あなたは今、わたしがどういう意味でいったのか、といわれましたね?
――エラリイ・クイーン『ダブル・ダブル』(青田勝訳)
※【注意】本記事は小川哲「スメラミシング」のネタバレを含みます。
感情だけは やつらに渡すな
――文藝2022年夏季号 特集1 怒り より
一言でいえば、小川哲「スメラミシング」は陰謀論小説です。
というと語弊があるかもしれません。たしかに本作は陰謀論を扱っている小説ではあります、風刺として解釈することは妥当するでしょうが(なにしろ描写はある程度の読者層に対して、ひどくグロテスクな印象を与えます)、そのいっぽうで、そこまで単純化した図式に落とし込んでしまってよいのか、と不安にさせる余地もあるように思えます。さて、このように疑いを持つ思考は陰謀論的な解釈のはじまりでしょうか。
念のため付記しておきますと、テクストの読解/誤解については、ジョゼフ・E・ユージンスキ『陰謀論入門』における陰謀論の定義からは離れています。「架空の物語」に関する説についてはあたりません。しかし、あえて本記事においては、そのような荒唐無稽な陰謀論である「ふり」をしていきたいと思います。なんせ誤読なもので。いっそ分裂させてください。
本作は生きづらさを抱えている(というと語弊があるかもしれませんが)「僕」の語りと、陰謀論(と思われる)ツイートを投稿する「スメラミシング」を解釈しつづける「私」(タキムラ)の語り、この二者の語りによって構成されています。
作中で「僕」は電車に乗りながら、高校時代から現在のコロナ禍に至るまでを回想しつつ、目的地に向かっています。「私」も同様にインターネットで知り合った陰謀論者(イソギンチャク@白昼夢)と喫茶店で会話をし、とある目的=ノーマスクデモに参加することで「世界を変え」ようとしています。やがてデモの行進現場で「僕」と「私」はお互いの正体を知らずに出会い、イソギンチャクが「僕」に声をかけ、クライマックスに至ります。
作中の現在軸の出来事は上記の通りですが、作中に出てくる言葉はあまりにも荒唐無稽でありながら、なまなましさを持っているため、読者はいとも簡単に鼻白むことになります。暗黒政府の陰謀によって、ワクチンを介し人々にナノマシンを植え付けようとしている、とイソギンチャクは真面目に語ります。そしてイソギンチャクは陰謀論者らしく、この事実がニュースなどによって表沙汰にされず、隠蔽されていることこそが陰謀の証拠なのだと主張します。
そうした内容は、ほとんど現実の陰謀論の引き写しといってよいものですが、作中においてキーといえるのは「スメラミシング」というアカウントの存在でしょう。
「彼」(便宜上の呼称)はコロナやワクチンやパンデミックといったものが『マスタープラン』の一部であるということツイートしている、ということになっています。しかし「スメラミシング」は当初は支離滅裂なつまらないツイート(下ネタ?)をおこなうだけの、フォロワーのすくないアカウントでしかないのでした。
にもかかわらず「タキムラ」をはじめとしたアカウントから、その言葉にあたかも隠された「意味」があるようにネタ的に「解釈」され、消費されていった結果、たまたまオリンピックに関する予言をおこなったことになってしまい、急速に「ネタ」の対象ではなく「崇拝」の対象へと変貌を遂げます。
加えて、物語のラストでは、その崇拝の対象である「スメラミシング」の正体こそが「僕」であったことが明かされるサプライズ構成となっています。
では、私たち読者は、この物語からなにを受け取ることができるでしょうか。
たとえば、現代における生きづらさというものの表れでしょうか。
作中の記述によれば、「僕」は過去におそらく傷害をおこなっており、それが原因で学校教育をまともに受けることがかなわなかったことになります。また、精神的なバランスを欠いている母親からたびたびひどい言葉を投げかけられ、暴力をふるわれそうになっています。「僕」は高校卒業後の就職活動にも失敗し、どうにか働き口は見つけたものの、上司は陰謀論者でした。どん詰まり、という印象は拭えません。
