『百合小説コレクション wiz2』扉裏紹介文作成協力をしました(およびその他作品紹介/告知)。

 告知です。タイトルの通りです。

「織戸久貴」名義で、2026年2月に河出文庫から刊行されました『百合小説コレクション wiz2』の扉裏紹介文作成協力をさせていただきました。

 物理版ですと、奥付(出版情報等が記載されているページ)の手前のページにわたしの名前が記載されています。『wiz』無印(第一弾)でも、同様に扉裏の紹介文の作成協力をしております*1。『2』を先に読んだよ、百合が気になったよ、という方はぜひそちらにもお手を伸ばしていただけますと幸いです。よしなに。

www.kawade.co.jp

www.kawade.co.jp

『wiz』の一冊目に引き続き、扉裏の紹介文の作成協力をしています。二冊並べると色のコントラストがいいですね。めばち先生/紀伊カンナ先生

 

『wiz2』執筆陣のwebで読める小説について。

 SNSをたまに巡回していると、「はじめて読んだ作家だった」という感想を見ることもあったため、2026年現在、webで読める『wiz2』作家陣の小説(一部はそうでない)を以下にあらためて紹介できたらと思います。

 こういうリンクつきの紹介文は紙の本には盛り込めなかった、という申し訳なさもあり、みなさんにもぜひ読んでほしいという思いもあるため……。

(※ちなみに本記事の内容は河出書房新社さんに依頼されたものでも、監修されたものでもありません。わたし個人の趣味です)

 作品の具体的な言及は『wiz2』の紹介文にもありますので、各作家の来歴ふくめた作風や近刊情報についてはそちらをご参照ください。

 紹介作家と作品は収録順に記載しています。また敬称略です。よしなに。

 

 

宮田真砂「天体の回転について」

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 第二回百合文芸小説コンテストでpixiv賞を受賞した作品です。いまのところ『wiz2』以外で独立したかたちで読める短編で、近年のミステリ文脈とは異なるアプローチながらも、芯の部分はしっかり伝わってくる佳品です。

 

文月悠光「すべての庭のために」

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 おそらく、文月悠光という名前は、百合小説の読者ではなかなか目にしないかもしれません。主な活動フィールドは詩(現代詩)だからです。第六回ブンゲイファイトクラブに投じられた作品はしかし小説で、言葉との距離や関係を整理していく筆致をみることができます。小説としてはほかに、「花首の気配」(『東京新聞』2020年11月28日夕刊)がありますが、発表媒体の関係上、図書館などで複写依頼等をしないとなかなか読む機会がないかもしれません。こちらもおすすめです。

 個人的には最近、君島大空と共作詩というかたちで小川哲原作のドラマ『火星の女王』の主題歌「記憶と引力」に参加していたのが印象的でした。わたしは去年、合奏形態での生演奏をロームシアター(「夜会ツアー 劇場版 汀線のうた」)で見たけど、君はどうする?(謎マウント


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麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』

 ネットで読める麻耶雄嵩作品はありませんが、「大行司春香最初の事件」を読み、『メルカトルかく語りき』に収録されているとある短編を思い出した人もいるのではないでしょうか。詳しくはいえませんが、そういうことですよね。たぶん?

 

宮田愛萌「羨望」

 近年、さまざまな方面での活躍めまぐるしい宮田愛萌ですが、発表した作品のなかでもかなり過去の作品で(おそらくこれが小説デビュー作品となります)、異性愛をベースにした関係ながらも、ふたりの女性の「side」を語るところにどきりとさせる落差があり、同時に小説としてのしたたかさが見えてきます。「羨望」というタイトルの言葉がどこにかかっているかを考えれば、百合のオタクとしても満足できる作品かもしれません。電子限定のアンソロジーですので、見逃していた方はぜひ。

 

雛倉さりえ「森」

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 作者本人のnoteでも言及されているが、この「森」はやがて発表されることになる長編百合小説『森をひらいて』の原型となっています。投稿時のコメントとしては「森林系百合」というのが語られているのが確認できました。というか金子玲介とここで邂逅しているの、同世代作家としてものすごいアツい組み合わせですね。

 また、この「森」をふくめた短編集がご本人のBASEでも購入できるそうなので、気になる方はどうぞ。ほかに『森をひらいて』のセルフ二次創作「泥」が「春昼昏睡」に収録されているとのこと。ご興味のある方はこちらもご確認ください。

hinakura.base.shophinakura.base.shop

 

空木春宵「4W/Working With Wounded Women」

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 空木春宵作品のなかでも『wiz2』を読んだ方にとりわけ手を伸ばしてほしいのが、「4W/Working With Wounded Women」です。こちらは現在『感傷ファンタスマゴリィ』に収録されています。本としてのテーマ統一感もたいへんすばらしいため、もっとこの作家を読みたい、と思ったら迷わず一冊まるごと買ったほうがよいです。SF要素が濃い作品集かつフェミニズム、ディストピア(管理社会)、幻想、痛みなどなど、さまざまな要素が作者の手腕によって凝縮されています。同短編集ですと、「装い」が数値によって管理されているSF「さよならも言えない」が個人的には双璧です。空木春宵作品は大槻ケンヂファンにおすすめ、というのはまったく過言ではないので、そちらの向きにもアピールを入れておきます。わたしは『縫製人間ヌイグルマー』が好きですが……。

www.webmysteries.jp ほかに、第一短編集『感応グラン゠ギニョル』収録の「徒花物語」も読むことができます。こちらはタイトルの通り「花物語」をモチーフにしつつ大胆な世界構築をしている女学校SFです。

 

阿部登龍(屠龍)「n回目のエピローグ」

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 わたし個人としても、阿部登龍(創元SF短編集受賞前は阿部屠龍名義)のすごさを思い知らされた経験があり、具体的には「乗用竜の前十字靱帯断裂症の治療法としての脛骨高平部水平化骨切り術の開発と検討」という短編(こういう無機質な説明タイトル好き)で、その世界の奥行きとキャラクターの感情の向き方に胸うたれ、以降ファンになっています。こちらは現在は読むことができないのですが、ドラゴン百合SFという点でこれに触れないのはおかしいだろ、と思い、どうにか『wiz2』の紹介文でも名前をあげさせてもらいました。

「n回目のエピローグ」『時間百合SFアンソロジー』(同人誌)が初出で、いってしまえばメタ時間SFの系譜のひとつです。詳しくは上のリンクから読んでいただくとして、恒川光太郎「秋の牢獄」などのイメージをわたしは初読時に思い浮かべた記憶があります。時間SFで百合をどう書くか、ということへのひとつのアンサーといえます。またウェブ掲載小説というところですと、Kaguya Planet掲載の「父のある静物」(果樹園×SF )があります。短いながらもここまで読ませるのか、という力のある一作です。

booth.pmplanet.kaguya-sf.com

 

桜庭一樹『ファミリーポートレイト』

 もう『wiz2』を読む人にとって、この作家を紹介することじたいがすでに野暮かもしれません。とはいえ、個人的に過去の自作をいかに乗り越えるか、という点で「少女」のその後を描いたといえる『ファミリーポートレイト』をぜひともみなさんには読んでほしいと思います。『私の男』とは異なる場所からの声が、あるいは過去作品からのエコーがここまでえぐってくるのか、という気迫にみちみちている長編です。

 

 

 というわけで全八作家を駆け足で紹介しました。まだ読んでいないよ、という方も、読んだよ、という方も、今後とも『wiz2』をなにとぞよろしくおねがいします。

 また、紹介文作成にあたり、こころよく資料提供の手助けをしてくださった某氏、ほんとうにその説はお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。それではみなさま、よき百合Lifeを……。FOR GOOD...

 

 

その他の告知:ラジオ『備忘録音』のジングルを作成しました。


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 こちらもお知らせです。

 日頃からお世話になっているお二方がパーソナリティーをつとめている読書ラジオ『備忘録音』の第16回から使用されているジングル(冒頭BGM)を作成しました

 もともとはX(旧ツイッター)でやっていたラジオだったのですが、YOUTUBE進出したさいに「ジングルつくりますよ!!!」と冗談で言ってたらほんとうになりました。ウケんね(激苦笑)。

 学生時代によく聴いていた「文化系トークラジオLife」でパーソナリティーで社会学者の鈴木謙介がジングルを自分でつくったという話をきいておもしろそうだな~~っとぼんやり思っていたら自分もつくることになるとは……。せっかくなので、サウンドクラウドにもあげました。よろしくね。

soundcloud.com

 

エンディング:kurayamisaka「cinema paradiso」


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note.com

【あらすじ】
「私のこと忘れないでね。」春休みも終わりを迎え、松井遥香は進学を期に生まれ故郷を離れることとなる。それは同時に、ただ1人の親友である向井あかりとの別れも意味していた。伝え切れたことなんて何ひとつないまま、発車ベルは鳴り響く。

 

 kimi wo omotte iru って百合、なんですよね。

*1:紹介文の情報は初版刊行時に基づきます。

綾里けいし『夢食み探偵と眠れない小説家』レビュー #PR

【※本記事は、MPエンタテイメントレビュアー企画として書かれたものです。】

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 夢か現(うつつ)か、といった言い回しがあります。

kotobank.jp

 検索をしてみたら一番上に出てきたのでコトバンクのぺージを貼っておきますが、ここには「《意外な事態に、信じられない気持ちを表して》この出来事は、夢なのか現実なのか。」といった意味が説明されています。

 文章内では、この「信じられなさ」を表すことにフォーカスがなされているようですが、今回取り扱う、綾里けいし『夢食み探偵と眠れない小説家』は、むしろ後半部にあたる「夢なのか現実なのか」という部分にこそ文章それじたいが奉仕している、存在からしてあやしげな雰囲気をまとっている小説であるといえそうです。

 とはいえまずは、あらすじを追ってみましょう。

 物語は、中堅小説家の浅岸真宵が、二十日間もまともに睡眠をとることができず、次作品の企画もうまく練れていない状態からはじまります。そこで打ち合わせをしている編集者の浜下から「浅岸先生なら『彼』に会えるかもしれませんよ」とふとアドバイスを受け、「夢食み探偵」こと、壊夜うつつという人物へのパスがつながります。

 そしてどうにか面会した探偵から、作家はこうも告げられるのです。

「君、今一度眠れ痛いのであれば、俺の助手になりたまえよ」

 こうして、夢をめぐる、あるいは夜をめぐる連作、幻想譚、作中の記述に沿うのであれば、「地獄巡り」ははじまっていきます。

 探偵と助手、あるいは探偵と小説家。いわゆるホームズとワトスンという有名なコンビによる事件簿の数々にならったような謎解き物語を、一部の読者は期待するかもしれません。そのような面はないわけではないのですが、しかし探偵役は素性不明の、白髪赤眼の、そもそも人間として受け取ってよいのか定かではない見た目をしていますし、ふたりが解くのも、たんなる謎というだけではありません。

 ふたりが出会うのは、いわば悪夢です。

 しかも本作に登場する夢は、たんなる朝霧のように消えてしまうあわい幻想譚ではありません。かといって恐怖を第一とした薄暗いホラー一辺倒でもありません。

 というより。

 本作で描かれる夢のもっとも畏ろしい点は、いつから夢の世界のなかに入ったのかが、語りからはまったくわからないまま進んでいくところにあります。

 そして気づけばわたしたち読者も無防備なまま幻惑的な世界の内部にさらされ、あたかも夢の景色を追体験するつくりになっています。

 つまりは語りのマジックの発露であり、どこまでも組み尽くせない謎そのもののあやふやさが物語を包んでいます。また、それぞれの夢に織り込まれるように引用されるのは過去語られてきた文学作品の数々であり、それらはモチーフとして底流にのぞく石のように光っています。たとえばフランツ・カフカ、夢野久作、夏目漱石、宮沢賢治……。よって本作は、読者として不可解な夢の連作に同伴し、そこにライドしていくいかがわしさをも同時に味わうことになります。

 さて。

 いま、わたしは「連作」といいました。

 もちろん連作形式である以上、なんらかの区切りやフォーカスされていく出来事や謎はあるのですが、だからといって本作では、それが終わりなのか、あるいははじまりであるのか、次第にあやふやになっていく、という特徴も指摘できます。

 そもそも、わたしたちはいつ、「夢を見ている」と認識できるのでしょうか。あるいはいつ「眠りに落ちた」と認識できるのでしょうか。本作の語り手である浅岸真宵は、しばしば、足元の不確かな夢の世界に飲み込まれていきます。しかしあらためて考えてみると、足元の不確かでない夢などありませんし、その区切りをリアルタイムで、主観のまま、明晰に語ることはほとんどできないのではないでしょうか。

