2015年9月/10月

ちょっとでも時間を置くと、ものを書こうとするハードルが自分のなかで高くなってしまうのはよくないですね。まただらだらと書き始めようと思います。

惑星カロン

惑星カロン

 もともと4冊くらいで完結する予定だと聞いていたが、さらに伸びるとのことで、現在5冊目。シリーズの話としてはイベント要素が少ないので次の話に向かうための助走というか、つなぎっぽくなってしまっているのは仕方ないのかもしれない。そのなかでは主軸となるストーリーではないが、読んでいて表題作の「惑星カロン」のとある部分になるほどと思った。ある登場人物が『惑星カロン』という楽曲をコンクールで演奏しようとするのだが、母親に反対されてしまったということを主人公のハルタとチカに話すくだりだ。

 ハルタは再生できないカセットテープをくるっと裏返し、わたしにまわした。その際、口にしたひと言に驚く。
「楽曲のタイトルを見ただけでわかるよ。君のお母さんは、いい顔をしないだろうね」
 彼のそっけない態度に、わたしは焦った。
「聴きもしないのに、なんでそんなことが言えるのよ」
「お母さんと同じ反応です」と倉沢さんが息を吐くようにつぶやいて、小首を傾げる。「どうしてですか?」
 ハルタは口を紙ナプキンで拭き、水の入ったグラスを唇につけた。
「惑星カロンなんて言葉はないよ。カロンは衛星だから」
(…)
「話を最初に戻そうか。惑星カロンという言葉は正しくないんだ。公の場所で正しい言葉を使っていないのは好まれない。誤解を恐れず極端でいうと、それが文化とサブカルの違いだと思う。君のお母さんが教養人で、中学生の娘に大事なことを伝えたい親なら、いい顔をしない」

 このくだりを読んでいて思い出したのは、10月ごろに東京・上野の森美術館でおこなわれていた某漫画家・イラストレーターの展示について、大学教授から展示方法に問題点があると指摘され、一部で話題になった話だ。大雑把に言えば美術館の展示でありながら、サブカルをどう文化的に位置づけるべきかといった視点がないのが問題だとされたことだと思うけれども、小説中でキャラクターがおこなう行動や視点さえもが、社会的ルールに晒されることを考えている点は初野作品に顕著なことなのではないかと思う。シリーズ過去作品にも比較的そういった面があったように思うけれど、ここまで正面から登場人物に語らせたのは初めてじゃないだろうか(過去作品の内容を忘れているかもしれないので、そのときには撤回します)。

ブラウン神父の無心 (ちくま文庫)

ブラウン神父の無心 (ちくま文庫)

 言葉の使い方といえば、刊行されたときに「見えない男」が「透明人間」になってしまった、と友人が嘆いていたが、個人的には以前クイーン新訳について考えたように、いま現在つかわれる言葉で訳されることのほうがずっと重要だと思うし、読んでみると全体的に文章の解像度が高くなった印象がある。ミステリ的な視点でいうのなら「見えない男」はタイトルを聞いただけで連想されてしまうくらいにトリックのイメージが浸透している現状があるので、思い切って「透明人間」に訳題を変えたのは肯定したい。
 ほかにもよかったのは「青い十字架」のラスト。創元推理文庫の中村保男訳では「それはよこしまな神学でな」とブラウン神父がいうのに対し、南條竹則坂本あおい訳では「それは稚拙な神学です」となる。この違いはとても大きいのではないかと個人的には思う。前者の言い方だと正と邪とがつよく意識されてしまいブラウン神父が一方的に(あるいはこちらが正しいのだからと)突き放しているように思われるのだけれど、後者になるとその考え方を一度耳に聞き入れていたうえで言葉を放っている印象がある。ブラウン神父が名探偵であることはすでにミステリ読者にとっては自明のことであるのだから、前者の訳でもかまわないといえばそうなのだけれど、それ以上に彼が他人に対して諭す役割を持っていることを感じられるのは後者ではないかなと思う。来年頭には『ブラウン神父の知恵』も出るとのことで、待ち遠しい。

本の窓から―小森収ミステリ評論集

本の窓から―小森収ミステリ評論集

 言葉の扱い方で問題なのではないかと小森収がいっているのは横溝正史『獄門島』(角川文庫)で、「角川文庫版『獄門島』への疑問」によれば、「文字遣いに関して、全面改訂と言っていいほどの、大幅な書き換え」がおこなわれているとのこと(むろん著作権者の了解済みであるが)。しかしいわゆる差別用語の言い換えは三箇所に留まっている一方で、それ以外の漢字の開きや、かなを漢字にすること、おくりがなをおくったり取ったり、という部分の統一によって改訂がほぼ全ページにわたっているという。またその基準もだいぶ恣意的なものらしい。これについての話を小森がおこなったのは97年のことで、現在もこの状況は変わっていない。もし『獄門島』の正本を読もうと思うのであれば、『横溝正史集』(創元推理文庫)があるものの、『獄門島』以外の角川文庫収録作品はどうするのかという問題もある。

