2015年7月

http://www.mangaz.com//book/detail/3531
 恋人が死んでしまい、それを回避するために何度も同じ日を繰り返すループもの漫画。高一のチャレンジ(進研ゼミ)で連載されていたものだそうで、SFらしいSF(整合性重視)というよりはループものを扱った青春ものといったほうがよい。思い出補正のない自分が読んでいてもそれなりに楽しめるのはテーマがいつになっても読めるものだからというのと、ストーリー全体の語り口がシリアスでなくコメディ寄りなためだろう。恋人の死ぬのをわかっていながらつい寝坊してしまう主人公や、車に轢かれるのにギャグっぽい吹っ飛び方をする恋人のシルエットなど、死ぬ回数を重ねるために脱力するような展開を増やしていく。加えて幽霊となった恋人と主人公との会話は適度に心地よいブラックさを伴うようになっていく。最後にはその不自然な心地よさと向き合わねばならなくなるということで、青春ものとしては実に王道なのだけれど、最後までこのテンポを崩さず持っていくのには唸った。

秋の牢獄 (角川ホラー文庫)

秋の牢獄 (角川ホラー文庫)

草祭 (新潮文庫)

草祭 (新潮文庫)

 なんとなく夏なので恒川光太郎を読みはじめる。デビュー作の「夜市」はルールの持ち出し方にあまり慣れていないような印象を受けていたのだけれど(伏線回収的な展開にしてはルールが不明瞭で、オチに後出しジャンケンっぽさがあった)、以降の短編は登場するルールを最小限にしつつも、この登場人物ならこうするだろうなという語りと説得力とを合わせて使うようになっていて興味深い。
 特に面白いのは、ある一日を抜け出せなくなり何度も同じ日を繰り返すようになる「秋の牢獄」。繰り返しの現象に巻き込まれた人物たちによるコミュニティがつくられるのだけれど、そのコミュニティ内で主導権争いが繰り広げられるという展開が起こったりするのはサバイバルホラーっぽい(死んでもその日の最初に戻るため死ねないのにも関わらず)。ほかにもそれまでの時点で、繰り返されていた時間のために生死の考え方が登場人物内でズレていくというのは前述した『はるかリフレイン』と同様。一回性が失われた途端に思考がルールに順応していわゆる「死んで覚える」的発想に切り換わるというか、死を絶対的なものとして認識できなくなってくるあたりは逆に人間らしいのかもしれないと思う。

ばのてん! 1 (ガンガンコミックス)

ばのてん! 1 (ガンガンコミックス)

 『謎解きドリル』最終話に至っては一巻扉絵の回収だけでなく、第一話の犯人指摘シーンのセルフオマージュ(犯人の身体を突き抜けるドリル)をやってのけるという、分かる人の少なすぎる演出は相変わらず健在。また『謎解きドリル』は連載終了ということで、このタイミングで『ばのてん!』および『ばのてん! SUMMER DAYS』という前作を読んでみる。作者のギャグや伏線、演出のスキルが現在に至るまでに恐ろしいくらい向上しているのがわかる一方で、夏の一日をひたすら一話ずつ描写しながら本編で語られる話との整合性をクリアしておく(あるいは相互補完的な構成を持つ)という『SUMMER DAYS』の情報の徹底っぷりはその後の表現方法の発展を予期させるものだったといまならば理解できる。となれば次作はさらなる進化を遂げるのは想像に難くないのであって、一読者としては新しい作品が世に出ることを祈るばかりだ。

美森まんじゃしろのサオリさん

美森まんじゃしろのサオリさん

 もっぱらSF作家として知られる作者のミステリということで、本格志向であったり、ぶっ飛んだミステリもどきSFであったりするトネイロ会の非殺人事件 (光文社文庫)からすると、今回は過疎の進んだ地方を連作短編の舞台としており、イメージとしては滝田務雄〈田舎の刑事シリーズ〉に近いかもしれない。とはいえ近いのはイメージだけで、探偵コンビが使うのは微妙に進んだハイテク機器であったりする(なにせ近未来を舞台としている)。
 探偵というよりは町から雇われた何でも屋の二人組が、町に残る説話に似た現象や犯罪の正体を見極めつつ事件を解決してゆくのはたしかにミステリの文法で、特に一話のトリックの倫理観のぶっ飛び具合は注目されないもののエグいものであるし、二話では些細な演出(マジシャンが右手をうごかしているときは〜)でありながらその使い方が周辺情報と組み合わせることでじつによく出来ていると思うけれども、途中から話しの焦点が連作ミステリからはドラマに近づいていく。それが微妙にラブコメじみているので個人的には好きな部類なのだけれど、受け付けないヒトには受け付けないとも思う。腹黒美人と実直でガタイのいい好青年の凸凹コンビが好きならば買い。
 どこかの書評にあった民俗学らしさについては、いわゆる知的興奮要素はほとんどないといってよいのだけれど、テーマや道具立てとして作中における土着の思想が活きてくる演出になっており、作者の話づくりの上手さが光る印象。

