2019年のあたらしい百合、アプリ『ガールズラジオデイズ』の関係性の演出について

 こりずに百合を語りたいと思います。

 わたしはもう十年近く百合というジャンルについて悩んでいる人間なんですが、ここ最近とみに(むろん主観ですが)「関係性」という言葉を聞くようになりました。

 

saitonaname.hatenablog.com

 ちょうど一年ほど前には上記のようなことを考えていました。簡潔に言いますと、個々の「百合」を定義することはできないものの、それらを理解するうえでは女の子同士の「関係」というものが共通項になりうる、ということが言えるという感じです。たぶん。おそらくは。

 

 2019年2月現在、確認できる見解として、百合展2019の公式サイトには次のような文言があります。

女性同士の友情や愛情を意味する「百合」

 と、最大公約数的な表現でありますが「百合」というジャンルの現状をそのまま表した言葉だと思います。というより、そうとしか説明ができません。先月末に募集を終えたコミック百合姫×pixiv 百合文芸小説コンテストの応募要項にも、

女性同士の恋愛や友愛をテーマにした小説を募集します。

 とあるくらいで、ほとんど同義の内容が語られています。むろん細分化しようと思えば人間(キャラクター)のことなので無限に分けることができますが、短い言葉でまとめることはほぼ不可能です。

 現在、アニメ・漫画・ゲーム・小説・映画・その他あらゆる媒体で百合作品はあふれています。先日、近所のらしんばん(オタク向け中古ショップ・古書店)に行ってみたら店の入り口すぐの空間に「百合」専用棚がつくられていました。すごい。

 なかでもその方面で恐ろしく強いのは『BanG Dream!バンドリ!)』というコンテンツだということはみなさんもご存知だと思います。企画スタート四年で武道館3DAYSってすごいですね。昨年SF・ライトノベル作家の宮澤伊織先生も「関係性」について述べておられました。日々アプリ上でアップデートされつづける25人もの関係性の波(詳しくはhttps://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0

を参照のこと)。

 

 とはいえ、いまはもう2019年に入って二か月が過ぎようとしています。伴名練の投下した爆弾*1によってすべてが破壊された百合界(SFだけか?)ですが、すでにあたらしい潮流が、芽が生まれつつありました。

 というわけで本題です。

 女の子同士の関係性描写において風穴をこじ開けようと現在進行形で奮闘しているコンテンツ、『ガールズラジオデイズ』の話に移りたいと思います。

 

ガールズラジオデイズ(ガルラジ)とは何か?

 公式サイトです。

garuradi.jp

 以下はサイトのイントロダクションの冒頭部です。

「ガールズ ラジオ デイズ」(ガルラジ)は、地方で暮らすごく普通の女の子たちが、ふとしたきっかけでラジオ番組を自主運営することになる——。
そんな彼女たちの日常と番組制作に悪戦苦闘する姿を描いた青春物語です。
愛知県・岡崎、静岡県富士川山梨県・双葉、石川県・徳光、三重県・御在所と、実在する5つの高速道路のサービスエリアが、彼女たちの拠点=スタジオ。

13人5つのチームが、個性豊かに物語を展開していきます。

 簡単に言いますと、アプリ(およびインターネット)上で、(アニメ等に準ずるデザイン・気質の)キャラクター本人たちが隔週で30分ほどのラジオ番組を配信するという企画です。

 先日知り合いに概要を説明したところ「声優ラジオみたいなものですか?」と返されましたが違います。声優さん自身ではなく、終始、自律したキャラクターがちゃんとしたラジオ番組をやっています。そういう意味ではアニメや漫画のドラマCD形式に近いかもしれません。

 ただし、素人が実際にラジオ番組を運営している(というストーリーに沿っている)ため、キャラクターたちは不意にセリフを噛んでしまったり、トチったりします。なぜなら彼女たちは実際に各地のサービスエリアから生で配信をしている(というストーリーである)ので。ただ、それが当初から用意された台本によるものなのか、声優さん自身がミスしたものなのかはわかりません。そういう意味では編集ができない生の演劇らしい面白さもあると思います*2

