『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』について

f:id:saito_naname:20201115212145p:plain

芥見下々『呪術廻戦』第106話より

・そんなSFアンソロジーは2020年11月現在、存在しない。

・最近読んだ門田光宏『記憶翻訳者 いつか光になる』(創元SF文庫)がウェルメイドな記憶テーマのSFだった。ほかに記憶SFは存在するのか。たぶんある。

・あらゆる読者は自分だけの架空のアンソロジーを編みたい欲求を持っている。

・したがって編んでみた。

・架空のアンソロジーなので文章の長さも国の内外(おもに権利関係)も問わない。

・ついでに漫画も入れておきたい。同人作品からも入れたい。

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

  • 作者:門田 充宏
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 文庫
 

 

『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』収録作品一覧

瀬名秀明「最初の記憶」

星新一「午後の恐竜」

ウィリアム・ギブスン「記憶屋ジョニイ」

長谷敏司「地には豊穣」

今井哲也「ロスト・イン・パレス」

羽海野チカ「星のオペラ」

デュナ「追憶虫

安倍吉俊「ラナの世界」

テッド・チャン「偽りのない事実、偽りのない気持ち」

アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」

ジョン・クロウリー「雪」

 

 以上の11作品を収録する。当然のように分厚いアンソロジーになった。

 収録作を選ぶにあたり「記憶 テーマ SF」でネット検索したが、検索ワードが漠然としすぎていてまったくヒットしなかった。映画はいろいろ出てきた。ディック原作のあれとかあれとか。

 よって個人の偏った読書趣味が反映されている。ゼロ年代以降の作品が多いのはそのため。海外作品が既訳しかないのもそのため。すでに名作といわれているものばかりで面白みがないといえばないか。未読作品は入れていない。たとえば梶尾真治「おもいでエマノン」は鶴田謙二のコミカライズ版で履修しただけの人間なので収録を見送っている。

 あるいは、記憶テーマか、と問われると答えられないものも外している。たとえば宮内悠介「ディレイ・エフェクト」(「午後の恐竜」に似たシチュエーションで物語が展開されるが、これは歴史がテーマなのでは)、グレッグ・イーガン「ぼくになることを」(脳ではなく機械にアップロードされた意識の、自我の連続性は記憶の連続性とどう違うのだろう? うまく説明できない)など。

 以下、収録順に各作品のあらすじ(見やすさのため引用というかたちにしているが、正確な引用ではない)と簡単な解説を入れていく。

 

瀬名秀明「最初の記憶」

夜の虹彩 (ふしぎ文学館)

夜の虹彩 (ふしぎ文学館)

  • 作者:瀬名 秀明
  • 発売日: 2014/02/01
  • メディア: 単行本
 

 瀬名秀明『夜の虹彩 ふしぎ文学館』(出版芸術社)に収録。

 エッセイやコラムのライターである私はある日、知人から「一番最初の記憶ってなんですか?」と問われる。知人は科学館で展示のためのアンケートをおこなっており、それによれば年齢が下がっていくにつれ、記憶の内容が似てくるのだという。その記憶とは『強い陽射しを背にした人物の影』というものだったのだが、私にも同じ記憶があった。私はその出来事をコラムに書くと、読者からも次々と「私の最初の記憶も同じだ」と投書が殺到し――。

 怪奇・ホラーに近い掌編。なんということはない日常の一幕から次第に壮大なイメージへと物語が変容していくのはまさしくSFの手触りで、それと同時に瀬名秀明が比較的初期に目指していたディーン・R・クーンツ的なストーリーの転がしぶりを味わうことができる。タイトル通り、アンソロジーの開幕を飾るにふさわしい作品。

 

星新一「午後の恐竜」

午後の恐竜(新潮文庫)

午後の恐竜(新潮文庫)

 

 星新一『午後の恐竜』(新潮文庫)に収録。

 日曜日に男が目をさますと 「わあ、怪獣だ。怪獣だ」と子供がさわいでいる。窓の外を見やると、大きな恐竜がおり、妙な植物が生えている。それらの姿は鮮明に見えているものの、触ることはできない。妻は「蜃気楼のようなものじゃないの」と言うが、そのいっぽう、どこかの地下室では大ぜいの男女が忙しげに動いている。「おい、XB8号との連絡はまだ取れないのか」――。