 となるとこの疑義は当然、世界それじたいにも向けられることになります。この世界を構成しているものはなんなのか。それは確かなものなのか。

 関連する(?)話題でいうと(?)、よく(?)海外の幻想小説のパッケージに「カフカ的」といった表現が使われることがあります。このときの「カフカ的」というのは多義的ばことばの運用の最たる例で、寓話的な構造をさしているのか、幻夢的な語りをさしているのか、あるいは不条理な世界や政治の断面をさしているのか、いまいちわからないところがあります。

 ただ、幾人かの小説家や批評家、わたしの記憶は曖昧なので正確な話者はすぐにいえないのですが、たとえば保坂和志や辻原登、室井光広のいずれかあるいはその全員は、カフカの小説の技術的な側面として、なにかか登場するのに「フリ」がないことを指摘していたように思います。

 ここでいう「フリ」がない、というのは、文脈が存在しないということです。

  だからページをめくると、それまでの物語にいなかったはずの人や物が急に現れてくる。この「急さ」が、どこかユーモラスであり、幻想的でもあり、そして不条理でもあるというのです。もちろんこれは大意ですが、わたしはそのように受け取りました。

 となると、本作の最初の話のモチーフがカフカ「変身」から来ていることはたいへん重要な点といえそうです。「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変っているのに気付いた」というひどく有名な書き出しで知られる小説ですが、この引用が作者の十全なたくらみなのか、天然であるかを問わず、結果的にそれは示唆的な事態であるように思えます。

 なにしろ「変身」は夢からさめたはずなのに、夢よりも奇怪な状況が、しかもなにひとつ説明なく起きている物語だからです。

 そう、「夢か現か」なのです。

 本作の全体を覆うトーンはやはり、この問題系のなかで起きています。

 その不確かさ、あるいは反転を繰り返した結果、どちらが地面でどちらが中空なのかわからないまぼろしの内部へとテクストは、物語は織り込まれていきます。ではそのとき、探偵が解くことになる、あるいは食らうことになる謎とはなんなのか、あるいは小説家が記述する対象とは、物語とはなんなのか。そのような深淵が、いかにも浅瀬のような場所に待ち構えているのがこの小説の怖いところなのです。

 というと、いささか掴みどころがないようですが、じっさい掴みどころのなさと、しかし夢というものへの奇妙なほどにじっとりとした手触りが、ここにはあります。

 もしよろしければ、枕の横に本書を置いてみてはいかがでしょうか。

 それは、不可思議な夢への切符となるかもしれません。

 

 

エンディング:Plastic Tree「インク」


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藍内友紀『不動産奇譚 神憑み之函』レビュー #PR

【※本記事は、MPエンタテイメントレビュアー企画として書かれたものです。】

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 なんとなくであって、そこまで真面目に理路整然と言語化しているわけではないのですが、「怖い」というある種の感覚、情動、意識、認知にはそこに至るための”奇妙な回路”が存在しているのではないか、と考えてしまうときがあります。そしてその回路を開いてしまったら最後、もう戻れない場所にいるのではないか……と思うのです。

 以下は、その「怖さ」というものについて考えるために即興で書いた小話です。ふたつのパターン(AとB)に分岐しますので、サクッとお読みください。

 ある日の深夜、あなたは自室のベッドでふと目をさますと、

A1:その日は新月のため、部屋は真っ暗でなにも見えませんでした。あなたは暗闇のむこうになにかがいてもおかしくはないと思いましたが、しかしいつまでたっても視界は暗いままで、やがてうとうととして、眠りにつきました。

B1:その日はかすかに月の光がさし、まぶたを開けたあなたは天井の木目と”視線があって”しまいました。眠っているあいだ、あなたはずっとその目に見られていたのかと思うと身体が急に動かなくなった感じがして、やがて視界が暗闇に包まれました。

A2:気づけば朝になっていました。

B2:気づけば朝になっていました。

 上記は、比較的怖くない駄文にすぎません。

 が、このAとBを比較するなかでわたしがなにをいいたいかというと、「怖い」という感情を抱くためには、その人が”なにを怖いと思ったのか”という理路が必要になるのではないか、と思うのです。

 そして本書『不動産奇譚 神憑み之函』は、そのようななにが「怖い」ものであるかを認識し、かかわることになるふたりの女性を書きながら、しかしその”怖いもの”の手前にまで読者を誘い込むところに周到さがあるといえます。

 こわいの、手前、なのです。

 では具体的に、本作はどのような物語でしょうか。

 連作の語り手を務める「わたし」は物語が開始した時点で高校生。時折、友人である茅ヶ崎恵から頼まれ事を受けることになります。それは彼女が務めている不動産屋のとりあつかう物件を訪い、ときに正体不明のトラブルを見てみたり、その場でなんらかの対処したりするようなこと、ととりあえずはまとめられます。

 しかしこの「わたし」は、第四話「二〇一号室」で、次のように語ってもいます。

 けれど、わたしはお祓いだの除霊だのができるわけではありません。幽霊とされるものですら視たことがないのです。

 そう、じっさい「わたし」はなにか怪しい存在や現象があることまでは理解できても、その正体を看破したり、除霊するといった力を持ちません。

 よって「わたし」にできるのは、「そういうもの」に遭遇したとき、かろうじて見えるなんらかの法則性の一端を掴み、そのルールにのっとってどうにかヤバそうななにかにお引き取りいただくようお願いする、といった対処療法に近いものでしかありません。本気で手に負えなそうであれば、とにかく逃げるくらいしか道はありません。

 ですからこの連作では、いわゆる「退治」の物語は存在しません。

 ですが、だからこそ本作は「怖い」お話だともいえます。

 改めて考えますと、「ルール」というものは、いってしまえば非常に言語的な「縛り」なわけですが、ではいったいだれがそのルールを決めているのでしょうか。なぜそのようなものたちは、法則に従っていると指摘できるのでしょうか。

 いや、そんなものはただ「ある」かのように見えているだけかもしれないのです。

「わたし」と茅ヶ崎は、そのルールの可能性に思い至っても、次に取る選択肢はあくまでその「らしさ」を想定したうえでの行動にすぎません。うっかりすれば大変なことになるかもしれません。じっさい「うっかり」してしまった人々のすがたを「わたし」は数えきれないほどに見ることになります。その法則と呼ぶにはあまりにも疑わしいものを「ある」と思うことは、とても怖いと感じられないでしょうか。

 にもかかわらず彼女たちは、そのような状況に幾度となく立ち会いつづけます。

 ではいったい、そこにどのような理路があるというのでしょうか。

 というわけで、最初にわたしが書いた駄文AとBの話に戻りたいのですが、思い出してみてください。暗闇で「目があった」のはBのほうでした。ですがもし、ほんとうに怖い出来事だったのはBではなく、Aのほうだったとしたらどうでしょうか。そこで「あなた」は偶然、なにもしていなかったために生きのびていたとしたらどうでしょうか。

 すべての出来事は綱渡りでしかなく、たまたま禁止されている事項に抵触しなかっただけだとしたら?

 たとえば、あなたはとある部屋の窓辺で、レースのカーテンがふわりと揺れているのを見たとします。そこで「ああ、外からの風が吹いているんだな」とすぐに思い至ります。

 ですが、ふと、しばらく考えてみてから、その窓がほんとうに開いたままになっていたのか、もしくは開いていなかったのか、どっちだったのか思い出せない自分に気づくとしたらどうでしょうか。そこで窓をちゃんと確認しておきたいと思いますか。じっさいは後者だったと思いますか。もし仮に後者であったとしたら、どうしてカーテンはふわりと揺れていたのか、踏み込んで考えたいと思いますか。

 わたしだったら、正直その確認をしたいとは思いません。

 しかし本作はそのような、一歩立ち止まって考えさせられるタイプの「怖さ」ばかりが、不思議と、淡々と、つづられている物件ばかりです。どうでしょうか。見えないものの、内見をしてみたいと思いますか。

 ああ、どうやらすでにドアの鍵は開いているようです。ご自由に入れますよ。

 もちろんです。時間はたっぷりあります。

 

 どうぞ、ごゆっくりしていってくださいね。

 

 

おまけ:藍内友紀先生の偏愛作品10選 

note.com

 

エンディング:高城みよ「過去の明日を願うなら」


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下半期よかったもの2025書籍編

 なんか一月が終わろうとしているらしいですね。光陰矢のごとしワロタ。二〇二五年の上半期よかった本リストもやった以上、下半期もやらないとなんか気持ちがわるいというごく個人的な理由から苦しくなっています。やってやりましょう。

saitonaname.hatenablog.com

 

 

ペソア詩集』(澤田直・訳編)

 ちょっと前(二〇二四年)に改版二刷が出たよ!というニュースだけは聞いていて、ただしっかりとペソアの名前を意識するに至ったのは須賀敦子による文章を定期的に読み返しているなかでだった。それも彼女が翻訳をおこなったアントニオ・タブッキを介して、である。たとえば『島とクジラと女をめぐる断片 (河出文庫)』の訳者あとがきでは「ポルトガル語の作家」タブッキを紹介するにあたり、その創作のきっかけにペソアの存在を見出している。

 一九四三年生まれのタブッキがそんなポルトガルに魅せられたのは、彼がまだ青年のころだった。七〇年代のはじめだろうか、彼はパリで勉強していて、ある日、ポルトガルとその国の詩に、いやもっとはっきりいうと、ポルトガルの偉大な現代詩人フェルナンド・ペソア(一八八八ー一九三五)の作品に出会い、この国のことばと、そしてこの詩人と生涯つきあっていくのが、どうやらじぶんの運命らしいとさとった。

 また須賀は『本に読まれて (中公文庫 す 24-1)』に収録されている「気になる作家アントニオ・タブッキ」でもやはりペソアに言及している。こちらは文庫になった『須賀敦子全集』にも収録されている。

 読者は、研究者としてのタブッキが、ポルトガルの現代詩人、フェルナンド・ペソア(一八八八ー一九三五)についての権威であることを忘れてはならない。(…)その作品の大半が詩人の死後に公表されたのだが、ペソアの詩の特徴は、彼自身が考案した《異名(エテロニム)》と呼ばれる一種の《分身あそび》にある。彼が産み出した出自も生いたちも異なる数人の《詩人》、たとえば田園詩を書くカイエロ、彼の弟子で古典ギリシア詩の教養のあるレイス、モダニスト未来派のアルヴァーロ・デ・カンポスらは、ペソアのいわば分身であり、彼はそれぞれ異なった人格や文体をみずから創造したばかりでなく、それらの詩人の詩集を、自分がつくった詩人の数だけ編むという変わった仕事をやりとげた。(…)

 この海外詩文庫の編訳をおこなった澤田直の解説を読むと「研究者によれば七十は下らないと言う彼の創造した異名のうち、主なものはアルベルト・カイエロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの三人、本アンソロジーには彼らの詩とペソア本人名義(より正確に言えば同名者ペソア)の詩を収録した。」とある。

 肝心のペソア(とその《異名》たちの)詩については訳文でもテイストが異なっているのがあきらかに意識されており、ひとりの詩集なのにアンソロジーとしても読めるという不思議な一冊となっている。個人的には日常をだらっと生きるしかない実感のこもったカンポスの詩がたいへんよかった。

 本書の巻末には書誌や年譜以外に虚実のまざった主要関係者リスト「WHO’S WHO」があり、これだけでもおもしろい。ジョゼ・サラマーゴなんて『リカルド・レイスの死の年』というペソアの死後のレイスの話を書いている。読みたすぎ。

 

深谷忠記『「法隆寺の謎」殺人事件~寝台特急はやぶさ」180秒の逆転~』

 探偵役とヒロインのキスまでしか進んでない……みたいな往年のメロドラマ関係にはさすがに激苦笑したけれども、早口歴史解釈バトルにアリバイトリックとバラバラ殺人、最後には十六個の推理の材料が列挙されて解決編になだれ込む勢いはさすがに気持ちよかった。アリバイもので急にヴァン・ダインみたいなことやる人っているんスね……ミステリ、広いッスわ……。

 

津村秀介『裏街』

 アリバイトリックばっか書いてきた作家が十年以上かけて仕上げた究極の「アリバイ崩し」なるものが、戦後二十年の横浜で起こる根拠不明の殺人を発端にしたドッペルゲンガー幻想譚であり、崩されていくのが自己の連続性や確かさや境界になっていくのヤバすぎる。この作者のほかのアリバイ長編もいくつか読んだが、そちらはふつうに時刻表トリックその他だったので、これだけかなり異質なものとなっている。ちなみにこれは三部作の構想らしいが未完だそう。

 

サラ・グラン『探偵は壊れた街で』

 ハリケーンカトリーナ》から二年後の治安最悪ニューオーリンズで女探偵が失踪事件に挑む、という現代プライベート・アイの系譜、だけども主人公が幼少期に偶然出会った自己啓発ふう探偵指南書を全文覚えて座右の書になっていたり、夢や幻覚(ドラッグ)から啓示を得てくので大丈夫か…?となる。たぶん瞑想とかそういう感じだろうか、ホームズも阿片やってたし……。

