タイトルは裏切ることからはじまっている――『ケイコ 目を澄ませて』感想


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 映画館の環境に依っている部分も多いので一概にはいえないのですが、冒頭の数分を観ていて、これはコミュニケーションの、とりわけ齟齬にまつわる部分をするどく描いた物語かもしれない、と思いました。そう一言に還元してしまうことは当然ながら危うさを伴うのですが、しかし『ケイコ 目を澄ませて』はこの観点(観ること!)から語ってみたいと思わずにはいられない映画でした。

 本編がはじまると、まず字幕によって、舞台が2020年(つまりコロナ禍)の東京からはじまること、そして主人公のケイコ(岸井ゆきの)は生まれつき音を聴き取ることができないと説明されます。そして彼女はプロボクサーであるというのです。

 ここまでくれば、『ケイコ 目を澄ませて』という本作のタイトルが、「耳を澄ませる」ことのない人物、つまり聴覚障害*1にまつわる物語をある程度は意図しているであろうことが察せられます。ですがこのタイトルにある言葉は、そうした短絡的な解釈を伴わせつつ、大多数のわたしたち(つまり聴者であると前提されている)観客の想像を見事に裏切っていきます。

 なぜなら、わたしたち聴者がこの映画のなかでまず驚くのは、ケイコが通っているボクシングジムという空間が、あまりにもたくさんの「音」に満ちているというひどく単純な事実に直面するからです。

 練習中のボクサーのグローブがサンドバッグやミットを打つたび、映画館に配置されているスピーカーからは歯切れの良い、しかし質量を伴うようなひどく「大きな音」が飛び出します。ほかにもステップを踏むときにシューズと床が擦れる音や、縄跳びの縄が床を叩く音、そしてトレーナーによるアドバイスや叱咤など。多くの音がわたしたち観客の周囲を包んでいます。

 つまり、想像以上に「うるさい」のです。しかし、主人公のケイコは当然ながら、目に映っているものしか把握できません。ですから画面のなかに「映っていない」ところからも「音がしている」ことに気づくこともまた、ありません。ノートに鉛筆で書きつけるときのさらさらとした音も、劇中、何度も印象的にくり返される電車の通りすぎるごうごうとした音も、彼女には届くことがありません。

 ですから本作は「目を澄ませて」というタイトルが観客にインプットされている以上、そのギャップに(聴者という存在として)否応なく気づかされる仕組みになっているのです。ストーリーの序盤、ケイコがロッカールームにいるジムの仲間に声をかけずに、手でロッカーを叩いて音を出すことで自分の存在に気づかせるようなことをしていますが、それはむろん一方通行的で、彼女自身には届かないコミュニケーションの方法であるということも、意図的なものでしょう。

 よってケイコの感じている世界とわたしたち観客のみている世界は、明確に隔絶している場所にある、というところから物語ははじまっていきます。また、この映画のカメラは、そうしたケイコの日常生活をすこし引いた場所から撮っていきます。

 そして彼女は、その身体の特徴ゆえにいくつもの不便に、くり返し出会います。まずコロナ禍の社会であることから、周囲はマスクをしているため、口の動きを見ることができません。歩いているときにぶつかった相手が物を落として「拾え」とキレてもコミュニケーションはまったく成立しませんし、コンビニの店員がポイントカードの有無を訊ねても、ビニール袋の必要があるかを問われていると勘違いします。それどころか、夜中ひとりでいると警察に職務質問をされ、相手はマスクをはずしてくれないまま、雑に扱われるだけで終わります。

 手話の通じない相手に彼女ができるのは、持ち歩いている障害者手帳を見せ、配慮を求めることだけです。しかしそうした状況下において、ケイコのような人物への想像力を持った相手に出会えることは、悲しいことですが、めったにありません。

 こうした描写がつづくなか、街を歩いている彼女を遠くから映すカットがあります。街に響くのは、新型コロナウイルスへの感染対策を促す放送です。何度もいいますが、ケイコはそれを聴き取れません。ですからかえってわたしたちは聴者は「耳を澄ませる」という行為ができるために、その差異をつよく意識してしまうのです。それは、わたしたちマジョリティの立場(の傲慢さ)ゆえでもあるでしょうが、ケイコをどこか、孤独のなかにいる人のようにまなざしていきます。

