摂取記録

 書きそびれていたので、また書く。

ツタよ、ツタ

ツタよ、ツタ

 帯が表紙の画を活かすようにデザインされていたのが気になったので、昨年末に買って読まずにいたもの。作中で明言はされていないものの、ネットで作者のインタビューなどを検索すれば、この主人公「ツタ」が久志芙沙子という実在の人物をもとに書かれた小説だとわかる*1。世間には発表した小説で知られているものは1932年の婦人公論に掲載された「滅びゆく琉球女の手記」というもので、現在残っているのはその一部のみ。婦人公論に掲載された直後、抗議により、以降の掲載は中止。次号には「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」を載せたとのこと*2
 むろん、現在残っている資料をもとにした小説であっても、わずかな文章からその人物の生い立ちをすべて書けるわけではないので(仮に周辺人物への聞き取りがあったとしても)、作者が架構した「ツタ」という人物造形はおそらく空想の部分が多いと思われる。女学校時代の話や、その後の教師生活、結婚生活。そのなかにときおり、不安定といっていいような熱のこもりかたをした心情が押し寄せ書くことへの情熱へとつながってゆき、しかしやがてそれも自分の周囲との温度差や軋轢によって失われていく。そういうと、どこかありきたりな言い分に聞こえてしまうのだけれども。
 とはいえ、その一度終わったものを周囲が掘り返したことによって後天的に、あるいは決定的に与えられた称号がたぶん、現代を生きるひとにとってのツタ≒久志芙沙子のイメージで、それは同時にこの小説の肝ともいうべき部分にもなっている。けれども全体を俯瞰してみると、ところどころ見え隠れするように、彼女の感じたささいな違和や他者とのズレという部分はリフレインされているのであって、むろんそれは最後まで頁をめくった読者との間にも生まれている。
 極論をいえば、彼女(作者でありツタ)が何度か記述している「ユタ」の概念を読者である自分は最後まで把握できなかったし、そこに代入するような概念も持ち合わせていない。それでも人物記としては成立するし、そのように消費できるのだと思う。

 藤井光先生によるアメリカ文学案内、というと語弊があるかもしれない。本書のほとんどは当人が文學界などに訳して掲載してきた短編を中心に構成されているので、そのあたりの作家(たとえばウェルズ・タワーやマヌエル・ゴンザレスなど)に聞きなじみがあるかどうかで、だいぶ印象は変わってくる。
 反対にいえば、それさえつかめればかなり刺激にあふれた内容の本だといえる。書名になっている「ターミナル」は駅ではなく国際線のある空港のことで、どの国であってもその内部で見ることのできる光景はあまり変わりがないという。たしかに、つるつるとした光沢のあるタイルに電光掲示板、コーヒーショップ、そして書店にはハルキ・ムラカミの文字。こうしたグローバル化した世界のイメージを糸口にして、藤井は「ターミナル言語」としての英語について言及する。藤井の訳す作家の多くは母語を英語としていない。第二言語で英語を使っているからだ*3。彼らはそうした英語を駆使して、いわゆる20世紀的なアメリカ像からすこし離れた、どこかポップで寓話的な物語を描き出している。
 けれどもそのいっぽう、ポップな風景からすこしピントをずらすだけで、あまり希望の見えない世界が映ってくるということもいえる。それは荒れ地としてのアメリカだ。自己矛盾に満ちた行動原理や先行きの見えない状況、紛争地域での混乱。「俺はなにをしているのか?」という自覚的な問いかけは、『煙の樹』や『ビリー・リンの長いハーフ・タイム』(『ビリー・リンの永遠の一日』として昨年訳された)などの戦争を扱った小説で特にその顔立ちをつよくしている。残念ながら両者とも自分はまだ読めていない。『ビリー・リン』のほうは『ブロークバック・マウンテン』や『ライフ・オブ・パイ』のアン・リー監督によって昨年映画化されたが、日本での公開は未定とのこと。

 『ゲンロン0』を読まなくてはと思っていたのだけれど、その前にこちらに目を通しておいたほうがいいと思ったので手に取った。書いてあることはおそらく『0』への橋渡しとなりつつ、微妙にブレている可能性が多いにあるだろうが。
 主な主張としては、ネットから離れることはできない、ましてやSNSは関係性を強めていくツールであるのだから、逆にこっちがネットをうまく利用していくためにはどうしたらいいか、という考えを、各国(おもにアジア諸国)を旅した経験をもとに語るというもの。モノに直接触れる経験(グーグルストリートビュー的な瞬時切り替え可能な経験ではない)を通して、一か所にとどまっているような生活では得られない検索ワードを手に入れることがその解決策として提案される。おそらくこうした態度が「観光客」の哲学につながっていくと思われるのだけれど、いっている内容はかなりまっとうなインターネットとのつき合い方であるので、どのように哲学としてつながっていくかは見当がつかない。
 ただ、前述の藤井光先生は『ゲンロン0』を読んでどこか共感するところがあったらしいので、おそらく氏の提唱する「ターミナル言語」のもつニュートラルなツール的(あるいは意図的なズレをはかっていく)性質は、「観光客」の一か所から移動していく性質と似た側面を持っているのは比較的想像ができそうだと思う。

 とりあえず四巻まで読んだ。さいきん読んだ本でいちばんエンタメをしている。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 ミステリばかりを読んでいると、どうしてもレトリックというものに対して、いわゆる「詭弁」という意味合いをつけたがってしまうものだけれども、どうも19、20世紀あたりまでの歴史もレトリックに対しての風当たりは予想通りというべきか、当初は必要とされ、その後風当たりがどんどん強くなっていったものらしい。そうした歴史的な背景を多くの書籍からまとめあげ、かつ、その技術(と芸術)を復権させるべく書かれた本。実用目的ではなく理解のための本であるので、読んだからレトリカルな文章を書ける、というわけではないけれども、凝り固まった頭をほぐしてくれる点では今年読んだなかでいちばんだと思う。続編『レトリック認識』にも手を出していきたい。

 ポスト『苺ましまろ』と呼ばれているので読んだ。連続したコマ割りを使って時間経過を描写する手法や、カメラを引いてみせるやり方はたしかにそれっぽく、おそらくそのやり方を意図的に使うことのできる(あるいは使おうとする)漫画家はかなり少ないのだと思われる。巻数を重ねるごとにポストましまろっぽさはなくなっていくのですが、たぶんばらスィー氏の本領はシュールにあるのだろうと再確認できたので、よいでのはないでしょうか。というか三巻がいちばん面白かったのでポストとか関係なく続いてください。

 PS3でプレイ。いちおうサスペンス形式ですが、そんなことよりティーンズの自意識ドラマは最高ですね。随所にあるサブカル要素や舞台が「らしさ」の塊になっていてとてもよい体験でした。続編がどうなるかはわかりませんが、彼女たちの行く末を見守りたい気持ちでいっぱいです。

*1:Webジェイ・ノベル|実業之日本社の文芸webマガジン -「J-novel」〈書くこと〉を物語に 大島真寿美-

*2:経緯については滅びゆく琉球女の手記:沖縄文学館で簡潔に書かれてある。

*3:いわゆる世界共通語的なニュアンスでの英語ではなく、表現ツールとしての言語に近い。