なにもわからないし百合とSFを雑に語る

 こりずに百合の話(とSFの話)をします(要するに一個人によるナイーヴなぬるい雑語りです)。こいつ雑だな、と思った方はここでページを閉じることを推奨します。

 以下、すべてが雑になっていきます。遊戯くんの罰ゲームみたいですね*1。結論は特にありません。ごめんね。でもわたしは百合が大好きです。定義はしません。言いたいことはそれに尽きます。

 

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

 

  さて、百合SFアンソロジーが盛況だそうですが、ちょっとした想念があります。というか、いくつかの感情のレイヤーがあります。百合作品がさまざまなグラデーションを持って存在しているように。

 フェアがおこなわれること自体はとてもいいと思っています、世界に百合が増えてうれしい。たのしい。もっと広がってほしい。早川書房のアティチュードについてはSFマガジンの最新号に載っている「世界の合言葉は百合」で端的に語られています。2019年の百合事情に関心をもつ人類が読むべきテキストのひとつでしょう。 

SFマガジン 2019年 08 月号

SFマガジン 2019年 08 月号

 

  じゃあお前は一体なにに対して想念を抱いているのか、となるわけですが、百合とSFというふたつのジャンルを同居させたさい、非対称な関係性が生まれるのではないか、ということについてです。まったくもって不毛な議論である可能性が多分にありますが、とりあえず話をしていきたいと思います。

 前段階として、おなじく早川書房のnoteに掲載された記事をみていただきたい。

https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0

 ここで草野氏は百合SFの創作論について、以下のように述べています。

草野 ハードSFの致命的な弱点は、SFファン以外には面白くないということです。メインが科学的な説明で、いろいろな物語がありますが、最後には科学的な説明にパスする。でも、それがSFファン以外にはカタルシスがほとんどない。長々とした説明を読まされても何が面白いのか、というのが正直なところではないでしょうか。だから、ハードSFはSFファン以外には広がらないという悲しい現実があります。しかしこれをハード百合SFにすると、科学的な説明の場面が、女性同士が会話している場面になります。これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。

「これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。」正直いうと、この態度に自分は違和感を覚えました。実際に前述のアンソロジーに収録された「幽世知能」はまさにこの言葉の体現とでもいうべき作品なのですが(その点ではある意味すごい出来の小説ではあるのですが)、この考え方って「SF」が「百合」に擬態しているだけでは?*2 とも素朴に思ってしまったからです。どういうことか。

 心では百合を擁護したい、支えていきたい、と感じているのですが、この擬態した(と思われる)百合作品を読者であるおれ自身は愛することができるのだろうか? いやすでに無条件に愛することをしてしまっているのでは? という宇宙的恐怖です。いやほんとうに恐怖しかない。ジャンルの生存戦略(これはとても正しいし、市場の原理にも即している)におれという個人の意思や尊厳といったものは簡単に乗っ取られてしまうのではないか、というアイデンティティ・クライシスです。まさにSF的体験。見慣れているはずでありながら異形でもある存在を果たしておれは愛せるのか……*3

 なにを言っているのか、と思うでしょうが、これを読むまで自分は、百合SFとは、百合-SF間における均衡関係の下で書かれる作品のことを指していると無邪気に思っていたのです。が、そうではないかもしれない。

 つまり百合SFとは、SFの文法に支配された百合なのかもしれない。

  上記のような想念が生まれたのです。

 いや、想念でもなんでもないじゃねーかと思うでしょう。実際、その通りだと思います。SF的世界観のなかで語られる百合、これこそ当然だと。むしろ至高じゃないのか。でも、おれにもよくわからないんだ……この違和感が……。自分のなかでなにが起きているのか説明できない……。 

 ただひとつ感じているのは、上記のような書き方で百合SFがつくられた場合、百合というのはSFという世界に包括された存在にしかならないのではないか、ということです。つまり原理的に「百合<SF」しか描けないのではないか。ならば限りなく百合に擬態したSFは、果たして百合といえるのか? 百合をテーマに据えたSFがSFという枠組みを越えて百合という世界を飲み込むことはありうるのか? そもそも「百合>SF」っていったいどんな作品なんだ? おれはこの問いに永遠にとらわれ続けている……わからない……なにひとつ……これっぽっちも……。そもそも百合じたいわかっていない……。

『アステリズム~』収録作は、むろんそのほとんどがSF的な世界観のもとに描かれる百合でしたが、伴名練「彼岸花」はもしかするとこの不均衡を限りなくゼロにしようとしていたのではないか、とも感じています。吉屋信子的な大正時代少女小説(文体というレイヤーから世界観をつくりだすこと)によってSF的な部分にフェティッシュに接続しようとしていた。わたしには「百合≦SF」にもっとも近い作品に見えたのもたしかだった……。いや、これこそ百合SFの完成形なのでは? これ以上の作品がありうるのか……だが……(ここで手記は途切れている……。