 もちろん本作はそのような障害を持った人物が主人公である、という描き方をしている以上、「かわいそうな人」の「感動ポルノ」ではない、とはなかなか自信を持って言えないところではありますが、しかし、ただただ苦難に置かれている人そのものを簡単に搾取していくようなお話でもないつくりになっています。

 上述したように、ケイコはいくつもの「不便」を余儀なくされています。また、そうした環境に、どこか諦めているように(あるいは諦めざるをえないかのように)ふるまっているし、語られている部分が見え隠れしています。しかし、すべてを諦めているわけでもないということは、彼女がほんらい不利でしかないはずのボクシングをあえてやっていることからも、しずかに、しかし雄弁に伝わってくるのです。

 彼女自身は決して戦う理由を表立っては語りません。弟との会話*2のなかでは「殴ると気持ちいい」とは笑っていいますが、トレーナーとのコミュニケーションのなかで「痛いのはきらいです」ともホワイトボードに書いています。彼女は口頭でのインタビューといったものができませんし、劇中で記者の取材を受けるのはボクシングジムの会長です。脚本のなかに書かれた言葉はあっても、かつて彼女になにがあったのかは、そこまで多くはわかりません。周囲にたくさんの「声」はあっても、彼女自身の肉声そのものは、ほとんど聞くことができません。

 ですからこの映画が映すのは、だから、日々トレーニングを地道に積み重ねていく彼女の姿だけです。そして次第に、わたしたち観客は、その彼女の一挙手一投足から、なにかを読み取ろうと考えはじめるようになります。感情移入、というよりは、ほんとうに「受け取る」といったほうが正しいような気がします。

 ジムと家の往復をくり返す彼女の姿を映すシーンでとりわけ印象的なのは、彼女がバスに乗っているという、ただそれだけの場面です。もちろんケイコ自身はなにも声に出しません。しかし、シートに座って揺られているあいだ、彼女は窓の向こうを見つめ、細かく目を左右に動かしているのがよくわかるのです。決して美しい撮り方をしているわけでもなく、ただ日常的にあるなにげないしぐさを撮っただけのシークエンスにすぎないのですが、それでも、ひどく目に焼き付くのです。むろんこのシーンは謎かけでもないため、バスから彼女が観ているものが具体的になんであるのかは、最後までわからないままなのですが、それも含めて、印象的に「想像させてしまう」シーンとしてできていて、それは、きっとこの映画の持つ力だと思いました。

 ケイコという(一見、孤独にみえがちな)主人公にとって、この世界が豊かで、美しいものであるかどうかは、おそらく観客の判断に委ねられています。もちろんとあるシーンでは、彼女の観ているものの一端に触れることはできますが、しかしそれは当然ながら一端にすぎません。だとしても、彼女が闘っている姿にわたしたち観客は、「耳を澄ませる」ことから差異を知って、そうしてだんだんと、次第に「目を澄ませて」いくようになっていきます。

 もちろん本作はボクシングという激しい動きをともなう競技(それこそ肉体言語といえるかもしれません)のシーンに仮託される部分も多いのですが、たとえば彼女が何度も訪れる川辺の波打つ光や橋の柱に映った水紋など、ただ「そこにあるもの」への関心を惹いてならない部分も数えきれないほどに描かれています。

 加えて、そうした場所を映しながらも、彼女の主観というものをあえて直接は撮らないことで、かえってわたしたちにことばにならない「なにか」をつよく語りかけるつくりになっています。たしかにそれは遠回りで、不便で、不完全で、ちぐはぐなコミュニケーションのかたちなのかもしれません。そもそも最初に言ったように、この映画を観るわたしたちはなによりまず、タイトルの言葉に裏切られることからはじまります。

 ですが、他人と世界を共有していくということは、おそらく根本的にそういうことなのかもしれないと、むろん決して否定的なかたちでなく、ケイコという諦めない人の姿から、教えてくれるのもこの映画なのだと思います。もしかするとそれは他人と殴り合うことからはじまるのかもしれないし、見えない場所から相手の肩を叩いてあげることからつながっていくのかもしれません。ですからまずは、このタイトルに裏切られる体験からはじめてください、とあえてここに共有したいと思ったのでした。

*1:「ろう者」と呼ぶこともあると思うのですが、作中でケイコ自身がどのようなアイデンティティを持っていたり、文化圏に属しているかについて、すくなくとも脚本上では語られないため、それを留意したうえで聴覚障害者、と書いています。

*2:日本語対応手話でしょうか? 筆者には日本手話と日本語対応手話を区別することができません。