どんぐりを拾うように、

 この一年ほど、須賀敦子の文章に手を伸ばしていることが多くなった。

 作家としての須賀敦子をはじめて意識したのは、kindleのセールで割引されていたときだったと記憶している。内容紹介を見てなぜか書評集と勘違いし、そのため肩肘の張っていないタイトルと表紙の醸し出す様子が好ましく思えたのだ。

 じっさいの内容は、作者が幼少期から大人になるまでに触れた本にまつわる経験を回想するエッセイふうの文章で、だから、それを手に取ったのは偶然のようなものだったと思う。いまも確認できるアマゾンの購入履歴によれば、二〇一五年の七月に購入したらしい(レシートをとっておかない人種なので、こういうときは、情報社会の利便性をとりわけ思う)。

 といっても、そのあとすぐ一息に読んだわけではなく、夜眠れないときなど枕もとで充電しているスマートフォンをたぐり寄せたのち、読書灯の要らない画面に表示された文字列をながめて睡魔が訪れるの待つ、ということをくり返すようにして読み進めていた。

 もちろんそういう本の読み方をしていたのはこの一冊だけではなかったし、いまでも電子書籍をたぐっていく速度は紙のそれよりもかなり遅かったので、たぶん読み終えるまで、半年くらいかかっていたのではないかと思う。だから本格的に彼女の文章へ手を伸ばすようになったのは、それからさらに一年後くらいになる。

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

 自分の不明を恥じるつもりでいうと、書誌情報もよくわからないまま(そもそも作者の名前もぼんやりとしか知らないまま)この本を受け取っていた。

 だから、これが作者の没後刊行されたものであったことも気にせずに読み進めていたし、須賀敦子というひとを、翻訳やエッセイを手がけていた存在として意識するようになったのはもっとあとのこと、つまり前述のとおり今年のはじめごろになる。けれども、この『遠い朝の本たち』からみえていたのは、そうした経歴よりもずっと素朴な、ひとりの文学少女だったと思う。

 とりわけその印象をつよくさせたのは「『サフランの歌』のころ」で、毎月本屋から家に届けてもらう雑誌を「とりわけ好きだったわけではない」という「小学〇年生」から、母に頼み込むことで「少女倶楽部」へ、そしてそこから「ずっと都会的な」表紙を持っている「少女の友」へと段階的に変えていったくだりだ。

 関西から東京へと引っ越し、変化した周囲の環境への居心地のわるさを、とりわけ学校という場所に感じていたはずの子供が女学校へと進み、中原淳一の挿絵にのめり込んでいくという姿は、典型的な当時の少女そのものに思えたからだ。

 須賀敦子と同世代である皆川博子が書いた小説にも、女学校と戦時下が描かれてるものがあったけれど、自分には、そのふたりの描いていた像がパラレルに映ってみえた。母親から竹久夢二のほうが上手かったといわれ、どこか反発心のようなものを憶えるというエピソードも、どこかほほえましくみえる。

 けれども須賀敦子という人物は、純粋な文学少女というのともすこし違っていて、一歩前から引いてみることもができた子供なのではないか、という印象も同時にあった。無邪気に小学〇年生の「おまけ」に喜べないのもそうであるし、当時絶大な人気を誇っていたであろう吉屋信子の書いた「顔のみにくい少女」が登場する話に接したときの態度も、それを表しているように感じられる。

(…)私は、こんなふうに鏡なんかをひっぱりだしてきて、読み手をぞっとさせる雰囲気を創り出している吉屋信子という作家を、半分は尊敬したが、あとの半分はなにかの「ふり」をしすぎていることばづかいに嘘っぽさがあって、そのことがいやだった。

 もしかするとこれは、あとになってから過去を振り返った人物特有の、よくよくいえば「客観的な」冷めた態度なのかもしれない。しかし須賀の言葉は、振り返る、という回顧的な意味あいよりも、のちのちへの予感を憶えさせる書き方をすることで、そうした俗っぽい態度を(おそらく文章的な巧みさによって)うまくかわしている。川端康成吉屋信子の小説に出てくる「花」に触れたあと、須賀はつぎのように書いている。

