※本記事において、『いちご100%』、『とらドラ!』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『あの夏で待ってる』、『ニセコイ』、『中二病でも恋がしたい!戀』、『冴えない彼女の育て方』、『継母の連れ子が元カノだった』のストーリーへの言及があります。未読/未見の方はご注意ください。
プロローグ
これは、徹頭徹尾、僕の話だ。
だから君の話じゃない。もし君自身について似たようなことが思い当たることがあるとすれば、申し訳ないけれどそれは勘違いか、偶然の産物といっていい。
要するに、この文章に責任を負うのは僕しかいない。
どうしてかって?
だって僕は僕自身のことしか話さないつもりだから。これは僕の物語だ。
一人称の物語だ。
だからもしここで嫌な予感がしたのなら、君はブラウザを閉じていい。
その権利はあると思うし、じっさい聞く必要はない話かもしれない。前述の通りいくつかの作品の結末についても話すつもりだし、いささか長い話でもあるしね(1万字超)。そのうえで、それでも聞きたいと思ってくれたのなら、僕はうれしい。
いいかな。じゃあ、はじめよう。
最初はいつだって、はじめるのにふさわしい楽曲からはじめるべきだと思う。
オープニング:ASIAN KUNG-FU GENERATION「エントランス」
『フィードバックファイル』に収録されているこの曲が、僕はとても好きだ。
B面集の1曲目であることとはたぶん関係はないんじゃないかな。
とにかくこの曲が大好きなんだ。
できたら歌詞も調べてみてほしい。大切なメッセージが歌われているからね。
第1話:八月のある晴れた朝に百パーセントの女の子が負けることについて
はじめて連載を最初から最後まで追っていたラブコメ漫画で、好きになった女の子が選ばれなかったときのことはいまも憶えている。
2005年の、夏のことだった。
その日は終戦記念日だった。つまり、僕たちの国が戦争に負けた日だ。
もちろんこの日付には意味はない。ここで大事なのは、それが週刊少年ジャンプの発売日だったということだけだ。僕は近所の酒屋(僕の住んでいた町には本屋もコンビニもなかった!)に毎週入荷する一冊を、口約束だけでいつも取り置きしてもらっていたんだ。思えば牧歌的な時代だった。
なじみの店主に230円(当時はその値段だった)を払い、はやる気持ちで家に帰った。それから冷蔵庫にあったペットボトルのお茶を取り出し、息を整え、巡礼者のようにおごそかにページを開いた。
そう。
僕が読もうとしていたのは、河下水希『いちご100%』の最終回だったんだ。
もし君が読んだことがないのならそれはそれでいいと思う。現在では古びている内容もあるだろうし、いつだって僕たちに必要なのは「今」の物語で、過去じゃない。
それでも気になるっていうのなら、代案はある。
村上春樹「四月のある晴れた朝に百パーセントの女の子に出会うことについて」という短編小説を読んでみてほしい。そこには大事なヒントがある。
つまり、僕たちにとっていちばん重要なのは、それが完璧な女の子であるということなんじゃないかってことなんだ。
そして当時中学生だった僕は、東城綾という完璧な女の子を見つけた。
うん。
それだけの話なんだ。
じゃあ話を戻そう。ご想像の通り、彼女は選ばれなかったんだ。
でも僕は最初、その結末が理解できなかった。選ばれるのが彼女だと信じていたから。だとしても、裏切られた、という気持ちはまったくなかった。
それはなんていうか、読み方の知らない漢字に出会ったときによく似ていた。前後の文脈からなにを言っているのかはなんとなく想像できるけれど、詳細に意味するところまでは把握できない。主人公の真中くんの視線の先に女の子はいる。けど、どうしてそれが東城綾その人じゃなかったのか、まったくわからなかった。
だから、現実とのつながりが持てなかった。気づいたら、ぼろぼろになってしまった豆腐をいつまでたっても箸で掬い上げようとしていた、みたいな感じだった。