 

 昨年の12月から配信が開始し、2月末現在、5つの番組のうちふたつが第1シーズン(計6回)*3の配信を終了しました。残り3チームもちょうど明日、最終回が配信される予定です。とはいえ、これらも純粋なラジオ番組とは毛色が違っています。

今回選ばれた5つのチームには、番組の再生数、リスナーのコメント数、評価指数などを総合したポイントがつけられ、最も高い成績を収めたチームは広域ラジオへの格上げが約束されている。
逆にデッドラインを下回ったチームは解散の憂き目も……。

(…)

彼女たち一人一人に熱い思いや思惑を抱いて、華やかなラジオの裏側で、手を取り合って立ち向かい、また、ライバルたちと競い合う彼女たちのドラマが今、始まる……。(太字強調は筆者)

 簡単に言いますと、公募企画で選ばれた5チームの女の子たちは、それぞれの運営するラジオ番組で人気を競い合っています。青春をかけたバトルロイヤルが水面下でおこなわれていくわけです。そして、この側面が回を増すごとにつよくなっていき、限られた時間を過ごす青春ものとしての熱いストーリーが展開されていきます。ドラマというものがつくりにくそうなラジオっていう媒体で、こうも話をつくりあげていけるのか……とわたしは感嘆しました。

 

なにが百合なのか?①

 で、実際、どのあたりが””百合””なのかと言いますと、この戦いのなかで、彼女たちチーム(内外)の関係性が回を進めていくたびにどんどん移ろっていくさまが、青春ものとして素晴らしく、また同時に激エモなのです。

 

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仲良しチーム、こちらオカジョ放送部。

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知り合いでない個人を集めた急造チーム、FUJIKAWA STATION。

 以上の画像は5チームのうち、2チーム。ほかにも個性豊かなキャラクターとチームがいます*4。詳しくはサイトを確認ください。オカジョ放送部の面々は、ラジオという形態と向き合うなかで、たんなる仲良し「だけ」ではいられないことに気づきますし、富士川の面々はその急造チームだからこその「弱点」に直面します。そういったなかで試されるのが、彼女たちのあいだにある「絆」です。「友愛」です。つまり百合です。

なにが百合なのか?②

 そしてもうひとつ面白いのは、配信されるラジオ番組はあくまで彼女たちの関係性の「一側面」に過ぎないということです。

  というのも、

 計13人のキャラクターたちには、それぞれのラジオ番組上では直接語られることのないバックストーリー(背景)が存在しているからです。

 

ch.nicovideo.jp

 

  上記サイト(とてつもなく見にくいのがほんとうに惜しい、PCのブラウザだとかなり下のほうまでスクロールしないとたどり着けない)から、計0+5話のそれぞれのチームにフォーカスしたラジオ番組のプレ(およびサイド)ストーリーのブロマガ小説を読むことができます。

 文章はライトノベル作家の多宇部貞人先生。電撃文庫の『シロクロネクロ』シリーズが有名ですね。いや、これが短いながらも素晴らしいんです。とにかく(こういうのはあまり使いたくないんですが)騙されたと思って、第二章まで読んでください。

 ですからこのブログを読むのはいったんやめてください。ほんとうに。

 終わったら戻ってきてください。お願いします。

 

 

 読みましたか?

 読みましたよね?

