カレーと拳銃と水族館をめぐる断片①

 だいたい前日になって翌日の予定を突発的に決めようとすることはあっても、一週間以上前からぜったい日曜日はこうするぞ、と構えていることはかなりすくない。友人とのはずせない予定があるならともかく、自分自身のことについては自分がよくわかっている。自分が計画的に日曜日を過ごすことができるかは、まったくもって意志の力にはよらない。わたしたちの日曜日を構成する三大要素とは、運、体調、そして天候でしかない。運とは起床時間であり、体調とは体力の初期設定ガチャであり、天候とは気圧や気温によるデバフのことだ。

 では今日はどうであったかといえば、運よく朝のはやい時間帯に起きることができ、体調も悪いとは感じず、雨は降っていたが、頭痛に悩まされるほどの低気圧ではないようだった*1

 

茶店をさがす

 まず自分という存在の意志のつよさを信じていないため、物理的に二度寝をしないことを考えなくてはならない。よってすぐさま身支度をして、外出し、近所の喫茶店でモーニングとする。外にいればこっくり舟を漕ぐことはあるかもしれないが、まあ熟睡することはない。あまりにも体調が悪いと家に帰りたくなることもあるのだが、今朝の体調チェックはグリーンだったので、このまま喫茶店へ向かう。

 昨年、なにかの記事で「京都の喫茶店は東京と違って並ばないのがいい」というのがあった気がする。それは部分的にそう、だと思う。京都市内にある老舗の喫茶店や路地にあるような喫茶店はこの十年ほどで大して変わっていないような気もするが*2スターバックスコメダ珈琲あたりの大手チェーン店は休日となると、またたく間に満席となってしまう。

 その証拠に、ここ二年ほどで自分が利用した京都市内のスターバックス京都市営地下鉄烏丸御池直結のスタバだけだ*3。あそこに比べると大垣書店烏丸三条店の横なんかは最悪だ。休日、あそこが満席じゃなかったのをもう見たことがない。

 そのむかしであれば、烏丸三条ビルをおとりにして、六角堂横のスタバなど、室内のソファに座りながら巨大なガラス越しに六角堂の見事な建築や植物等を眺めるのがたいへんチルい体験だったのだが、いまとなっては人が多すぎており、なかなか落ち着かない。京都三条大橋店はもはやただの観光地と化している。わたしたちはもはやディアスポラなのであり、約束の地はなく、ただ集団ではなく、個人として生きる場所を見つけるしかない。たとえば以下の記事はそれを示している。

worldend-critic.com

 わたしたち京都民はすでに選択を強いられている。お気に入りのマイナー喫茶店に通いつめるか、めちゃくちゃ空いている時間帯を狙うか、の二択だ。

 ただ問題なのは、前者の場合、マイナーすぎて近隣住民しか利用してない場所であることと、顔を覚えられてしまう可能性があるということだ。自分は都市空間において、ポーのいう「群衆の人」になりたいのであって、特定の個人にはなりたくない。大事なのは、いかにその距離感を生きるか、なのだ。べつに店員さんに顔を覚えられるのが苦痛でない人はどうでもよろしい。

 

小沼丹『黒いハンカチ』

 ついつい長くなってしまった。喫茶店に着いたら、ゆっくりと頭を起こしつつ、本を読んでいく。自分は読書会等の課題がなければほんとうに気分で本を読むので、とりあえず鞄のなかには二、三冊入れておくことにしている。

 なぜなら手元に一冊しかないと、本を開いた直後に、今日はこれを読むテンションじゃないな……とスンとなってしまった場合、ひたすらスマホをいじりつづけることになるので「ちゃんと回る」デッキ構築をしておく必要がある。

 今日の読書デッキは、小沼丹『黒いハンカチ』(創元推理文庫)、ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』(講談社学術文庫)、三浦哲郎『拳銃と十五の短編』(講談社文芸文庫の計三冊だった。まずは『黒いハンカチ』を手に取る。創元推理文庫の刊行時に読んだ記憶はあったが、中身を完全に忘れていたので再読。

 テイストとしては日常の謎に近いものの、平気で人が死ぬ。しかし、軽快な、のほほんとした筆致で進むので、どちらかといえばコージーミステリーともいえる。ミステリとしてもガッチガチのつくりというわけではなく、ゆるい事件に対して、ちょっとだけその一歩上を行くような推理を主人公のニシ・アズマがおこなう。

 解説のなかで新保博久はニシ・アズマの描かれ方を「ブラウン神父」的とゆっており、たしかに気づいたら探偵役が事件のなかにいるところからはじまり、事件が起きたところで、彼女が犯人に対して鋭い視線を向ける、というパターンがつづいている。若干それだけがくり返されている印象もあるけれども、文章そのものの温度感がほどよいため、気づいたら一時間ほどで読了してしまった。ミステリ的な人工さとしては「犬」がいちばんだろうか。だとしてもこの連作は気軽なミステリとその空気を楽しむのが大事なので、どこを評価するかは、些細なことだ。