(…)そのことから、自分もいつか花について書いてみたいと漠然と考えたが、小説のなかで使われている「ことば」のうえの花が、花瓶に活けておくと枯れて腐ってしまう花や、道端に咲いている花とは、どこかすこし違っていることに、そのころ私はうすうす気づきはじめていた。

 それは戦時下に描かれていた、中原淳一のあの「なよなよした」絵に「この世が現実だけではないという事実」を感じていたという、少女たちが抱く一種の紐帯へと注いでいた、どこかロマンチックな熱っぽさとは違っている。彼女はそこからもう一歩ずれた場所にいる。文章そのものへのしずかな態度を「気づきはじめていた」という末尾の言葉だけで語っているかのように思える。

 ものを書くということへ須賀の態度は、彼女の文章のあちこちに、それも否応なくつきまとっている。『遠い朝の本たち』をさいきんになってから、たまたま物理的な書籍として手に入れたので、この数日、思い出しながらページをめくってそのことに改めて気づかされた。この本の最初に記されたエピソードである「しげちゃんの昇天」では「『サフランの歌』のころ」にあった、読むひとから書くひとへ変化する予感というかたちではなく、しかし正面から向いあうことのできない未発達な面映ゆさとしてそれを描出している。

 女学校のなかで国文クラブに入り、堀辰雄の世界にあこがれ、周囲に隠しながら小説を書く友人の「しげちゃん」と対比されるように、英文クラブに入っている「私」という状況が語られたのち、須賀はそのときの内面をそっと綴っている。

(…)国文クラブのほうが、実のあることを書いているかもしれない、としげちゃんが言ったことがある。英語じゃ思うように書けないでしょう、ことばが自由にあやつれないから。私は、それはそうかもしれないけれど、日本語でものを書くなんて、それを同級生に読まれるなんて、とてもはずかしくて、てれくさくて考えられなかった。じぶんのなかのことが、みんなにばれてしまう。せめて英語だったら、下手な分だけ、カムフラージュできる。そう思っていた。

「そう思っていた」というのが、絶妙な距離感を引き出している、と思う。というのも、書くひととしての予感を忍ばせた花と言葉に対するエピソードがその数編ののちにあるというのに、じっさいに「日本語でものを書」いている文章がいちばん最初に配置されているのだから。こう言い換えると一部は眉をひそめてしまうかもしれないけれど、一種のメタ的な語りによって、そうした距離感覚を読者に対してつかませている印象がある。

 そしてなにより、ものを先に書いていた「しげちゃん」は、卒業ののち北海道のカルメル修道院に入り、結局ものを書きつづけることなく、話の終わりで亡くなったことが彼女のお姉さんからあっさりと告げられる。この物語の末尾で「しげちゃん」と「私」の立場は、まるでたましいを引き継ぐかのように入れ替わっているのだ。

『文藝別冊[追悼特集]須賀敦子』の作品解題によると、この『遠い朝の本たち』は「どの著作よりも魂の自伝という趣をもって」おり、「その自己形成の原風景に遡る」一冊だという。いくつかの作品を読んでから、ここに立ち返ると、まさしくその通りだと思う。

 ところで須賀の足跡をたどっていくよるべとして、文學界の編集長を務めていた湯川学の『須賀敦子を読む』が参考になる。須賀の文に接するさいの重要事項として、湯川はつぎのことを述べている。

「書くという私にとって息をするのとおなじくらい大切なこと」と、須賀敦子は一九九二年に書きつけた(「ふるえる手」『トリエステの坂道』所収)。この言葉には、少女時代から「書く人」になりたいと願いつづけ、五十代も半ば過ぎてようやく自分の文章を書くことができた須賀の強い思い入れがあるだろう。そして須賀は本気でそう思っていたに違いない。
 ひとまずその言葉に導かれて、須賀の文章を読みこむことが、私がとろうとする方法である。(…)

須賀敦子を読む (集英社文庫)

須賀敦子を読む (集英社文庫)

 上記の本は須賀が生前に発表した五つの著作を中心に、彼女の年譜と周辺作品をところどころはさみ込みながら、丁寧に読み解いていくものだ。湯川は「カトリック左派」と呼ばれるひとびとの集まりであった、一種のサロン的な空間の出来事を綴った『コルシア書店の仲間たち』からそれをはじめる。