うん。そうなんだ。
それが「負け」を意味しているとは、まだわかってなかった。
なにしろ幼かったからね。
けれどあの遠い遠い夏の、生まれる前の戦争が終わった日から、僕はずっと、選ばれなかった女の子のことばかり考えている気がする。
第2話:「ヒロインレース」と負ける女
「負けヒロイン」という言葉が使われ出す前提として、「ヒロインレース」という言葉があったように思う。正確な初出は研究者の見解を待ちたいところだけれど、どちらも2010年代の言葉という印象がある。いや、知らんけど。
でもこれについて、言っておかなくちゃならないことがあると思う。
「レース」という言葉は一見、女の子のことを人間扱いしていないように聞こえるけれど(もちろんその側面がないわけではないけれど)、じっさいはちょっとだけ違う。
ラブコメには、恋のかけっこをする登場人物たちと、それを見守り応援する人たち(僕たち読者)という複数のレイヤーが同時に存在している。
つまり「ヒロインレース」という言葉の指し示す範囲には、僕たち読者のいる世界も含まれているんじゃないかってことが言いたいんだ。スポーツにおいて観客やサポーターが見えないプレイヤーとして選手たちに影響を及ぼすように、僕たちもまた、ラブコメの当事者としてたしかに存在している。
加えて「レース」という言葉には、「恋のさや当て」にはないニュアンスがある。
彼女たちは与えられた機会の平等と精神の高貴なるフェアさのなかで、必死に恋をする。ときに競争相手を称えたり、醜い感情をさらけ出したりする。それはとても美しくて、かっこいいことなんだ。そういう姿に、僕は憧れていた。
そして同時に彼女たちの恋愛を、自分のことのように感じ、痛みを覚えたんだ。
(わかります)
それに「レース」という言葉が流行る前のゼロ年代だって(90年代はちょっとわからないけれど)、僕の周りではラブコメ漫画のどの子がいちばん可愛いか、応援するか、みたいな日常会話は、時折だけれどたしかにあった。
ジャンプの表紙に印刷された複数の女の子たちを前に、いっせーの、で指をさす。え、おまえ東城なの、西野のほうが可愛いじゃん、ふざけんなよ北大路がいちばんだろ。
たとえるなら、人気のアイドルグループから特定のひとりを推す宣言をするようなものだ。まあ、たしかに、ちょっとだけこそばゆい。でも、自分の感情と向き合える貴重な経験だったんだといまになって思える。僕はラブコメを通じて、だれかを好きになることや、自分の意見を他人に伝えること、他人の考えを尊重することを学んだ気がしている。ささやかだけれど、役に立つこと。
それからもうひとつ、『いちご100%』には個人的に救われた経験がある。
小学生のとき、クラスメイトから恋愛相談を受けたことがあった。どんな内容かというと、「好きな子が複数人いて、どうしたらいいのかわからない」ということだった*1。けれど残念ながら、当時の僕にはその悩みがあまり理解できなかった。なにしろ幼かったからね。あのとき、ちゃんと友達に向き合えなくて悲しかった。
けれど『いちご100%』を読んで、それがすこしだけわかったんだ。
作中のヒロインたちはみんな可愛い。なにしろみんな健気だ。ふとした瞬間に緩む表情は、まるで世界の秘密みたいに思える。だれかひとりなんて選べない、とまではいかないけれど、読んでいて感情がぐらつく瞬間は、決してないわけではなかった。胸が引き裂かれそうになるときもあった。
主人公の真中くんは素敵なヒロインたちに囲まれているから、心が揺らぐどころではなかったと思う。かなり積極的なアプローチをかけられることもあったから、気が休まる瞬間がない。そういうわけで、彼の道のりは平坦じゃなかった。
いまでも憶えている。
あるとき、とある女の子が真中くんのことを、本人のいない場で「優柔不断」だといじわるに言うことがあった。といっても、陰口というよりは愚痴に近かったと思う。まあ、真中くんが情けない男の子だったことは否定できない事実だったんだけれど。
でもそれに対して、べつの女の子がこう返すんだ。
