発揮できない。読者の知らない事柄に対しては、作中人物が記憶心像を結びつけるということはできず、「わかる」という、伏線回収時に伴うべき感情を引き起こすことができなくなるからだ。回収される伏線があるべきなのはじつは文中ではなく、読者の記憶からでなくてはならない。それゆえに、記憶は「わかる」ための土台足りうる、ということができる。本書の「わかる」ということを前提として推理小説を捉えるのであれば、伏線回収についてはこのような理解ができそうだ。


■「わかる」の種類
 どのようなものが土台になるのかは前述の通り。次はいかにして「わかる」かである。例によって順番に挙げていこう。

・全体像(見当をつける)→時間・空間のおおまかな把握能力。鳥瞰。
・分類→一定の見方による整理。客観である必要はない。
・筋(が通る)→時間的つながり、因果。客観である必要はない。
・空間関係→視空間能力。
・仕組み→空間の動きの相対関係の理解能力。物理的・客観的事実。
・規則→約束手順によるわかり方。数学。

 これら並べたものをそれぞれ考えてみるとわかるが、こちらについてはうまく場合分けできているとはいえない。なぜなら、ふだんわれわれがどのようにして「わかる」のか、ということと、どのように「わかっている」のか、ということがまとめて説明されているからだ。おそらくこの原因は著者の研究分野によるためであろう。健常者(というべきなのだろうか)と脳の高次機能障害を持つ人とを比べれば、われわれがふだん「わかっている」こと、すなわち「能力」に関する部分が高次機能障害の方にとっては低かったり、欠けていたりするのではないかと思う。ゆえに、いままで把握できなかったものができるようになると、「わかる」という感情が生まれる。そのような文脈で「わかる」瞬間が場合分けされている。

 そしてここで面白いのは、場合分けのそれぞれの事例について考えてみると、推理小説がおこなってきた趣向と一部似通った部分が見えてくるということだ。以下にさきほどのものを推理小説に組み換えて並べてみる。

・全体像→時間・空間のミスリードによるアリバイ・密室誤導
・分類→事件構図・現象の再解釈・動機の解釈
・筋→探偵による推理の開陳(事件の再構成・ミッシングリンクの穴埋め・動機)
・空間関係→物理トリック等(建物構造のミスリード
・仕組み→物理トリック等(機械的トリック)
・規則→ロジックの運用による犯人特定

 この類推が的確なものとは思わないが、単純なモデルとして考えることで、一定の理解は得られるだろうと思う。なぜならば推理小説において読者は、事件の全体を把握すること(≒能力)を制限させられているはずだからだ。その意味で推理小説の読者は、上記の方法によって「わかる」ことができるのではないかと考える。


■「全体像」「空間関係」「仕組み」
 たとえばミステリではふだんわれわれが「わかっている」こと(≒能力)が事件や現場の状況によって、わからなくさせられていることがある。視点人物の知覚情報の制限や誤認などによって(外的・内的理由は問わない)、事件発覚当初は不可能犯罪として描写されているものである。これらは登場人物の「全体像」や「空間関係」の把握能力を意図的に制限することで事件を成立させている、ということができそうだ。この把握能力に関する要素をより深めれば、「仕組み」すなわち機械的トリックを用いたミステリとして成立させることも可能であろう。これらの制限された(=わからない)部分を回復し、「わかる」ようにさせれば、解決編としては申し分ないものになる。ふだんわかっていることについて改めて説明されても「わかる」という感情は生まれない(なにしろ変化がない)が、意図的にわからない状態をつくりだせば、それを「わかる」ようにすることで感情は発生するからである。


■「分類」
 「わかる」という感情をつくりだす方法はむろん、これだけではない。より一般的なものは「分類」によるものと言えるだろう。いままで整理のつかなかったものがある見方によって整理されるということは、理解(の方法)を与えるということである。たとえば幽霊など超常現象によって引き起こされたとしか思えないものを、探偵役が「これは人間の手によるものだ」と言ってしまうのは、いわば視点・構図の切り換えである。その文脈によって整理されたもの(=解釈)を与えられ、すっきりしたのであればそれは「わかる」という感情が生まれたということである。より個別的な例を挙げるなら、密室講義・アリバイ講義などによる事件構図の場合分けはまさしく分類する行為そのものであり、その解釈に基づいて明かされる真相が読者の納得、すなわち「わかる」をもたらすのだ。


