TVアニメ『アイカツ!』入門講義:第0夜

 そこは小さな、といっても、大学生がふだん授業を受けるために使われるのに比べては、という意味でだが、狭い部屋だった。

 場所は半地下といった趣で、地上階と同じ高さに顔を出している磨り硝子の窓からは、うすぼんやりとした光が差し込んでいる。白、というよりは、珈琲にミルクをこぼしたのに近い、濁った橙色。携帯の時計機能を確認すると、そろそろ夕暮れの時間に差し掛かろうとしている。

 長机の脚がリノリウムの床にねじとボルトで固定され、そこだけは教室というより、監獄のようだと思う。いまから4、50年前、全国各地の学生たちが机でバリケードをつくったことに対する設計的な対処法だとどこかで聞いたが、それはもうあまり重要だとは思われていないようだ。現に、その机の上にリュックを投げ出して、顔を伏せている同年代の男性が数人目に入る。あとは、電波の入りの悪さに対して、スマートフォンを指先でつつきながら、どこか不満げな表情をみせる女の子。あなたを含めても、部屋にいる人数は片手の指だけで足りる。
 
 しかしその思考は直後に断たれる。
 
 ぱちり、とスイッチを切り替える音で、意識がそれを発した場所に引っ張られたからだ。同時に、うす暗かった教室が蛍光灯の白にさらされる。
 
 丸い眼鏡をかけた細身の男性が、ドアを開けて立っていた。あなたは内心、これで六人目だ、と思う。すこしゆったりとしたスラックスと、つくりのよさそうなベストをシャツのうえに着ている。肩から提げていた茶色い革の鞄だけはひと目でわかるほどに使い古されており、長年連れ添ってきた愛犬だけが持ちうる貫禄がうかがえた。顎髭は、おそらく若く見られるのを防ぐために生やしているのだろう。あなたの目を通してみても、チャームポイントとしての役割を演じ切れているとは思えなかった。

 そして高さ20センチほどの教壇に登り、時計を確認する。鞄を机の上にスライドさせる。その脇にスマートフォンをごとりと置く。それから、こつ、こつ、と指先で天板を叩く。この一連の流れは、それこそずっと前から決まっているかのように見えた。そして男は、たった5人の聴衆に向かって、口を開いた。
 
「みなさんは、『アイカツ!』って知ってますか」

 その言葉に顔を上げたのは、あなたを含めると3人だった。残りの生徒であるはずの2人は、まだ眠っていた。
 すると男は、またこつ、こつ、と天板を叩く。

「みなさんは、『アイカツ!〜アイドル活動〜』を知っていますか」

 今後はもうすこし、ゆっくりとした口調でそう訊ねてきた。すると寝ていた2人の頭がもぞり、と動きはじめる。教師は、目ざとくそこに照準を合わせて、

「きみたちは、アイカツ、を知っていますか」

 と訊ねた。事情をわからないこのふたりはともかくとして、あなたを含めた残り三人は、ようやく状況を飲み込みはじめてきているようだった。どうやらこの質問は、単なる講義を開始するまえのちょっとしたコーヒーブレイク、日常会話に準ずる類のものではないのだということを。

 あなたはトートバッグに入れていたシラバスの冊子を、なるべく音を立てないよう抜き取った。そこからドッグイヤーをつけていた「偶像学園論概論」のページを手探りで開く。てっきり宗教学に関係するものであり、教科書・テキストを必要としない講義だから単位と学費の節約になるのでは、と思っていたのだ。そのいっぽう、寝起きに質問を浴びせかけられた男子学生のふたりは、えっと、名前くらいは、たぶん、とぼんやりした声で答えていた。その反応にうなずきながら、教師は手をぱん、と合わせ、チョークを手に取った。カッカッ、と音を立てながら、白い線が黒板に書き足されていく。

「偶像学園とは」

 男はそう述べて振り返る。あなたはその後ろに書かれていた文字に目を移す。カタカナ四文字に、エクスクラメーションマーク。

「『アイカツ!』の台湾版のタイトルです」

 あなたは男がなにをしようとしているのか、ようやくその答えにたどりつつある。

「TVアニメは全178話のシリーズで、現在はキャラクターとストーリーを一新した『アイカツスターズ!』がテレビ東京系で放送されています。各地のゲームセンターやデパートの一角にはデータカードダスの筐体があり、日々小さい子供たちから大人のお兄さん、お姉さんを魅了してやまないホビー、ゲームでもあります」

 あなたはちらりと手元にあるシラバスに目を移す。第一回目の講義内容には、偶像と映像の関係性について、という簡潔な言葉が記されてあった。

「みなさんにはこれから、TVアニメの『アイカツ!』を見てもらいます」

「すみません」

 と、あなたの斜め前に座っている男子生徒が声をあげた。

「それはつまり、全話見るってことですか」

 教師はしばらく指先でまた天板を叩きながら、空を見つめた。それから、ゆっくりと口を開く。

「4361」

 男子生徒はその言葉の意味がわからず、じっと教師を見つめた。ほかの学生たちもまた、教師が言葉を続けるのを待っている。あなたもその数字がなにを意味するのか、まだわからない。4361。

「4361分。一回分の映像が24分30秒としたとき、178話までのすべての映像を流すためにかかる時間です。わかりますか。およそ72.7時間。毎週一回ずつ見ても三年半。一気見しようとしても、体調に無理ないようにしつつ、プライベートの交友を完全に断って一日2クール分ずつを見る作業ですら一週間はかかります。難しくはないですが、かといって簡単というわけでもない」

 ですから、と教師は続けた。

「みなさんにはまず、わたしが第一シーズンから選んだ30話をこの講義中に見てもらいます。それが、この講義の単位を取得する条件です」



〈つづく〉