「でも… 優柔不断の「優」っていう字は「やさしい」って書くでしょ…?」
正直、驚いたよ。恋愛感情、特に思春期のそれはとても不安定なものだと、いまになってわかる。その不安定さを、その女の子はいとも簡単に包み込んでみせたんだ。
だれかを、それも複数の人物を同時に好きになることは、ふつう、いけないこととされている。だからそれを肯定する言葉は、どこまでも都合のよい幻想だったのかもしれない。けれど、だとしても、彼女の言葉に救われた思春期の子供はきっとどこかにいたんじゃないかって思う。
そう。
だから僕は、東城綾という女の子が好きだし、その存在に感謝している。
誇りに思っている。
第3話:頼むから静かにしてくれ
一方で「負けヒロイン」を好きになるやつは人格が終わっている、成熟できていない、といったことをおおっぴらに言ってもいい、みたいな風潮がある。
つい先日のことだ。「『俺妹』で桐乃が好きなオタクは結婚するけど、黒猫やあやせのことを好きなやつは異常独身男性になっている」といった旨のツイートが回ってきた。案の定、そこにはたくさんのいいねがついていた。
けれど、これは本当だろうか。
引き続きこの言葉を使うけれど、「ヒロインレース」のあるラブコメは、ひとりの男の子を複数の女の子が取り合う構造になっている。だとするなら、最低でもヒロインのうちどちらかを好きになった読者は、自動的に負けヒロインが好きだったということになる。単純に計算しても50%だ。
ハーレム系ラブコメになれば、当然レースの出走者は増える。よって負けヒロインが占める割合も多くなる。つまり、箱推しの場合を除くなら、読者のほとんどは負けヒロインがことが好きになってあたりまえなんだ。だからもし君が負けヒロインのことばかり好きになっているという積み重ねがあって、その事実を気に病んでいるとするなら、それはべつに気にしなくていい。だってごくごくふつうのことなんだから。
ここまで来れば、先ほどの考えがおかしいとわかるはずだよ。
読売ジャイアンツが好きな人だけが結婚できて、阪神タイガースや広島カープが好きな人が結婚できないわけじゃない。いや、いまの悪いたとえだから、気にしないで。でも、ふつうに考えればわかることだよね。選挙で、特定の政党に投票したからといって、その人が即座に人格破綻者であるということには、ふつうならない。
そもそも明確な相関はそこにはないんだ。
もちろん、桐乃みたいな”面倒くさい”(これは可愛いの言い換えでもある)女の子を許容できるほうが、現実の人間関係においても様々な面で他者を許容できて、結婚も人生もまっとうに生きることができる、という見方はあるのかもしれない。
でもそれって、「器の大きい男」みたいなイメージを勝手に規範として内面化しているだけじゃないだろうか。君は、君の思う「男らしさ」のために女の子を好きになるんだろうか。
うん。そうだね。違う。すくなくとも、僕の場合は。
単純に、好きだから好きになるんだ。
それが優れているとか、劣っているとか、そういった話ではないはずだよ。
僕、間違ったこと言っているかな?
(オタクくん急に早口になったね)
黙れ。殺すぞ。
(…………)
第4話:負けヒロインにいったい何があるというんですか?
とても悲しいことだけれど、負けてなにが残るのか、なにも残らないじゃないか、と思っている人が世間には一定数いる。まさかとは思ってしまうけれど、こういう人たちは負けヒロインのことをなにも理解してないんだろうな。まあ、なにも失くしたことがないならそれでいいけど。
もちろん、「負け」という言葉の響きにはつよいインパクトがある、ということは否定できない。だからそれを見てとっさに「ヒロインに対して侮蔑的だ」「他人の人生をなんだと思っているんだ」と怒る人もいる。
まあ、そういうことは起こりうる。
たとえそれが知らないうちにインターネット上のだれかによって植え付けられて、模範解答としてマニュアル化された言葉であっても、だけれどね。
君は君自身のほんとうの言葉を抱いているだろうか?