 言わずと知れた名作のひとつ*1瀬名秀明が「最初の記憶」をテーマに物語を描いたとするなら、星新一はこれ以上ないかたちで「最後の記憶」を描いたのではないか。現実の世界に重なり合うように古代獣の姿が現れるのがじつに映像的にダイナミックで、センス・オブ・ワンダーとはこういうものであると見せつけてくれる。恐竜たちは時間とともに姿を変え、地球がたどってきた進化のドラマを人々に見せるのだが、いったいそれはなぜなのか。これはいったいなんの記憶なのか、ぜひ見届けていただきたい。

 

ウィリアム・ギブスン「記憶屋ジョニイ」

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

クローム襲撃 (ハヤカワ文庫SF)

 

  ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』(ハヤカワ文庫SF)に収録。黒丸尚訳。

 ぼくは白痴/賢者(イディオ/サヴァン)状態で他人の情報を何百メガバイトも預かっている。意識のある状態では出入り(アクセス)できない情報だ。けれど取引相手のラルフィはここのところ記憶を引き出し(リトリーヴ)にこない。記憶時間の超過料金は天文学的になっているけれど、そのうちにラルフィはぼくに対する殺し(コントラクト)を依頼したという。ぼくが預かった記憶は”ヤクザ”の持ち物だった――。

 独特の訳語センスが光るサイバーパンクの記念碑的作品。ミラーレンズを嵌め込んだヒロイン・モリイの踊るようなアクションシーンや、ヤク漬けになったサイボーグイルカとの会話など、とにかくクールな演出が印象的。暗号化したデータを人の脳の内部に入れておくという人間の機械の一部としてみなすアイデアはわかりやすくてシンプルだが、決してそれだけが浮いていないのがこの作品の魅力かもしれない。『攻殻機動隊』が好きなら読んで損はないでしょう。

 

長谷敏司「地には豊穣」

My Humanity

My Humanity

 

 長谷敏司『My Humanity』(ハヤカワ文庫JA)に収録。アンソロジーゼロ年代SF傑作選』(ハヤカワ文庫JA)でも読める。

 宇宙進出時代、疑似神経制御言語ITP(Image Transfar Protocol)で記述した経験記憶を人間の脳内に書き込むことで、人類は未経験であるはずの他者の記憶を脳内に再現することを可能にした。疑似神経分野のトップメーカーに勤めるケンゾーは、その技術が民族主義者から英語圏文化による洗脳だと批判されていることを受け、日本文化調整接尾辞(アジャスタ)を開発していた。当初は歴史や文化の位置づけなど気にしていなかったケンゾーだったが、その考えは《特徴を強調した日本人》のITPをインストールしたことで一変する――。

 民族的アイデンティティを持たない技術者を主人公に、技術と文化の軋轢を描いた現代的な意識のある作品。記憶が個人の思い出ではなく、民族的な文化的背景として機能している部分に焦点をあてているのが特徴。序盤はなにがストーリーの核であるかを悟らせないためわかりづらい部分があるものの、中盤のITPを書き込んだあとのケンゾーの意識の変わりようは圧巻といえる。記憶を脳に書き込むというアイデアは「記憶屋ジョニイ」と同系列であるけれど、それとはまったく違う地平を見せてくれるはず。

 長谷敏司のSFはこれに限らず、技術が人間のこれまで持っていた常識や考え方といった感覚を強制的にアップデートしていく様子を描くことが多い。そのため読者は作中の変化にともない無自覚に持っていた思考を揺らがされることになる、ような気がする。

 

今井哲也「ロスト・イン・パレス」

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

ヒバナ 2015年6/10号 [雑誌]

  • 発売日: 2015/05/07
  • メディア: Kindle
 

 単行本未収録。雑誌『ヒバナ』2015年6/10号(小学館)に掲載。電子版あり

 「その小冒険は、いつもの町の近所の路地からはじまった。」

 わたしがハガキを出そうとすると、きのうまであったはずのポストが消えている。しかし近所の人に聞いても「そこにそんなものありましたっけ?」と返される。皆、ポストがあったことを忘れているのだ。そうしてなくなってしまったポストを探すうち、わたしは記憶のどこにもない路地に迷い込んでしまう。そこで出会った相手に場所を訊ねると、ここは記憶の宮殿で、自分はその倉庫番だといいだして――。