 けれども須賀のもつ、登場人物を活き活きと(活発、という意味ではなく、目の前にいるかのように)語る技巧とは裏腹に、自身のことについて、またその宗教的な内面について、彼女は直接語ることを避けていたのだと湯川は指摘する。

 須賀の宗教的側面については、堀江敏幸が『須賀敦子全集第3巻』に寄せた「夕暮れの陸橋で」(のちに『余りの風』に所収)においても触れられている。堀江は『ユルスナールの靴』から、ハドリアヌス帝の閉じこもった*1「島」、ユルスナールが移り住んだマウント・デザート「島」、そして須賀がヴェネツィアを通して、『地図のない道』で語った「島」のイメージへとそれぞれの点を結ぶようにつなげていく。

余りの風

余りの風

 堀江の語りはどこか地に足のつかない印象を与える(むしろ島から島という印象をつよめるために意図的にそうしている可能性もある)が、おそらくこれには理由がある。いくつかの点を通ったのちに須賀が求めようとしたあらたな目的地、つまりあたらしい島として、これまで避けられていた「宗教と文学」もしくはそれらの統合としての、ついには書かれなかった「小説」があったことを、浮かび上がらせるふうに述べようとしているからだ。

 翻訳(ここには日本の小説群をイタリア語に訳したこともふくまれている)とエッセイというふたつの分野で活躍してきた須賀敦子は、その晩年においても、まだ「小説」に対してはその手を伸ばしてはなかった。そのあたらしい島へと向かう中間地点として、堀江は一九九六年「新潮」一月号に掲載された、「古いハスのタネ」というシモーヌ・ヴェイユを彷彿とさせる断章群に着目する。彼女の点々とした言葉のつらなりは、最後には吉行淳之介「樹々は緑か」の主人公がもっている、消極的ではない、意志のある逡巡へとすべり込んでいく。

 この文章のなかで、須賀は「この小説がそのさき、どういう展開になったかどうか、鮮明な記憶はない」とあらすじを読者には明かさず、ぷっつりと途切れるように結んでしまう。にもかかわらず、「もし、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか」とこぼしてもいることに堀江は言及し、そのどこか機が熟すの待っているような、停滞に満ちた「曖昧な時間」を、須賀の至った小説への中途として重ねあわせている。

 対して、湯川豊は、須賀敦子の『ユルスナールの靴』への態度は異なっているものの、「宗教と文学」という須賀が求めようとした地点については、堀江敏幸と近しい位置にある。ただし、そこへ至るためのアプローチは堀江のように文学そのものの内側ではなく、外部から入り込むようにして見出そうとしている。

『コルシア書店の仲間たち』で語られたように、須賀はイタリアでカトリック左派と呼ばれる運動の拠点である書店の運営をおこなっていた。年譜によれば、一九七一年に日本へと帰国した彼女はその翌年、エマウス運動に参加している。湯川はそれを「自然に一貫している社会活動だった」と述べている。

 エマウスというのは端的にいえば廃品回収による慈善活動であり、須賀は七三年には練馬区修道院に「エマウスの家」を設立し、その責任者となっている。そして湯川も堀江と同様に、ヴェイユと須賀のあいだへとその筆を進めていく。

 けれども、ここでいったん、須賀が取りかかろうとしていた『アルザスへの曲がりくねった道』について説明する必要があると思う。この未完に終わった小説は、未改稿の序章と、いくつかの創作ノートとして残されている。湯川は、その序章にあたる「わたし」と修道女オディール・シュペールとが語りあう、第二ヴァチカン公会議の「刷新」という話題に焦点をあてる。

 一九五八年に開催されたこの公会議は「現代社会のかかえる問題から決定的にとりのこされている教会を、どうやって今日のわたしたちが生きている時間に合わせるかについて、討議し、策を練るのが目的」としている。そのキーワードが「刷新(アッジョルナメント)」で、須賀によれば「今日という時代にあわせる」という意味をもつイタリア語だという。

