あなたの知らない(百合)について 曹麗娟「童女の舞」

 その年の夏、私たちは十六歳で、南台湾で一番暑い街にいた。バスがアクセルを踏んだとき、彼女はその前方に駆けてきた。ふたつの白い靴と靴下は、ごつごつとした岩を走る馬の蹄のようだった。高校に入学した私たちは同じクラスになった。十六歳の少女が親密になるのに理由はいらない。毎朝、錘沅(ジョンユエン)は私に花を一輪くれた。

 水泳部に入った錘沅をプールサイドで待っていると、彼女が泳いでいるのが見えた。そして水から上がった彼女の唇が、私の眉間に触れた……このときから、校内でも、バスの中でも、道ばたでも、錘沅は別れ際に眉間にキスをした。私はこの不思議ですばらしい感覚に酔いしれる一方で、周囲の異様な視線にも気づいていた。私は恐ろしく不安になり始めた――女の子は女の子をどれくらい好きになれるのか。

 私は突然錘沅の手を放し、思わず言った。「一緒にいるのはよそう。私とあなたは違うわ。不つり合いよ」

 錘沅は、少しの間、私から目をそらし、ただ前を見て言った。「好きにすれば」

 それから私は錘沅を徹底的に避けた。バスの時間をずらしたし、学校でも二度と口を利かなかった。けれどまた夏になった高一の後期、私は彼女との思い出の場所で泣いていた。そこに錘沅が来た。「ちょうど泳ぎに行くところなんだ」「私泳げないし」「教えてあげる」その日、私は錘沅の自転車に乗って街を回った。私が生理で水には入れなかったから。彼女は留年するかもしれないと言った。そうしたら転校するとも。高二が始まる数日前、短い手紙を受け取った。「転校する。さよなら」

 錘沅と再開したのは二年後の夏だった。彼女は私の家にやってきて笑った。「泳ぎに行く?」海辺は人の波だった。錘沅は私にオリーブオイルを塗った。突然彼女が言った。「愛してるって思ったことある?」「なに?」「もういい、なんでもない」「あなたは?」「あなたと同じ」泳いだあと、彼女は自転車で私を送ってくれた。そして別れ際、彼女は叫んだ。「童素心(トンスーシン)! 好き――だ――よ――!」私はゆっくりと口を開け、大声で返事をしようとした。けれど昔の嫌な思い、憂鬱、不安のすべてが私を縛り、身体が硬直した。錘沅は行ってしまった。

 大学一年の冬休み、また錘沅に会った。彼女は私に妊娠を報告しに来た。相手はすでに獄中で、彼女と同じ村の人だった。「だって興味もあったから。でも他にも理由があるかも」「何?」「たとえば、ええっと、女同士はセックスできるのかとか」「妊娠したらどうするの?」「ばか、堕ろしたら済むことだよ」翌日、私たちは病院に行った。私は堪えきれず泣き始めた。その年の夏、錘沅は大学に合格した。

 

 

 というのが一章の内容で、およそ物語の半分くらいまで。

 高校入学のさいに出会ったふたりの関係は一度途切れ、そして大学以降もつづいていくものの、特別な関係には進まず、ただそれぞれの関係が生まれていく。私(童素心)は男と恋愛と言っていいのかわからない関係になり、いっぽうで錘沅は男とも女とも付き合うようになっていく。

 あるとき、錘沅の三人目のガールフレンドの小米が自殺しようとした。童素心は憤ってまくしたてる。「彼女といたいなら一生レズビアンよ? 苦しくない? 怖くない? バカなことしないで、錘沅の新しい相手は男よ!」悟った小米は「童素心あなたは私よりあわれね」と言い捨てる。その言葉は自分自身が思っていたことの発露だった。

 こうした悲劇性を常にちらつかせながら、物語は彼女たちが二十八歳になるまでつづいていく。錘沅は十数年間ものあいだ、私(童素心)の前に現れてはそのたびに見えない傷をつくるようにしては消えていく。

 全体的にいわゆる「両片思い」的な話であるが、同性愛という発表当時(1991年)は展望の見出せない生き方へのためらいや不安が語りのなかにちらつき、それがふたりの越えられない壁と切実さを生んでいる。その結果、錘沅はだれともほんとうの意味で親密な関係を築けないまま失踪し、そのことにショックを受けた童素心は精神の均衡を崩してしまうことになる。

 だとしても物語は終始、美しいものが包んでくれている。くり返される花の受け渡しというモチーフは錘沅のきざったらしさを思わせるアイテムであるものの、中盤と終盤に出てくることで、彼女たちの関係のかけがえのなさと、そのフラジャイルな絆をつよく意識させてくれる。

 とくに中盤、帰宅した童素心をたくさんの薔薇が迎えたことの意味は調べておくべきだろう。本数について調べると、おそらくその意味がより切実なかたちで浮かびあがってくるはず(たぶんこの意味は日本も台湾も変わらないのだろう)。

 なにより、この小説は私(童素心)が錘沅のことをずっと求めつづけていたことに対して、ひどく長い時間をかけることで向き合う小説としても描かれている。その想いはずっと幼いころから変わっていなかったことが、そしてその感情が世界を美しく彩っていたということが、霧雨の降る夜に錘沅を偶然見つけたときのシーンで繊細に、そして雄弁に語られている。

 もうすぐ八徳新村というとき、タクシーが一台、前方の交差点から小道に入り、遠くの街灯のそばで止まった。ドアが開いて、足が出てきた。空からあふれた雨粒が銀の真珠のように零れ落ちた。タクシーは急に発車し、少女はその場で数秒間立ち止まり、二歩進み、止まった。それから道傍の電柱に寄りかかって、足を上げ、かがんで靴紐を引っ張った。黒いローヒールのサンダルは、黒の細い革紐が小さな蛇のように足の甲から踝まで巻きついていた。黒地に銀のラメ入りのノースリーブにピンクのミニスカート、がらんとした暗夜の小道に明らかに異様な感じだった。その露になった首、腕、足を、私はどれほど見ただろう。今になってようやくその孤高な輪郭に気づいた。

「錘――沅――!」私は大声で叫んだ。

 彼女が叫んだのは、だから答えなのだった。錘沅がまるで少女のような格好をしているのも意図的な演出だろう。あの幼かったころ、「好きだよ」と叫んでくれた親友に返せなかったそのほんとうの声を、童素心はようやく伝えようと声をあげた。

 物語の結末で描かれる彼女たちの選択はおそらく相当な苦難をともなうもので、いま現在の読者にとってもじゅうぶん胸を打つものだ。それについては詳細を記さないので、じっさいに手にとって読んでほしい。

童女之舞」は1998年に短編集にまとめられ、直近では童女(2020祝福版)』というかたちで出版されている。おそらく2019年に台湾において同性婚の法制化がなされたことを祝う意味合いがあると思われる。その序文がネットでは読めるので、興味のある方はDeepLなどに入れて読むといいと思います。

www.thenewslens.com

 本作は『台湾セクシュアルマイノリティ文学3 新郎新”夫”』(作品社)に収録。中古価が高騰しているため、大きめの図書館などで読むことをおすすめします。