そうだね。たしかにTwitterはやめたほうがいい。
話を戻そう。
僕たちはもう、「負け」の背景に「レース」というフェアプレイの概念があったことを知っている。うん。そういうことなんだ。
「負けヒロイン」とは、いわゆる「ブロンズコレクター」や「シルバーコレクター」という意味であって、決して言葉通りに劣っていることをさげすむ言葉じゃない。
最後まで戦った、勇気ある者にだけ与えられる称号でもあるんだ。
つまり、逃げた人じゃない。かませ犬なんかじゃない。
そのことだけはちゃんとわかってほしいな。
だから、負けて得られるものがない、という発想のほうがあんまりだと思うな。そういう人にこそ、他人の人生をなんだと思っているんだ、って言葉をぶつけてやりたいね。
たとえば『冴えない彼女の育て方 Fine』というアニメがある。この作品には、負けを自覚したヒロインたちが肩を寄せ合うシーンが挿入されている。そのシークエンスは、楽しかった恋愛の、青春の終わり、主人公との長いお別れを意味している。
ヒロインの嗚咽。高まる音楽。美しい朝の日差し。
いま見ても泣き出しそうだよ。とはいえ泣くわけにもいかないから、話をつづけよう。ここではとても大事なことが描かれているんだ。
ヒロインのひとり、霞ヶ丘詩羽はいう。その言葉は、主人公の倫理くんとの別れを自覚しながらも、いつかやってくる再会への祈りでもあるんだ。
「大丈夫。それでも”彼”は必ず追いついてくる。だって、”彼”は間違いなく……わたしたちに……恋をしていた」
メインヒロインは物語を象徴する存在だ。それは間違いない。
なら負けヒロインはなにを象徴しているのか?
それは詩羽先輩が教えてくれた。
ずばり、〈恋愛〉そのものだ。恋愛の楽しさ、苦しさ、美しさ。負けヒロインには、そのすべてが内包されている。
だって主人公は、負けヒロインのことが嫌いだったわけじゃない。
お互いの感情を、心を通わせたことだってあったはずだ。むろんそれは一度だけではなかったはずだ。お互いをたたえ合い、認め合い、ふとした距離の近さに思わずどきどきしたことだってあったかもしれない。そうしたなかで、同じ道を歩むことだって考えたと思う。
そのうえで、彼女との人生を選ばない。それが「負ける」ということだ。
もちろん、それは苦しい場面だと思う。
だれかひとりを選ぶということは、そういう苦しみのある世界を選ぶということでもある。あたりまえのことだけどね。けれど、選ばれなかったものにはなにもない、ということには決してならない。彼女の人生において、恋をしていた、という輝かしい経験は心の宝箱にしまい込まれる。
だってそうじゃないか。
負けヒロインの恋が終わりを告げる瞬間、僕たちは、彼女に本気で恋をしていたことに気づくんだ。これまで積み重ねてきた時間がもう一度流れ出して、彼女とのありえたかもしれない未来が、線香花火のような希望が脳裏をよぎっていく。
うん。
僕たちはもうその秘密を知っている。
そのとき、女の子は世界でいちばん儚く、美しく見える。だってその瞬間、ようやく彼女の人生にあたらしい未来が生まれるんだから。
第5話:負けヒロインはみな笑う
負けヒロインはその性質上、勝つことはない。
だからこそ、メインヒロインよりもずっと情けない姿をぼくたち観客にさらしつづける。それはあまりにも人間らしい。いじらしい。それゆえにフィクションという境界を越えて、現実の僕たちの心の奥に突き刺さっていく。
引き続き、僕の話をしよう。
竹宮ゆゆこ『とらドラ!』は思い出深いラブコメ作品だった。なにせ学生時代にはじめてリアルタイムで完結まで追うことのできたライトノベルであったのだし、最終巻とアニメ最終話はほとんどおなじタイミングだったという珍しい作品でもあった。
なにが言いたいかって?