 とはいえ、この小説における「わたし」はいままで須賀敦子と等号で結ばれていたエッセイの、いわば観察者的に人物を活き活きと描き出す「わたし」とは明らかに異なっている。彼女は積極的にみずから言葉を重ね、人物との距離を取ろうしない。むしろそこに近づこうとさえみえる。

 残念ながらその公会議のくわしい部分については、自分がそこまで明るくないこともあるため、積極的に触れることはできない。ただ、この「刷新」の会話がどのように結ばれるか、湯川が長く引用した部分を併記しておく。

目の色を変え、息もつかずに話しつづけるわたしを見て、オディール修道女は大きくうなずきながら、わらっていた。どこから手をつければいいのか、わからないのよ、わたしは。日本に帰ってきてよかったのかどうかも。暗い顔をするわたしを、彼女は肩をすくめて、なぐさめようとした。あなたのいうことに賛成はするけれど、腹をたててもむだよ。教会が変わらなければならないことは、わたしにもわかるけれど、どういうふうに、という問いの答えは、存在しないわ。ひとりひとりがそれぞれの答えを見つけるっていうことね。

 さらに湯川は「ノート1」に記載されている部分に注目する。オディールという人物のもとになっているのは、一九七二年ごろに聖心でフランス語を教えていたマザー、オディール・ゼラーという実在の人物なのだが、ノートには「私が現実に知っていた彼女とはずらせて、たとえば、シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく。」とある。

 シモーヌ・ヴェイユ(一九〇九〜四三)は、ユダヤ系でありながらカトリックの信仰をもっていた人物だが、創作ノートからは、残念ながらこれをどのように発展させていくのかは読み取れない。

 ただし、この断片的なノートを湯川は、先に触れた「古いハスのタネ」につなげていくかたちで、もうひとつの創作ノートとして捉え直そうとする。ヴェイユのおこなっていた労働の実践と信仰のなかに、須賀の小説の萌芽を、コルシア書店、そしてエマウスからつづいてきた彼女の信仰と、そこから一定の距離を保っていた文章とが交じりあうひとつの点を予感させる。そうすることによって、『須賀敦子を読む』という本を結んでいる。それは違うかたちであっても、堀江敏幸の書いた「あいだ」の感覚と呼応していることは、いうまでもない。

『遠い朝の本たち』から書いてきたこの文もかなり長い道のりをたどってきたけれど、ここで最初の物語であった「しげちゃんの昇天」へと戻りたいと思う。堀江敏幸は「幻視された横道―須賀敦子ユルスナール』の靴をめぐって」(『書かれる手』所収)のなかで、「しげちゃん」の原型とおぼしき存在に触れているからだ。

書かれる手

書かれる手

 この文章のなかで堀江は、須賀の雑誌連載に大幅に手を入れる執筆スタイルに言及している。といっても、それじたいは特別ではなく、どの作品においても須賀はそのようにしている。けれども、自分はこの『ユルスナールの靴』の決定稿で削除された部分について考えたい。

 その挿話に登場する人物の名前は「ようちゃん」といって、須賀の一歩先を示すような存在として描かれている。「彼女のいうことが、じぶんには、ぜんぶ理解することはできないけれど、つねにこっちよりもすぐれている、というふしぎな感覚」をもたらしたという。この「ようちゃん」は北の街の修道院で、雪の日に足を滑らせ、転倒して頭を打ったまま動けずに凍死してしまう。そして彼女の訃報を知ってその姉を訊ねた須賀は、倒れて死んでいるようちゃんの写真を見せられるという、ショッキングな出来事に見舞われる。

 この「ようちゃん」という、一度は決定稿において秘された存在は、やがてその性質を引き継いだ「しげちゃん」として、また、須賀の一歩先を行くような、ものを書くひとととして、現れている。

(…)どうして日本語で小説を書かないの。そう言って、じぶんが書いた小説をしげちゃんは読ませてくれた。うすい鉛筆で、くるんくるんしたような特徴のある、変体がなまじりの字で書いてあって、原稿用紙百枚もあっただろうか。その厚さに、まず、私はとてもかなわないと思った。ふしぎなことに、いま、その小説のすじを思いだそうとしても、なにも思いだせない。(…)