 

 

 めーーちゃっくちゃよくないですか。これ。

 

 

 適度にさびれた地方都市独特の空気感といい、その隔絶された環境と年齢ゆえに振り回されてしまうどうしようもなさ、それにどうにかして抗おうとしている彼女らの考え方が、もう思春期の青春そのものじゃないですか。なによりこの地方都市感は第四章で最ッッ高にブチ上がるんですが、それはみなさんの目でぜひ見届けてください。

 それからもう二章まで読んでくださったらわかると思いますが、二兎春香と年魚市すずの関係性ですよ。

 転校する前にたまたま自分の夢を口にして肯定してくれたクラスメイト(それほど仲良くはなかった)の名前を競い合う相手チームのなかに見つけて思わず関係者を介し連絡先を手に入れたけれど結局電話をかけることができない状態(しかし負けたくないという強い気持ち)……。これだけでもう彼女たちの行く末が気になるじゃないですか。それぞれのストーリーがどう交差していくのか知りたいじゃないですか。すでにここだけで特大のエモが観測されているわけじゃないですか。

  でも、この関係性はラジオ番組には、ほとんど表面に出てこないんですよ。

 彼女たちのチームにはそれぞれの思惑が、企画が番組があり、リスナーもありますから当然なんですが、その水面下でうごめくエモーションや関係性について、われわれ(アプリユーザー)はいち番組リスナーの立場でしかないのでただ想像をめぐらせることだけしかできないんです。漫画やアニメや映画における第三者視点(カメラアイ)を持つ観察者にはなれない。ただの外部者でしかないんです。

 つまりどういうことかと言いますと、

 彼女たちの究極的な関係性の在りかについては、完全な””聖域””になるんです。 

 これはとても画期的なことだと思います。2018年はアプリ『バンドリ!ガールズバンドパ-ティ!』や映画『リズと青い鳥』によって人間が壁や観葉植物になることが証明されましたが*5、2019年にもなると、

 人間は、壁や観葉植物になることも許されません*6*7

 われわれ(アプリユーザー)に許されている権利は、番組の配信と配信のあいだにアプリ上に投稿されるSNS風のつぶやきを遠目から確認することだけです。

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専用アプリ上に表示されるつぶやき。

 たとえば上の画像。つぶやきからチーム富士川がみんなで初詣に行く(行った)ことが語られるものの、その出来事の詳細についてはほとんど触れられません。

 たまに番組内で言及され補完されることはありますが、基本的には彼女たちのプライベートなので得られるのはほぼ外面的な情報のみです。アプリユーザーといえど、そこに踏み込む権利はありません*8

 この情報の少なさは、一見、キャラクター同士の関係性を把握したい”百合”を楽しむ層にとっては、ある種ストレスのある環境に感じられるかもしれません。

 

なにが百合なのか?③

  とはいえ、また素晴らしいのがこのつぶやきによって生まれる空白でもあります。

 基本的につぶやきは、リアルタイムで投稿されます(おそらく)。番組を聴取しているアプリユーザーは、このつぶやきを見ることによって、彼女たちがチームで一か所に集まって次の番組企画を練っていることや、日常で起きたささいな出来事の報告を受けることになります(もちろん概要だけです)。

 ただ、ネタバレになってしまうため詳細は伏せますが、第1シーズン中盤、急遽チーム富士川のつぶやきがかなり具体性を帯びなくなります。

 当然、アプリユーザーはそのつぶやきを通して、チームの面々になにかが起こったことだけを間接的に把握します。そして次の回の配信を聴くことにより、どうもその数日のつぶやきのあいだでとんでもないことが起きたことを察します。

 どういうことでしょうか。

 この状況に際して、(われわれアプリユーザーの脳内における)彼女たちの関係性は、以下における複数の文脈に大きく依存して変化、いや発火します。

 1.プレストーリーにあたる小説(テクスト1)

 2.アプリ上におけるSNS風のつぶやき(テクスト2

 3.配信されるラジオ本編(テクスト3)