つまり『とらドラ!』は原作付きアニメでありながら、ぎりぎりまで結末が読めない作品だったんだ。あのときのライトノベルファンの、アニメファンの熱狂は、はらはらは、どきどきは、なかなか味わえない経験だったといまになってわかるよ。
さて、前述の通り、負けヒロインは必ず主人公に別れを告げるものだった。そして僕がその悲しくも美しい事実を理解できたのは、間違いなく『とらドラ!』という作品のおかげだったんだ。
24話。最終話のひとつ前だ。櫛枝実乃梨は行きがかり上、主人公の高須くんに告白をする。そしてそれは失敗に終わる。
そのあと鼻血を出した彼女は高須くんに治療されるというなんとも締まらない流れを経由したうえで「ジャイアントサラバ!」と告げる。握った拳を高須くんの口にあてて、あたかもパンチをするように。
このシーンで彼女は笑顔を見せて、はしゃぐようにして高須くんを元気づけ、メインヒロインとの決着をつけさせるために送り出している。
おそらく、自分の役割がそこにあるのだと理解しながら。
とはいえ、その直前、彼女は吐露している。
「つらかったり、苦しかったり、泣いたりをだれかに見てもらえるのは、報われるもんだね」
不思議だけれど、これは、僕たちに向けられた言葉にも聞こえてくる。
ところで話は変わるけれど、君はダシール・ハメット『マルタの鷹』を読んだことがあるだろうか? 作者はハードボイルド小説の始祖であり、ヘミングウェイから影響を受けた文体は、主人公の内面をまったく語らない。
あくまでその表面だけを淡々と描く。
けれど『マルタの鷹』では最後の最後、主人公の探偵が、それまで見せることのなかった表情をあらわにする。そしてそのとき、僕たちはこの作中でもっとも冷酷にさえ感じられた主人公に、いちばんの人間らしい内面を、感情を見出すんだ。
「ジャイアントサラバ」で高須くんを笑顔で送り出し、ひとり取り残されると、彼女はその拳を自分の唇にあてようとする。叶わなかったキスを望むように。それは、ほんとうの気持ちを最後まで語ることのなかった彼女の意地の終わりであり、恋の終わりであり、情けなさの発露でもある。
けれど僕たちはそれを見て、彼女にこれ以上ない人間らしさを感じる。
加えていうと、このみのりんのシーンは原作には記述されていない。アニメーションになって、はじめて気づくことができる彼女の人生の一端なんだ。
ならば、それで彼女は報われただろうか?
ううん。わからない。
けれど、みのりんは特別な女の子だった。高須くんにとっても。僕たちにとっても。アニメスタッフにとっても。だれにとっても。
それは間違いない、変えようのない事実だったと、僕は思うね。
お前を殺す。
(…………)
第6話:これからの負けヒロインの話をしよう
2021年、負けヒロインは新時代に突入している。
「もはや戦後ではない」は1956年の経済白書の言葉であるけれど、負けヒロインがただただ無様であるといった言説は、いい加減終わってほしいと思うね。だってもはや負けヒロインは、ただ負けて終わるような存在じゃない。この数年で、ライトノベルは、ラブコメ界はさらに先に進もうとしている。いわば「負けヒロイン以後」の世界がはじまろうとしている。
2019年には講談社ラノベ文庫から『幼なじみは負けフラグって本当ですか?』が出版され、その翌年、電撃文庫で『幼なじみが絶対に負けないラブコメ』が登場する。後者は今年アニメにもなったからみんなの記憶にもあたらしいはずだよ。つまり、「負け」が前提とされたうえで、あたらしいものが生まれようとしている。
僕たちは未来にいる。
そんななか新時代のラブコメがついに登場したんだ。
タイトルは『負けヒロインが多すぎる!』。キャッチコピーは「負けて輝け少女たち!」。まさに負けヒロイン、青の時代(ブルーピリオド)だね。
この小説は、負けヒロインとなる女の子が、好きな男の子をべつの女子のもとへ送り出すシーンを関係ない主人公が目撃するところからはじまっている。
さながら『とらドラ!』24話の再話(リトールド)だ。
さすがの僕も驚いたね。こんなヒロインの語り方があるなんて知らなかったよ。
2021年末現在は2巻まで刊行されているけれど、この作品はヒロインが「負け」たあとの人生の話をしている。つまり、これまでのラブコメが語れなかった「その後」の世界をやっているんだ。
負けたあとも人生は「つづく」。それはずっと前からわかっていたことだよ。でも、だれもやらなかった話だ。