昭和ミステリ秘宝 加田伶太郎全集 (扶桑社文庫)

昭和ミステリ秘宝 加田伶太郎全集 (扶桑社文庫)

 言葉についてでいえば、都筑道夫提唱の「モダーンディテクティヴストーリイ」についても興味深い文章がある。都筑道夫はほかにも「論理のアクロバット」など、キャッチーな語り口を用意してくれた点で素晴らしいと思うのだけれど(そのあたりの功績については法月綸太郎が『黄色い部屋はいかに改装されたか?』で述べている)、その一方で言葉の定義がゆるかったのか後世になるにつれ、語る人によってそのワードの捉えている範囲が変わり、ほんらい意味していた箇所や目的がグズグズになってしまったように思う。これは都筑の理論と実践の乖離にもよるのではないかと話したいけれどそのことはいったんおいておく。扶桑社版『加田伶太郎全集』についていえば、この都筑道夫が解説を務めてしまったためにむしろ名作揃いであった伊丹英典シリーズの語り口を限定させてしまった呪いでもあることを述べたい。

 というのも、都筑道夫がこの伊丹英典シリーズについて「モダーン・デテクティヴ・ストーリイ」と語るやり口が問題だったのだ。雑にいうならば「モダーン〜」という言葉は純粋なパズラー的興味だけでなく、なぜそのような犯行状況になったのか(せざるをえない状況になっていたのか)を語ることのできる本格ミステリで、トリック偏重(新規性・面白さ)よりもリアリティが必要ではないかという都筑道夫の問題意識を言語化したものだ。そしてこのモダーン〜の第一条件として読者の意表をつく論理(≒ホワイ)の面白さ、すなわち「論理のアクロバット」があるという。しかし、いまになって思うと、この言葉を解説に導入したことこそが失敗だった。都筑は伊丹英典シリーズ作品が進むに連れて、ホワイの比重が大きくなっていくことを述べていくが、それは都筑の我田引水、ホワイ偏重主義が顔を出してしまったゆえの見方にすぎない。

 最終作である「赤い靴」にしてみても、トリック作成の過程に生まれたホワイが最後にサプライズ的に明かされるのであって、決して話のなかでホワイが中心になっていたわけではない。しかし都筑はホワイが「中心になっているか」どうかでそれを語ってしまっている。ここに失敗と呪いとがある。加田伶太郎作品のもつ魅力は、都筑道夫の考えていた部分ではない。むしろパズラー的興味を骨格としながら描かれた人物の肉付けの巧みさによって結実した物語の魅力なのだ。ピントのズレた解説によってもたらされるのは(しかもそれが一定の評価を得ている人間の言葉であるならば)後世にわたる悲劇でしかない。たとえ最後に「だから、現代の推理小説に必要なのは、かならず先例があるに違いないシチュエーションとトリックを結びつけるホワイであり、論理のアクロバットなのだ」といわれても、「ホワイ中心」や「意表をつく」ホワイという言葉がすでにトリックから一人歩きをはじめてしまっているために(結論と過程とが乖離しているために)、「論理のアクロバット」という言葉にはほんとうの伊丹英典の姿はないのだ。ゆえにその呪いを解くべき言葉を用いた『本の窓から』の小森収の誠実さに心からの拍手を送りたい。

 なにかについて語られる言葉の難しさは解説や評論に限らないことを示してくれるのは、やはり語られる言葉によってであるのだけれど、そのことをどうやって伝えるのかは人による。なかでもわれわれが歴史に接し続けていること、あるいは小説に接し続けていることを通して教えてくれるのが門井慶喜作品のよいところであって、それは小説以外でも変わらない。いやむしろあることについて「語ること」を強いられる評論というステージは、パースペクティブは、小説以上にそのことを自覚的にさせるのかもしれないとさえ思うのはこの本を読んだからだ。