 簡潔に述べると、この三つが混じり合った瞬間にとてつもないエモが発生します。

 それ以上は伝えることができません。

 ただしそれらのテクストを脳内で突き合わせた結果、あなたはあたらしい百合の関係性の把握の仕方を知るはずです。

 そうです。

 いわば百合の空即是色です。

 もちろん前述の通り、彼女たちのあいだで起きた出来事の詳細を知る手段は、存在しません。ですが、われわれ(外部者)の参照可能な世界にそれが存在しないことにこそ、大切な意味を見出せるようになるのです。この点は2019年の百合を考えていくうえで、とても重要な概念だと思います*9

 その意味を知りたければ、いますぐ『ガルラジ』アプリをダウンロードして、ラジオを聴いてみてください。答えはすぐそこにあります。

 

 

 百合とはなんなのか、なにが許されるのか

 ところで、哲学者のイマヌエル・カントは以下のことを考えたそうです。

理性の一切の関心(思弁的および実践的関心)はすべて次の三問に纏められる。

1 私は何を知り得るか was kann ich wissen?

2 私は何をなすべきか    was soll ich tun?

3 私は何を希望することが許されるか   was darf ich hoffen?

(カント『純粋理性批判岩波文庫(下)篠田英雄訳、Ⅱ先験的方法論 第二章 純粋理性の基準 第二節 純粋理性の究極目的の規定根拠としての最高善の理想について より)

 百合について考えること、またそこに対する態度をどう取っていくべきかについてわたしはつねづね悩んでいるのですが、この問いはもしかすると、カントが提唱したこの問いかけそのものであるような気がしてきました。

 

 どうか怖れないでください。わたしはいま、とても正気です。

 

 大雑把に説明しますと、カントは人間が理解する力について考えました。その理解する純粋な形式をカテゴリー(簡単にいうと場合分けの基準のようなもの:純粋悟性概念)といい、その基準を取りまとめる上位の推理・論証の力を「理性」と呼びました。

 そして百合の一切の関心もまた、この3つの問いに収斂するのではないでしょうか。

  そこに対する問の1「何を知り得るか」についてカントは「もし知識を問題とするのなら(…)解決は与えられ得ない」と断言しています。わたしたちは知り得ないことを知ることはできません。たとえばこれは『ガルラジ』を含めたあらゆる創作物のキャラクターたちに対する情報の断絶と捉えてもよいでしょう。われわれの参照可能な場所に彼女たちの本質はありません。それは小説でも、映画でも、漫画でも、おなじです。そこに描かれているものはごく一部だけです。

  では問の2「何をなすべきか」について。これはカントいわく「道徳的問題」であるがゆえ、理性そのもの(わたしたちが彼女たちに対して理解できること、またすること)から即座に発展させることはできません。むろん『ガルラジ』であればアプリから「おたより」を送ることはできるでしょうが、彼女たちの関係性について考察することはできても、直接的なかたちで彼女らの生活などに干渉をおこなうことはできません。別(次元)の問題だからです。

  そして問の3「何を希望することが許されるか」。すなわち『私がなすべきことをなしたら、私は何を希望することが許されるか』。残された最後の問題です。そしてカントは言います。「およそ希望はすべて幸福を目ざしている」。これは法則であり、ふたつの側面を持っています。すなわち、

「我々が幸福を得ようとするならば、我々は何をなすべきか」。

「我々が幸福に値いするためには、我々はいかに身を処すべきか」。

 このふたつは、何者かによって幸福であるに「値する」と認められ、それによって幸福が授けられることを求めている、といえます。

 つまりここでは、わたしたちはたんに幸福(希望)を得ようとするだけでなく、与えられるに足る存在として在らなくてはならないということです。

 しかし、問の2の時点で断絶されたわたしたちになせることはほとんどないことがあきらかになっています。だとするなら、この残された幸福(つまり希望)とはいったいなんなのでしょうか。第1シーズンの終わる『ガルラジ』の続きは、まだ明言されてさえいません。この先の物語があるかどうかさえ、わかりません。