 漫画枠その1。『アリスと蔵六』の今井哲也が描く、オフビートなすこしふしぎ。忘れたものをめぐる冒険。いつのまにかへんてこな名前に変わってしまったコンビニに、牛のかたちをしたポスト、郵便局の地下、忘れられたものが送られてくるという記憶の宮殿。 日常から奇妙な世界へのつながりが、可愛らしい絵柄で語られるのが心地よい。そのいっぽうで、なにかを忘れてしまうことが悲しい、という素朴な感情が丁寧に扱われる佳品。こういう言い方はずるいのかもしれないけれど『年刊日本SF傑作選』に載る漫画が好きな人なら確実に気に入るはず。物語の着地のさせ方がべらぼうにうまく、記憶に残る作品とはこういうものだと思う。

 今井哲也の雑誌掲載短編は現在そのほとんどが入手困難になっている。編者も読めているのはごくわずか。出版社各位は今井哲也短編集を出版してください。是非。

 

羽海野チカ「星のオペラ」

ハチミツとクローバー 10

ハチミツとクローバー 10

 

  羽海野チカハチミツとクローバー』10巻(クイーンズコミックス)に収録。

 「空いっぱいにうすボヤけた蟻のようなものがうごめいている しばらくするとそれは集まって 最後にガサガサと音を立てながら ボクの耳の中に入り込んでくる」

 砂嵐の吹く荒野と深い深い谷とその底にある河でできている星、イグルー。そこで暮らすボクはうんと小さい頃からくりかえしおなじユメをみている。ボクは周囲からは「捨子の巨人」「毛なしの宇宙人」と呼ばれている。なぜならまわりと違っていて体毛がほとんどなく、背が彼らの倍くらいあり、交易にやってくる宇宙船が捨てたポッドのなかで見つかったからだ。そしてボクが14になった日、父さんは一族のみんなでお金を出し合い、ボクを宇宙大学に行かせることに決めたという。大学ではボクとおなじ姿の人がいて、彼女の国の言葉を学ぶうち、ユメのなかの虫たちはすこしずつ鮮明になって――。

 漫画枠その2。『ドラえもん』に登場する”ひみつ道具”をひとつだけ使ってお話をつくるという企画で描かれた作品。このアンソロジーに収録されたという情報だけでそれがなんであるかわかる人は一定数いるはず。とはいえ『ハチミツとクローバー』という長編の最終巻に収録されている短編のため、入手難易度は低くとも読んでいる人は決して多くないのではなかろうか(そもそも短編ひとつを読むためだけに10冊もあるシリーズに手を出すだろうか?)。

 羽海野チカは『三月のライオン』を読めばわかるように、コミカルなユーモアとシリアスを同時に成立させることができる作風で、「星のオペラ」は記憶≒その人にとってのルーツ、というテーマを優しく包み込んでくれる。人間ドラマらしい感情をSFで描くという手つきはどことなくケン・リュウの短編に似ているかもしれない。

 

デュナ「追憶虫」

 『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社)に収録。斎藤真理子訳。

 結婚して二十年になるユンジョンはある日、自分が恋に落ちたことを自覚する。相手は通っている読書会の会員のアン・ウンソン。しかしその感情は自分のものではない。すぐさま医者にかかると「追憶虫ですね」と診断される。ユンジョンの目と脳のあいだには米粒ほどの大きさの地球外寄生虫が隠れていた。追憶虫は呼吸器を通して感染し、前の宿主の記憶を次の宿主に伝えるという。ならばこの感情は、いったい誰の記憶なのだろう――?

 韓国SF。日本語訳で25ページとかなり短い。が、記憶の流入による自己の変容というネタを扱いつつ、前の宿主は誰だったのか? とミステリの要素でぐいぐい引っ張ってくれる。中盤までのテイストはどちらかといえば奇想小説に近いのだけれど、オチのツイストでおっと思わせてからあたらしい視界が開けていく構成になっている。けれどもむずかしい概念や理屈はまったくない。こういうのを技巧派というのか。

 作者のデュナは覆面作家で、高槻真樹によるシミルボンでの紹介(https://shimirubon.jp/columns/1699798)が詳しい。これから翻訳が進んでほしい作家のひとり。日本語のWikipedia記事(デュナ - Wikipedia)がなぜかある。