 歴史ミステリを語る長編評論ということもそうだが、扱う作品群がのきなみ海外ミステリ(ラインナップは『時の娘』『緋色の研究』「アッシャー家の崩壊」『荒野のホームズ』『薔薇の名前』『わたしの名は赤』)なので、目次を見ただけでウッと(あたかもアレルギー症状のような感情を発)してしまう人は多いかもしれないけれども、むしろ本書はこれからそれらのミステリを読もうとする人にとっても、まだミステリを知らない人にとっても幸福な本ではないかと言いたい。なにしろこの本を読んでしまえば、それらのミステリをより深く、面白く読むヒントを貰えるのだ。まえがきでは「いわゆる小説暴露の問題については、本書ではなるべくこれを避けるように努めました」と記している。加えて「あらかじめ結末がわかったところで本質的なおもしろさは減じないものばかり。というか、その程度でおもしろさが減じるようならそもそも検討の対象にしませんでした」と強気のスタンスで作者がいっているのだから、こちらも安心して強気で向かっていける。

 とはいえ、できるなら傍らにインターネットへ接続できるデバイス(PC・スマートフォンなど)をおきながら本書を読むことをおすすめする。歴史小説や美術を題材としたミステリを書いてきた作者だけあって、いくつもの絵画を引き出しとして用意し、それが小説とどのように関連し、意味合いを持つのかを語ってくれるのだけれど(さらに親切なことにも文章中に図を載せてくれるのだけれども)、それにも限界があるからだ。言及されるすべての絵画をページ上に載せることはできないし、たとえあったとしてもモノクロ印刷であるので、カラーで見れたほうが作者の伝えたい情報が過不足なく伝わるだろう(そして気になった小説作品をその場で購入することだってできる。すごい!)。
 
 では本書は歴史ミステリのいったいなにについて語っているのか。読んだ人間からしてみれば、愚直なまでに歴史とミステリを語っている、としかいいようがない。

 さすがに味気ないので、もっと魅力的な言い方にしてみよう。『マジカル・ヒステリー・ツアー』は、呪術・歴史・観光(文明化以前・文明化の意識・近代化以後)という人類史の発展を俯瞰するようなタイトルが示す通り、ミステリあるいは歴史ミステリのマスターピースを語り歩くなかでミステリを、人類の歴史あるいは文化を、そしてそれらの連関を見出していく本なのだ。

 しかもそれがまるでミッシング・リンクを埋めていくかのような爽快さ鮮やかさで、おこなわれていく本でもある。門井は『時の娘』の、あのリチャード三世の肖像画に対し探偵のごとく「絵解き」をしてみせたかと思えば、かのホームズが産業革命から生まれた探偵だなんて、トントン拍子に推理をしてみせさえする。そして読者は、驚きを与えられると同時に、ミステリの持っていた広大な背景を知ることの幸福を与えられる。評論を読んでいながらにして、あたかも推理小説を読む快楽を感じずにはいられないのだ。口語体に近い文章で、なるべく簡潔な表現で書かれていることもその効果を高めているだろう。門井は歴史ミステリをめぐるツアーの水先案内人であるかのごとく歴史をミステリを分解し、読者にそれを開陳してみせていく。なぜあの探偵役はあんな風貌なのか、なぜ本格ミステリ作家クラブロゴマークには虫めがねが採用されているのか、ミステリが存在する前の時代を舞台にしてなぜミステリが生まれ、成立しうるのか、なぜポーの〈ぼく〉とデュパンの物語群でなく、ドイルのワトスン君が語り手を務めるあの物語群がミステリというジャンルを成立させるランドマークになり得たのか。読者である「あなた」は、ミステリという歴史の謎をめぐるツアーのゲストなのだ。

 しかし門井は旅の終わりに差し掛かったところで、この旅自体が同時に自己矛盾を孕んでいたことも語りはじめる。歴史ミステリという存在の自己矛盾、歴史ミステリを語ろうとする「私」の自己矛盾、歴史ミステリを書く「私」の自己矛盾。歴史ミステリを愛しているひとりの人間として、読者に対するたったひとりの水先案内人として、彼はそうせざるにはいられないのだ。そしてその自己矛盾の問いは、その本を読んでいる「あなた」にも感染する。あなたにとってミステリとは、歴史とは、歴史ミステリとはなんであるのか。

 そうして本書を読み終えたとき、あなたはひとつの映画を観終えたときの心地よい脱力感を憶えるにちがいない。そしてなにも映さなくなったスクリーンを横目にしながら、暖かい照明によって輪郭を取り戻した客席を去るときの、あの確かな足どりと、すこしだけ心強い気持ちを手にしているにちがいない。そしてきっと、あなたはあの肖像画が表紙に描かれた本を手に取るのであろうし、アメリカ大陸とロンドンのベイカー街とを結びつけた探偵の本を手に取るのだろう。なにしろ『マジカル・ヒストリー・ツアー』は評論でありながら、あなたを歴史とミステリの世界へといざなう歴史ミステリでもあり、ひとりの歴史ミステリ作家の物語でもあり、なによりとびきり上質なエンターテインメント経験を約束する本でもあるのだから。