 またハリケーンでぶっ壊れた街に金と利権のにおいをかぎつけたドナルド・トランプが視察に来ていた、みたいなエピソードのリアルなキツさもある、そしてラストは水害の物語とアメリカという国家の横顔にたどり着いてウォー、アメリカンディテクティブノベル!!!となる。最後にちゃんと帳尻があうの不思議すぎる。

 

倉野憲比古『スノウブラインド』

 作中でも言及されるが、『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』はOKで、『虚無への供物』はNG、といういまどきめずらしいタイプの変格ミステリ原理主義おじさんの魂が実体化したかのような作品。ここ四半世紀でロジック中心の本格ミステリのほうがどうしても評価されやすい傾向になったことは疑いようがないが、それでも語り継がれるだけのことはある出来となっている。

 

マーガレット・ミラー『鉄の門』

 有名タイトルのひとつ『まるで天使のような』はもちろんよかったのだが、なんとなくこの作者の手際を理解しきれなかった感触があり、あらためて『悪意の糸』など比較的最近の翻訳作品を読んでみたらめちゃくちゃ面白く、気づけばひと月でミラー作品を五、六冊くらい読んでいた。『鉄の門』は脅迫的なレベルで精神がまいってしまっている人の言語化がうますぎてこの時代にこれだけ書けてしまうのか……と圧倒された。

 あと当然ながら『これよりさき怪物領域』はほんとうに天才だとおもった。ロスマクは家を外から見つめる探偵像を書いてきたが、ミラーは家の内側で生きている人の話をずっと書いている。

 

内田隆三『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』

 ピエール・バイヤール『シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考』を読んだとき、こんなんただのめんどくさいミステリオタクが重箱の隅をつつき亭になってるだけじゃんね……と思ってこの読書家に対する信頼をしずかに失ったものだが、それはひとえにホームズの推理にホームズ流の対抗言説を唱えているという水かけ論的構図に由来しているのであって、おそらく内田のほうは別のアプローチによってそれを回避している。つまり、探偵側の目線ではなく、語り手≒作者がなぜこのような記述を採用したのか、というテクストへの戦略的解釈をおこなうことによって。

 

仰木日向『作曲少女Q~曲作りに悩みはじめた私がやらかした12の話』

 まつだひかり先生がイラストを担当している、作曲の抜け道やコラムをラノベ的にストーリーにして紹介するシリーズの番外編。以下は事実だけで人を殴る言葉。

「ちなみにこれがなぜ頻繁に起こる症状なのかというとね……」
 珠ちゃんは、少しいたずらっぽく笑いながら言う。

「作品を読み解いて評論するっていうのは、超超簡単にクリエイター気分を味わえるものだからなんだよ。とくに努力も能力も必要ないことなのに『わかる』=『できる』と思い込んでしまうんだ。観るのも聴くのも読むのも、受け取るだけだし簡単だ。そこに工夫はいらない。そもそも作品は、受け取る人に伝わるように考えられて作られてるケースがほとんどだからね。もしわからないものだったとしても、自分のサジ加減で抽象的に評論しちゃえばまるで深みのあることを『わかってるような気分にもなれる』し、『作れるような気分にもなる』。実際に作れるわけでもないのにね。でもそれは、手軽だし楽しい気分になれるから、ついうっかりインプット&評論にハマってしまう人は多い」

 うーん、なんというか、このブログみたいな話ッスね。

 

夜野せせり『おとなになりたくないわたし』

 身体にコンプレックスを感じることについて、話すことができる相手がいるということ。挿画の描き方についてもたいへん丁寧なアプローチがなされていて、かくありたいと思わせるくらいによいお話だった。

 

長谷川まりる『この世は生きる価値がある』

 いわゆる「転生」先でもともといた人間の人格を乗っ取ってしまったのではないか、みたいな罪悪の問題系があることはなんとなく知っていたのだが、こちらは現代の世界で人間が亡くなった瞬間にまったくべつの存在が入り込み、まず身体があることに感動するところからはじまっていく変則的な「生きる」を謳歌する物語。とりわけ語り手と周囲とのあいだにあるつかみどころのない壁のようなものの筆致にすごみがある。

 

エルサ・モランテ『嘘と魔法』(上・下)

 上下巻各400pかつ二段組の大長編。両親を失い、保護者も失った天涯孤独の女性が語りはじめるのは、やがて現在の自身にいたることになる壮大な家族の歴史(ファミリー・ヒストリー)で、しかしその人間関係は見栄や嘘、愛や嫉妬や憎しみが解きほぐせないほどに絡み合っている。

 なによりこの物語を語ろうとする人間はどう考えても上巻のほとんどで起きている出来事を知りようがない(伝聞にも限界があるし、親世代のさらに親世代にいたっては存在を知りえたかどうかさえわからない)。にもかかわらず人間も物語もそのような想像や嘘がなければこの作中で生きえない構造になっていて、下巻に入ると登場人物の言葉ひとつひとつに異様なまでの重みがうまれていく。つまりは「声」の行き交いにすべてが託されている。

 そのような点で、これを読みながら自分はナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話 (白水Uブックス 120 海外小説の誘惑)』を思い出していたのだが、編集者だった彼女が最初に『嘘と魔法』の原稿を読んだことが下巻の解説で書いてあったので、やはりそのような声の系譜の原液みたいな作品なのだろう。てか、どうにか『イーダの長い夜  ラ・ストーリア』新訳してくれませんかね……池澤夏樹の力を借りて……。

 

アニー・エルノー『嫉妬/事件』

 男性がカスすぎる。怒りの文章。

 

丹治愛『ドラキュラ・シンドローム 外国を恐怖する英国ヴィクトリア朝

 ブラム・ストーカーの小説が書かれた年代におけるイギリスと周辺国の微妙なパワーバランスやユダヤ人差別のイメージをさまざまな文献と重ねてゼノフォビア的に論じる本。このあたりの内容はめぐりめぐって『「ヒト×ヒト」以外百合アンソロジー Omnisで書いた吸血鬼百合「証し」の精神的なスプリングボードになりました。

www.melonbooks.co.jp

 

三河ごーすと『姉妹傭兵』

 戦況を左右する作戦や俯瞰的なストーリーもなければ、スタイリッシュガンアクションもなく、主人公のフィルターを通すと異国の戦場であっても日本での生活上の比喩で語られることになるという、ある種のミリタリーラノベからなにを削っていくかという構造になっている点がよかった。

 またいわゆる「セカイ系」的な精神の前提にあった「遠くの国の知らない戦争」≒90年代以降のテレビ報道や、そこから戦争アクションゲームが意識的に「リアル」として輸入、再生産していく映像イメージ(たとえば『フルメタル・ジャケット』の終盤の臨場感のあるカメラワークとか)といった表象群に対する小説側の応答を感じさせる。日常/非日常の差を与えることができない語り手をあえて通すことで、逆説的になにかを語ろうとしている瞬間があった。ただ、バイセクシュアルの表現はかなり残念なところがあったのが惜しい。たいへん惜しい。

 

山賀塩太郎『すぐケンカする都会ギャルと京美人を仲直りさせたいだけなのに! (※わたしを取り合うのはやめなさい!)』

 最近というほどでもないがガールズラブコメ/百合のポスト『わたなれ』ライトノベル主人公は自己肯定感の低さから他者から自分がどのように見えているかを意図してオミットしているのに反して相手をところかまわず褒めちぎったり好意を伝えたりすることができてしまう信頼できない語り手となっていてつまりは甘織れな子さんによる瀬名紫陽花さん無自覚惚れさせ問題をずっとやっているんですよね(傍点ここまで)

 

としぞう『憧れのお姉様が「妹になりたい」って甘えてくるんだけど!?①』

 最近というほどでもないがガールズラブコメ/百合のポスト『わたなれ』ライトノベル主人公は自己肯定感の低さから他者から自分がどのように見えているかを意図してオミットしているのに反して相手をところかまわず褒めちぎったり好意を伝えたりすることができてしまう信頼できない語り手となっていてつまりは甘織れな子さんによる瀬名紫陽花さん無自覚惚れさせ問題をずっとやっているんですよね(傍点ここまで2)

 

石川幹子『緑地と文化 社会的共通資本としての杜』

 神宮外苑の樹木伐採や開発計画に本気で、ロジカルに、キレている。内容についてはじっさいに読んでいただく以上のことはないのだが、できればいきづらい部!の山田真緑さんにも読んでいただきたい、と思っています。

ノープラスチック・ノーカーボンを歌う山田真緑さん。

 

中條献アメリカ史とレイシズム

 昨年から知人とマーガレット・ミッチェル風と共に去りぬ』(岩波文庫・荒このみ訳)を一冊ずつ進めていく読書会をしているのだが、その途中で作中での出来事(黒人奴隷の解放やKKKなど)とリンクしている本が出ていたので。アメリカ史におけるレイシズム、つまりその前提となる「人種」概念がどのように構築され、普及していったのかを語る。最初の章の扉に出てくる写真が「解放」された黒人がたくさん並んで本を読んでいるという(おそらくは意図して撮影された)ものでたいへんぎょっとするのだが、そのあたりからしてアメリカ建国から現代までの素描をおこなっているよい本。

 

瀬戸夏子『をとめよ素晴らしき人生を得よ 女人短歌のレジスタンス』

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 わたしが短歌について説明しても下手なことにしかならないので、「はじめに」を読んでいただけるとよいと思います。圧倒的なリサーチに感服するしかない。紹介されている歌人を中心にした短いアンソロジーが付録として巻末にあり、それもたいへんありがたい。ミステリファンとしては中城ふみ子中井英夫の章がうれしい。なにせミステリオタクの内側からは出てこない態度で一定の距離をとりつつ語ってくれるから。

 

ジャック・ハルバースタム『失敗のクィアアート 反乱するアニメーション』

 序盤はどうしても前提をあまり共有できていないのと、いまどき『ベイブ』や『バグズ・ライフ』の話をされても記憶の彼方すぎる……とかなり苦労して読んでいたが、『ファインディング・ニモ』あたりからだんだんとピントがあってきて、そうしてみると遡及的にさっきまでよくわかっていなかった部分も全体図のなかの位置が見えてきて、刺激的な読書だった。

 

『アニメ音響の魔法 音響監督が語る、音づくりのすべて』

 音響の技術論、というよりいかに現場を成立させるかという仕事論に近い、とはいえみんなアナログ→デジタル移行でPro Toolsの話をしていたり、軽いこぼれ話がだいたいぜんぶ歴史なのでそういう証言集としてたいへん読み応えがあった。わたしたち(わたしたち?)はアニメを語るとき、いつも絵づくりかセリフの話に偏ってしまうので、音についてもっと言葉や分解能を持ちたいと思う。

 

大橋崇行ライトノベルから見た少女/少年小説史』

 サブカル批評において戦後のまんが・アニメ表現からやってきたと言われがちな従来のライトノベル成立論に対して明治期からの引用の織物(バルト)であることを語り、改めて文学史のなかでの位置づけを検討するたいへん丁寧な本。批評がすべてではないし、反対にアカデミックな語りがすべてではないとはいえ、アプローチが異なることでなにが語り落とされるかを認識しておくにこしたことはない。複数の分野を橋渡ししてきた大橋先生のストレートな主張が力づよく、よい。

 

松浦寿輝『平面論ーーー1880年代西欧』

 しかしそれにしても、そもそも「イメージ」とはいったい何か。それでありながらそれではないもの――言ってしまえば、これが「イメージ」だ。「イメージ」の定義のうちもっとも単純で、かつまたそれが誤っているとはだれにも言えない定式とは、「それであり、かつそれでない」というものだろう。(太字は傍点)

 

アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』

 田崎英明無能な者たちの共同体』がすばらしかったので、そのタイトルの参照元のひとつであろうこちらも読んだ。田崎の本が自然状態におけるコミュニケーションが暴力の側面を持つことに注目していた(とおもわれる)のに対し、リンギスは他者の他者性すなわちコミュニケーションの不可能性にこそコミュニケーションの可能性を見出そうとしている(ようにおもえる)。

 コミュニケーションとは、メッセージを、バックグラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから、引き出すことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱にたいする闘いである。それは、背景に押し戻されなければならない無関係で曖昧な信号、そして地方なまり、発音間違い、聞こえてこない発音、口ごもり、咳、叫び、途中で取り消され最後まで語られない言葉、非文法的表現といった、対話者が互いに相手に送る信号に含まれる不快な音と、文字記号の悪筆にたいする闘いなのである。

 