 

安倍吉俊「ラナの世界」

isolated city 02

 安倍吉俊『isolated city 02』(同人誌)に収録。2010年発行。2020年現在、一般的な流通では入手不可。中古市場であれば入手可能か。

 近未来、あらゆる電子的ネットワークから隔絶されている街、マウラー。そこに暮らすロボット工学者の孫であるサティはある日、不審な二人組の男を見つける。男たちは持っていた手紙に書かれた住所を手がかりになにかを探している。宛先には「ラナ」の文字。しかしその差出人の住所は存在しない。

 翌日、サティはヴィクトリアという少女に出会う。昨日の男たちはヴィクトリアの父とその部下で、手紙は彼女の大叔母で女優のレナ・レルヒに孫のマルコが十数通も宛てたものだという。彼女を含めた三人は遺産相続などのため、この街に住んでいるマルコに会いに来たのだった。サティはマルコ探しを手伝おうとするが、調べてみるとマルコ・レルヒという人間はどこにもおらず――。

serial experiments lain』『灰羽連盟』の安倍吉俊による同人SF作品。漫画でも小説でもなくト書きの脚本で構成されている。『isolated city』は「人間の意識は何によってもたらされるのか」という作者ならではの想像力のもとに書かれており、シリーズ二作目にあたる「ラナの世界」ではSFミステリの枠組みを使いながら、存在しない誰かを意識のうちに抱くことについて模索されている*2

「……誰かに私がいる、って心から信じさせることができたら、その人のニューロンの回路を借りて、その人の心の中に、『私』という構造を発生させられるのかな? その時、『私』はそこにいるのかな?」というサティが中盤でこぼす台詞はそのまま物語のテーマにオーバーラップする。登場人物たちの思考は最終的にある種の仮想を共有するまでに発展するが、それもまた仮想のなかのひとつであり、SFでありながらあたかも幻想小説の迷宮に足を踏み入れてしまったかのような読後感を残す。

『isolated city』は同人作品のためか、『02』で物語は止まっている。もともと『キリシュとわたし』という作品の外伝として書かれたもので、本編については『ユリイカ』の特集号*3でその一端に触れることができる。

 

 偽りのない事実、偽りのない気持ち

息吹

息吹

 

  テッド・チャン『息吹』(早川書房)に収録。大森望訳。

 ジャーナリストのわたしは新しいライフログ検索ツールRemen(リメン)に関する記事を書いている。リメンはユーザーが過去の出来事について言及するのを見つけると、視界の左下隅にその映像記録を表示する。リメンの画期的なアルゴリズムはそれまでの検索ツールの不便さゆえに民事事件や刑事事件といった正義の場だけに限られていたライフログ検索を、きわめて個人的な状況でも使えるようにした。その結果、放置されていた膨大なライフログは家庭内の口論で利用できる証拠の山になった。リメンについてフェアな文章を書くために、わたしは自分でもそれを使いはじめ――。

 ライフログというすでに現代にあるサービス・技術を近未来に敷衍し、記録と記憶の齟齬から人間の齟齬を取り出してみせた傑作。この小説が技術をめぐるSFとして面白さを成立させているのは、シングル・ファーザーの独白と並行して語られる、口承文化を持つティヴ族のパートがあるからだろう。ティヴ族の少年は文字の読み書き(ふだんわたしたちはあまり意識することはないが、これも立派な「技術」である)を宣教師から習うことで意識をゆるやかに変革させ、同時に読者の意識もまた相対化されていく。あたかもその様子は「あなたの人生の物語」の語り手に起こる変革をアナログな手法で語りなおしたものともいえそうで、しかしその結末はひどく苦い。

 けれどもそれだけで終わらないのがさすがテッド・チャンというところで、最後のページで語り手の「わたし」はかなり怖ろしいことを言い放つ。ここで生まれる読者との距離がどこまでも絶妙で、これがなければ「偽りのない~」はただのよくできた人間ドラマでしかなく、SFの傑作にはなりえなかったんじゃないか。そう思わせる凄みがある。

 

アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)
 