 創元から出る石持作品は本格ミステリとしての出来が良い、という説は気づくとどこかから出てきており、たしかに今回も読みどころがあって面白い。構造的に似た例をあげるなら筒井康隆ロートレック荘事件 (新潮文庫)で、この作品では素直に推理していくと犯人を絞ることができなくなる論理エラーが起こるようになっていて、その時点において読者は正答にたどり着くために前提条件を考えなおす必要にかられるつくりになっている。そしてこの『フライ・バイ・ワイヤ』も同様にそうした論理エラーの起こし方そのものが推理に絡んでくる作品になっているのだけれど、惜しい点としてはその論理エラー自体を読者起因とみなすことが難しいため、場合によってはアンフェアといってもよいものになっていることだ(そのためか、探偵役も完全な真相ではなく構図のみを当てるだけに留まっている)。
 ではなぜこうしたアンフェアなつくりかといえば、趣向の問題だろうと最初は思ったのだけれど、以前、作者が温かな手 (創元推理文庫)でおこなおうとしていたことが、ミステリに対するツッコミから生まれたことを思い出した。東京創元社|Webミステリーズ!(石持浅海)で、作者自身が以下のように述べている。

 そんな中で、本格ミステリにおける最も素朴で根源的な茶々は、「殺人事件に巻き込まれたのに、どうしてお前はそんなに冷静なんだ」というものです。
 (…)
 本作『温かな手』は、そのような本格ミステリにつきものの疑問、あるいは突っこみどころに対しての、ひとつの回答として書きました。

 こうした本格ものに対するひとつの目線として作者の『温かな手』が書かれたのであれば、『フライ・バイ・ワイヤ』にもじつは隠れた目線が入り込んでいるのではないかと思ってしまうのが人情というもので、じっさいにそう思っているうち、有栖川有栖スイス時計の謎 (講談社文庫)をパラパラと読みなおす機会があり、これは、と思う文章がふと目に入った。この作品の「文庫版あとがき」で有栖川は以下のように述べている。

 解決部分で、「皆さんの中に犯人がいるということは、犯人は非常に頭脳明晰で合理的なふるまいがとれる人物だ、ということになる。その前提で推理を続けます」と火村は言う。しかし、これは本格ミステリの世界だからできる宣言だ。いくら頭が切れて冷静沈着な人間でも、いついかなる時も合理的にふるまえるとは限らないから、その可能性を捨象して推理を進めるのは、現実的ではないだろう。本格ミステリに登場する犯人というのは、凡庸な人物に描かれていても、実は〈優等生クラブ〉のメンバーなのだ。

 『スイス時計』の表題作は、視点人物の高校時代において、いわゆる成績の良いエリート組(優等生クラブ)だった人物らが容疑者としてあげられる作品だ。作者である有栖川は作中人物が(頭の良い人物ゆえに)合理的に振る舞う、という実際にはありえないことをわざと強調して探偵役に発言させているわけである。行動が合理的であるがゆえに合理的に推理が可能であるという本格ミステリの不文律にあたるものであろう。しかしそのいっぽうで、『フライ・バイ・ワイヤ』の探偵役はまったく逆のことを述べているのだ。

『さいたま工科大学付属高校という、偏差値の高い高校。その中でも、さらに成績優秀者が集まる選抜クラス。そんなところで実験をやったのが、間違いだった。普通の高校の、普通のクラスでやっていれば、こんな事件は起きなかった。だって、普通のクラスなら、間違いようがないから。思い込みもないから』

 アマゾンのレビューでは「理系エリート」だからこそ起こりうる、という上記の内容に対して反発がみられるものの、本格ミステリ的な文脈を補完すると、合理的なルールが重視される環境で、合理的ルールに従わない(思い込みを持った)登場人物が存在するという逆転した状況がみえてくる。石持はこの「理系エリート」という環境と本格ミステリというきわめてルール的な環境とを並べつつ、あえてズラしてみせたのではないかと個人的には思う。とはいえこの論理エラーこそが、アンフェアであり読者にとって納得できない部分であるのは確か。自分がこの倒錯を面白いと感じてしまうのは、やはり本格ミステリを積極的に読む人間だからなのだろう。そういう点ではジャンルの前提を重ねることによってしか変化しない、本格ミステリらしい作品だと思う。