きっと、語られざる歴史に光をあてるっていうのは、こういう業績のことをいうんだろう。なにより、主人公が可愛いヒロインたちにまったくなびいていないのがいいと思う。素晴らしいよ。僕はその倫理的な姿勢を心から応援する。
だってこれまで語ってきたように、負けヒロインは一途で、不器用で、一生懸命で、それゆえ時折悪い子になってしまう人のことを指す言葉だから。
その情けなさを正面から描く物語は、あっていいと思う。
可能性を感じている。
だから、このブログで語っている。いま、この瞬間も。
最終話:負けヒロインについて語るときに僕の語ること
ここまでつたない話を聞いてくれてありがとう。正直なところ、ついて来てくれるとは思わなかったよ。最後にこれから先、ラブコメ史に残したいフェイバリット負けヒロイン作品を紹介して、この長い話を終えたいと思う。いつだって僕たちは未来に希望を託したいからね。
『継母の連れ子が元カノだった』
『継母の連れ子が元カノだった』は元カノとの一つ屋根の下いちゃいちゃラブコメであるけれど、この作品には、異次元の思考回路を持つといっても過言ではない負けヒロインが登場する。
その女の子とは、さきほど貼ったページではあまり踏み込んだ紹介がされていない、ラノベオタクだ。東頭いさな。初登場の2巻で、彼女は負ける。それは事実だ。けれど彼女にとって、「負け」は最も恐れるべきことじゃない。勝つことよりも、ずっと優先すべき事項を彼女は見つけるんだ。
それを知ったとき、僕は感動したね。尊敬の念さえ抱いた。彼女の思考回路は、いわばラブコメ界のコペルニクス的転回といっていい。
どういうことかって?
彼女が5巻の特装版についていたドラマCDでどんな発言をしたかだけ、ここでは伝えておこう。彼女はとあるキャラクターから「脈なし負けヒロイン」と侮辱される。
しかし東頭いさなはこう答えるんだ。
「負けヒロインのほうが人気出るからいいんです~♪」
繰り返そう。
僕たちは未来にいる。
『Just Because!』
justbecause.jp 負けヒロインがメインヒロインとして生きる道はあるだろうか?
その問題意識を持っていたのが『Just Because!』だったと僕は思うね。物語開始時点で主人公の泉くんが好きな女の子、夏目美緒さんは三年以上もべつの男の子に片思いをしている。めちゃくちゃこじらせているんだ。しかもまったく脈はない。
であるから、物語はヒロインの痛々しくもいじらしい行動に満ちている。当然だけれど、主人公もかなりこじらせている。いいね。こういうのとても好きだよ。シリーズ構成の鴨志田一は負けヒロインのことをよくわかっている。
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』や『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』に出てきた負けヒロインに好感触だった人は見るといいと思うよ。
なにしろこちらも鎌倉~藤沢間アニメのマスターピースだ。
加えて、きっと君が好きになる女の子が、このアニメには登場している。
うん。だからそういうことなんだ。
こうして長々と負けヒロインについて話してきたけれど、いいたいことはやっぱりひとつだけかもしれない。心からそう思うよ。
え? どういうことかって。簡単なことさ。
つまり、僕は負けヒロインのことが好きなんだ。
それは動かしがたい事実なんだ。
エピローグ
いつだって僕たちは永遠が欲しかった。
けれどもう時間だ。お別れなんだ。
僕の話はここで終る。残されているものはわずかばかりだ。
一人称の物語はここで終る――。
負けヒロインになにが残るのか、と人はいう。まるで夕方のニュースでどこかのだれかが亡くなって、そのことに涙ぐんでしまうキャスターのように。
ひどく悲しいことみたいにいう。だから、いったいなにが残るって?
けれどそんなの決まっている。
ずっと前から。ずっとずっと前から。
「あなたを愛しています」
それが負けヒロインに残された、たったひとつの、なけなしの言葉だ。
僕はそのことを、いつも、いつまでも、信じている。
愛している。
殉教者のように。
恋人のように。
エンディング fish in water project「セツナブルー」
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