 アンソニー・ドーア『メモリー・ウォール』(新潮社)に収録。岩本正恵訳。

  アルマの寝室には、電子レンジほどの機械があり、〈ケープタウン記憶研究センター所有〉と書かれている。そこから出ている三本のコイル状のケーブルが、自転車用のヘルメットにどことなく似たものにつながっている。壁は紙片で覆われ、紙のあいだで、数百のプラスチック製カートリッジが光っている。それぞれがマッチ箱ほどの大きさで、四桁の番号が刻印され、一個の穴にピンを通して壁に留めてある。ケープタウンでは、裕福な人々から記憶を取り出し、それぞれをカートリッジに焼きつける医者が六人いる。アルマは七十四歳の、認知症の患者だった――。

〈新潮クレスト・ブックス〉というレーベルから出ているとおり、SFというよりは文学寄りの作品。設定は、上記のあらすじからだいたい想像できるとおりと思っていい。認知症の女性に、過去の記憶を再生する装置が与えられる。それがエンタメ的にツイストされることはない。とはいえ表4を見ると、円城塔がコメントを寄せている。「老若男女を自在に描くドーアの筆は、魔術的な域に達する」。どう魔術的なのか。

「メモリー・ウォール」を一読すればその答えは容易に理解できる。カートリッジに閉じ込められ、機械を通してよみがえる記憶。ただ文章を読んだだけであるのに、いま自分は、記憶そのものに手を触れているのだ、というふたつとない感覚が一瞬で呼びおこされてしまう。はじめて装置を使ったアルマはつぶやく。「なんてこと」。それは読者にとってもおなじだ。読者は彼女の人生に同期しまったあとは、もう逃れられない。他人ではいられない。あとは呪われたように100ページもある物語をめくるだけだ。

 チャンがSFの語りによって人間存在を解体してみせたなら、ドーアは文章の精度だけで人間のすべてを構築してしまった。ヘヴィな作品であることは間違いないけれど、記憶を扱う手つきは収録作のなかでもっとも繊細で、それゆえに目をそらせない。

 

ジョン・クロウリー「雪」

古代の遺物 (未来の文学)

古代の遺物 (未来の文学)

 

  ジョン・クロウリー『古代の遺物』(国書刊行会)に収録。柴田元幸編『むずかしい愛 現代英米愛の小説集』(朝日新聞出版)でも読める。畔柳和代訳。

 これから私が出会おうとしているのは、死から救われたジョージーではない。それでも、彼女の人生のうち私と過ごした八千時間が残されている。「ワスプ」が撮影した妻の記録は「パーク」にファイルされ、そこにある個人用の安息室からアクセスすることができるようになっている。「パーク」の言葉を借りるならば「霊的まじわり」だ。けれども安息室には「アクセス」と「リセット」のレバーしかない。再生する記録を選ぶことはできず――。

 テッド・チャンとおなじくライフログを扱ったSF。とはいえ書かれた年代はずっと前の80年代で、にもかかわらずその態度は現代のわたしたちの感覚にかなり近い。仮に膨大なデータを保存したとしても、その膨大さゆえに検索性の問題が生まれ、目的の情報にあたることはとても難しくなる。それどころか、思い出したとしてもすぐにまた脳裏から消え去ってしまうことすら起こりうる。それはそのままわたしたちの記憶に対するイメージそのもので、けれども、だからこそ大切なことを気づかせてくれる。物語の終盤で語り手が述べる記憶とは、わたしたちに与えられた魔法のようなものかもしれない。ゆえに「雪」こそがアンソロジーの掉尾を飾るにふさわしい。

 クロウリーの記憶を扱ったSFといえば、ほかに『エンジン・サマー』があげられる。クリスタルの切子面に収められた文明崩壊後の未来における人々の記憶を、天使に向けて物語として語りかける切なく美しい作品。

 

編者あとがき

 以上11作品を紹介した。これ以上言うことはない、といって終わりたいところだけれども、語り残したことは大いにある。まず収録しようと思っても具体的な作例が見つからず(あるいはこちらが読めておらず)、紹介できなかった系統の作品について。

・記憶喪失もの

・完全記憶もの

・前世の記憶もの

・未来の記憶もの(未来予知? 時間SF?)

・多重人格もの(記憶といえるか?)

