あなたの知らない(百合)について 島本理生「七緒のために」

 中学生の私が放課後の美術室で絵の具のパレットを洗っていると、喧嘩中で口をきいていない友人が横にすっと立っている。彼女は黒々とした瞳でこちらをうかがいながら、折りたたまれたルーズリーフを渡してくる。それは開いてみると手紙で、なぜか上半分が切り取られている。そして残された半分には、次のような文面が記されている。

『私たちの関係について上に書いたけど、雪子ちゃんはきっとショックを受けそうだから捨てました』

「残りの手紙もちょうだい」と手を出すと、相手は「雪子ちゃんが怒った顔をするのは、不安なときなんだね」とすました顔で言い返して去っていく。

 そのようなつかみどころのない、しかし忘れることのむずかしい記憶の描写から語られる島本理生「七緒のために」は、ふたりの少女の交流のはじまりから終わりまでをどこまでも痛々しく切り取った青春小説だ。そのなかでつづられる雪子の友人、七緒のふるまいは、遠慮がないというよりは、他者との距離を必要以上に近づけて、ときには相手の精神そのものまで握り込んでつぶしてしまいかねない、制御のきかない不安定さをはらんでいる。

 転校してきた教室で私が自己紹介をしていると、スケッチブックになにか描いている少女がいる。その子が七緒だ。彼女は昼休みになると、完成した絵を見せてくる。「只野さんが、美人さんだから描いてみたの」といって。紙には雪子が描かれていたが、そのとき着けていた銀縁の眼鏡のフレームは、勝手に赤色のものに変更されている。お礼を言って紙を受け取ろうとすると、絵は奪い取られてしまう。「これは私が大事に取っておくから」

 七緒は雪子との関係を結ぶにあたって、頼まれてもいないのに常に場を見えない力で強引にコントロールしようとする。名前を聞いたときには苗字で呼ばないように誘導するし、読書の趣味を聞けば「普通だね」と返し、しかし、読んでいた文庫本のページを破って渡してきたかと思えばそこには電話番号が書かれていて、自分に連絡をするときのルールを秘密めかして伝えてくる。

 いっぽうで雪子は、転校前の学校では周囲に馴染めていなかった。現在進行形で両親の仲も悪い。彼女は孤独で、周囲に理解者もいない。だからか、どこか強引な七緒を振り払うこともなく、急速にお互いの距離を縮めていくことになる。

 仲良くなるうち、七緒がことあるごとに口にする打ち明け話やその奔放な態度は、七緒自身を通っている学校とはべつの世界の住人であることを強調し、雪子をつよく惹きつける。街で男の人に声かけられて、キスをした。雑誌の読者モデルをしている。小説家と文通をして、何度も会ったことがある。年齢をごまかしてライブハウスのステージに立った。教師にばれないようドロップスの缶を学校に持ちこみ、携帯用ラジオでFMを聴いている。そのいっぽうで、母親を「使用人」と呼んだりする。

 それゆえに自然と、雪子は次のように考える。

(…)七緒はこんなにすごいのに、どうして学校内では普通の子のふりをしているんだろう、と疑問を抱いた。

 その疑念は、物語が進むにつれ次第に解かれていく。学校生活に慣れたころ、七緒は特別な女の子というわけではなく、ただ周囲から距離を置かれているだけであることに雪子は気づく。ほかの生徒たちから、七緒と雪子が「羊飼いとその友達」呼ばわりされていたからだ。羊飼いとは狼少年のことで、要するに七緒は嘘つきとして認識されていた。

 塗り固めてきたもののほころびに、雪子は触れている。しかし七緒をつよく遠ざけることもできない。雪子はすでに七緒の存在に吸い寄せられてしまっているからだ。それは彼女の語りからも伝わってくる。

 たしかに七緒は話の筋が時々通っていないし、いちいちわざとらしいし、相手の心を引っ掻くようなことばかり言うけれど、少なくともその言動は、目を閉じた後も真夏の日差しのように焼き付いて、強い影を残す。

 次に雪子が取ろうとした行動は、だから七緒の理解者になることだった。「それなら、ずっと信じる。七緒のこと」と雪子は彼女に言う。たとえ彼女の言動がきっかけになって周囲から疎まれ、いじめの対象になってしまっても、雪子は七緒を見捨てようとしない。彼女のことばが「ほんとう」であることを受け入れようとする。

 けれど物語は痛々しく、閉じた関係に光明がまったく見えないまま突き進む。雪子はやがて、七緒の虚言のもとになったものがなんであるかに触れてしまう。それはどこまでも平凡なもので、最初に彼女に見た特別さの欠片もない。にもかかわらず、雪子自身も、そのほころびを七緒に指摘することが、もうできない。しかし七緒はその奔放さでわかりきった嘘を繰り返し、何度も雪子の友情を強引に試そうとして、最終的にふたりの関係は修復のできないかたちにまで歪んでしまう。

「七緒のために」を読んでいて哀しくなるのは、かたくなに嘘をつき、生傷をつくりつづける七緒を救う方法がどこにもないからだ。物語のなかで、七緒には嘘をつく理由が、おぼろげながらあることが示される。けれどもその問題すべてを受け入れ、解決するのには中学生の雪子は幼すぎるし、反対に大人では遠すぎる。そうして周囲をも傷つける七緒の言葉は、雪子の心をついには突き放してしまう。

「女の人は、けっして女の人を心から好きになれないんだよ。雪子ちゃんだってそうでしょう。だから、わたしのせいじゃない」

 終盤、心の離れてしまったあとのことがすこしだけ語られる。そこでは答え合わせのように、雪子の隠れていた気持ちが明かされる。それはある意味で、七緒だけが気づいていた「ほんとう」だった。だからほんのひとときであっても、彼女たちはたしかに通じ合っていたはずだった。

 この小説は結局、救われなかったふたりの物語だ。けれど、その関係はたんなる嘘だけではなかったはずで、きっと消えない傷跡のように、あなたの皮膚に残りつづける。

 

七緒のために (講談社文庫)

七緒のために (講談社文庫)

  • 作者:島本 理生
  • 発売日: 2016/04/15
  • メディア: 文庫