あなたの知らない(百合)について 村松真理「ソースタインの台所」

 幻になってしまうかもしれない百合小説を紹介する。

 けれども、これをただの百合小説として紹介するのには、ためらいがある。

 村松真理「ソースタインの台所」は『文學界』2006年8月号に掲載された作品で、だからジャンルとしては純文学ということになる。ただし、このためらいがあるというのはたんに純文学の文芸誌に載ったからというわけではない。それについては後述する。

 以降、詳しいあらすじを書くので、百合小説を百合とわかってから読むのが嫌な人(もうこの時点で逃げることはできない、申し訳ない。だからとりあえず詳しい内容を知りたくない人)は上述の文學界をアマゾンで高騰した値段で買い求めるか、大きめの図書館でバックナンバーを探して読むことを推奨する。

 

 

 物語はアメリカに留学している院生秋野のもとに、教採に落ちたが一年のアルバイトののち民間企業に入った岩本(私)がふらりとやってきてくるところからはじまる。彼女たちは不味いアメリカ米を一緒に朝食として摂り、気の置けない会話をする。

「不味いだろ」

 と彼女は私に言った。

(…)

「不味いだろ。無理しなくていいから」

 私は咀嚼しながら、箸の下の白いご飯と彼女を交互に見た。それは噛むと硬いくせにあっけなくもろっと崩れ、歯ごたえもなく粉っぽいが、舌に変に癖のある後味が残る。

「ごま塩をかければまだ食える。というよりかけないと食えない」

 私と同じように、ただ白米を山盛りにした茶碗を前にした彼女はそう言うと、ごま塩の小瓶を振ってその上にばらまき、私の方に押してよこした。そうして黙々と山を崩して咀嚼している。

 瓶をつかんで振り掛ける。白黒の点々が一面に振りかかったそれを箸に乗せて口に入れ、噛む。大ざっぱな味に雑な塩と、胡麻の味が沁みこんでうまかった。

「ううん」口の中がいっぱいなので首を振った。

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「じゃあ訂正するけど」と彼女は淡々と言った。頭の後ろに、寝癖でひよこのように柔らかい逆毛が立っている。

「君が嘘をつかないことは知っているが無理はしているだろう。そうだろ」

 私は何だか後ろめたいような気がした。無理はしていなかったが嘘をついたことはあるかもしれなかった。十三歳からの十一年間は決して短い時間ではない。

「いや本当に不味いとは思わない。確かに日本の米とは違うかもしれないけど、同じ米だって観念が強力にあるわけじゃないから。こういう食べものだと思えばけっこう美味しいけど? じゃあ君は不味いと思うの、そんなに」

「思う」と言って黙々と米の山を減らしている。

「じゃあ何で食べてるのよ。他にパンだってシリアルだって幾らでもあるでしょう」

「二十三年間、朝は米しか食わなかったからだめなんだ。どうしても。こんなアメリカまで来ても、こんな米しかなくても」

「ふうん。わたしは二十三年間シリアルかトーストで育ち続けたし、どっちもないときはあるものを何でも食べていたから、むしろ朝和食なんて食べたことはないわね。あんまり米という食べものに執着がないのよね。だからこれだって、米だから特別どうとか思わないから、不味いとは思わないわけよ。別に不味いものじゃないんじゃないの、これ自体は」

「親が来た時に食べさせたら哀れむ目で見られた」

「それは、君のお母さまだもの。ほら、わたしは絶対味覚というものが皆無だから。『陰翳礼讃』を読んだら羊羹食べられるようになるんだから」

「全然わからない」と秋野は口を一杯にしながら噴き出しそうになった。

 「中学の時そういうことあったでしょう」

「覚えてるよ。それがどう関係あるのさ」

「君が毎朝常食にしてると思うと、突如として親しみがわくということよ」

  最初から長い引用になってしまったが、もしこの部分を読んで彼女たちの心安い関係に好感を抱いたのであれば、その期待は裏切られないといっていい。

 物語はふたりのディアローグを中心に展開される。上記引用部の「十三歳からの十一年間」という積み重ねの感触が会話やふるまいのすきまからにじむようにあらわれ、読者をその心地よい空間に誘ってくれる。

 加えて秋野のハスキー・ヴォイスで男言葉を使うというキャラ設定には、漫画やアニメを経由してきたような軽妙さがある。ふたりの会話と並行して回想される学生時代のエピソードによると秋野は人気者で、岩本はその妹分として周囲から認知されていた。それゆえふたりはさながらカップルのようにはやし立てられることもあった。そうした部分にはフィクション的な、あえていうならば百合的なわかりやすさがある。岩本が秋野に憧れて学校に行くときの服装を彼女に寄せていくくだりも、エピソードとしてわかりやすい。

