認知物語論から推理小説の探偵を考えてみる


 たまたま図書館で見つけた本がなかなか興味ぶかい内容だったので自分なりにまとめつつ、書いていきたいと思います。残念ながら自分は専門家ではないので、タームの使い方には間違いがある可能性がある点は留意していただけるとありがたいです。

認知物語論キーワード (IZUMI BOOKS)

認知物語論キーワード (IZUMI BOOKS)

 しかし、残念ながら当該本は絶版中。*1
 

■認知物語論とは
 そもそも認知物語論とはなんぞや、という話ではあります。さらにいえば上記の本も試論的なものであり、「学術用語として定着しているとは言えない」と書かれてあります。とはいえ、

 認知物語論とは認知言語学を理論ベースとする物語論を指している。

 と西田谷氏は述べています(脚注にリンクを貼った論文において)。では、認知言語学とはなにか、ということについても引き続き引用させてもらいます。

 認知言語学は、人の認知メカニズム(推論、思考、判断、知覚、記憶、連想等)の解明を探求するパラダイムを背景とし、意味構造が依拠する文脈は言語外に位置し、意味とは知識や信念の型に埋め込まれた認知構造だとする立場をとる。

 とあります。まだわかりにくいですね。
 つまり、認知言語学は、単純に言語単体の持つ意味だけでなく、それを認知する主体(≒受け手)の身体的な経験に寄りそうもの、といえばいいでしょうか。多少乱暴ではありますが、要はテクストの発信者だけではなく受信者側においても(どういった形でそれを受け取るのか、という)認知のメカニズムがあり、認知物語論はそれを言語だけでなく物語の分析にも広げて使ってみよう、というものだと思われます。
 また、こうした文学研究の周辺分野(こちらもまだ発展途中と思われます)のなかに認知詩学、というものがあります。これについては『認知物語論キーワード』から引用してみましょう。

 認知詩学の目的とするのは、読者がどうしてそうした解釈を導くかということの説明であり、作品の新しい解釈を提示することそのものは目的としていない

 と書かれてあります。
 これを認知物語論に敷衍するのであれば、読者がどうして特定の物語を「○○という話だ」と解釈できたのか、という問題への学問的アプローチととらえることができます。物語の解釈内容ではなく、解釈のプロセスそのものに対するアプローチ、ということになります。


■留意すべき問題
 まだ本論に入る前に述べておきたい点があります。認知物語論は言語研究と文学研究という二分野を統合する意味あいがあるように思われますが、ここには相容れない部分があるといっていいでしょう。
 まず理論的な言語学が一般性を求めるのに対し、文学研究はその作品単体を対象としているという点です。

(…)理論言語学者にとって、一般的でない主張(…)は重要でない。一方で文学者にとって個別的存在が一般論へと解消されることは、悪しき還元主義に加担することを意味することだろう。

 文学の立場からいうのであれば、これは当然といえるでしょう。個々の作品を分析・峻別していくことの意味がなければ、そもそも作品そのものの独立した意味がなくなってしまいます。反対に、言語は不特定多数の相手に伝達するためのシステムです。これが個々に違う意味を持っていては伝達手段として機能しません。
 加えて、こうした一般化というものは、言語学的には理論として運用可能であること(≒再現性)を求めますが、文学はそれを求めません。

 それゆえに、認知物語論のアプローチはあくまで”一般的な解釈”を算出する物語のメカニズムを対象するという立場をとります(これは中間領域であるのかどうかについては、正直自分にはわかりませんが)。しかし、この一般的な物語解釈、すなわち認知のメカニズムを分析することができれば、物語とはなにか、といった部分、あるいはどうして物語を読んで感動できるのか、という根本的な問いへと向かうことができるのではないでしょうか*2


■「図と地」からミステリを考える

 さて、ようやく本論に入りたいと思いますが、まずは、上記の図を見ていただきたいと思います。ルビンの壺ですね。

白い部分を図と見なすと壺、黒い部分を図と見なすと向き合った一対の顔が、それぞれ浮かび上がる。しかし、両者を同時に見ることは不可能である。ある〈意味〉をもって図が浮かび上がるとき、図の輪郭の外の地にあたる部分は視覚の場にありながら、〈無視〉されることになる。

 まさしくその通りではありますが、執筆者の日高氏は、これをテクストとの関係に敷衍しています。

 テクストに内在するレパートリイ(諸要素)のうち、ある要素がほかの部分よりも前景に見え、他の要素が背景に置かれるといった関係は、地から図が浮き上がって見えることと類似性が高い。

 さらに引用の引用になってしまいますが、日高氏はW.イーザー『行為としての読書』から、この図が反転することについて以下のような引用をしています。

 形式効果がそれまでの素地に引きつけられて、序列が入れ替わると、非常な変化が知覚に生じ、驚きとなって現れる。虚構テクストにあっては、前景と背景の分離線としての輪郭が知覚の場合のように明確に示されているわけではないが、前景と背景の入れ替わりは同じような効果をもつ。(略)この驚きこそ、読者が、自分を捉えている準拠枠を知覚し始めたことを示す。(太字は日高氏ではなく、このブログの引用者による)

 ここでいう「準拠枠」とは、知覚している読者側の経験とでも考えればよいでしょう。つまり読書のさいに用いられる前提知識やストーリーの蓄積。これが反転したときに、驚きが現れる、ということになります。驚きとは、経験の再認識だといえるかもしれません。