小山田浩子『作文』

 戦後八十年小説、といってよい。記憶の継承という話はいつもどこでも何度でもされているが、ここでいう「作文」というのは、幼いころ直接戦争を体験した世代に話を聴き、それを書き、教室で発表するようなものだ。けれどもここには「継承」という言葉が内包するパラドックスが提示されている。なぜなら「作文」というのは「録音」でも「聞き書き」でもないからだ。そこには子供たちのなかに内面化された戦争のすがたがあり、そのねじれのなかでわたしたちは生きている。

 

朝吹真理子「きいて」

 戦後八十年小説、といってよい。短編でありながら複数の人物、異なる時代のオムニバス的なところがあり、かつメディアとして語られる「戦後」や「平和」といったものが無自覚にドメスティックな語りとして扱われる傾向があり、加えてマジョリティのためのものにされていやしないか、というところを後ろから刺してくる。

 

平野啓一郎『文学は何の役に立つのか?』

 パフォーマティヴなタイトルは講演の書き起こしで、一冊の本のすべてではない(たいへんまっとうな話をしている)。ただ、この長いものも短いものもまとめている本書でいちばん読んでほしいのは、かつて文芸誌に掲載された「『オッペンハイマー』論 ーオッペンハイマークリストファー・ノーランの倫理」という骨太な批評だろう。

 ノーラン作品の過去作品を複数参照しながら、それらに頻出する奇妙な因果関係の取扱い(たとえば『インセプション』は存在しない概念を夢に埋め込むことで当該人物のなかに「結論」を与えてしまうSF設定が採用されている)を丁寧に読み取り、そのうえで『オッペンハイマー』の表現を検討している。

 日本での公開前からよく言われていたのは、原爆そのものの被害が映されず、作中でのオッペンハイマー爆撃後の映像から「顔を伏せ、視線をそらす姿」だけが描かれている、というものだった。

 もちろんこのシークエンスはじっさい見てみると多義的で、伝記的事実はともかく、ここでのオッペンハイマーは「自分の罪から目をそらしている(反省していない)」とも取れるし「あまりの惨状にショックを受けている(反省している)」とも取れる。もちろん断片を切り出して判断するのは観客の自由だが、平野は全体の構成を見据えつつ、どのような映像になっているのかをじっくりと書いている。ノーラン論としても出色の内容だった。

 

金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』

 オタ活/推し活描写としてはちょっと前だな、という印象ではあったけれど、まっとうさとどうしようもなさのはざまでもがいている主人公(彼女が沼っている肉の部位を擬人化したアニメはかなり目的のために生きているキャラしかおらずグロいがそれにはあまり気づいていない)よりも、彼女の周囲にいる、自分のどうしようもなさゆえに大切な人を将来的に破壊してしまうんじゃないか、みたいな怖れにかなり心が傾いてしまった。具体的にはシオランbotを引用してくるアンニュイな作家の人に。

 

坂崎かおる『へび』

 ある日妻が「人形」になってしまい、代わりに育児の仕事をぜんぶやることになった夫が主人公で、小学生の息子はASD傾向のあるADHDと診断されている。そのうえで語り手が「へび」のぬいぐるみとして登場し、文章スタイルが意図的に寸断(文字通りスラッシュ/が入る)され、現実/虚構を見ている・語っているものがシャッフルされつつ進んでいくけれども大事なものをどう捉えるか、取りこぼしてしまうのか、といったところに迫っており、とてもよかった。

 

『コマ送り-Frame by Frame-vol.1 アニメ業界とフェミニズムvol.1』

fbfkomaokuri.base.shopframe-by-frame.studio.site

 公式ページの「About Us」を読んでください。個人的にめちゃくちゃ応援しています。造本もかっこいい。アニメとフェミニズムの関係はもっと語られるべきだとずっと思っているので、スーパーおすすめです。

 

 以上、三十冊。いまも書いている評論や小説やその他のための資料が無限にあり、無限に横になっていたり、横なので、横になっています。あと、岡崎いるかさんをよろしくお願いします。なにとぞ、ほんとうによろしくお願いいたします。

超近況:『メダリスト』のウエハースを箱買いした。

 

告知:『ストレンジ・フィクションズ Vol.5』通販を開始しました

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 告知です!!!!

 先日の文学フリマ京都10に頒布しました『ストレンジ・フィクションズ Vol.5』の通販を開始しました。今回は【アニメ批評特集】です。わたしの新録としては、昨年公開された『不思議の国でアリスと』を中心にP.A.WORKS篠原俊哉監督&柿原優子脚本タッグアニメ論を書きました。2.4万字あります

 なんと特別寄稿ゲストは川西ノブヒロ先生矢部嵩先生! 

 川西先生はわたしの敬愛するアイカツ!シリーズといまも生きている本物の漫画家であり、その生き様を余すことなく語ってくれています。また矢部先生はわたしのうろんなアニメブログ*1を読んで応答してくれた部分が一部あり、どちらも感動のアニメ文章です。アニメガタリズです。ぜったい読んでくれよな!

 また、表紙イラスト・デザインは鈴木りつ先生ですが、キャラクターは川西ノブヒロ先生の「好きなアニメが終わった。」から登場、というキセキのコラボレーションが実現しています。ぜひこちらもよろしくお願いします。あと川西先生の「女児向け筐体全身浴」は本物の漫画です。読んでおいたほうがいいですよ、なにせ本物ですからね。

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エンディング:鈴木凹「リファレンス・エンジン」


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おまけ:2025年のよかったプレイリストとサンフェーデッド(篠澤広)カバー

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 いつでも文化祭でバンドを組む練習をしています。

2025年に見て印象に残った百合・シスターフッド関連映画作品

 タイトルの通りです。あらすじ以上のネタバレはそこまでしない予定ですので、サブスクに入るかディスクを購入するか、あるいは上映している劇場にダッシュすることを推奨しておきます。よしなに。

 

 それではやっていきましょう。

 

 

『地獄でも大丈夫』


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 いじめられていた女の子ふたりが、修学旅行の前に自殺をはかろうとするも、そのいじめの元凶になったクラスメイトが現在ソウルでかなりいい感じの暮らしをしており、なんなら今後は留学も控えて人生順風満帆ゾーンに入っていると知り、秒で「よっしゃ復讐すっぞ!!!」と実家の店からお金を持ち逃げしてその日のうちに深夜バスでソウルへ……というパワフルな勢いで進むバディムービー。とはいえそこはまだ序盤で、その復讐対象となる女子が生活しているのはどうも善行ポイントを稼ぐことで「約束の地」的などこかへと向かうことができるとされる宗教団体で……。

 全体的な建て付けは意図しているかわからないものの、安っぽいところが多く、その点はどこまで受け取っていいのか海を隔てている人間からするとわからないところはある。ただ、そのなかで一方的に青春を奪われたことに対する怒りや鬱屈を抱えている主演ふたりのそれぞれ異なる葛藤が見え隠れするシーンはたいへんよく、終盤の「なんでもない」ようなロケーションだからこそ交わされる言葉もよかった。見たあとは走りたくなるようなパワーがある。

 

ウィキッド ふたりの魔女』


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 ディズニー映画のヴィランにスポットをあてるムーブが盛況になる以前から上演されていたミュージカルであり、なんか知らんうちに百合のオタクも好きな演目らしい……とは聞いていたが、想像以上に正反対なヤツと一緒に生活を!?的なデコボコケンカップル百合(以下動画参照)で笑ってしまった。


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 また、こういう題材でありがちなイケメンだけど頭カラッポ系王子(御曹司の場合もある)の描写にしても、ただ理由があってそうしているだけではないといった話が語られるくだりもあって、世界や人間への福利厚生があるな……と思ってしまう。いちばんドギツイのは衆愚政治と差別描写だが(アメリカ建国史~~)、これでもかなりわかりやすく抽象化されたもののはずで、今年上映される後編でどこまでやってみせるのかは気になるところ。

 

セルロイド・クローゼット』


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 リマスター上映で。ハリウッド映画における「ヘイズコード」がどのように制定され、映画制作者たちが同性愛者を描くときの姿勢を語り直そうとするドキュメンタリー。異性愛規範の社会では同性愛者は忌避されるか、道化のように笑われる存在であり、ときには当然のように死に追いやられる。しかしそのなかで個々の実践は後世に爪痕を残そうとする(むろんバッドイメージも量産されることになるのだが)。すでにこのドキュメンタリーじたいが古典のひとつになっている点はまぬかれないが、いまなおわたしたちをエンパワメントしてくれる表現の源流を教えてくれる。

 

スターレット


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『ANORA アノーラ』がよかったので、ショーン・ベイカー初期傑作選で見た。構造はほぼアノーラと似たような感じというか、アメリカンドリームの端っこで生きている人間の上昇願望と現状維持しかできない今とその変化を感情の動きとともに描いている。ショーン・ベイカーってずっとこういうの好きやね。

 ロサンゼルスでポルノ女優の仕事をしている主人公・ジェーンが、たまたま道端でやっていたガレージセールで購入したポットのなかから大量の札束を見つけてしまい、しかし売り主の老女・セイディに返そうにもシャットアウトされてしまう。代わりにジェーンはひとり暮らしをしているセイディの買い物の送迎など、生活の補助を自主的にはじめ、ふたりは次第に友人のような立ち位置となっていく。しかしお金の話や自分の職業のことを告げられないジェーンに対し、セイディもまた自分たちの関係が簡単に駄目になってしまう可能性に気づきはじめ……という年の差共依存百合(プラス罪悪感×2)といってもよい微妙な関係を描いた傑作であり、2025年に見た犬映画ナンバーワンです。おすすめ。

 

『The Summer/あの夏』


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 チェ・ウニョン『わたしに無害なひと』に収録されていた短編「あの夏」のアニメ化(せっかくなので日本語吹き替えで見た)。60分という短い尺のためか、省かれている箇所は多くあって惜しいな、というところはあるが、ゼロ年代の田舎から都会に出たのち、レズビアンコミュニティに参加して自分なりの居場所を見つけようとしては移動してゆく人間の生活の肌感を映像に落とし込もうとしている気配がある(現代のビアンバーがアニメになったことなんて日本ではまだほとんどないのでは)。じっさいのアニメーションは想定よりも暖色が綺麗に出ており、初期新海誠っぽい光線の感じを受け取ったが、これはたんにガラケーでキャラが連絡を取り合ってたせいかもしれない。

 映像的にも韓国田舎コミュニティの描かれ方はかなり日本のゼロ年代で見たことある女性蔑視、同性愛差別社会だな……という感じで、その世界を経験しているティーンズから大学生くらいの人間(とりわけ同性愛者)にとって、出会いたい相手と出会えるかなどはまったく先の見えない話であるからこそ、イギョンがスイに対しておこなった仕打ちへの内省(原作では短いながらもそこにひとつの山として語られる)は描写としてあと一歩ほしかったな、と思ってしまう。せめてあと15分尺があれば……。

 

『不思議の国でアリスと ーDive in Wonderlandー』


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 本作については今月の文学フリマ京都10の新刊でめちゃくちゃ扱います。キーワードとしては、エンドロールで「スペシャルサンクス 新川和江と表記されていた女性詩人を軸に、『アリス』をいま語ることはどういうことなのかをゴリゴリに書いています。篠原俊哉(監督)と柿原優子(脚本)というPAワークスのタッグとして過去作『色づく世界の明日から』と『白い砂のアクアトープ』からの連続性もふくめて扱っているため、およそ2.4万字のクソデカ評論になりました。乞うご期待。

c.bunfree.net

 

遠い山なみの光


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 カズオ・イシグロ作品をミステリーとして受け取るのはあんまりよい筋ではないと思っている派閥ですが、今回については戦後日本での女性がどのように生きていくしかなかったのか、という点で自身のライフ・ヒストリーに矛盾を内包する必要があったゆえに、ひとつの共同関係が持ち込まれている。そしてそれを受け取るのが縦の系譜という点で、映像としてはかなり意図的に描かれていた対比の構図ではないかと思いました。あと2025年は『ゆきてかへらぬ』にしろ、広瀬すずがどんどん画面内でも他者を突き放してしまえるほどの迫力を持つ演者になっていることを実感する年でした。

 

『ひとつの机、ふたつの制服』


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 受験の成績が悪く、高校の夜間部に通うことになった主人公・小愛(シャオアイ)はおなじ机を共有する全日制の敏敏(ミンミン)と仲良くなり、机友(デスクメイト)という絆を築く。やがてふたりは互いの制服を交換するなどによって校門の守衛を出し抜いて遊ぶことを覚えるようになる。しかしあるとき、ふたりが好きになっている男子がおなじ人物であることに気づくものの、小愛は夜間部であることを負い目に感じ……という学力差(かつ家庭環境・階級差)が出てくる受験ラブコメ。百合かどうかはみなさんの目で確かめてください。