 しかし読み進むにつれ、「ソースタインの台所」はそうしたフィクション的なわかりやすさ心地よさだけではない、ふたりの微妙な心の距離も描き出していく。彼女たちは中高とおなじ場所に通っていたが、大学では別々の道に進み、物語がはじまったときは一年ぶりの再会だと記されている。だから秋野は久しぶりに会えた岩本をできるかぎりもてなそうとする。

「ねえ」と私はまだ奥のキッチンにいる彼女を呟くように腑抜けた声で呼んだ。「ねえってば」

「何」

「毎日忙しくて時間ないんでしょう」

「あるとはいえないね。圧倒的能力不足だから」

「ねえ超人的努力なんてしなくてよかったのに。わたしなのに。別に部屋がどんなだって驚いたりしなかったわよ、絶対」

「だから嫌なんだ」

 彼女は瞼をぐっと上げて、半ばひとりごとのようにそう言った。

  秋野と岩本のふたりはくだけた会話をするが、それははお互いを敬い、思いやることのできる関係だからだ。それゆえに馬鹿馬鹿しい理由で口論もする。

 秋野が岩本のためだけに手間のかかる掃除をするように、岩本は秋野のためにつくろうとしたアラビアータが辛くないだけで苛立ってしまう。「タバスコある?」としかめ面で訊くと、それに触発されるように秋野も興奮する。

「わからない」と静かに言った。

「何が」

「タバスコとか言ってさ。これで普通に美味しいのに」

「だって、」と私は彼女の抑えた、しかしいやにはっきりとした語調の重さに感情を煽られて、何も考えずに子供っぽく声を上げた。

(…)

「一体君はなんなんだ」

「何? わからない。わかるように言って」と私は言い返した。

「覚えてるか。君は昔、辛いものが大嫌いで、できることなら寿司はわさび抜きにしてもらいたい、お刺身にもいらない、でも中学生ともなれば恥ずかしくてそうも言えないって言ってたんだぞ」

 ふたりの口論は関係の破局には向かわない。むしろ彼女たちの心を、立ち位置をすり合わせていくために描かれる。何度も繰り返される明け透けな会話は、だから楽器のチューニングのようなものかもしれない。お互いの持っている記憶や思い出を声に出して確認し合うのもおなじだ。それゆえにふたりのことばは最終的にぶつかるのではなく、重なって笑い合って終わる。読者としては微笑ましくもある。

 しかし、それが終着点というわけでもない。

 むしろ大事なのはこの先ではないか、と思わせるものが「ソースタインの台所」では描かれている。口論をした彼女たちはようやくむかしの関係を取り戻しただけだ。そのようにしてどこかだしにして語られてきた学生時代のエピソードはいかにもひとつの物語らしくまとまっていて、けれどそこから時間をかけたために青春としてあったはずの熱は失われている。

 だからか、岩本(私)は次のように回想をまとめ、現在を評する。どこか一定の距離感をもって。

 思い出してみると何だか気味が悪いような哀しいような気がした。いったい私たちはあれから長い時間を進んだからいま似たようなことを言うのか、それとも少しも進んでいないからそうするのだろうか。

 学生時代、秋野に近づこうとしていたはずの岩本は卒業後、「ごく自然に彼女の格好の真似をやめていた」。だからその語りには、ただの一過性のものだったのかもしれない、という考えがちらついている。そうして現在に残っているのは、そのいっときの熱を失ってしまった、落ち着いた大人同士の関係かもしれない。

 しかしだからといって、ふたりの将来になにか特別よいものが待っている、というわけでもないことが示される。

 岩本はたまたま部屋にあったソースタイン・ヴェブレンの伝記(最後は狂人のようになってひとりで暮らす)を読んで「可哀想」という。対して秋野は「わたしもそうなるような気がするんだ」とこぼす。「そうやって味噌汁も作れなくて、計算だけし続けて年をとって、変人とか何とか言われて、足下を鼠が走り回ってて、きっとそれでもわたしはまだ、ばかみたいにコーヒー豆をがりがり挽いてて、毎朝まずい米を炊いて一人で黙々と食いつづけてるんだ。きっとそうだと思う」

 この物語を、ただの百合(を描こうとした)小説とみなして紹介することにためらいがあったのは、だからこの部分があったためだ。「ソースタインの台所」はかつて姉妹のように、フィクションのように周囲から扱われてきたふたりがいたとしても、その先が見えないことを強調しようとする。

 描かれているのはわかりやすく(あえてわるくいうならば)安全にはやし立てて消費できていた関係でも、ハッピーエンドでもない関係だ。仮に百合のようなフィクショナルな関係がふたりのはじまりにあったとしても、そのアフターストーリーがどうなるかはだれも教えてくれない。ふたりのあいだにあった特別ななにかは簡単に消えてしまうかもしれない。

 だから物語の終盤、そのわかりやすさ、フィクションらしさに自覚的な目配せをするかのように、秋野以外の友人との回想が短くはさまれる。読者がふたりの関係を好ましく思っていればいるほどに、その言葉はつめたく響く。