 解説に載っている作者の情報も詳しく、『古い画の家』という作品集が予告されたのにもかかわらず、結局出なかったことまで書かれている。これについては昨年、幻の企画を復活、といったふうなかたちとして中公文庫で刊行されている。『黒いハンカチ』と『古い画の家』の解説は書き手はちがうものの、連続したシーンのなかで扱れているようにも読めるので、二者を手元に揃えて読むのが大事かもしれない。

 

三浦哲郎『拳銃と十五の短篇』

 そのあと三浦哲郎『拳銃と十五の短篇』を途中まで読む。厳密なミステリとはいいがたいものの、人生のあるタイミングで遭遇する「謎」を扱う手つきが素晴らしい。父の残した形見の拳銃と五十発の弾薬をめぐる話「拳銃」「河鹿」は回想ゆえの距離の取り方/詰め方がうまい。

「川べり」に至っては、とある家の妻と子の心中事件とその後、残された夫がなぜか家族が死ぬ前といっさい変わらない生活をつづけている、という奇妙な状況が語られる。その裏にあったものを知った時、じっとりと胃の底が重くなる。本格ミステリほどのロジカルさはないものの、あくまで個人のなかに残る感情を描くところがよい。

 それこそ「シュークリーム」なんかはほとんどコントなのだが、妙におかしみのなかに人間味が感じられるところが渋い。書き出しはもう出オチギャクなのだが。

「シュークリーム!」

 とその人はいった。

 生命のことは、いまのところ、なんともいえない。今夜がやまで、今夜一と晩持ち堪えてくれれば、望みが出てくる。どうぞ力を落さぬように――医者がそういい残して病室を出て行った直後に、

「シュークリーム!」

 ほかの誰でもない、瀕死の病人そのひとが、突然、ちいさく叫ぶようにそういったのだから、ベッドを囲んでいたひとたちはびっくりした。

 これがもし子供の病人だったら、誰もがきっと夢を見ているのだと思ったろう。自分の命が風前の灯だということも知らずに、洋菓子の国へ迷い込んだ夢でも見ているのだ。そう思って、みんなは涙を誘われたかもしれないが、いま現実に、

「シュークリーム!」

 そう叫んだのは、子供ではなくてもう五十六にもなる女の病人である。

 この、ダメ押しのように三回くり返されるのが、いい。一回や二回だったら、まだ作者は真面目に書いているかもしれない、と思わせたところで、三回目までいく。で、なんだか脱力してしまう。しかしその感じがどこかよい。そして死ぬか生きるかを見守っていた人たちも、その瞬間、ぽかんと戸惑っているのがじつに喜劇的な色彩が帯びて語られていくのだった。

 ところで、この「シュークリーム」を読んでいて思い出したのは、堀江敏幸『雪沼とその周辺』に入っているイラクサの庭」という短篇だ。これもまた、死に際の人のことばについて思い巡らす一作なのだが、「シュークリーム」をよんだいまとなっては「イラクサの庭」は堀江による三浦へのアンサーソングのようにしか思えてならない。まあ、それはただの気のせいかもしれないんですけれども。

 

円町カレーフェスティバル2023

 そうこうしているうちに昼が近づいてきたので移動する。今日の目的のひとつ、「円町カレーフェスティバル2023」だ。

enmachi-curry.com

 なんか期間限定で円町の飲食店が特別なカレーメニューをお出しする、とのこと。で、今日が最終日だったので、滑り込みで行ってみた。

イカレーレストランシャム「鴨肉のパネンカレー」ハーフ

SPICE JUNKY「その日のカレーABC三種盛」ハーフ

 せっかくの機会だし、ハーフも頼めるみたいだし、ハシゴしてみるか――となったが、めちゃくちゃお腹にきた。主に、油が。ただどっちもおいしかったので、また円町に来たときは食べるかもしれない。まあ、今年のカレーフェスは今日で終わりなんですけどね……*4。というわけで対ありでした。

 

花園教会水族館

 円町からさらに足を伸ばして、住宅街のなかにある花園教会水族館へ行く。これはたまたま図書館にあった京都ミュージアムロード(スタンプラリー)の冊子を見ていたら、気づいた。花園に水族館? 太秦や花園には行ったことはあったが、そんな施設があったとは思わなかった。

www.kyohakuren.jp

 

 と思ったが、だいぶ文字数が増えてきたので、続きはまた明日書く。はず。たぶん。おそらくは。

 

 

 

 

 

 

*1:気圧と頭痛の関係は不明である。

*2:人知れず潰れた店もあるだろうが

*3:地下鉄利用者しか存在に気づいていないので比較的空いている。

*4:最終日までやる気が出なかったのだった。