 また本作に登場するとある趣向がエドワード・ヤンの某作のパロディじゃね?と思いながら見ていたものの、今日映画館で見たヤンヤン 夏の想い出4Kレストア』にも無事この第一女子高校の緑色の制服を着たキャラクターが出てきたので、魂で理解しました。こいつはエドワード・ヤンが好きすぎる。

島『ぽかぽかたいわん!』2巻より。学力重視社会台湾は今も根強いっぽい。

 

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第2章』


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アイカツプリパラ』の話はしたい人たちでしましょう。同窓会コンテンツなんで……。ニジガク劇場版も卒業旅行みたいなものですが、TVシリーズでお出しされた固定カプ以外の絡みを見せてくれるので、嬉しい(嬉しい)。

 今回の第二章は京阪神が舞台なので、ぜんぶ見たことある~~と思いながら見ました。三宮のアニメイトに来てまですることが優木せつ菜さんの好きなアニメだと教えてくれた円盤をそのままノータイムで買うことになってる宮下愛さんに震えました。それはそれとしてあまりにも脱臭された空間のみが映る京阪神には複雑な思いも……おれがいつも梅田スカイビルに行くための地下道とおって梅田シャングリラ(ライブハウス)に行っていた歴史はもう残っておらず、いい感じに整備された綺麗な公園だけが存在している……。山田真緑さんは今日も大阪のどこかに捨てられたゴミを拾っている……。

ミア・テイラーさんが自滅した京都府立図書館近く、ロームシアター京都にて。

 

『君と私』


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 上映すぐ、2014年に起きた大量死の出来事が説明され、物語はその前日の、なんでもない学校の風景からはじまる。前半は光の加減もあってか、とにかく岩井俊二花とアリス』フォロワーであることを示唆するような画面や、だらっとした会話(MBTIをMBAと言い間違えたりとか)の応酬で展開されたのち、それこそ空を掴もうとするような探索に体力と時間が費やされ、どこに収束するのかもわからない。

 けれども夜が近づくにつれ、あなたはなにもわかっていない、と面と向かって言われながら、目の前の苦しんでいる人を助けようともするし、その痛みも知っていると思いたいし、それでもちゃんと自分の気持ちを伝えたいという少女の見えなかった関係が、感情がかたちになっていく。それは反対にいえば、すべての結末を知らされているわたしたちが、これから唐突に失われるものが、いかにかけがえがなく、取り返しがつかないものであるかを知る過程となっていく。

 だから、受け止める過程、では決してない。それらの言葉がすべて、鏡のようにスクリーンを見ているわたしたちにも返ってくる。そうでなければ救いがない、とわたしは思う。

 水上文が本作に寄せた批評は、「女性同性愛」と「悲劇」という組み合わせの歴史的な物語の消費類型を指摘したうえで、この美的感覚に満ちた映画とクィアネスのステレオタイプな悲劇の距離が近すぎるがゆえに、素直に受け止めることのむずかしさを書いている。わたしもこの点については同意する。けれどもわたしは、この「鏡」という映画に持ち込まれた独特のモチーフに、おそらく救いの回路をどうにか探そうとしており、考えている。

meandyou.net

 

『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) ネクストシャイン!』


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 映画館では、開幕即「ムリムリ進化論」が流れるのだが、案の定埋まりまくりの劇場でかなり前列めの席をとったところ、れな子がでっかいハートに押しつぶされて「あ^~~」というくだりでわたしもクソデカいハートにつぶされるかと思いました。具体的な内容をわざわざ語るのはそれこそ野暮というものでしょう。

 また「ネクストシャイン」パートは2026年1月1日より各種サービスで配信されているらしいです。ネクストシャインって初日の出のことだったんですね。

 

 

『この本を盗む者は』


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 VG+(バゴプラ)さんで原作紹介記事を書かせてもらった身で言うのもあれですが、こんなにアニメで楽しくなるとは思わなくて、公開当日まで知り合いにも言えなくてうずうずしていました。

 最初にわたしが感動したのはお泊まりパートのくだりです(原作では各話のあいだに時間があったのですが、映像化にあたって連続した時間を設定したため、結果としていちゃいちゃお世話百合パートがふんだんに用意されることになっている)。ありがとう、中西やすひろ……。あととにかくメインのふたりの表情がコロコロ変わるのがライド感のあるアニメ作品としてもグッドでした。

 それと原作では「本泥棒」というところに対して比重があったように思えたのですが、アニメのほうでは「物語」というものが他者支配の構図のひとつであり、そこから抜け出ていくための武器もまた「物語」なのだ、というポジティブな描き方をしていて、たいへん感銘を受けました。あと映画を観たみなさんは文庫版表紙をちゃんと確認しておいてください……。わたしからは以上です。

virtualgorillaplus.com

昨年のイオンモール京都にて。

 

 というわけで2025年に劇場で見た12作品を紹介しました。みなさんもよき百合ライフを……ほな……今年もよろしくお願いします……。

 

 

エンディング:魚住チカ「サードアイ」(cover)


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 魚住チカさん(ゼロ年代ロキノンカバーV)が戻ってきてうれC。

大場ななはなぜ星見純那を殺せなかったのかーー『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を誤読する。

【※本記事ではTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』および『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の内容言及をふくみます。未見の方はご注意ください。】

「私たちはもう 舞台の上」

ーー『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』より。

 

1970年11月25日「三島事件

 今年も過ぎてしまいましたが、11月25日は三島由紀夫の命日でした。

 1970年11月25日、作家である三島由紀夫は午前11時ごろ、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に入り、彼の組織した「楯の会」メンバー数名とともに総監・益田兼利陸将に面会し、彼を捕縛、総監室にバリケードをつくって立てこもり、総監を人質にするかたちで駐屯地の自衛官を総監室のある本館前に集合させるよう要求します。

 その後、彼はバルコニーに立ち、自衛官たちに向かって演説をおこないました。

 この経緯や演説内容を詳しく知らなくても「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。」といったフレーズや楯の会の制服に身を包んだ三島由紀夫が腕を振り上げ激を飛ばしている報道写真は、みなさんもどこかで触れた経験があるのではないでしょうか。

 やがて演説を終え、総監室に戻ってきた三島は彼の主張(憲法改正)が自衛官たちに受け入れられなかったことを確認し、その場で割腹自殺をおこないます。

 これが世に言う、三島事件のあらましです。

 まだスタァライトの話ではありませんが、もうすこしだけつづけさせてください。わたしが三島由紀夫作品を読むようになったのは(といっても数は多くありませんが)、その右翼的な括弧付きの「美学」、国粋主義天皇制に向かう側面ではなく、彼の作品に時折、顔を出してくるゲイネスに興味があったためです。

仮面の告白で語り手は幼いころ、女性とばかり遊ばされていた経験やたまたま画集で見つけた聖セバスチャン(聖セヴァスティアヌス)の絵に興奮したことを述べています。やがて異性愛関係に幻滅することまでも。このあたりの描き方については、橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』が他の作品含め、三島のゲイネスや演劇性についてたいへん鋭いかたちで批評しています。

wedge.ismedia.jp

 

 また伊藤氏貴『同性愛文学の系譜 日本近現代文学におけるLGBT以前/以後』では、『仮面の告白』の主題を川端康成作品と対比して、以下のように述べています。

 さて一方『仮面の告白』における主人公の「同性愛」に関する認識は全く異なる。それはれっきとした〈告白〉の対象であり、主人公は終始罪悪感につきまとわれている。つまりは同性愛を恥じているのであり、だからこそカミングアウトが主題化されるのだ。だから『仮面の告白』は『同性愛文学の嚆矢』では全くないが、『同性愛文学の元祖』と言うことはできる。(太字は傍点)

 念のため伝えておくと、わたし個人は伊藤の論にすべて同意はしません。なぜなら三島の存在をひときわ大きく強調すると、かえってそれ以前にも過去の作家たちが「同性愛」を言葉や定義上ではなくとも、その「苦悩」や「罪悪感」を一見そうとは「見えないかたち」で語ってきた(同性愛者の系譜、連続性の)歴史を捨象しかねない可能性があるからです。

 ただ、すくなくとも文学史上における同性愛表象としての言及数が他の作家に比べて圧倒的に多く、詳細に研究され、それゆえに影響圏も広かったことを否定する理由はありません*1。とはいえ、このあたりは本記事における本筋ではありません。

 あくまで前説、あるいは三島由紀夫に対するわたしの関心がどこにあるのか、という補助線のひとつ程度に思っていただけると助かります。

 

『劇場版 スタァライト』と『Mishima: A Life In Four Chapters』について


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『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトはTVアニメシリーズ少女☆歌劇 レヴュースタァライトの正統続編にあたる作品です。

 正確には、そのあいだに少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』というTVシリーズを再編集した劇場総集編(一部新規映像追加)があるのですが、上映館としては『劇場版』よりも圧倒的にすくなく、作り手側としても、必ず見なくてはならない、といったアピールをした作品ではなかったように思います。もちろん『ロロロ』を見ることよって得られる部分はありますが、見なかったからといって『劇場版』で置いてけぼりになることは基本ないかと思います。

 さて、その『劇場版』ですが、TVシリーズからは作中時間がある程度経過しており、主人公ら99期生はすでに高校3年生、卒業先の進路を見据えながら残りすくない学生生活を過ごしている状態です。

 冒頭の学内シーンでは、主人公・愛城華恋は後輩である1年生たち(101期生)を複数の指導教室の見学に連れていき、TVシリーズに登場した主要メンバーたちを改めて観客にテンポよく紹介しつつ(ある程度はTV第1話前半の反復と差異にあたるでしょうか)、担任である櫻木先生との進路面談のシーンが並行してはさまれることで、それぞれの生徒が目指そうとしている進路が語られていきます。

 しかしまた、TVシリーズでの〈オーディション〉を終えたあと、彼女たち99期生は演者としては停滞状態に陥っており、それを表立っては口にしない自己欺瞞のなかにいることも徐々に明かされていきます。

 やがてその不穏さが目を覚ますように、その停滞の先には舞台少女としての「死」がある、と大場ななが〈皆殺しのレヴュー〉とともに否応なしに突きつけ、物語は急速に動き出していきます。

「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?

 私たちもう……死んでるよ」

「あの日、私は見たの。〈再演〉の果てに、私たちの死を」

 今回、わたしが考えていきたいのは、この大場ななという少女の思想がどのように劇中で変化していったのかについてです。加えて、この大場ななと星見純那の実質的なバトルシーンである〈狩りのレヴュー〉では、露骨に三島由紀夫表象を取り込んだうえでの表現が選択されていることを、本作の監督である古川知宏が2021年におこなわれたインタビューで明かしています。

tree-novel.com

純那とななの劇場版レヴューである〈狩りのレヴュー〉では三島由紀夫と接続する演出があります。

ーーどの作品でしょうか。

三島由紀夫を主題にした『Mishima: A Life In Four Chapters』という映画がありまして。製作総指揮はフランシス・フォード・コッポラジョージ・ルーカス! 残念ながら日本未公開ではありますが、これがまぁ最高の映像の連続で。

この映画でも金閣寺の描写があります。少年が金閣寺の美しさに魅了されるんですが、そこで金閣寺が真っ二つに割れちゃうんですよ! 「えっ金閣寺が割れちゃうの!?」と。割れた内側が美しい黄金の「平面」なんですよ。そこに反射する光が主人公を圧倒する。

この演出を使いたい……とずっと思っていて、劇場版を作ってるとき小出君とが「『Mishima』やっちゃいますか?」と盛り上がった結果です。

 ですからわたしは、この「大場ななと三島由紀夫を接続する演出」という点をきっかけにして、改めて『スタァライト』を考えたいと思ったのです。

 

『Mishima: A Life In Four Chapters』について


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『Mishima: A Life In Four Chapters』は、三島由紀夫が1970年11月25日に自宅で起床し、楯の会メンバーの運転する車で陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かうまでのあいだ、自身の主要作品の再現映像を(彼の人生となかばオーバーラップさせるかのような半回想形式で)はさみつつ、やがて駐屯地総監室に立てこもり、バルコニーでの演説を終え、割腹するまでの出来事を描いた伝記フィクションともいえる映像作品です。

 映画は1985年の発表ですが、上述のとおり日本国内での上映はありませんでした。ただし、今年2025年には、東京ですくない回数であるものの劇場で上映されたようです(チケットはすぐに完売してしまったようですが)。

 わたしはブルーレイディスクを注文して見ました。海外映画の円盤といっても、主要な役者はほぼ日本人で(主演は緒形拳です)、台詞もみな日本語でしゃべっているため、本編視聴においてさほど困るといったことはありません。

2025.tiff-jp.net

 タイトルからも察せられるとおり、映画は全4章で構成されています。各チャプターのうち、1~3は三島由紀夫作品を、4は市ヶ谷駐屯地での出来事を主に描くといった具合で、各章だいたい30分ずつ、ほぼ均等の尺で進行します。