それともこうした物語から受け取れるのは、なぜ人々がそうした生きづらさの果てに、「物語」を、陰謀論を求めてしまうのか、ということに対する鋭い考察でしょうか。作中で何度もくりかえされる「理由」という言葉は象徴的です。
理由がほしい。物語がほしい。正義のヒーローが現れて、黒幕の悪事を暴き、世界を変える、そんなお話であってほしい。自分はその物語の登場人物でありたい。
たしかにこうした社会風刺的な側面は明確にあると思います。
上記の「理由がほしい」という言葉はクライマックス直前に置かれていますし、いかにもストーリー全体を総括する言葉としてわかりやすいです。そうした理由づけによって世界を切り取る行為。それが救いであるのかもしれない。だからこそ、イソギンチャクは「ありがとうございます」とスメラミシングだと思った相手に向けて言い放ちます。「あなたのおかげで、私は呼吸をすることができます」と感謝を述べます。
この呼吸ができる、という感じはなんなのでしょう。
生きづらさ、そして、それを乗り越えるための燃料によって、解釈によって生きることができる思考。ふと以前、似たものに出会ったことを思い出しました。
(…)あたしのための言葉だと思った。共鳴した喉が細く鳴る。目頭にも熱が溜まる。少年の赤い口から吐き出される言葉は、あたしの喉から同じ言葉を引きずり出そうとした。言葉のかわりに涙があふれた。(…)あたしは彼と繋がり、彼の向こうにいる、すくなくない数の人間と繋がっていた。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
(…)ああ、きょう、わたしなんとか生きてけるなって思います。命のともし火は、毎朝、推しにわけてもらう。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』です。
(※【注意】これ以降、『推し、燃ゆ』についても細かく言及していきます)
『推し、燃ゆ』は現代人の生きづらさと推しに人生をかけていく姿を鋭くビビッドに切り取ってみせた作品ですが、ふと「スメラミシング」について考えたとき、これがよぎりました。
もちろん、『推し、燃ゆ』の主人公は推しの一部に、「登場人物」になりたいとは考えていません。推し活と陰謀論は本質的に違う行為です。しかし、無限につづいていく解釈のなかに身をひたすことで、それに生きる自分を見出す消費のかたちは、どこか歪に似通っていないでしょうか。
だからここであえて、誤読してみましょう。いっそ分裂してみましょう。
「スメラミシング」は、怒りによって動員される「解釈」物語を想定して描いた作品、つまり、ネガティブに反転した『推し、燃ゆ』なのではないでしょうか。作者である小川哲は、『文藝』に作品を載せるにあたり、そうした””傾向と対策””を練って「スメラミシング」を執筆していたのではないでしょうか。
なぜなら「スメラミシング」も『推し、燃ゆ』も、解釈をめぐる物語だからです。
たまに推しが予想もつかない表情を見せる。実はそんな一面もあるのか、何か変化があったのだろうかと考える。何かがわかると、ブログに綴る。解釈がまた強固になる。
(…)スメラミシング支離滅裂なツイートをする。私はそれを自分の力でなんとか整える。彼のツイートを整えている間、頭の中はそのことでいっぱいで、他のすべての違和感を気にせずにすんだ。
同時にこの「反転」は語りの構造にも関わっています。
『推し、燃ゆ』では生きづらさの主体であった「あたし」はおもに解釈をしている側ですが、「スメラミシング」において生きづらさの主体として語られる「僕」は解釈される側に反転しています。「スメラミシング」というアカウントはだから、「彼ら」によって「推し」に祭り上げられてしまった存在なのではないでしょうか。
また『推し、燃ゆ』のストーリーは、解釈に生きることにした主人公がいるいっぽうで、される側のアイドルはそこから自律的に抜け出していき、最終的に「推し」から「人」になっていくという物語でもあります(そうしてそれを主人公も受け入れて、不格好に生きていこうと決意します)。
だからこそ『推し、燃ゆ』の冒頭一行でその発端となる、理解できない行動が記されています。また、そうしたストーリーを予告するように、アイドルは次のように発言しています。