■「筋」
 そしてほぼすべての推理小説において必要とされるのは、探偵役による事件の再構成だ。不明点を挙げては、それに対する穴埋めをおこない、ひとつづきの「筋」を語ってみせる。著者の山鳥はこの理解について「風が吹けば桶屋が儲かる」を例にとっている。単体では「わからない現象が、その由来まで遡って説明されると、ああなるほどわかったと感じられ」るのである。このようなあり方は探偵の役割と相似形を描いている。だがさらに面白いのは、この筋については客観性が求められない、ということである。
 どういうことだろうか。山鳥は「風が吹けば〜」を例にしたが、基本的な理解のあり方としては、「進化論」も「創世神話」も理解する側の心のはたらきについては、同様であると考えているのだ。

 進化論も神様論も、なぜわれわれがいまここにいるかを説明しています。われわれは説明出来ればわかったと感じるのです。話が時間的につながればわかったと思うのです。

 ここで見えてくるのは、探偵役の推理について、客観性というものが求められる第一条件とは限らない、ということだろう。実際に、真相とは違った推理、あるいは真相よりも面白い推理を開陳することこそが目的となる推理小説も存在している。そこで求められるのは客観性ではなく、話の結びつきなのだ。それが納得できるものであるとき、「わかる」という感情が生まれるのである。


■「規則」
 ここまで長かったが、ようやく本題となるロジックの運用である。推理小説、とりわけ本格ミステリの世界で重視されるロジックは、いわば約束事によるものであり、伏線に気づき、そのルールに基づき一定の手順を踏めば読者のだれもが犯人を導き出せる、というものである。その論理の公正さを作者自身が保証することで「読者への挑戦状」が推理小説に挟まれるのであり、クイーンの国名シリーズがしばしば導入した手法であるのは言うまでもないだろう。またクイーン作品(あるいはその推理)に対して、しばしば数学的な論理の運用などと言われるのを耳にした経験は、本格ミステリを読んでいる人ならば一度か二度はあるのではないだろうか。
 山鳥はこの規則に沿っていればだれもが同じ答えを出せる(わかる)ものの例として、数学を挙げている。だがしかし、この約束手順によるわかり方が「人によっては一番わかりにくいわかり方」だというのである。このことについて、山鳥は以下のように述べている。

 でも、考えてみてください。
 数を見るだけで頭が痛くなり、目も耳も日曜になる、という人いますよね。筆者などそうです。
 なぜでしょうか?
 以前にも述べましたが、わかったというのは感情なのです。
(…)
 ところが、約束による手順は、その手順を進行させている間、何かを感じることはありません。進めるしかありません。
 マイナス三とマイナス三とマイナス五を足すと、マイナス一一になるとしても、それは手順を踏んだ結果であって、出てきたマイナス一一に対してあまりピンとは感じません。
 結果(答)が出た、と思うだけです。もし、マイナス一二になっていても、同じことです。
 手順は冷たいのです。感情が入らないです。
 心は、そうだ、わかった! と答えてくれないのです。

 言ってしまえば、これまで述べてきた「わかる」方法と、この約束手順による理解とは、別のものなのだ。規則(手順)が複雑であれば複雑であるほど、「わかった」という感情が遠のくことになる。なぜなら、運用の仕方自体を理解できなければ、出てきた答えに対して、当人は納得のしようもないからだ。たとえば複雑な計算を自力でできなくなった場合、電卓を使うことになる。けれどもその計算過程が想像できないほど複雑であれば、そもそも打ち出した答えがほんとうに正しいかどうかすら「わからない」のは当然である。


■ロジックが嫌われる理由
 クイーンのロジックを苦手とする人がいる理由のひとつは、どうもここにあるのではないかと思う。伏線を取り出し、そこから犯人像の条件を考え、ルールに基づいて容疑者を絞っていく。こうした運用自体には理解の感情は生まれないうえに、その過程に対する想像がつきにくい読者にとっては、なにが起こっているかさえわからない。読者の記憶心像のなかにこの論理の運用手続きがないために、探偵の推理によって真相を結びつけることができないのだ。つまり作者(あるいは探偵)−読者間のギャップが大きければ大きいほど、ロジックは意味を持たないことになる。
 それを裏付けるかのように『スペイン岬の秘密』(角川文庫)の「読者への挑戦状」で、クイーンは以下のように述べている。

