世界、っていう言葉がある。

 HDDのデータが消えたショックから立ち直りつつありますが瀬名秀明デカルトの密室』参考文献リストを閉鎖する前のHPから個人的にコピペしていたテキストデータが消えていたことに気づき、ちょっとだけまだダメージを受けています。

 ところで瀬名氏と法月氏が対談している文章で「セカイ系」について語っている部分があったことを思い出したのでメモ代わりに記す。

法月 社会的な関係性に興味が移ってきたとおっしゃいましたが、ちょっと前にセカイ系をめぐる議論が一世を風靡しました。社会に相当するものが脱落して、個人の内面と世界の危機が直結するという話ですが、瀬名さんからみて、セカイ系はいかがですか。

瀬名 ぼくはそのへんはあんまり読み込んでいないのですが、それこそ自分の身体性がどこまで感じ取れるかの問題ではないかと思っています。若いときには身体性が抑圧されて自分が小さく見えるわけです。そうした時、リンクを張ったところにポンと飛ぶしか、自分の知りうる世界がない。それで自分の知っている世界を書いたら、たまたま身近と遠くに二極化したのがセカイ系だった。そういうことではないでしょうか。(…)

  瀬名の指摘はおおむねその通りにみえる。とはいえ思春期特有の肌感覚というか、語り手であるところの人間に見えている範囲(よくも悪くも「半径5メートル」と評されていたところ)にはじめて理解の及ばない他者≒異性が「たまたま」現れるのは決して不思議なことではないし、よくあることといっていい。またこの出会いが比喩でもなんでもなく世界の秘密として魅力を持って視点人物の心象風景と同期していく≒世界が美しく色づいて見える、というのは思春期の実感としてかけがえのない構成要素のひとつではないか、と個人的には思う。

 さて、セカイ系と呼ばれるジャンル(そもそも定義じたいがおかしいのだがここでは保留する*1)においては主人公の(自己陶酔的と揶揄されたりする)自意識だけが肥大化し、結果、世界と個人を天秤にかけて問われる、という極端な事態が発生する。けれどもそこで、そのような考え方は思想として短絡していて危うい、と指摘するのもどこか危うい気配がある。大切なことを見落としてしまうのでは、という予感がする。

 というのも、そういうことを指摘して終わる人間に、主人公は決してなれないということ(なりたくないと思っていること)が物語においてはずっと重要な意味を持つはずだからだ。ここで生じている問題とはむしろ、世界と個人というものが分かちがたく結びついてしまった状態であること、つまり解決の困難性に気づくことそのものではないか。

 ゆえに、ジャンルへの印象から二者択一という作品構造にのみ話を還元するのは、かえって大事なものを読み落とす可能性がある。そこでは不条理さの現前という問題が忘れられてしまっている。

 もしスケールの大きさによってショックを受けて惑わされているのなら、いったん話を抽象化してもよい。事は地球全体の問題に及ばなくてもよい。世界という言葉は、主人公が認識している範囲を指しているはずだ。ゆえに中高生にとっては、教室や部活動といった日常の生活空間もひとつの大きな世界として認識される。そして、そういうものに隠れているどうしようもなく不条理なものを知り、その問題を解決することが困難であると気づくこと。どういうことか。あえて単純には解決しえない例をひとつあげるのなら、いじめを考えてもらってもいい。だからここでは、自分の眼前でかけがえのないものが失われてしまうのを見逃してもよいのか、という心の高潔さが問われていることになる。

 たしかに物語的な配置に都合のよさを感じ取るのは大人の自由かもしれない。けれど高潔さを捨てなかった勇気を一方的に否定するのは、前述した不条理とおなじだということに気づかないといけない。思春期の少年少女たちが一時的な逃避行に向かっていたのは、そういう無理解や大人の汚さからどうにかして抜け出そうともがいていた証拠のはずだからだ。

 最初から答えようのない二者択一が問題とされたとき、まず考えなくてはいけないのはスマートな回答ではない。むしろ、そのような問いが発生してしまうという不条理さを自身の肌感覚で捉えることのほうがずっと大事なはずだ。またそこに社会という中間項「なぜ?」が抜けているとするならば、その不条理と個人の距離はより近くに見えることになる。つまり不条理は、純粋な事実として(ただそういうものとして)当事者に降りかかっていることになる。

 にもかかわらず、主人公が立ち向かっていく手段は、持て余していた自意識くらいしかない*2。子供たちはじゅうぶんに戦うための武器を持っていない。スマートな解決は、最初から許されていなかったのだ。

  それでも、答えを出そうと不条理に向き合っている。違う、と声を上げて抵抗しようとしている。身も心もぼろぼろになっている。そうやって傷ついていった彼らを、だからこそ自分はいとおしいと思うし、大丈夫だ、といって抱きしめてあげたい。半径5メートルの距離でも傍観者にしかなれない大人にできるのは、きっとそのくらいなんじゃないかと思う。

 

瀬名秀明ロボット学論集

瀬名秀明ロボット学論集

 

 

(※)補足:物語的な配置の(あるいは男の子にとっての)都合のよさ、つまり異性≒世界の秘密という短絡を大人の汚さが裏切るという事象については、すでに『言の葉の庭』において自覚的なアンサーがなされている。

(※)補足2:『雲のむこう、約束の場所』においては不条理の「なぜ」をSF的な設定や歴史により一定レベルまで説明しているが、主人公とヒロインを取り巻く世界という作品構造はかえって強固なものになっている。よってテーマ成立のために中間項をわざと省いていた(省かなければ物語は成立しなかった)と減点評価を下すことにあまり建設的な意味はないと思われる。また遠く離れたふたりが共鳴し合う、という状況は村上春樹作品のエコーに近い。公衆電話と携帯電話はきっとどこかでつながっている。

*1:セカイ系とは何か』を読まずセカイ系を語ろうという愚をおこなう人間はいないと思うが。

*2:こうした状況設定は多くのライトノベルやギャルゲーにも用いられている。それらが多くの読者に感情移入を促す装置だというのなら、大多数の読者は持たざるものであるという事実を肯定することになる。