  

(上記に似たパラドックスとして、「推理>小説」なのか「推理<小説」なのか、というジャンル的な問いかけが存在しています。もしかすると筆者の考えていることは、これに近い、解決することのない不毛な議論なのかもしれませんね。おわり。)

    * 

 ところで同性愛テーマのSFとして「たったひとつの冴えたやりかた」という短編があります。小谷真理は『女性状無意識〈テクノガイネーシス〉』(勁草書房)でティプトリーに触れるなかで(注釈ではありますが)以下のように書いています。

★Joanna Russ, "Letters", Extrapolation, vol.31, No.1, 1990, p.83.「死」と連結される「愛」に関して、ジョアンナ・ラスは一九八〇年に受け取ったティプトリーの私信から、彼女が「内なるレズビアン」に近い感性を持っていたのではないかと示唆している。ホモセクシュアルな「愛」とは別の制度との過酷な確執を生ずるため、この「愛」の成就はしばしば「心中」というかたちをとる。ティプトリーはラスへの手紙のなかで、自ら同性愛的メンタリティを持っているのではないかと告白しているが、ラスへの私信後、そのアイディアをもとに「たったひとつの冴えたやりかた」を書くことになる。

 むろん当時は「百合」として読まれていたはずもないわけですが、現代の観点から百合としても読み取れる作品となっています(同性愛は百合の必須条件ではないが、それはそれとしてジャンル内文脈のひとつとして成立する)。川原由美子先生挿絵バージョンもぜひぜひ限定復刊してほしい。しないと思うが。

 ここで重要なのは「ホモセクシュアルな「愛」とは別の制度との過酷な確執を生ずるため、この「愛」の成就はしばしば「心中」というかたちをとる。」という部分です。つまり時代の変わりつつあるいま、新しい百合とSFはこのかたちからいずれは逸脱していくだろう、ということですね。というかすでに逸脱しつつある。われわれは未来に生きている。特別でありながら確執を生むこともない世界や、まだ見たこともない世界が開かれている。

 また百合作品ではありませんが、両性具有者(ゲセン人)の登場する『闇の左手』*4について、作者のル=グウィンは「性は必要か?」でいわば思考実験として「それを使ったにすぎない」と述べています。

(…)それは問いであり、答えではありません。過程であって、決定された状態ではないのです。サイエンス・フィクションの本質的な機能のひとつは、まさしくこの種の問題提起にほかならないとわたしは思います。慣習的な思考方法の転換、われわれの言語がまだ言葉を見出していない対象に対するメタファー、想像力の実験です。

 ジェンダー的な文脈を大いに引きずってはいるものの*5、百合とSFはこの部分に答えることができるのか。これについても考えていきたいものです。百合SFは名の通りのジャンルである以上、百合という関係性をフィクショナルに(SF的な文脈において)強化する方向にはたらくと思われますが、そうではないSFならではの百合の捉え方は存在しうるのか。百合的なセクシュアリティをSFは分解/再構築できるのか*6

 百合というジャンルにグラデーションがあるように、今後の百合SFはグラデーションをみせることができるのか。『アステリズム~』はまだこの出発点に立っている段階だと感じています。わたしはこの先になにがあるのか見てみたい。知りたい。ジェンダーSF的な文脈においてはどうなるかも気になっています*7

   *

  そして百合ではなくBL側に近い文脈ではありますが、世界には『スタートレック』の/(スラッシュ)フィクションというものが存在しています。

 スラッシュフィクションとはファンフィクション(二次創作といっていいでしょうか)の一種で、『スタトレ』ではおもに女性ファンによる、宇宙船乗組員カーク船長と副官スポックのポルノグラフィ=K/Sフィクションが盛んであることが『女性状無意識』で触れられています*8

 また彼ら(KとS)はおもに同性愛的な関係として描かれていますが、同時にスポックは地球人とヴァルカン星人の混血でもありますから、さらに複雑な関係性ともいえます。「(…)男でもない、女でもない、両性具有でもない両者のあいだには、従って現実にはありえない幻影の絆が要請される」。

 ですが、このムーヴメントは同じファンなどから反感を買ってもいました。

(…)ただし彼女たちのキャラクター凌辱行為、とりわけポルノグラフィ化は、著作権問題を重視する製作者側やオリジナルのプロットを尊重・継承しようとする他のファンたちとの間に厳しい対立を深めることになった。