「(…)そのときおれは悟ったよ。あ、作りわらいって誰もわかんないんだなあって、おれが思ってることなんて、ちっとも伝わんねえなみたいな」
(…)
「ごめんごめん(笑)。いやでも、だからこそ、歌詞とか書いたりしてんのかもね。もしかしたら誰かひとりくらいわかってくれるかも、何かを見抜いてくれるかもって。じゃなかったらやってらんないよ。表舞台に立つなんてさ」
そうした(真実の)解釈を求める態度を示すいっぽうで、物語の終盤において、推しはふたたび、主人公の解釈から抜け出す発言をします。
「ありがとう、今まで。おれなんかについてきてくれて」
突っかかるようなコメントが大量に流れるなか、あたしは、推しがはじめて「おれなんか」と口にしたことに気がついた。(太字は傍点)
人間である、ということは一方的な解釈の枠から抜け出すことでしょうか。
すくなくとも「推し」であるということは解釈されることですが(時おり、そうしたファンから解釈「不一致」とされることもありますが)、そうした一貫性から抜け出すことは、「人」になるということだと、『推し、燃ゆ』のなかでは語られています。
よって、『推し、燃ゆ』の最後に「あたし」は次のように気づきます。
もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。
そうしたストーリーを前提としたとき、「スメラミシング」はどこまでも苦しいまでの閉塞感に満ちていることに気づかされます。なぜなら「スメラミシング」は、他者の「解釈」から抜け出すことができない、どん詰まりの物語として描かれているからです。
思い出してください。
先ほど、主人公は過去に傷害行為をおこなっていたことについて言及しました。
それが明かされるのはストーリーの後半部においてですが、その前段階においてもその事実は巧妙に予告されている記述がありました。それは主人公の母親による行動でした。彼女は主人公を束縛するようにいつでもどこにいるか把握しようと電話をかけてきていましたが、次のような言葉も述べています。
「あなたみたいな人が働いても、どうせろくなことにならないの。私が全部面倒を見るから、外で他人と関わろうとしないで」
またホテルの支配人には、こうも伝えていました。
「君のお母さんは、君がこのホテルで働くことを不必要に心配していました。そして、君を恐れていました。君が誰かを傷つけるのではないか、と被害妄想に囚われていました。(…)
主人公のラストの行動は、すでに他者による解釈のなかに埋め込まれていたことになります。「スメラミシング」というアカウントじたいが、解釈という上書き行為によって予言をおこなう存在になっていたように。あるいは「スメラミシング」の物語構造じたいがそのような解釈を誘発させるように。
「スメラミシングは(…)すべてが『マスタープラン』の一部であることと、その証拠が今後暴かれていくだろうということを仄めかしただけです」
人間が物語を必要とすることの皮肉?
生きづらさ?
まさか。ご冗談を。そんな甘い話ではないでしょう。
これまで言ってきたことを敷衍するのであれば、「スメラミシング」とは、非人間とされている人間の物語にほかなりません。
だからこそ、このように文章は、絶望的なまでに、終わり、示され、反転していくのです。むろん本記事におけるこのような「妄想」は小川哲なら、そのくらいのテクニカルな仕掛けくらいはほどこしていてもおかしくない、というくらいの心証によるものにすぎませんが。
というわけで、結末を仄めかすだけで終わっている「スメラミシング」最終行と反転≒参照元である『推し、燃ゆ』の冒頭一行を併記することで、この記事≒解釈を終わらせたいと思います。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
僕は立ち上がって、老人に向かって歩いていった。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
ところでそこのあなた、いま、解釈に動員されましたね?