『さあ今から未来について話そう』についてのメモ

SF作家 瀬名秀明が説く!  さあ今から未来についてはなそう

SF作家 瀬名秀明が説く! さあ今から未来についてはなそう

  • 作者:瀬名 秀明
  • 発売日: 2012/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  2012年に出版された本で、先日『ポロック生命体』が出たのに合わせて読んだ。帯文には「SFはどのように未来を想像してきたか?」とあり、作家の語る未来というのはどのようなものか、というのがテーマになっている。また同時にこの問いかけは作者自身の創作のテーマにもなっているように思う。

 たとえば「はじめに」では自作の「希望」の一節を引用している(「きみに読む物語」の作中でも引用される一節だ)。ゆえに以下のフレーズは作者の問題意識そのものではないかと考えてもいいだろう。

 倫理は変貌する。未来とは人々の心の中で倫理が変化した世界を意味する。ごく数名ではなく人類の大多数がテロリストになったとき、世界は未来という名の現在に進んだことになる。その際、過去の欲望の大多数も古びて消えるだろうが、最後にひとつ残るものがある。それこそが希望なのだ。

 また同時に「作家とは世界の見方について語ることの専門家だ。それが広義の科学者の仕事だとぼくは思うのだが」と瀬名はいう。

 ここではフィクションノンフィクション問わずに世に出してきた作家のキャリアを知っているとイメージがわきやすい。標榜しているのはおそらくサイエンス・コミュニケーション的な態度であって、『パラサイト・イヴ』⇔『ミトコンドリアの力』、『デカルトの密室』および『第九の日』⇔『ロボット21世紀』などの著作の関係が思い浮かんでくる(とはいえ「おわりに」では『インフルエンザ21世紀』が売れず、科学ノンフィクションの仕事は諦めた、と作者自身が語っているのだが……)。

 こうした活動から見えてくるのは作家(≒科学者)としてのコミュニケーション、つまりは作家が読者に向けて未来を書く態度について、だ。これがもうひとつのテーマといえる。

 またこの未来についての問題意識はほかの瀬名作品にも連続している。「はじめに」で引用される「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というアラン・ケイの言葉やそれをアレンジした「未来は想像できないが、デザインするものだ」という中島秀之の言葉はこれまた倫理の変貌をテーマにした「Wonderful World」(『新生』収録)作中でも登場している。

 作家が語るのが世界観≒未来であり希望であるのなら、それはどういうものなのか。そしてそれを語る作家の態度とはどうあるべきなのか。以下の文章から見ると、瀬名が未来にある種のオルタナティブを考えているのかもしれない、と思う。

 さまざまな科学者や技術者とシンポジウムをおこなう機会がある。多くの研究者の未来像を聴く。そうしたとき、ぼくは未来について考える。自分たちに都合のよい未来を語っていないだろうか? 自分は正しい側にいると思い込んでいないだろうか? 自分のコミュニティが中心であると信じていないだろうか? それらとは違う本当の未来にぼくはわくわくする。

 では「それらとは違う」とは具体的にどういう意味だろうか。つづく第1章では次のような文がある。

 SFコミュニティのアイデアの方向性と科学コミュニティのアイデアの方向性は違う。でもぼくは、どちらも何かがちょっと不自由で、何かがちょっと満ち足りていないと感じている。

 それから瀬名は一例として、荒唐無稽なアイデアのハードSF(宇宙のどこかに巨大な建造物があったとか)を「なるほど緻密に現代の物理科学に則って書かれているかもしれない」が「そうした科学アイデア重視のSFが一部の読者に熱狂的に支持されながら、一方で現実的な科学者や常識的な読者からまったく相手にされない」ことを指摘する。

 つづけて『渚にて』に代表される近未来SF(公害問題が顕在化した都市とか、原子力の脅威に覆われた世界とか)が未来を描いているわけではない、とも書く。「そういうSFは書かれた時代の雰囲気を、架空の未来に投影しているのだ。だからそうした作品は、未来のことを書いた現代(コンテンポラリー)小説なのだと思う」。