 本編冒頭の映像には、黒地に白の文字で、

ー1ー beauty  ”Temple of the Golden Pavilion ”

ー2ー art  ”Kyoko's House”

ー3ー action  ”Runaway Houses”

ー4ー harmony of pen and sword 

 と、参照したであろう作品が提示されています。

 これは上から順に、金閣寺鏡子の家奔馬豊饒の海・第二巻―』の英訳タイトルかと思われます。

 このほかにも『仮面の告白』でも語られていた幼少期の出来事や自身をモデルにした写真集『薔薇刑』の再現カット、ボディビルをはじめて身体を鍛えたこと、映画『憂国』の撮影現場での一幕、楯の会結成シーンおよび自衛隊体験入隊など、三島由紀夫自身の人生をなぞった出来事も適宜はさまれていきます。

 しかしなんといっても、『Mishima』の持っている映像的魅力は、石岡瑛子による人工的なまでにつくられた華美でありつつ、しかし海外作品にありがちな東アジア全般をごちゃまぜにした東洋趣味とは異なる印象を与える独特な舞台セットでしょう。

 トレーラー映像からも見て取れますが、三島作品をサンプリングしつつ作中作として映像化したシーンでは、意図的にそれが「つくりもの」であることがわかるよう、ライティングを意識した、外部が存在しない屋内撮影の画面ばかりが登場します。

『Mishima: A Life In Four Chapters』ブルーレイディスク同梱の冊子より。

同冊子より。

 ですから、『Mishima』という映像作品においては、三島由紀夫という人生の各チャプターがそのままある種の舞台(装置)になっているのです。

 そもそも『仮面の告白からして、カムアウト、つまりカミングアウト的な小説でありながらも、タイトルに「仮面」という言葉を入れることである種の決定不可能な両義性を与え、ジャンル私小説における受け手側の反応を意図的にハックするような演技性があったのでした。こうした私小説の虚構性については、柴田勝二『私小説のたくらみ: 自己を語る機構と物語の普遍性』で詳しく論じられています。

 また三島由紀夫は前述の写真集『薔薇刑』や複数の映画出演以外にも『平凡パンチ』誌上で読者人気を獲得していたり、1969年にはテレビ局のカメラを入れた状態で、東京大学全共闘の学生らと討論をしていたりするなど、とにかく派手なかたちでのメディア露出やパフォーマンスが多く、加えて自身も多くの戯曲を書いています。

 こうした複数の点から三島由紀夫を自己演出的な人物として(あるいはナルシスティックな人物として)論じる向きも、現在に至るまで多くなされています。

 結果的にそうした捉え方は、1970年11月25日の出来事で(三島が事前に大手マスコミであるテレビ局員と新聞記者を市ヶ谷駐屯地に来るよう指示していた経緯もあって)さらに増幅されていったという話は、現代のわたしたちであってもある程度のレベルまでは理路の想像がつくかと思われます。

〈狩りのレヴュー〉における三島由紀夫表象について

『劇場版 スタァライト』における〈狩りのレヴュー〉とは、おおざっぱにいえば、TVシリーズにおいて人生最高の瞬間である「舞台」の「再演」を望んでいた大場なながその計画に失敗し、しかしその後も期待をかけていた星見純那に対して(主に進路選択において)解釈不一致を起こした結果、「死ね」と自刃を要求する物語です。

 上に引用したインタビューと『Mishima』のトレイラー映像からも確認できるとおり、この〈狩りのレヴュー〉において、金閣寺が真っ二つに割れる演出は、校舎が割れ、断面が露出する演出というかたちにアダプテーションされています。同レビュー内で檻がいきなり登場するのも、おそらくは『Mishima』作中での描写からの連想ではないか……と邪推するのは、あながち遠くはない指摘ではないでしょうか。

 しかしここにひとつだけ、大きな疑問が残ります。

 なぜこのレヴューが「三島由紀夫」モチーフである必要があったのでしょうか?

 まず第一に述べられる理由として、単純に「かっこいいから」というものがあげられます。TVシリーズのときから大場ななは二刀流の戦闘モンスター的な描かれ方をしており、使用する武器は日本刀です。そこから軍服ふうのデザインモチーフに至るのは、さほど無理のない連想ルートかと思います。

はいからさんが通る』にしろ『わたしの幸せな結婚』にしろ、軍服を着た存在は(政治的なモチーフを含みはするものの)大正ロマン以後のフィクションにおいて、魅力的なかっこいいキャラクター表象の一類型としてくり返し登場しています。

『わたしの幸せな結婚』第二期 ノンクレジットエンディングより。

 しかし今回、あえてその線ではなく、第二の理由を提示し、誤読してみましょう。

 つまり、三島由紀夫も、大場ななも「その後」を生きている人物であり、それは同時に常に「終わり」を意識してきた人物という点で共通している、という読み方です。

 どういうことでしょうか。

 三島由紀夫大正14年(1925年)生まれの人物で、ほぼその人生を昭和日本の歴史(戦前・戦後)と歩みをともにしています。アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結時には成人しており、彼は勤労動員には応じたものの、最終的に戦地に赴くといったことはありませんでした。

 そうして「生きのびてしまった」三島の見た戦後民主主義を掲げる日本の姿は、天皇による人間宣言をはじめ、戦前とはまったく異なるロジックで動いている社会であり、それゆえ戦前から育ってきた彼には欺瞞と矛盾に満ちたものに見えていたのでした。

 とはいえ、いま現在、右翼や左翼といった言葉を安易に使ってしまうと、どうしてもこんにちのインターネット上で混線している言説や文脈が自動参照され、この文章を読んでいるみなさんの受け取り方にもぶれが生じてしまう不安があります。

 ここではあくまで、三島作品や彼にまつわる言説、そして「三島事件」での演説における意図と政治的文脈(1970年当時まで)を取り扱い、参照するかたちで「大場なな」というキャラクターを受け取り、誤読したいと思います。

 

なぜ「割腹」という表象が選ばれたのか

 とはいえ、〈狩りのレヴュー〉のシークエンスを見てすぐに、映像モチーフが『Mishima: A Life In Four Chapters』からのサンプリングであると気づく人はさほど多くはなかったように思われます。そもそも日本で上映していなかったことは、先に古川監督も述べていたとおりです。有名監督のフィルモグラフィーを調べるうちにタイトルに行き着いたとしても、直接見たことのある人はすくなかったことでしょう。

 ですから、むしろ『劇場版 スタァライト』の観客に対してつよく印象づけられたのは「ケリをつける」という言葉の意味があきらかになった瞬間の、星見純那の前に割腹用の刀を寄越したうえ、背後から彼女の首をはねようと刀を構えている大場ななという構図のほうだと思います。

 この構図からわかるとおり、大場なながレヴューに臨んだ目的は「介錯」です。割腹、すなわち切腹してもダメージが入るのは内蔵周辺の部位であり、すぐに絶命することは一般的にむずかしいとされています。よって背後から首を断ち、腹を切った人物が醜態をさらさないよう即死させる(楽にさせる)のが介錯というおこないです。三島の割腹のさいにも、この介錯がなされたと言われています。

『Mishima: A Life In Four Chapters』の映像においても、幾度かかたちを変えて三島作品内における「劇的」な「終わり」が強調されていました。特に意識されているのはやはり「死」そのものであり、三島の最期となる市ヶ谷での割腹シーンが ”Runaway Houses”のラストシーンの割腹と重ねるかたちで演出されています。

 しかし1970年11月25日の時点では、『豊饒の海』第二巻『奔馬』は前年(1969年)に刊行されていたものの、第四巻にあたる『天人五衰』の原稿はいちばん最後の部分が事件当日になってようやく編集者に手渡された段階であって、書籍として出版されるのは翌年になってからのことでした。

 よって、事件が起きたさいの自衛隊側も、三島読者であった一部の層も、おそらく彼の行動から想起したのはべつの作品と、過去のとある出来事だったと思われます。

 では、一連の行動を接続させる文脈とはなんでしょうか。

 それは1961年の小説発表から4年後、三島自身の主演によって映画化された『憂国という作品にほかなりません。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』より。

映画『憂国』(1966年)より。

 残念ながらわたし個人は『憂国』を見る機会にはめぐまれていませんが、台詞がいっさい存在しないこと、ワーグナーがBGMとして流れること、そして全体で30分ほどの映像作品であることなどは知識として持っています。

 映画の原作となった小説「憂国」は2025年現在、新潮文庫『花ざかりの森・憂国に収録されているものがいちばん手に取りやすいものかと思います。これは文庫にしておよそ30ページほどの文章量で、ひと息で読み終わることのできる短編です。

eiga.com

 ではこの「憂国」とは、どのような作品だったのでしょうか。物語はいっさいの出来事を、簡潔に冒頭の文章で示すところからはじまっています。

 じっさいにその箇所を引用してみましょう。

 昭和十一年二月二十八日、(すなわち二・二六事件突発第三日)、近衛歩兵一聯隊勤務武山信二中尉は、事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於て、軍刀を以て割腹自殺を遂げ、麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。中尉の遺書は只一句のみ「皇軍の万歳を祈る」とあり、夫人の遺書は両親に先立つ不孝を詫び、「軍人の妻として来るべき日が参りました」云々と記せり。烈夫婦の最期、洵に鬼神をして哭かしむの概あり。因みに中尉は享年三十歳、夫人は二十三歳、華燭の典を挙げしより半歳に充ざりき。

二・二六事件」は、あえて簡潔な説明で終わらせるのであれば、青年将校たちによって起こされた軍事クーデターです。彼らは「昭和維新」を掲げ蹶起しますが、最終的には軍によって鎮圧されます。

憂国」の主人公である武山信二中尉は、「二・二六事件」が起きたさい、何も知らない状態で集合喇叭の音を聞いて軍服を着、軍刀を佩して自宅から駈け出していきます。家に残された妻の麗子は、ラジオのニュースで事件のことを知り、やがてその内容から良人の親友の名前が蹶起メンバーに含まれていることに気づきます。

 武山中尉が帰宅したのは、二十八日の日暮れ時でした。

「俺は知らなかった。あいつ等は俺を誘わなかった。おそらく俺が新婚の身だったのを、いたわったのだろう。加納も、本間も、山口もだ」

 武山は、暗黙のうちにこの蹶起メンバーから外されていたのでした。つまり、友人たちと命運をともにすることができなかったことになります。結果的にではあるものの、彼はクーデターを鎮圧する皇軍側にいる以上、いずれ自分には勅命が下って「叛乱軍の汚名を着た」友人たちを討つことを理解しています。やがて彼はその友情と勅命とのあいだにある自己矛盾を見つめ、妻の麗子に伝えます。

「いいな」と中尉は重なる不眠にも澄んだ雄々しい目をあけて、はじめて妻の目をまともに見た。「俺は今夜腹を切る」

 よって、この切腹の委細を描く物語を戦地に向かうことなく「生きのびてしまった」側である三島由紀夫の敗戦体験の再話、ひいてはその延長線上に、国のために死ねなかった自己と戦後の矛盾を解決するための「1970年11月25日」として見つめることは、さほど乱暴ではない構図かと思います。

 また三島由紀夫陽明学における知行合一を掲げていた人物でもあり、彼が最後に駐屯地でおこなった演説のなかには「自衛隊違憲」であることを集まった自衛官たちに向かって述べています。

 これは戦後民主主義をはじめ、1960年代から続く安保闘争の文脈と、日本国憲法第9条にある「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という文言に対し、自衛隊は名目上としては軍にあたらない組織という矛盾、さらには対米関係における従属といったところから発せられる「憲法改正」であって、2025年現在叫ばれているかたちでの「憲法改正」のロジックとは方向性がいささか異なる点には注意すべきかと思います。

 また以下に挙げる論文も三島由紀夫の戦後体験、ならびに『憂国』を理解する補助線として参考になりますので、Ciniiのリンクを貼っておきます。

三島由紀夫の〈敗戦〉 | CiNii Research

三島由紀夫「憂国」論 : 麗子の主体性をめぐるアダプテーション分析 | CiNii Research

  さて、この「三島事件」と「憂国」とを結びつけることのなにが政治的なイシューたりえたかといえば、映画『憂国』において割腹する中尉役が三島由紀夫本人であったうえ、現実に割腹して最期を遂げた彼の演説は「天皇万歳」という言葉を叫んだことによって締められたという事実です。

 よって政治的文脈においては、三島の行動を「二・二六事件」のような国粋主義的なクーデターの再演として受け止めない態度が政府や自衛隊側には求められました。

 駐屯地の自衛官たちは三島に賛同することはありませんでしたが、扇動され加熱していく言説とともに世論が開戦ムードに傾いてしまった戦前日本の愚行をくり返すわけにはいかない以上、自決した三島を国のために殉じた英雄的立ち位置に迎えることは、決して公には許されなかった、というロジックがはたらくことになります。

