ある労働と背表紙の話

 唐突ではあるけれど、自分にはおよそ一年間にわたって、大型書店のいちアルバイターとして仕事をさせていただいた経験がある。もちろん比較的責任のすくないアルバイト戦士*1とはいえ労働であることに変わりはなく、作業がルーチン化していくにつれて自然と感情を失っていったことはいうまでもない。

 とりわけ精神に来た作業はいくつかある。たとえばアニメ誌の付録になっている抱き枕カバーの中身を詰める作業。これはとにかくつらかった。世間には愛のない性交というタームがあるけれど、書店のうす暗い片隅で、美少女キャラクターの下半身あたりに空いた穴にビニールやらなんやらを無理やりガサゴソと入れていく行為は、声にならない彼女の悲鳴を耳にしているかのようだった。気分はさながら、スナッフムービーの加害者側である。アニメキャラクターにも人権があってほしいとこれほどまでに願った瞬間は、あとにもさきにもなかったと思う。

 ほかにも、えっちなタイトルのライトノベルの在庫管理ばかりをやらされたり*2、存在しない小説*3をないとわかったうえで探させられたり、時給にもかかわらず超絶クレーマーとメンチ切り対決をしたりと、思い出せば枚挙にいとまがない。書店員のルーチンワークについては、大崎梢の諸作品を手に取ればわかることも多いので、これ以上の文を割くことは控えさせてもらう。

 とはいえ、やはり勉強になることはとても多かった。そこで仕事に従事するまでは、出版社に返品のできる本とできない本とがあることも知らなかったし、この世から万引き犯がけっしていなくならないことや、本屋には書籍以外にもモノを売るという戦い方があること、天候によって売り上げが大きく左右されることなどにも気づかずにいた。ゼクシィの付録がめちゃくちゃかっこいいことも、おそらくレジに立たなければわからなかったはずだ。干支がふたまわりも違う先輩から「活字中毒は不治の病だから覚悟しておいたほうがいい」とやわらかな笑顔を浮かべていわれたことも、おそらくいまの自分にとって、大切な糧になっていると思う。

 本の探し方については、当時の店長に直接指導された。考えるな、感じろ、ではなく「目で見るだけでなく、指も使え」といわれた。人間の視覚というものは思っている以上に信用できないので、平積みされているのでなければ、本棚に差しはさまれた背表紙の群れをするするとなぞっていくようにと実演してもらった。じっさい、そのようにしてみると、望みの本を見つけるまでのスピードが格段に早くなった。これは古本ハンティングにも役立つ手法で、仕事を辞めたのち、いわゆる「指さし確認」の応用であることに気づかされた。このときばかりは、勤労に感謝、いや失礼やっぱり訂正、人類の叡智に感謝せざるをえなかった。

 だから、並べ方もやはり、それにあやかろうと思った。出版社別、著作者別、五十音順に自分の本棚に文庫を差し込んでいくこと。そうしていくことで、みずぼらしい部屋の一画に、どこか誇らしさが生まれるような気がした。その状態になった本棚をサークルの同期が見たとき「お前それでも人間かよ」といわれ、あやうくその場に他殺体がひとつ生まれることにならなかったのは、むろん自分の寛大さに由来しているといっていい。とはいえ、まだ、そのことを許したつもりでは、ない。お前のことだよ。憶えているか。

 そうしてできあがった背表紙の群れをながめていると、当然のことながら色彩が気になってくる。早川のエラリイ・クイーンは青。ジョン・ディクスン・カー、コリン・デクスターは緑。創元のアーサー・コナン・ドイルは橙、といったふうに。これはもちろん海外作家だけの話にとどまらない。川上未映子の著作がいつだったか講談社文庫になったとき、村上春樹とおなじ黄色を選ぶことができたのを喜んで文にしたためていた記憶がある*4。すると、おなじ講談社法月綸太郎も黄色ではないか、と気づかされる。これは狙っていたのだろうか、と妄想する。そして目線をすべらせると、有栖川有栖は水色だ。ならばこっちはクイーンにあやかったのだろうか、とすこしだけいぶかしむ。真相は正直どうでもよくて、とにかく楽しければいい。なぜなら、これは個人の営みなのだから。