 そのような状況で百合(希望)を望むことができるものなのでしょうか。

 しかし、カントは謳い上げます。「可想的世界(…)という概念においては」「一切の障壁(人間の自然的傾向)はまったく問題にならない」と。

 そう、許されているのです。希望も、幸福も。たとえわたしたちと断絶されている世界のものであっても、それはたしかな理念として存在しているのです。

 そしてカントはその条件を次のように語ります。

「かかる理念の実現は、理性的存在者の一切の行為が、あたかも最高の意志[神的意志]、即ち一切の個人的意志をみずからのうちに、またみずからのもとに統括しているように意志から生じたものであるかのようになされるという条件によってのみ可能である。」

 少々難しく書かれていますが、その希望の実体は次のようにまとめられます。

「かくて最高存在実体は理性の単に思弁的な使用にとっては、つねに単なる理想、しかしそれにかかわらず誤謬を含むことのない理想であり、人間の認識を深めてこれに王冠を与える概念。その客観的実在性は思弁的方法によっては証明されないが、しかし反駁されることもできない概念」だと。

 百合(希望)とは、可想的な世界の産物なのかもしれません。

 われわれにとっては本質的に届かないものなのかもしれません。

 しかし同時に、それを否定する手段もどこにでもないのです。

 ですからわたしたちは、このカントの考えから、ほんとうの2019年の百合をはじめるべきなのだと思います。百合を望み、願い、求めること。それだけはできるはずです。いや、そこからしか真の幸福は与えられないし、値しうるものにならないのです。

 

garuradi.jp

 

  われわれにできることは、ほんとうにささいなことしかありません。

 

 『ガルラジ』アプリをダウンロードし、ラジオを聴くこと。

 

 それはささやかながら、いま、この瞬間に、許されているのです。

 その先に希望は、百合は、あります。

 あなたには、何が許されていますか?

 

 

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 

 

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 

 

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

 

 

 

*1:百合SFの完成形の話 伴名練「彼岸花」を読んで思ったこと。 - ななめのための。

*2:とはいえ実際にはスタジオで収録をしている音源なので編集はおこなわれているはずです。

*3:第1、と銘打ってはいますが、今後の配信予定はまったくの未定。企画としてアプリとしてどこまで存続するかわからない状況です。

*4:わたし個人はチーム双葉のたまささsistersのごきげんラジオを推しています。姉妹間で繰り広げられる適当な会話(特にアプリのSNS上の)がどこまでも素晴らしい。ずっと見ていたい。

*5:——壁の話を聞いて、先日公開された『リズと青い鳥』を思い出しました。「映画を観て、誰に感情移入したか」という公式ツイッターのアンケート項目に、主人公の女の子2人と並んで「壁とか机とか」と書かれている。

宮澤 『リズと青い鳥』は僕も観てきました。初出はBLの文脈なのかな、カップルのどちらかに感情移入するのではなく、「部屋の壁とか観葉植物になって2人を見守りたい」という感想があると思うんですけど、本作の場合そもそもカメラが具体的に壁や床を映すんですよね。

 詳細はhttps://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0

*6:いや、ふつうにリスナーでもいいのですし、Mika Pikazo先生やひづき夜宵先生のイラストを参照することはできますが、基本的にラジオのリスナーは視界(カメラアイ)を持ちません。

*7:ただし、映画『リズと青い鳥』のラストシーンにおいて観測者(カメラアイ)はその権能を失っている点だけは留意する必要があります。

*8:こうした外部から一定レベルで遮断された関係性は、もしかするとヴァーチャルユーチューバー(の中の人)同士のプライベートな絡みに近いのかもしれませんが、わたしはvを追っていないので詳しいことはわかりません。

*9:ただし、このSNS(風)のつぶやきを使った演出には前例がある。『ひなビタ♪』では作中のキャラクターがFacebook上でつぶやき、並行してyoutube上でキャラクター本人たちによるラジオ番組を配信していた。『ガルラジ』はそれに近い手法をかなり意図的自覚的にストーリーに絡ませている。