(…)探偵小説から最大の愉悦を得るには、読者もある程度、探偵の足跡を辿る努力をするべきだと、かねてからわたしは考えている。足どりの探求に骨を折れば折るほど、読者は究極の真相に近づき、愉悦もますます深まるものだ。

 この愉悦が「わかった」という感情であるならば、クイーン作品はこの感情を得るために一定レベルの努力(運用手続きの読者による心像化)を読者に強いている、と言えるかもしれない。どのように規則が適用され、論理として運用されるかを細かく理解するためには、たしかにクイーンの言う通りで、探偵の足跡を辿ろうと事件内容を注視することが必要とされる。事件について深く考えることは、作者―読者間のギャップを埋めることにほかならないからだ。

 「規則」以外の上記五点の「わかる」方法について考えると、こうした努力は比較的必要のないものであることが言えそうである。なぜなら「全体像」「空間関係」「仕組み」については、読者に与えられる情報は十全ではなく、真相に至るためには発想の飛躍が必要とされるため、また「分類」については作者による恣意性を免れないためである。
 どういうことだろうか。つまりこれらは構造からしてそもそも、作者―読者間のギャップを埋めることが約束されにくいものなのだ。代わりにそのギャップを、探偵役の「筋」が埋めるようになっている。探偵役による推理を通してはじめて、作中の情報は補完されるようになっているのだ。

 ゆえに客観性(だれもがたどり着けること)を目的とするロジックのみが発想の飛躍を必要とせず、読者が作者のレベルにまで到達する蓋然性を残すと同時に努力を強いる。読者への挑戦状が示しているのは、あくまでフェアプレイであること、すなわち探偵役の推理による情報の補完を必要としないことである。その違いが一部の読者にとって苦痛であるというのであれば、それを否定することはできないだろう。だが、それのみを以ってクイーンを苦手とする前に考える点がまだ残っているはずである。
 なぜなら、依然として謎は残っているからだ。
 ならばどうして「わかった」という感情を伴わないロジックに対して、「鮮やか」などといった表現が付与されるのか、という点である。


■「鮮やか」をもたらすもの
 この原因として考えられるのは、いわゆる「ロジック」というものが定義している範囲がじつは曖昧なのではないかということである。だれかがクイーンの「ロジック」と発言する度、その発言者ごとに意図しているものの意味が違っているために、ひとつの言葉から別々の印象があらわれているのではないか、ということだ。
 ゆえに、これは自分の想像によるものだが、クイーンのロジックと呼ばれるものにはじつは二種類あり、その片方が「鮮やか」などと表現されているのではないだろうかと思う。これまで述べてきたように、ロジックの「運用」手続きそれ自体には「わかった」という感情を生み出す要素はない。となれば、それ以外の部分で読者に「わかった」と思わせるなにかしらの要素が用いられている可能性を見る必要があるからである。

 ではクイーンのロジックとして「鮮やか」にあたるものはなにか。個別的な作品に言及して、具体例を挙げるのはネタバレになるので避けるが、自分が考えるもうひとつのこの「鮮やか」さを持っているのは、論理の運用ではなく、その土台となる記憶心象の「論理」化なのではないかと思う。クイーン作品は、読者が気づかない些細なところから推理を構築していく点に驚きと納得とがある。国名シリーズで人気の高い『ギリシャ棺』や、いわゆる消去法推理が評価されている『フランス白粉』で見せる推理は、どちらかと言えば「運用」をおこなう物量の多さ、あるいは運用の組み合わせそれ自体が魅力であるのだが、その一部にはやはり『エジプト十字架』にみられるような推理構築の意外性があるように思う。

 どういうことだろうか。ここで自分が言う「意外性」とは、解決編において喚起される心像そのものの意外性である。つまり読者の記憶に心象として結ばれにくいものを伏線として(推理の土台として)採用しつつ、無理なく読者には喚起できる状態を設定可能にしておいている、ということである。
 多くの推理小説が採用する伏線は、基本的に出来事の記憶や意味の記憶、すなわち意識に呼び出しやすい「陳述性記憶」であることは以前にも述べた通りだが、クイーン作品はフェアプレイであることを前提とした「読者への挑戦状」をおこなっている。ゆえに「陳述性記憶」に対して作者は恣意的な解釈を行使することや、情報不全といった状態で読者に飛躍の必要なミスリードをおこなうことはできない。
 そのためクイーンはここに、ほかの伏線を重ねて採用している。この伏線は読者の意識にはあまり登場しないが、それにも関わらず確かに読者の記憶のなかには(伏線として)存在しているものである。解決編で驚きという感情を与える条件としてはそれが必要事項となるのだ。
 ではいったい、その伏線となる記憶心像はなにか。
 記憶心像の種類は、さきに述べたように、陳述性記憶以外には、あともうひとつしかないはずである。