「あんたたちは、女同士でくっついちゃうのかと思ったけどね」

(…)

「知らないかもしれないけど、後輩なんかは結構騒いでたんだよ。あの二人はうちの学校のナントカとナントカだって」

「何それ?」

「知らない。何か少女漫画の登場人物の名前」

  そして、そのわかりやすさに反論をするように、周囲から消費されるような関係を否定するかのような岩本の独白がつづく。そこには十一年の時間をかけたぶんの諦念がある。

 私は彼女に触れたいと思ったことはない。彼女になりたいと思い、同じものを見たいと願いはしたけれども。他の誰かに対しても触れられたいという気持ちを覚えなかったと同じに。(…)驚くほど簡単な接触の先にはいつも、不毛の荒野が拾っている。(…)

 同じ服を着たところで同じものが見えるわけではないことをもう知っているのだ。

 けれど、それは絶望に終わらない。物語は最後になって熱を、力を取り戻そうと切実にもがく。

 でもだから何だ、と私はまた思った。十一年も経ったけれど、そのどんな短い刻にあっても、彼女がくれるものなら私は何でも嬉しかった。たとえ私たちが重ねることのないそれぞれの単線上にいて、鏡に映る自分の姿に斬りつけつづけているのだとしても。その結果互いに触れ合いたいとは微塵も思わなくても。

 それが何だ。

   この独白のあと、物語は岩本による決意を込めたうつくしい語りかけで終わる。それがどのようなものなのかはじっさいに読んでほしいので書かない。

 ただ、岩本の考えるふたりの在り方は、他者から一方的に消費されることや性愛、その他のなにかといった単純な関係にからめとられることを否定しようとする。そのうえで、つよい関係を取り結ぶことを目指そうとする。

 この小説が発表されたのは2006年で、だから2020年現在の価値観とは微妙に差異があるかもしれない。百合をはじめとしたフィクションで描かれる、任意の人間ふたりの形成する関係性は現在(むしろ過去においてもそうかもしれないが)単純に消費されるものばかりではないはずだ。当時(意識されていたかはわからないが)百合の枠外を希求しているようにみえた小説も、現在からすればまっとうな百合作品じゃないか、と述べることは容易かもしれない。

 だとしても、他者の手によって単純にみなされる関係に回収されないことを望み終わるこの小説は、やはり語られぬままになってほしくない。

 すくなくとも自分が一定のためらいを以て、括弧つきで(百合)を好む理由のなかには、そのようにわかりやすく回収されることをつよく否定する物語が根底にあるからだ、という気持ちがある。

 あなたにとっても(百合)がそうであるならば、この小説はきっと救いのように響くはずだ。

 

文学界 2006年 08月号 [雑誌]

文学界 2006年 08月号 [雑誌]

  • 発売日: 2006/07/07
  • メディア: 雑誌
 

 補足

村松真理の小説はほとんど書籍化されていない。ウィキペディアを参照すること*1

日本文藝家協会編『文学2009』および『文学2013』に短編がひとつずつ収録されているが、現在市場には流通していない。2009に入った「地下鉄の窓」はBLを読んでいる少女がBLで読んだことあるシチュの経験をもとに酔った語り手を介抱する話。

・別名義(村松茉莉)の唯一の単行本『夢想機械 (トラウムキステ)』 は近未来、カプセルのような装置に入れられて幸福な記憶とともに売買される少女とそれを管理する男のSF。百合要素は特になかったはず。詳しい内容はタニグチリウイチ氏が書いている*2

・「ソースタインの台所」的な、くだけた会話をする親友同士の関係を描いた作品はほかにもある。三田文学新人賞受賞作の「雨にぬれても」や「三十歳」など。前者は「ソースタイン」のうまくいかなかったふたりのパターンをつい想起してしまう。

・百合に近い関係を内包している小説であれば、『三田文学』2015年秋号に載った「水の中の最後の地」が傑作といえる出来。メンタルが限界になってしまった語り手のもとに学生時代ちょっと助けただけの元いじめられっ子がやってきて、世界の終わりごっこをして彼女の心を救う話。回想のなか、台風の日に自転車を無断借用して駅までふたり乗りをするシークエンスが無限によい。

・現状読める最新作は同人誌『てんでんこ』2020室井光広追悼号に掲載された「従姉の居どころ」で、語り手の女性がひとまわり歳の離れた従姉を訪れ、ふたりでパンとワインで語らいながら従姉の隠しているとある不思議な関係に気づく話。雨の夜のしっとりとした描写、海辺の潮のにおい、酔いができあがっていく過程が心地よい。

・各出版社は村松真理の作品群を書籍化するべきである。

 

 

夢想機械 トラウムキステ (T-LINEノベルス)

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三田文学 2015年 11 月号 [雑誌]

三田文学 2015年 11 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2015/10/10
  • メディア: 雑誌