 これは私見ではありますが、「驚き」をそのようにいうと、まるで叙述トリックが起きたときの読者の体験に酷似しているように思えてきます。図と地の反転。ストーリーの反転。物語のどんでん返し。自分がこれまで読んできた物語は、じつはこうだったのか……、といった感覚。つまり認知における驚きは、ミステリにおける驚きとほぼ同義ではないでしょうか。


■ミステリにおける認知の諸問題
 さて、認知の驚きを叙述トリックの作用であるかのように、いま述べてきましたが、それはあくまで一例にすぎません。日高氏のイーザーについてのまとめをここで、また引用させてもらいます。

(1) 図と地は既存の知覚データを構造化しているのに対し、虚構テクストでは、前景―背景関係は初めからあるわけではなく、そこで行われている読者の選択を前提としている。
(2) 図と地が相互に交代する要因は外的な影響による偶然左右されるものである。これに対し、虚構テクストでの反転は、テクストの構造に左右される。

 (1)についてわかりやすい例を述べるのであれば、ストックトンの「女か虎か」でしょうか。結末を明示せず、あえて途中で物語を終えることで読者の印象を左右させる、ということです。ゆえに、ルビンの壺であれば、どちらが図でどちらが地か、決定不可能になっている状態となります。ここで読者が能動的に結末を解釈することによって物語の結末は決定されます。
 (2)のテクストの構造とは、どういうことでしょうか。これは、(1)で述べた、決定不可能を可能にするための構造といえます。
 つまり、ミステリにおいて、これは探偵の役割になるのです。どちらが図で地であるのかわからない状況を、探偵が(ある種の決定論的な)推理を述べることによって物語を整理するということ。テクストの認知において、探偵は特権的役割、つまり作者―読者間の情報伝達の「一般」化をおこなう存在として機能するのです。これは通常の小説とはあきらかに違っている部分といえるでしょう。ミステリはその構造ゆえに多義的な解釈を一点に集中させる物語になっているからです。


 それでは、具体的にどのような反転が起こるのか、例示してみましょう。



(※注 以下よりコナン・ドイル「技師の親指」のネタバレがあります)






 この推理における前景化という作用は、なにも叙述トリックだけを意味しません。たとえば、コナン・ドイルのホームズ短編「技師の親指」では次のようなくだりがあります。悪党のねじろがいったいどの方角にあるか、ホームズが推理してみせる場面です。

「(…)わたしは南だと思いますね――ほかの側よりも、一段と寂しい土地ですから」
「ぼくは東だと思うな」と、これは私の患者。
「わたしは西をとりますね」これは私服刑事の言だ。「そっちのほうには、静かな小村がいくつかありますから」
「ならばぼくは北だ」と、これは私。「なぜなら北には丘陵地がない。馬車が斜面をのぼっていゆく感覚はなかった、とここにいるご本人が言っている」
(…)
「諸君はみんな間違っているよ」
「しかし、みんなということはありえんでしょう」
「いいや、それがありうるのさ。ぼくの見込んだ点は、ここだ」ホームズは円の中心に指を置いた。「ここでこそ、この連中を発見できる」

 ここでは、「方角」という放射状に伸びていくイメージが当初の「図」であったにもかかわらず、その中心部であった「地」、つまり無視されていた部分こそが「図」であった、という反転がおこなわれています。まさしく、ミステリにおいては推理こそがテクストの構造として機能するということなのです。

 しかし、ここで注意すべき点があります。この反転は、テクストの構造に「左右される」ということです。

 つまり、ミステリにおいては、推理の有無そのものによって、テクストの意味が一義的に設定されてしまう危険も同時にはらんでいる、ということです。これは以前、自分が河添太一『謎解きドリル』問題解説 - ななめのための。を書いたときにも述べましたが、一般化されない推理がテクスト内に存在している場合、読者内部で物語が完結してしまい、ほんらい見られるべき内容が「無視」されたままになってしまうという可能性もあるということなのです。

 このように、ミステリはいわゆる物語論以上に、ジャンルそのものが認知の問題と密接に関わっているのではないかと思っています。ゆえに、それを利用した傑作ミステリがあらわれれば、とても面白いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。また、この決定性というものには、探偵による決定論幻想的な意味も同時に含まれているように思われます(ほんらい読書行為は、個々の読者によって多義的な解釈が与えられるはずであるため)。

 ちなみに上記の『認知物語論キーワード』については、「図と地」以外に「メタファー」「ダイクシス」「話法」「語り」「タイトル」「主題」「ジャンル」とそれぞれ小テーマからみた試論が書かれており、そのどれもが大変興味ぶかいものになっています。気になった方は書店では買えないので、図書館などで読んでみることをおすすめします。


 とりあえず自分は、

認知物語論の臨界領域

認知物語論の臨界領域

 を注文して、さらに詳しくこの問題について学んでみようと思っています。



謎解きドリル(1) (ガンガンコミックスONLINE)

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*1:いちおうネット上で検索してみると執筆者のひとりである西田谷洋氏の論文が引っかかりました。http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/680/1/kokugokokubun634632.pdfただし、これはなかなか学問的な内容を含んでいるのでわかりにくく、また「コミュニケーション」という部分に重きを置いているので、今回話す内容よりも論点が広がっています。

*2:この問題提起を持ったSFに、瀬名秀明きみに読む物語」があります日本SF短篇50 V: 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー (ハヤカワ文庫 JA ニ 3-5)