 悲しい出来事ですね。また、ほかにも事件がつきまとっていました。

 それは、一例をあげると、ゲイ・サイドからの非難であったりした。アメリカで、いくらカーク・スポック関係が従来の男女概念を逸脱するものだと理由付けたところで、一見男性同性愛にしか見えないため、女性による「同性愛凌辱=同性愛差別」ではないか、と糾弾されたのだ。これには当の実作者たちが当惑した。何しろ、彼女たち自身は「愛の物語」だと信じていたからだ。

 それに対し小谷氏は、これらスラッシュフィクションや日本のやおい文化における「男性」が通常の「男性」を指しておらず、むしろ「女性」たち自身、あるいは理想を体現する塑像として描かれている旨を述べる研究者たちの見解に触れています。また、「やおい」とは一見、同性愛を描きながらもゲイ小説ではない(男性≒一角獣的)ことや純粋なポルノグラフィとも違うことなど、一方向からの解釈が成り立たないことも指摘しています。

 したがって、この現象を、ゲイ・セクシュアリティ「性の商品化」問題やゲイ差別問題と混同・断定してよいものか。或いは、フェミニズムの批判する女性性の商品化問題を反復(パロディ化)してしまっているものとして嘲笑してすませてよいものか。

(…)

 しかし、注目すべきは、表層上の物語と、その中で描かれている意味内容との不一致が提示する「可能性」なのである。

 百合を取り巻く状況も複雑になっているといえます。「性の商品化」や「性」そのものの取り扱いについては何重ものレイヤーが存在していますし、作品内で描かれる関係性の切実さや豊かさを見逃すことはできません(百合のなかにはそれをコメディ的に消費していくことのできるものさえあります。それが許容される世界にまでなりました)。一方向的に断ずることはできません。

 二次創作的なものの見方を即座に排除することもすべきではないでしょう。読者が尊いと思うことは止められませんし、それは意味あることだと考えます。やおい文化と同一視することはむろんできませんが、「可能性」が捨てられることだけは間違いなくあってはならない。SFと百合が殺し合ってはならない。ましてや外部が殺しに来てはならない。

 わたし個人はかつて中学生くらいのころ自分の好きな作品がBL的に読まれることにショックを覚えたことのある人間ですが(わたしはナイーヴです)、いまはそれを否定すべきだとは思っていません。その土壌のなかで価値ある作品が生まれる可能性は間違いなくあるからです。

 おそらく今後、さらに百合ブームが強まるとしたならば既存のSF作品に百合を見出す動きが高まるでしょう。でも殺すべきではない。たしかにその動きはともすると暴力的に見えるかもしれません。ただそれは、未来をすこし先取るだけだと考えます。

 結婚しましょう ゆっくりと愛情を育てて恐怖を乗越えましょう

 突拍子もないことを提案しているのではないわ

 未来をすこし先取るだけ

 わたしたちの世代が結婚を考えるころには

 遺伝子の劣化や生殖技術の発達で男性はいらなくなっているはず

 今世紀中に男性はその役割を終えるわ

 もしそうならなくてもつぎの世紀は男性につらい時代となるはず

(…)

 だから結婚はそれほど特異なことではないの

 現在でも困難な道だけれど選択肢のうちだし

 それに女性同士の結婚は

 ななめの音楽の旋律のひとつ

 

   いつか生まれるであろう至高の「百合(=)SF」を、わたしは心から待望します。

 

 

女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説

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夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

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眠れぬ夜の奇妙な話コミックス ななめの音楽1 (ソノラマコミックス)

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眠れぬ夜の奇妙な話コミックス ななめの音楽? (ソノラマコミックス)

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*1:初期『遊戯王』に出てくる「モザイク幻想」――視界がすべてモザイクに埋め尽くされて実像を見ることができなくなる――のことを指している。

*2:草野氏はSFの拡散・浸透を理解しているためこのような発言をしていたのかもしれません。

*3:この感覚は、百合読者としての自認はあるものの、SFの熱心な読者としての自覚がなかったために生まれた不安と言えそうです。

*4:ただし小谷真理は『女性状無意識』のなかで『闇の左手』における主要キャラ同士の関係性をスラッシュフィクション的な「幻想の絆」の理論的展開を先取りしたものとして触れている。

*5:ル=グウィン自身は『闇の左手』の真の主題を「性や女性意識」とはしていないとも語っている。

*6:SFは既存の枠組みをテクノロジカルに破壊していくことのできるジャンルですが、百合という枠組みに対してそれが限定的にセーブされてしまうことへの矛盾も感じている可能性があります。その世界における”特別”とはいったいどんな意味を持ちうるのか。

*7:またル=グウィンは『夜の言葉』において、SFと女性の関係について「SFとミセス・ブラウン」で語っている。

*8:小谷の著作じたいは1994年の出版。ファンマーケットにK/Sジンというジャンルが拡大したのは1976~77年のことだという。