 加えて、政治的にとくべつな関心はなくとも、世間的にはメディア露出の多い作家が起こした暴力的かつセンセーショナルな出来事であったため、テレビやラジオ、電話を通じて「事件」を知った大衆は、すぐさまその日のうちに書店に殺到し、三島の書籍を買い求めたといいます。この事件以後、映画『憂国』は遺族の意向もあり、長らく上映ができない状態に置かれました。

 

知行合一」の舞台少女としての大場なな

 『憂国』の内容について触れる以上、どうしても政治的な文脈を経由する必要がありましたが、三島由紀夫の「美学」という側面から語るのであれば、もうひとつ欠かせない観点があります。それは『Mishima: A Life In Four Chapters』の”Kyoko's House”においても、登場人物の台詞を借りながら語られています。

 映像化されているのは『鏡子の家』において売れない俳優で、ボディビルをはじめた舟木修を中心としたパートです。以下に引用するのは、屋台で舟木修が飲んでいると、日本画家である山形夏雄がやってきて、すでに同席していた武井ともに芸術談義をするという短いながらもテーマを提示しているシーンです。

 ここで意見を交わすのは、武井と山形夏雄のふたりです。位置関係としてはそのあいだに舟木修が座っており、これはそのままキャラクターの思想的なポジションを反映したように思われます。すこし長いですが、書き起こしてみましょう。

「夏雄ちゃんのほうはどう? 相変わらず絵、描いたの?」

「やってるよ」

「夏雄って山形夏雄さん? あの日本画の?」

「ええ」

「この前拝見しましたよ」

「そうですか。どうも」

「まあ、人間の身体描かないだけ許せるけど」

「別に悪気ないんだよ。いまちょっと武井さん、彫刻の話してたからさ」

「へえ? どんな話?」

「うん。いやだからね。たとえミケランジェロでもロダンでも、結局は人間の身体を石かなんかで彫るわけだ。現に生きた人間の身体ってもんがあるってのに。要するに芸術家なんてもんは要らないんだ」

「それじゃ、武井さんが正しいとしましょうか。歯を食いしばって汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかしそれが老いさらばえることはどうするんですか? その美しさはどうなるわけ? 作ったあなたが、どうにかしなきゃあならないんだから。だから一番美しいときに死んでしまえばいいんですよ」

 また小説『鏡子の家』については、以下の論文も参考になります。

『鏡子の家』における日常性の問題 | CiNii Research

 では『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、大場ななはどのような存在として描かれていたでしょうか。

『劇場版』において、彼女が画面内にはじめて登場するのは、上述した愛城華恋が後輩たちを引き連れていく見学のシークエンスにあたります。

 しかし彼女はほかのキャラクターと違って、後輩から憧れ「見つめられる」存在としては現われません。加えて、画面に大場ななが出てくるひとつ前のカットには、大量の写真(チェキ)と彼女持っている黄色いインスタントカメラが映っています。ですからむしろ大場ななは「見つめる」側の人なのです。

 ちなみにここに登場するインスタントカメラ富士フィルムのinstax mini シリーズと思われ、2021年公開当時に販売されていた型はすでに出荷を終了しています。2025年11月現在の製品サイトを参照してみると、外見そのものはアニメに登場していたものとさほど変わっていないようです。

instax.jp

 そしてこのインスタントカメラがひとつのキーとなっています。

〈狩りのレヴュー〉において、星見純那を組み伏せた大場ななは、そのカメラで彼女をの表情を一枚撮影します。写真とは、その美しい一瞬を閉じ込め、切り取った結果にほかなりません。そのようにして現在を切り取るということは、同時に、未来を見つめようとしないことでもあります。

 ですから、そのような大場ななの口上は、以下のとおりになるのです。

「今は今はと言い訳重ね 生き恥さらした醜い果実

 星の遠きに望みを絶たれ 君 死にたもうことなかれ

 99期生 大場なな 

 熟れて落ちゆく定めなら 今 君に 美しい最期を」

 ここで述べられている大場ななの口上は「しかしそれが老いさらばえることはどうするんですか?(…)だから一番美しいときに死んでしまえばいい」という『Mishima: A Life In Four Chapters』で展開された主張に近似しています。だからこそ大場ななの撮影するカメラのレンズには、これから起こるであろう星見純那の自己矛盾や自己欺瞞といった、言い訳を重ねた醜い未来は映らないのです。

 ところで星見純那の提出した「進路希望調査票」は以下のような記載でした。

第一希望 早稲田大学 文学部
第二希望 日正大学 芸術学部 演劇学科
第三希望 多摩芸術大学 演劇学部

 進路面談のシーンにおいて、星見純那は「今はもっと、勉強がしたいんです。舞台のことを客観的に、深く」と櫻木先生に伝えています。しかしその名目のうちに、演者というルートに向かわなくてよい理由を、つまり「言い訳」を、「生き恥」をさらしているのだと大場ななは暗に糾弾しているのです。であれば、いまはまだ輝かしい未来のある演者であるうちに死んでくれたほうがずっとよい、というわけでしょう。

 こうして自身の思想と行動を一致させようとする(純那ちゃんの解釈違いを許さない点において)大場ななは知行合一」を実践する舞台少女であるといえるはずです。

 舞台(演者であること)から暗に降りようとする星見純那に自刃を要求した大場ななは、「二・二六事件」のメンバーから暗に外された武山中尉の自己矛盾を解決する(友を殺さず、そして国のためを思う)手段と目的の一致としての「割腹」、すなわち戦場で散ることなく生きのびた三島由紀夫という作者から登場人物に向けてなされた「美」のための要求と、相似形の構図のなかにあるのです。

 

劇場版のテーマとして改めて提示される「怖れ」

 本作、というよりも『スタァライト』のアニメシリーズ全編にわたって、常にメタ的な視点を持ち、自覚的な振る舞いをしていたのが大場ななという舞台少女でした。

 それゆえに劇場総集編『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』はストーリーテラー的な立ち位置を務めますし、『劇場版』においても、ほかの少女たちをふたたび舞台の上に引きずり出したのも彼女でした。ですが同時に、大場なな自身もまたひとりの苦悩する舞台少女であったことを忘れてはいけないと思います。

 上述したとおり、『劇場版』における大場ななの初登場は、進路面談のシーンです。そこで提出された「進路調査希望票」には以下のように記されていました。

第一希望 新国立第一歌劇団 俳優部
第二希望 新国立第一歌劇団 制作部
第三希望 劇団節季 演劇研究所

 大場ななと担任の櫻木先生は、これを参照しつつ会話をつづけます。

「出席番号15番、大場ななです」

(櫻木先生、調査票を確認して)

「舞台に立つべきか、舞台をつくるべきか」
「聖翔音楽学院に来て、はじめて知ったんです。みんなで舞台に立つ眩しさ。みんなで舞台をつくる喜びを。わかっているんです。決めなくちゃいけない。いつかは終わるんだって。でも、舞台に立つことも、つくることも、どちらも大切で……大好きだから」
「次をまだ決められない……か」
(曖昧に微笑む大場なな)

 じつのところ『劇場版』において、彼女が明確に自分の進路に対する逡巡を伝えてみせるのは、ほぼこのシーンくらいしかありません。

 ですから「みんな喋りすぎだよね」と一歩引いて口にする大場ななの台詞は、じつは自身への皮肉もふくまれていることになります。なぜなら彼女は、おなじ99期生に甘えることさえできず、自分自身もまた「知行合一」的な舞台少女そのものにはなれず、一貫性のある結論が出ない悩みを抱えており、しかし最終的にはその物語を星見純那へと仮託しようとしていたわけですから。

 そしてもうひとつ、『劇場版』においてはじめて登場し、くり返し用いられる象徴的なフレーズとして「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」というものがありましたが、じつのところ、この歯切れのよい実存的問いかけを内包する言葉には、もっとシンプルで根源的な感情が覆い隠されています。

『劇場版』でのレヴューを通じて舞台少女たちはみな、自身の感情と向き合い次の舞台へと進む決意をするわけですが、しかしじつのところ、それよりもずっと前に、ほかのキャラクターがおなじ感情を叫んでいた事実を、みなさんにも思い出していただきたいと思います。

「あ~~~~~怖いなぁ~~~~!

 第100回、あの『スタァライト』を超えられるのか、ほんとに怖い!

 でも、怖くて当たり前だよね。私たち卒業公演なんてはじめてだし、先輩たちだってみんな怖かったと思うんだ。でも、みんなとなら。私たち99期生だけでつくる、最後の舞台だもん。立ち止まっていられない! 最後までつくりたい! みんなと!」
「『囚われ、変われない者は、やがて朽ち果て死んでゆく』……いいね! 雨宮さん、私この女神の台詞言いたい!」

 そう、99期生の「スタァライト」決起集会のシーンです。本作においてくり返し舞台少女たちが問われるのは、じつのところ「怖い」という感情のさまざまな側面です。

 関係が変化することへの怖れ、約束を信じつづける怖れ、分かれ道への怖れ。なにより、過去を乗り越えられるかどうかわからない、という怖れ。

 もちろんこの、過去を乗り越える、というテーマはTVシリーズでもくり返し語られた部分にほかならないのですが(たとえば「舞台少女は日々進化中」「アタシ再生産」といったフレーズなど)キャラクターが「高校3年生」という立場になったことにより、この問いは改めて「進路」という眼前のテーマとして再生産されているのです。

 にもかかわらず、わたしたち観客は、TVシリーズで戦った舞台少女たちへの愛着があったがために(直前に大場ななに皆殺しされたショックから抜けきれないこともあり)、この決起集会で舞台創造科のキャラクターが放った言葉や脚本が実質的なテーマ宣言であったことにまだ気づけません。そしてそれは、これからそれぞれのレヴューに立つことになる舞台少女たちもまた、おなじなのです。

 

ふたたび、「割腹」という表象について

〈狩りのレヴュー〉の後半部における核心は、「君は、眩しかったよ」と大場ななが見捨てるように過去形にした、かつてまなざされる対象であった星見純那が立ち上がって反撃し、その用意された舞台を文字通り切り開き、乗り越えてみせる点にあります。

 星見純那が口上を述べたのち、レヴューは切腹のための刀を置く台≒三方(さんぽう)を模した舞台上での戦いとなり、画面はTVシリーズ7話を思わせる黄色い光に染まります。もちろんこれは大場ななの求めていた人生最高の瞬間を取り戻そうとする、「再演」のための色を想起させるものですが、このレヴューではどこか薄いもやが漂っているかように、画面の見通しはすこしだけ悪くなっています。

 剣戟のなかでトレードマークの眼鏡さえ弾き飛ばし、「目の前すら見えなくなった君に、もう星を掴むことなんて、できない」と大場ななは相手に向かって告げます。しかし星見純那は泥臭く立ち上がり、あがくことをやめません。そこではじめて大場ななは、その彼女の姿に動揺を隠せなくなります。

「私の純那ちゃんは、そんなやつじゃない! 私の純那ちゃんじゃ……ない……お前は何者だ……お前は何者だ! 星見純那ッ!」

「貴女に与えられた役なんか、要らない。私の道は、私が、切り開く! 貴女が用意した舞台なんて、全部、全部切り捨てる!」

 その言葉にあわせてもう一度、舞台となっていた三方が真っ二つに切断される演出が入ります。そう、だいぶ前に引用したインタビューのなかで、古川監督自身が語っていた、あの『金閣寺』パートでの演出にほかなりません。

この映画でも金閣寺の描写があります。少年が金閣寺の美しさに魅了されるんですが、そこで金閣寺が真っ二つに割れちゃうんですよ! 