 けれども、このささやかな書物の王国にも終わりはやってくる。そう、引っ越し作業である。無情にもダンボールに詰められた本たちは文字通り生き埋めにされ、自身の居場所を失ってしまう。引っ越し先での作業はひたすら滞っていく。なぜなら部屋には逐次あたらしい本がやってくるからだ。もはや分類は不可能な状態、絶望的としかいいようがない。先輩が口にしていた「覚悟」とはこのことだったのか、と遅まきながらはっと気づかされ、人生の伏線を回収する。したくなかった。合掌。

 そのあいだにも、本との邂逅はつづいていく。ブコフやフルイチのように、心なき陳列がなされた棚の壁も、自分は古本乞食なので逍遥する。読む、積む、読む、積む、積む、積む、積む、読む。ダ・カーポ。フィーネはけっしてやってこない。

 そうした繰り返しと日々の雑事に追われながらも、「九ポイントは遠すぎる」という名を冠した文章と出会った。これはもちろん、ハリイ・ケメルマンの有名作をもじったものだろうと即座に察せられた。同時に、以前おなじ作者の本を読んだことがあったことを思い出した。

 白に、カップからこぼれたのであろう珈琲の染みだけが配された素朴な装幀。帯に書かれた「探偵」の文字に惹かれて読んだのだ。答えらしい答えは求められず、けれども文章は心地よく、いつまでもまどろんでいたい、という気持ちにされられた経験。そちらのタイトルには「習作」という単語が入っていた。となれば、このひとは間違いなく探偵小説愛好家にちがいないとようやく気づくことができた*5。そして次の瞬間には、古本屋の店主に数百円を差し出していた。

 営みは連鎖する。次にやってくるのは「作者買い」である。ありとあらゆる本棚から目的の文字列が配された物品だけを見つけ出し、買い物かごへと投げ込んでいく作業。そして回収された書物たちは、本棚の隙間へと差し込まれていく。

 すると、不思議なことに気がついた。その作者の手によって書かれ、出版された文庫たちの背表紙はほとんど、出版社をまたぎながらも、おなじ色をしていたのだ。集英社という例外はあったものの、講談社、新潮、中公、小学館。その四社はすべてが灰色だった。いったい、いつからこれを目論んでいたのか、としばし呆然とする。さきに触れた「九ポイント〜」は、クイーンやケメルマンの表紙デザインを務めた北園克衛氏について述べられた文章だ。恥ずかしながらこれを読むまで、北園氏が詩人であることを、自分は知らなかった。

 引用の引用になってしまうけれども、その北園氏が装幀について述べたことを下に記そう。

「理想の装幀」とは、「ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなもの」で、「出版社にとっては一向に有難くない」ものだ、と。

 以上のように引用してみると、自分が「作者買い」してきたいくつかの本の顔立ちも、ほんのわずかながら、べつの表情をまとってくるように思える。出版社ごとにデザインの方向性はもちろんちがってくるのだけれども、引用された「理想の装幀」をどこか目指しているかのような気配を感じるのだ。といっても、自分の頭はどうかしているので、当然、勘違いである可能性のほうが圧倒的に高い。

 最後に無粋ながら、この背表紙たちの色について考えてみようと思う。この作者が、探偵小説の愛好家である可能性については、さきに述べさせていただいた。そして、かの作家は、フランス文学への造詣も深い。訳業もしている。であるならば、この色が示しているのは、なにか。探偵小説とフランス語の邂逅は、やはりあの、ヘラクレスの名を冠した、ベルギー人の探偵を思い起こさせはしないだろうか。


 そう。「灰色の脳細胞」のエルキュール・ポアロである。


一階でも二階でもない夜 - 回送電車II (中公文庫)

一階でも二階でもない夜 - 回送電車II (中公文庫)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

*1:櫛枝実乃梨さんに愛を込めて。

*2:一部の女性店員にやらせたらセクハラで訴えられるんじゃないかとそのときは思った。

*3:念のためいうと、いとうせいこう存在しない小説 (講談社文庫)ではない。

*4:それを述べていた本がなんだったかは忘れてしまった。

*5:ドイル『緋色の研究』A Study in Scarletは、文脈を考えると緋色の習作 (河出文庫―シャーロック・ホームズ全集)のほうが訳としてあっているという説があるため。