サイコメトリーもの

・コメディ、ギャグテイストの作品

 いま思いついたものを列挙しただけでもかなり漏れがあることは容易に想像ができそうだ。全体の色合いとしてシリアス寄りのアンソロジーになったことについては、選者の趣味が出てしまった、ということにしてご容赦いただきたい。比較的有名な作が多く収録されることになったのも、ひとえに選者の見識不足ゆえ。

 記憶を扱ったSFとしてはジーン・ウルフの名前があがってもいいはずだけれど、これについては紹介する側が作者の意図を読み切れていないので、あきらめることにした。代表作でいえば、長編『新しい太陽の書』の主人公セヴェリアンは完全記憶の持ち主だし、『デス博士の島その他の物語』に収録されている「アメリカの七夜」は語り手の食べ物に幻覚剤が仕込まれており、旅の記述のうち抜け落ちたもの(記憶?)が存在する、とされている。などなど。記憶と信頼できない語り手はたぶん相性がいい。

 前世の記憶でSFということであれば水上悟志スピリットサークル』はまさしくそれではないか、とも思う。輪廻転生がテーマで、物語が進むとともに主人公は複数の過去生・未来生を追体験し、隠されていた世界の事実と魂の因縁があきらかになっていく。けれど次第に現在の生であるはずの自我が浸食され、混濁していく。たった6巻しかないにも関わらず、過去生をひとつ経験するごとに大作映画を見終わったような疲労感に包まれるのもすさまじく(おそらく意図的にそうなるよう描かれている)、水上は『惑星のさみだれ』以外にも面白い漫画をばんばん描いていることを各位は知ってほしい。

 ほかに記憶が入ってくる漫画といえば植芝理一『大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック』があるか。亡き父の学生時代の記憶が息子に混入し母親にどきどきしてしまうという怖ろしいシチュエーションを描く漫画。

 まだ見ぬ作品であれば、小川哲がクイズ王を題材にした小説を書こうとしていると去年あたりからほうぼうで耳にしている*4。クイズ王は問題に正解するために(記憶容量を確保するために)自分の大切な記憶をどんどん消していく――、とかなんとか。出たらぜひ読みたいところ。

 

その他

 記憶SFが一定数あることはわかったが、記憶ミステリはあるだろうか?

 題材としてはありそうだけれど、作例はあまり思いつかない。近年の作であれば、榊林銘「たのしい学習麻雀」があるか。頭を打って記憶喪失になった主人公がルールもわからないまま麻雀対決をおこない、その勝負のなかで法則性を推理するといったシチュエーション重視のミステリだ。

 あるいは恩田陸「ある映画の記憶」という傑作がある。幼少期に見た映画『青幻記』の記憶がとある人物の死と重なり、その潮騒のイメージが最後には読者の心を言いようもなく埋め尽くす。幼少期の記憶をめぐる謎ということであれば、石黒正数それでも町は廻っている』の「一ぱいのミシンそば」の回がある。あれ、もしかして結構作例あるのか? じゃあ山川方夫「夏の葬列」も入れていいか? いいよ。

 とはいえ今回アンソロジーを編むにあたり思いあたる作品を片端から探し出して(処分してたものは買いなおして)再読してあらすじをまとめるだけで疲れてしまったのでこれ以上はやらない。世のアンソロジストはすごいのだ。ありがとう、ありとあらゆるアンソロジストたち。あなたのおかげでいまのわたしがいます。

 そしてだれか代わりに記憶ミステリ傑作選を編んでください。サイコメトリーものがあるといいな。というわけであなたの知っている作例があればミステリ・SF問わずコメント残してくれるとうれしいです。

 さて、楽しい時間もあっという間、そろそろこの『記憶SFアンソロジー:ハロー、レミニセンス』もお別れの時間です。またいつか、どこかのだれかの追憶で会いましょう。時が戻ったら。来年は『ゼーガペイン』放送15周年ですね。では聴いてください、ROCKY CHACKで「リトルグッバイ」。消されるな、この想い。


Rocky Chack - Little Goodbye

 

*1:世間的には時間SFとして認知されているのではないか。児童書のアンソロジー『SFセレクション(1)時空の旅』(ポプラ社)に収録されているくらいなので。

*2:この発想の萌芽は『lain』の作中にも見出すことができる。

*3:ユリイカ2010年10月号 特集=安倍吉俊 『serial experiments lain』『灰羽連盟』『リューシカ・リューシカ』・・・仮想現実の天使たち (ユリイカ詩と批評)

*4:筆者は昨年の京フェス2019で聞いた。