百合SFの完成形の話 伴名練「彼岸花」を読んで思ったこと。

 読み終わり、三時間ほど発狂していました。いまはあの、正気に戻り、鎮静剤を打ちました(だから正気です)。いまから伴名練「彼岸花」の気持ち悪い感想を述べたいと思います。小説を読み、人生でここまで打ちのめされたのは三度目くらいです(前回は円居挽センセーの「丸子町ルヴォワール」という同人小説でした。前々回はジョン・クロウリー『エンジン・サマー』でした)。

 あの、どうしてここまで「彼岸花」が響いたかといいますと、これまでの百合SF(と呼ばれるもの)ってSFの物語世界内で百合をやるっていう、言ってしまえばとても非対称的な話だったとおもうんですよ(ろくろ暴論)つまりその特定人物の物語は構造的にも人間個人的にもワンオブゼムの関係性でしかない、むろん反論としては生物学的に女性しかいない環境を描いたSFもありますがしかしそれはどうしても現実の枠組みと対比されジェンダーSFというかたちで(あるいはIFストーリーを楽しむものとして)語られてきてしまっていた、だからこそ(男性はいるものの)主要人物には女性しか出さないことによってそういう向きを回避するという消極的な戦略を取らざるを得なかったわけです(ここも暴論)。

 しかしどちらにせよわれわれ現実の読者からすればその発想そのものが非対称的であるし、百合というジャンルがそもそも世評的にワンオブゼムの関係を描くものだという前提がある以上そこは覆せなかったわけじゃないですか(ふたたびろくろ)ですから従来の百合SFはつまりワンオブゼムオブゼムというじつに限られた環境だったわけで(クソデカため息)。わたし個人はそこに忸怩たる思いがあったんです。

 でも「彼岸花」は違うんですよ、吉屋信子花物語』てきにリミックスされた冒頭部はとてもそこに対して自覚的でかつどこまでも計算的なんです。現実を下敷きに(もしくは発想的な前提と)した百合は結果的に非対称的な発想をする読者しか要請しない、たしかに物語には彼女たちしかいないが、その外部(現実世界)は遠くに見えてしまっている状況にある。であるならば、いちから読者内部にある(無意識の)歴史そのものを作り直すしかない(あるいは破壊するしかない)。

 その選択として(われわれ現実の読者の持つ)世評的に凝固した、完結した世界を利用することにしたんです。つまり『花物語』という少女小説の世界から語りをはじめるっていう手法を取っているんです。われわれが百合を読むときに感じる現実ベースの思考や感情を架空の「歴史」に落とし込むことでストップさせているんですよ。いわば『花物語』ってミームによって読者の思考をハックしているんです。

 だからもう、この時点で読者の持つ観念が現実から完全に逸れている。ワンオブゼムではなくて完全な実体、そこにあるものになっているんです。百合が実在しているんですよ。あれだけできなかった百合の現実からの汚染がここでもう防がれているんです。当然ながらそんな無菌室てきな世界の構築なんてふつうの書き手にはできません。ですが伴名練という天才ですよ、天才の持つ圧倒的文章技術レベルならこの途方もない発明ができるんですよ(ここで大きく机をたたく)。

 そしてページを進めるとその百合物語の背景がじつはSF的な歴史によって構築されていたものとして明かされていく。百合のミームにハックされた脳が、今度はSFによって撹拌させられるわけです。ですから「彼岸花」はSFの世界で百合をやっていないんです。百合の世界でSFをやっている。そしてこの瞬間に世界がつながる。百合とSFが同軸上のものになる。ワンオブゼムだった、百合<SFの非対称性が消失するんですよ。そしてその非対称性の消失を味わわせたのちのあのラストですよ。現実が帰ってくる。百合とSFが現実と地続きのものになるんです。

 けれどこれは読めばわかりますが、一度きりの発明なんです。二度目はない。読者はもうその奇術を見てしまったから。この、百合とSFと現実をつなげるトリックは一度きりしか見せられないんですよね。そしてそれを(内心)やりたかった人間(筆者です)が見たら、そりゃあレバーが粉々に破裂するじゃないですか。そういうことです。ありがとう伴名練センセー。あなたがこの世界にいてくれてよかった。大好きです。

 

 

SFマガジン 2019年 02 月号

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