 前述したように、この「しげちゃん」も「ようちゃん」と同様に、北の地で亡くなっている。そして須賀は彼女たちの死を、その姉にあたる人物から間接的に与えられる。しかし「しげちゃん」の書いた小説のあらすじはなく、「ようちゃん」もまた、その存在じたいがなくなっている。そして残っているのは、須賀の書き連ねた文章だけだ。

 存在していたはずなのに不思議となくなっているような、思い出せないことだけはたしかに憶えている感覚を、自分はそこに感じる。より引きつけたかたちで言い換えるのなら、堀江の述べたような「あいだ」の感覚をそこに見つけたいと思っている。ものを読むひとから、ものを書くひとへの変遷。そのあいだ。翻訳からエッセイ、そして完全なかたちでは存在できなかった、小説へのあいだ。

 それから最後に、というよりここからは完全に想像の領域になるのだけれど、これまで触れなかった須賀敦子の訳業で、個人的に気に入っている部分について語りたい。それは、イタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』だ。

なぜ古典を読むのか (河出文庫)

なぜ古典を読むのか (河出文庫)

 カルヴィーノは「なぜ古典を読むのか」のなかで「古典」の定義をおこなっている。だがこれは確定的なものでなく、語るうちにその定義そのものを変遷させていく。計十四個にリストアップされていく古典の定義は、いかにもカルヴィーノらしい性格というか、どこか飄々とした文章といえるかもしれない。ここでは、その九つ目の定義を引用する。

9 古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知り尽くしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。

 この前後の文脈についてはカルヴィーノをじっさいに読みたい人に任せるとして、じつはこの須賀の訳には、もうひとつのヴァリアントが存在していることについて言及したい。それは『塩一トンの読書』の冒頭に綴られている。

「古典とは、その本についてあまりいろいろな人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ」

 浅学のため、自分はこの原文を読むことはできないけれど、このふたつの訳文には不思議と引きつけられてしまう。もしくは、自分のほうに引きつけようとしてしまう。

『なぜ古典を読むのか』がみすず書房から出版されたのは、ネットのあやふやな情報に頼るのであれば、一九九七年の十一月のことだ(当然ながら、そこは前後すると思われる)。対して「塩一トンの読書」は、河出文庫版の初出一覧によれば、一九九三年の五月、岩波書店から『読書のすすめ』に掲載されるかたちで世に出ている。そしてこの文章はのちに岩波文庫として再録され、こちらは一九九七年十月十六日に刊行されている。

 つまりこのヴァリアントは、過去からの声を引き継ぐようにして、あるいはあたらしく書かれるようにして、たったひと月の差でうまれた双子のような存在になったのだ。だからこそ、ここで彼女の訳をもう一度読んでもらいたい。自分がどうしても引きつけられてしまうのは、最後の一文の、たった一箇所だ。

 そこには「読む」と「書く」という、ふたつの「あいだ」が存在している。あたかも「しげちゃん」から引き継ぐように入れ替わった「書く」という行為が、今度はあたらしく「読む」ものへと変わっていくかのように。自分はそこで、須賀敦子はずっと、ものを読むひとから、書くひとへと向かおうとした人物であったのではないのか、といっときのあいだ、立ち止まり、逡巡してしまう。

 けれど、ほんとうはここで迷うことはないのだと思う。須賀は「書く」ことと「読む」ことを、結果としてパラレルに存在させている。それはどこか示唆的な偶然だと思ってみたい。読まれたのちに書かれたものが、やがては古典と呼び習わされるその変遷を、自分はながめたい。たましいはそのようにして、本というものは、常にふたつのあいだを入れ替わっていく。もしかするとその「曲がり角の本」には、ひとりの文学少女の横顔が、ちらついてみえているのかもしれない。

 何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさにいえば人生の選択を左右することがある。その子は、しかし、そんなことには気づかないで、ただ、吸い込まれるように本を読んでいる。自分をとりかこむ現実に自信がない分だけ、彼女は本にのめりこむ。その子のなかには、本の世界が夏空の雲のように幾重にも重なって湧きあがり、その子自身がほとんど本になってしまう。

 だから、彼女は本になったのだ。

須賀敦子―霧のむこうに (KAWADE夢ムック)

須賀敦子―霧のむこうに (KAWADE夢ムック)

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)