摂取記録

 2000年代に入ってからの作家シリーズは本格ミステリでありながら、事件をどう描くか、といった部分に注力していたように感じていたが、2010年代は人物をどう描くか、という部分にフォーカスしているように感じられる。とりわけ読んでいて上手いなと感じるのは火村とアリス、ふたりの登場人物の事件や人物に対する所感が述べられるときだ。殺人事件を扱いつつも、探偵や助手の考えに独りよがりな説教臭さを感じさせないのは、ふたりのものの見方や接し方が彼らなりに分別をわきまえた結果だからであって(『46番目の密室』での彼らの言葉や接し方をみてみると、そうしたふるまいはシリーズを重ねるにつれて深化しているように思う)、それゆえに学生時代の火村を扱った事件「探偵、青の時代」はとげとげしい印象を与える。臨床犯罪学者という立ち位置が当初はハンター的な、いわば犯罪コレクターのような存在から、べつの存在へとシリーズが進むに連れ変容しているのではとつよく思わせる短編集だと思う。

虚構推理 (講談社文庫)

虚構推理 (講談社文庫)

 再読。やはりというか、あくまでエンタメにミステリの構図を持ち込んでいるという印象が強い。『テンペスト』の序盤で見せた、ある種の証明不可能だが言ったもん勝ち的推理が、ここでも最後の推理として述べられているのだといまになって感じる。そういう点では推理の土俵がそもそもオーソドックスな本格ミステリとは違うわけであって、昨今のコミックス化が「本格ではない」に対する完璧な回答なのだと思う。頭を働かせる箇所が違うというべきか。
 ただ、捨て推理があまりにも「捨て」でありすぎるのはどうか、と思ってしまうこともある。プレイヤー(推理者)がネット上で各々の意見を交流させるという点では『うみねこのなく頃に』を思い出させるが、あれができたのはひとえに本編の持つ情報量の多さがあったからだ。『うみねこ』は極端にいえば、些細なセリフのつながりから読者がストーリーをでっち上げる想像力のゲームとして成り立っていたのだが、くらべて『虚構推理』はデータの総量があまりにも乏しい。ゆえに「捨て」推理ひとつひとつに肉付けが足りない、パンチ力(訴求力といってもいい)に乏しい展開となっている。
 でっち上げる推理とデータ量の少なさについて言及するなら円居挽作品もそうだろうが、ルヴォワールシリーズであれば、核となる事件の情報量の少なさを、周辺情報の多さや、またそれを使ったミッシングリンクの穴埋め演出で補っている。そしてなにより、推理そのものの強度をストーリーや伏線が与えていたルヴォワールシリーズに対して、『虚構推理』はその多くを地の文に語らせることだけで終わらせている。これは、本質的な肉付けの弱さゆえにそうなっているのだろう。アイドルの死をめぐる推理合戦でありながら、どの推理も実体を持つことのない、どこか奥行きのない書き割りめいた印象を残してしまうのは、結局そういう部分にあるのだと思う。

来たれ、野球部

来たれ、野球部

 さすがは鹿島田真希といったところ。思春期の少年が、自殺した少女の手記を手にすることで、死の概念に引っ張られてしまうお話なのだけれど、作者の持つ文体コントロール能力の巧みさによって、その段階の踏み方がとんでもなくあっさりと、だがなまなましく描かれている。特に少年の内面世界が描写される際の語彙の選び方が秀逸で、PCゲーム『さよならを教えて』にあったような、視点人物の内面にある狂気や暴力性を描写する演出を思わせながらも、あくまで高校生男子の自意識であることからは逸脱しないようになっている。それゆえに物語は複数視点の描写による登場人物らの相対化がうまく機能するようになっているし、彼を救うことも出来るはずだという力強さも感じられる。
 キャラやエピソードの脚色されたわかりやすさと、そこに対する作り込みのバランスは、この作者だからこそできたのであって、ほかの人が書こうとしてもなかなかできないと思える快作になっている。ちなみに野球要素は一切ないといってよい。あくまで青春を謳歌する登場人物らの背景の一部として。