 ここまで述べたうえで瀬名は、SFのアイデアの出し方を三つに分類している。むろんその基準はコミュニケーションにあると思われる。なぜなら上記の例のように、一定の読者から「相手にされない」ことが念頭にあるはずだからだ。

 まずひとつ目は、既存の科学成果に則って未来社会を空想するような作品

これはいまいったようにSFという名のコンテンポラリー小説だ。今の時代の雰囲気、たとえば、いまだったら原発が廃絶されバイオマスでもなんでもいいんだが自然のエネルギーが主体になった未来像を書くとする。こういうのを20年前に書いたら、ばかじゃないのといわれただろう。でも今だと、何となく雰囲気にあう。だから、そういうSFを書く人は出てくると思う。それはこの時代の雰囲気だからできることだ。

 ふたつ目は、タイムトラベルなどのように、現在の科学技術ではまず実現不可能なことをメインにもってきて、それを基盤に未来社会を空想するというもの

これも一つのSFの王道だ。(…)荒唐無稽なファンタジーは、SFファンにも受けないので、作家はリアリティをつけるために基盤の部分をちゃんと科学に則って書こうとする。しかし、科学技術との関係性を別の視点で見ると、非常に危ういリアリティになっているということがわかってしまう場合もある。だから、よくSFが苦手っていう人は書き手側のセンスと自分のセンスが合わないんだろう。日常の中にどこまで空想部分を入れていいか、その設計が書き手と自分で折り合いがつかないのだ。

 上記のふたつとも違う、三つ目。現役の科学技術者でもふだんの考え方の枠に囚われて発想できないような、しかし現在と地続きのある、意外性のある未来社会を空想するというもの。長いがこれも引用する。

実は、ぼくは最近、このやり方をなんとかものにできないかと思っている。これまでのジャンルSFとはまるで書き方が違うので、SFコミュニティからは違和感を表明されることもある。一部の科学者からも「科学的ではない」と敬遠されることもあるだろう。でも、本当に創造性のある科学者たちでさえ「あっ」と驚き、「そんな考え方があるのか!」と声を上げるような発想で、未来社会を描けたらかっこいいじゃないか。

 これはSFがいつの時代も求められてきたことなのだとぼくは思っている。研究者の人たちが、ときどきSF作家に話を聞きたいというモチベーションを持って、ぼくたちにコンタクトしてくる。それはここに理由があるんだろうと思う。研究者も、技術者も、彼らにはコミュニティの常識があって、そこの常識から逃れられない。(…)だからその常識から外れたいと願うとき、SFのイマジネーションが必要になってくる。

 でもSFの書き手は、そうした願いに応えているだろうか? このことをぼくはいつも考えている。

 SFは未来をどのように想像/デザインするか。いかに読者/世界とコミュニケーションするか。『ポロック生命体』や『新生』をはじめとした作品群を読むと襟を正されたような気持ちになる。とりわけ読んでいてはっとするのは「きみに読む物語」でSFについて言及する以下のくだりだ。

SFジャンルを愛する人々の一部には次のような信念がある。すなわちSFにおいては世界が変わらなければならない。ホラーは世界を変えようとする魔力を阻止する物語だが、SFは世界がなぜ、どのように変わり、そしてなにが新たに生まれたかを描く。それがなければ”SFではない”のだと。

 だが本当に世界が変わってしまったとき、どれだけの人がその事実に耐えられるだろう。その証拠に特定のジャンルを愛する人は、自分たちのコミュニティが変化しないことを願うからだ。変わろうとする世界が他人事である限り、SFはいつまでも変わらずにいられる。

『さあ今から未来について話そう』とは、その変化を他者に呼びかけるための言葉であり、意思表明の言葉でもある。だから瀬名は、いまも未来について話していると思う。さあ、オルタナティブな未来にわくわくしよう。そう言っているように聞こえる。

ポロック生命体

ポロック生命体

 
新生 NOVAコレクション

新生 NOVAコレクション