摂取記録

映画の授業―映画美学校の教室から

映画の授業―映画美学校の教室から

 先日精華大学で黒沢清監督の講演会があったとのこと*1で、いけなかったけれど気になったので手に取ってみた。脚本・演出だけでなく、撮影や録音・編集などじっさいに映画を撮る人たちに向けられた(実践的な?)本のためか、カメラに触ったことすらない映画素人にはなかなか厳しい内容だった。いまだに映像における「運動」というものがよくわからないのはたぶんそのあたりの経験値が不足しているからであろう。
 反対に、シナリオ・プロットについては一般的な小説指南書とも違った部分が多く、参考になった。たとえば映画撮影という集団行動をじっさいにするためにはどうしても周囲がおなじヴィジョンを共有する必要があるため、企画面や情報の提出方法(つまりじっさいの映像をどう撮っていくか)などについてまで考える必要がある。
 振り返ってみると、ふだん自分が小説を読むときはどのように読むか、という話でもある。たとえばチャンドラーの一筆書きのような文体は、周囲や人物の細かい点にまで言及するが、おそらくそれをカメラで撮ろうすればそういった情報を追うほどに時間が取られてしまい、テンポがかなり悪くなる。といっても一人称視点の文体だからといって読んでいる人間がその主体となる人物の視覚を共有するような読み方をしているとも思えない。どちらかといえばTPSのようにすこし後ろから追ってきては、適度なタイミングで切り返しのカットを用いていくようなカメラワークだろうか。これは作品の文体、語彙、テンポにおおいに左右されるが、むしろここには映画的な感覚に自分の思考が浸食されている証拠でもある。そういうふだんの考え方について、凝り固まった部分を揺らしてくれる体験だった。


 最後に読んだ津村作品が『ミュージック・ブレス・ユー』*2だったので、労働をメインした小説で、かつ出オチでパワーのある台詞をごんごんとぶち込んでくるという作家というまったく知らない面を見せつけられ、あ、これは面白いに決まっているぞ、と気づけば併録の「地下鉄の叙事詩」まで読んで体力が完全に吸われてしまった。次あたりは『君は永遠にそいつらより若い』*3に手を出し、ずぶずぶと津村作品にはまっていくのでは、とおもう。

死体格差 解剖台の上の「声なき声」より

死体格差 解剖台の上の「声なき声」より

 ミステリを読んでいる割には解剖学や解剖医の書いたものを読んでいない、ということに気づいたので最近刊行されたものを。読んでみるとやはりやるせいない気持ちになる部分は多いものの、文章は明確で過不足のないようにしようとする意図がうかがえて、わかりやすいと素直に思える本だった。具体的な内容はひとによってはあまり好ましくない描写もあるので控えるが、まえがきに書かれた内容はミステリの短編のようでもある(そういうと不謹慎でもあるが…)し、興味をひかれたのであれば読む価値はあると思う。司法解剖と承諾解剖といったものの区別もわからなかった自分には、大変ためになる内容だった。

書架の探偵 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

書架の探偵 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 原題は『A Borrowed Man』。文字通り、未来の図書館に「蔵者」として存在する主人公が借りられることによって物語がはじまる。語り手である作家E・A・スミス(綴りはSmithe)自身、書いた憶えのない著作である『火星の殺人』を見せられ、どうやらそれが原因で人がひとり、殺されたらしいという。この作家を借り出したのはその被害者の妹であるコレットで、どうやら莫大な資産を持っているらしいことがうかがえる。スミスは過去の作家の記憶をインストールされた複生体(リクローン)であり、一般的な人間との見た目の違いはさほどないものの、人権はない。あたらしく小説を書くことも許されていない。むかしの探偵のように慇懃な口調で話すことを強制されている(本人が話したい口調で語ることはできないよう「精神ブロック」が施されている)。彼の語りに付き添っていくことで、物語は進んでいく。
 ジーン・ウルフのファンであれば、この主人公であるEのつくスミス(Smithe)にウルフ(Wolfe)のEという共通点を見出すことはさほど難しくないとおもう。解説の若島先生が述べるように、その名前からはいくつもの作家のエコーを感じとることもできるはずだ。こうした言葉あそびはウルフの得意とするところで、作中に名前だけ登場する「アリス・キャロル」といった存在も、まさしくドジスンが自身をドードー鳥として登場させた夢物語を想起させる。これまで邦訳された作品群に比べて、大きな(かつ解釈の難しい)仕掛けはすくないものの、おそらく終盤になるにつれ、なぜあたらしい作品を書くことが許されなかった作家自身が「語り手」であるのか、という謎への答えが暗示されるのが、やはり肝だろう。向こうのウィキペディア*4によればジョン・クルートはE(アーン)・A・スミスという名前は並び替えることで別の意味にもなるということだが、そこまで考えるかどうかは読者の自由でいいのではないか、とも思う(気になった人は読了後にリンクを調べればいいとおもいます)。
 物語の途中に出てくる「エメラルド」や「カカシ」といった存在は『オズの魔法使い』を思い出させるし、ファンであれば、初期作品である「眼閃の奇蹟」を思い出すかもしれない。本作は後者の作品にあるような象徴性は(あまり)見られないし、それと同じレベルの驚きを期待することは難しいかもしれない。とはいえ、ウルフ本人はこのシリーズ二作目を考えているというし、本にまつわる世界はもうすこしだけ続きそうだ。願わくばこの調子でウルフのほかの作品も邦訳がなされるとよいですね。