■論理化によって「わかる」ということ
 つまりクイーンが用いた伏線とは、意識に呼び出しにくい記憶、「手続き記憶」である。これであれば、情報不全であるわけではなく(作者が意図的に情報を省く必要性がないと同時に、読者はその情報をすでに持っている)、また解釈の恣意性も起こりえない(拡大解釈の余地がない)。それでいて読者の意識上にはあらわれにくい。ゆえに取り出されたとき、それは意外性を持ちうるのである。

 ただし、手続き記憶そのものを伏線として利用することはできない。それらは単体では心像化(文章化)することができないからだ。そのためクイーンは解決編において、まず手続きの記憶を再構成させるのである。クイーンは日常生活のなかで習慣化され、わざわざ「出来事の記憶」や「意味の記憶」としては描写されなくなっていたもの(=「手続き記憶」)を、もう一度「陳述性記憶」に変換させる。そしてそれを論理的運用が可能な伏線(=法則)として取り出し、犯人の条件を絞り、最後には特定する。

 この再構成・変換という探偵役の行為こそが「論理」の運用を可能にさせると同時に、読者に「わかった」という感情をもたらす。なぜなら「陳述性記憶」として記述可能な状態にする、すなわち法則性を取り出すということは、ある見方による「分類」をおこない、一貫した「筋」を語ることほかならないからだ。その結果、読者は「わかった」という感情、そしてそれに付随する「鮮やか」という印象をクイーンのロジックに見出したのではないだろうか。

 つまり「鮮やか」さは、ほんらい「運用」それ自体にはないものの、それらを構成するパーツを生み出す過程で生まれたものであったため、一定数の読者はその感情を「ロジック」に結びつけてしまったのではないかと考える。作中で探偵役をつとめるエラリー・クイーン君自身が推理のさいに「論理」と何作にもわたって繰り返して読者に刷り込んでしまっていることも、原因としてはすくなからずあるかもしれない。このため、クイーンのロジックはしばしば「鮮やか」と評されるようになったとみることはできやしないか。

 とりあえず、ここでもう一度考えるべきなのは、クイーンのロジックにはふたつの側面があるということであろう。「手続き記憶」を記述可能な記憶として構築する「論理化」の面と、その論理を用いて犯人を特定する「運用」の面。この両者を持っているということこそが、クイーン作品の特徴であり魅力であり、ほかの作家にはない部分なのではないかと思う。こう述べていくことで、曖昧な言説による読者マッチングの失敗が減ることを心から願う。



■捕捉
 推理小説の「論理」 - Togetterで、巽昌章が語っている論理については、上記の「わかる」の種類をすべて内包しているか、それ以上に広い概念のように思う。たしかに、「不条理ゆえに我信ず」とでも言うような引力がはたらく瞬間が推理小説にはあるが、はたしてそれを「わかる」という感情に含めるべきかどうかは正直わからない。開陳された真相の好ましさによって、整合性が排除されるのとき、山鳥の「わかる」とは思考ではなく、感情であるという説をどう捉えるべきか難しくなるような気もする。

 特に「わからない」ことが逆に好ましくあるとはどういうことなのだろうか。それともここでいう不条理は「分類」による一定の見方によって読者が納得しうるものなのか。おそらくだが自分は、巽昌章の言う「過剰な確実性への希求」を目指すものを好ましく思ってしまう質であるので、その整合性を排した真相にロジックがどのようにして接続されるか、あるいはロジックがどのようにして読者に好ましさを与えるかに興味がある。それは「わかる」という感情をさらに推し進めた先にあるように思う。

 また今回書いた伏線回収についての考え方は、昨年に書いた[雑記] - ななめのための。における「情報操作」に関する部分が個人的にはつながっているように思う。センス・オブ・ワンダーの経験プロセス(とその快感)に似た意味体系の変容は、伏線回収における記憶心象の新しい結びつき、あるいは非陳述性記憶(=手続き記憶)の論理化に伴う「わかった」という感情の発生に近いように思うからだ。こうしたモデルについては引き続き考えつつ、実作でどのように活かせるかを試していきたいと思う。