『Mishima: A Life In Four Chapters』トレイラーより。


同上。

 そして、この舞台の切断とともに、星見純那は最後の啖呵を切ってみせます。

「目が眩んでるのは貴女のほうよ! だってこの舞台の私は……この舞台の私が! 眩しい主役、星見純那だ!」

〈狩りのレヴュー〉より。文字通り舞台を切り開き、かつての想像を飛び越える。

〈狩りのレヴュー〉より。「今」の星見純那に集まる光を、大場ななは目撃する。

 こうしてレヴューは終わり、舞台は崩れ、壊れ、落ち残ったのは、かつて光を放っていたはずの、再演を照らそうとする大場ななの思想を象徴していたはずの、塔の残骸とふたりだけです。ですから〈狩りのレヴュー〉で星見純那は腹を切ることもなければ、大場ななによってその首を斬り落とされることもありませんでした。

 では、この舞台はいったいなんだったのでしょうか。おそらくですが、ここで殺されるに至ったのは、〈大場ななの用意した舞台〉という「再演」の概念そのものです。

 つまり、大場ななが固執していた「過去」の姿を、星見純那が「今」の輝きによって乗り越え、魅了することで、その「執着」を介錯してやったということです。

「劇的」な「終わり」≒「割腹」のモチーフは塔の切断によって完成する。

 三島由紀夫作品において、くり返し語られてきた「美」と「終わり」の姿。自己矛盾を行動によって一致させる方法としての「割腹」。改めて述べますが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、大場ななの思想は「再演」という「過去」≒「最高の瞬間」を再び求めるも失敗し、「その後」を「生きのびてしまった側」としての視点から生まれてきた思想でした。

 だからこそ、彼女にとっては、醜くなってしまう未来を殺すということが「ケリをつける」という意味であり、しかしその象徴としての塔を「切腹」させることでレヴューは幕を下ろします。

 かつてあった輝かしい頂きに目が眩み、ずっと「過去」を求めてしまうこと。その不可能性あるいは自己矛盾を終わらようと言ったのに対し、純那ちゃんは「未来」に恐怖を抱いたとしても、見つめてくれる相手の懐に飛び込んでみせる「今」を示したのです。大場ななに「過去」ではなく、「今」の自分を見ろ、と。かつてあれほどまでに過去の偉人や文学者の言葉を引用し、それが「私の力だ」と述べていた星見純那が、いまだ存在していない世界の側にはじめて手を伸ばしたのです。

 だとするなら、「過去」に執着していたのは、星見純那もおなじだった、とも指摘することはできないしょうか。文学とは「書かれたもの」であり、「過去」だからです。そしてその「過去」を代表するラスボスであるかのように大場ななが三島由紀夫モチーフをまとって登場し、「終わり」を宣告する舞台をつくった。ですからそれは星見純那にとって、いつかは立ち向かうべき必然であり、潜在的な「怖れ」の対象だったのだと思います。

 こうした「怖れ」への対峙は『劇場版』において、何度もかたちを変えて検討されていくことについては、本映画を見た方であれば、きっと同意できるでしょう。

 

大場なながほんとうに「怖れていたもの」とはなんだったのか

 ほんとうなら、ここでもう記事を終えてよいタイミングなのですが、あえてト書きにはならないような、さらなる誤読を進めたいと思います。

 先ほど、わたしは『劇場版』のテーマが「怖れ」であるということ、またそれに対峙し、乗り越えていくことこそがかたちを変えて反復されている点を述べました。では、大場ななにとっての「怖れ」とはなんだったのでしょうか。星見純那が解釈違いの、愚かしく眩しい存在ではなくなっていくこと、主役を求めることさえ諦める姿、だったのでしょうか。

 わたしは、そうは受け取りません。

 なぜなら、〈狩りのレヴュー〉のあと、大場ななは、星見純那からのとある言葉を受け、次の舞台に向かおうとしながらも、涙を流してしまうからです。

「でも、いつか。いつか、また。新しい舞台で。一緒に」

「またね。星見純那」

「またね。大場なな」

 もしかすると、大場ななは、星見純那が舞台の世界に二度と戻らない可能性を怖れていたのではないでしょうか。

『劇場版』の進路面談シーンで提出した「進路希望調査票」からも確認できるとおり、星見純那の第一志望は「早稲田大学 文学部」です。2025年現在、ネットの情報からもうすこし細かく調べてみると、早稲田大学において舞台を学べるところは、正確には早稲田大学 文学部 文学科 演劇映像コース」であるといえそうです。おそらく彼女も念頭に置いていたのは、このコースではないでしょうか。

www.waseda.jp

 では、なぜ星見純那が希望するような「演劇を学ぶための進路」に対して、大場ななは「割腹」を求める行動に出たのでしょうか。いったい、なにが彼女を怖れさせていたのでしょうか。ですからわたしはここに、「1970年11月25日」からのエコーをもう一度、聴き取ってみたいと思います。

 一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落とされた銀杏の葉が、雑木林にはさまれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。僕と彼女はコートのポケットに両手をつっこんだまま、そんな道をぐるぐると歩きまわった。落ち葉を踏む二人の靴音と鋭い鳥の声の他には何もなかった。

(…)

 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドッグを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子に載ってヴォリュームのつまみをしばらくいじくっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。

「君が欲しいな」と僕は言った。

「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。

 我々はコートのポケットに手をつっこんだままアパートまでゆっくりと歩いた。

 上に長く引用したのは、1968年、早稲田大学第一文学部に入学、演劇専修*2へ進み三島由紀夫の自決の日と同時代に学生生活を過ごし、最終的には作家となった人物による小説です。

 このような光景がじっさいに国際基督教大学の構内に存在していたかどうかは、記録が残っていない以上、判断のむずかしいところですが、この作家が、学生闘争の時代における暴力的な手段や内ゲバといったものに対して、多くの作中で距離を置いた記述をしてきたことはある程度まで指摘できます。

 三島由紀夫の起こした行動や、呼びかけに対して、そもそも音さえ届かなかった状況から物語がはじまっている点は、そのうえで考えると象徴的です。

 つまり、なにが言いたいかといえば。

 大場ななは、「星見純那が小説家になる未来」を怖れたのではないでしょうか

 その場合、かつて舞台少女だったふたりの道は、すくなくとも舞台の上の俳優としては交わらない可能性のほうが、ずっと高くなることは想像にかたくありません。だからこそ、大場ななは「新しい舞台で。一緒に」と約束となりうる言葉を告げられて、「今」の先にある「未来」を見つめられるようになったのではないしょうか。

 そうです。

 先に引用した文章は、村上春樹羊をめぐる冒険』「第一章 1970/11/25」にあたる部分です。2025年現在、彼は世界的な作家、あるいは翻訳家として知られていますがが、その諸作品が舞台化や映像化されることはあっても、彼自身が直接演劇の仕事にかかわるといったことはほとんどなかったのではないでしょうか。

 だからこそ、大場ななの「怖れ」というのはその「未来」から生まれていたのだと、自分は考えます。大好きな人と、決して交わらない未来というものを、彼女はなによりも怖れていたのではないでしょうか。

 ところで『羊をめぐる冒険』では、先ほど引用した文章のあと、一行の空白があり、時間が飛びます。次のシーンは午前二時の真夜中から書かれています。

 僕がふと目覚めた時、彼女は声を出さずに泣いていた。 

 そして〈狩りのレヴュー〉で印象的にくり返されるのは、涙にまつわる台詞でした。

「泣いちゃった」

 

 

 ーーーー終幕(カーテン・フォール)。 

 

 

 その他、直接言及しなかった参考文献ほか

cir.nii.ac.jpwww.waseda.jp

 

エンディング:Widescreen Baroque「Door to Door」


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ちょっとした告知

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 映画『この本を盗む者は』の劇場公開に先駆けて、深緑野分による原作小説の魅力を紹介する記事を、VGプラスさまで書かせていただきました(織戸久貴名義)。

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SFメディア バゴプラ (@vagopla.bsky.social) 2025-11-26T03:02:20.801Z

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ぜったい見てくれよな!

 

*1:ただし『同性愛文学の系譜』において主張されるLGBT「解放」のロジックは悪い意味で「素朴」である点には注意するべきだと思います。

*2:2007年度より文化構想学部・文学部に改組されています。

音はつき『はじめまして、夢交換手の川崎です』レビュー #PR

【※本記事は、MPエンタテイメントレビュアー企画として書かれたものです。】

book.mynavi.jp

 2025年の現代を舞台にした物語ではなかなか出会うことはありませんが、海外の古い映画を見たり、小説を読んでいると、ときおり登場人物が部屋にある受話器を手に取って、けれども電話番号を直接ダイヤルやプッシュしてかけるのではなく、いったんどこかの局に声がつながったのち、その受け手に「○○さんのところにつないでくれないか」と伝えるシーンに遭遇することがあります。

 申し出を受けた側は電話をかけてきた人の回線と、つなげたいと言われた人の回線を文字通り、ケーブルでつないでみせます。すると相手のところまで連絡が通じるようになり、ようやくほんらいの目的である通話がはじまっていく、といった手続きが挟まれるのでした。そして、この離れたところにいる人と人を仲介し、電話の線をつないでみせるのがかつて〈電話交換手〉と呼ばれた職業でした。

 ですがもし、ふだんわたしたちが眠っているあいだに見る夢、そこに知人や友人、恋人、あるいは家族が現われるという出来事もまた、見えない〈交換手〉の手によってつなげられた結果だとしたら、どうでしょうか。

 このような小さなイマジネーションから芽吹いたかのように、人と人のあいだにある、ふとすると夢のようにすぎ、次の瞬間には消え去ってしまう淡い関係の綾を、音はつき『はじめまして、夢交換手の川崎です』という作品は描こうとしています。

 タイトルにもある「川崎」という人物は、現代の日本において存在されていないとされる〈夢交換手〉という職業につく男性であり、この物語の主人公のひとり・川崎亘のことです。

 ここで語られる夢交換手の仕事とは、眠っているあいだに見る人の夢と夢とをつなぐことで、悩みやストレスを抱えている人間に立ち直るきっかけを、あるいは精神的なケアを(知らず知らずのうちに)与える行為です。作中ではとある人物から「マッチングシステムみたいな?」といった言われ方をしていますが、まさしくそのようなバランサーでありつつ、顔の見えない仕事でもあります。

 ただひとつ、夢交換手には、ふつうの人々とは異なる状態に置かれることも作中では語られています。川崎亘は、外面的には大きな商社の社員という肩書きになるのですが、しかし所属する課は社内においても知られておらず、彼自身も配属されるまで、その存在を知ることはありませんでした。

 なぜならば、夢交換手になってしまうと、ごく限られた相手(家族・同僚)を除き、その人はだれの記憶にも残らない存在となってしまうからです。

 現実に、面と向かって人と話しているあいだは認識されていても、その場から離れたとたん、相手の記憶からは霧散してしまう。川崎は、仕事の意義は理解しつつ誇りに思うことはできていても、いまだに自分がだれの記憶にも残らない存在である、という立ち位置の受け止め方に、いまだ迷っている人物でもあるのです。

 しかしそんな彼があるとき、夢交換手の仕事のなかで、とある人物の夢のなかに自分が「出張」する必要があると判断します。その相手こそ、この物語のもうひとりの主人公といえる、谷中凪沙です。

 彼女は生まれつき、自分の夢のなかにだれひとり他者が出てくることがない〈孤夢症〉という状態に悩まされていました。だれかとおなじ夢を見ることができない。そのような違いを、だれにも相談できずにいました。川崎は彼女の夢に現われて、タイトルとおなじように「はじめまして、夢交換手の川崎です」と挨拶をします。そしてこのふたりが夢のなかで出会うことで、物語にすこしずつ、変化が生まれていくのです。

 さて、本作に登場する印象的なフレーズに「雑誌で読んだけど、夢に出てきた相手ってね、自分に会いたいと思っている人なんだって!」というものがあります。これはおそらく平安時代の人々の「夢」についての感覚を念頭に置いた記述だと思われます。

 百人一首にも、この「夢」で会うことを歌ったものがあることをみなさんはご存じでしょうか。それは、藤原敏行朝臣によって歌われたとされる、

住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

 という和歌です。解釈に自信がないため、複数のサイトを以下に貼ります。

www.karuta.or.jpogurasansou.jp.net

 平安時代にも〈夢交換手〉にあたる存在がいたかどうかは作中の記述からは判断できませんが、ひるがえって現代でのコミュニケーションを考えるとき、たとえばメッセージのやり取りや通話、SNSに写真をアップロードすることと、本作における「夢」というものの描かれ方はパラレルに置かれているように思えます。

 いま現在、インターネットや電話回線といった通信技術の発達、スマートフォンの普及は、多くの人と、即座につながることができる環境をわたしたちに与えてくれています。しかしそのいっぽうで、だれかとつながっていないことに対しても、より人々を敏感にさせたようにも思います。

 ほんとうに恋人が自分のことを思っているのなら、メッセージにすぐ気づいて、既読にし、n分以内にはなんらかの返事を送ってくれるはずだ、といった期待や、投稿から24時間で消えるSNSのメッセージ(そのじつ、読まれる/見られることを意識している)、あるいは友達だと思っていたのに、自分の知らないところで動いているチャットグループが存在していたことへのショックなど、さまざまなかたちで、つながっていることと、つながっていないことは、表と裏、同時に発生する事態だといえます。

 ですから『はじめまして、夢交換手の川崎です』はそのような、他者とのつながれなさを常に意識しながらも生きている人々の、ささやかで、けれどだれもが持っている切実な希求の物語である、といえるはずです。

 この文章を読んでいるあなたもぜひ、今夜はそのような夢について考えながら、眠りについてみてはいかがでしょうか。

 

 

エンディング:三浦透子Precious Memories


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