『レプリカだって、恋をする。』を読んだりするメモ③

 タイトルのとおりです。以下前々回と前回。

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 というわけで、感想整理のための読書メモです。本編および短編集(1~6巻)のネタバレを含みますので、未読・未見の方はご注意ください。

 

 今回「③」は5~6巻まで。アナザーサイドおよび短編集を含めた完結までを語ろうと思います。

 

 

5巻 Side:Original

・構成 

 表紙とタイトルどおり、本編終了後から描くオリジナル、愛川素直サイド。といっても、実質本編といっていい。時系列としては、ナオが「レプリカの国」に行っていた、12月~素直の卒業式(4巻ラスト)までの一年とすこしを描く。

 また今巻における素直の語りでは比喩(直喩)「ように」「ような」の登場回数が明確にふえている。ナオほどの思考の飛躍はないが、事物との感覚的な距離の取り方がおそらく変化のなかにあるためではないか。

 

・第1話

「大丈夫だよ、素直」

(…)

「これからの素直の人生には、楽しいことがたくさんあるよ」

 言葉を返すのが一拍遅れたのは、愕然としたからだ。私は自分の心配ばかりしていたのに、こんなときすらナオは私のことを案じていた。

 前巻に起きたシーンの切り返し。

 ナオにできることがオリジナルの素直にはできないことを、このタイミングでも直視させられる。そして自分のほうがまだ覚悟ができていないことに気付かされる。よって今巻の物語は、ナオのこの祝福をまっすぐ受け入れられるまでの素直の奮闘にある。

 

・一月以降、ナオをなぞるようにする素直の生活が描かれていく。

 静岡大橋には、今日も大量の車やバイクが行き交っている。橋の上に屯するような排気ガスのにおいを感じながら、私は自棄になって立ち漕ぎする。橋からの眺めなんてどうでもいい。背を向けた富士山も、瀬切れした安倍川だって知らない。ただ、この風を数秒でいいから止めてほしい。そうしたら私は、その分だけ早く家に帰れる。

 この素直の下校シーンの語りは、1巻、ナオの登校シーンの語り直し、対比になっている。景色のひとつひとつに喜びを見いだせるナオ、景色に対して「どうでもいい」と切り捨てる感情を抱く素直。早く学校に着きたいと願うナオ、早く家に帰りたいと思う素直。移動の向きも違えば、感情のベクトルも異なっている。

 ちょうど信号が変わったのでブレーキを使わず道路を横断。静岡大橋の舗装された自転車道を上っていく。山からの強風が吹くので、ギアを下げて立ち漕ぎしないと車体がちっとも前に進まない。

(…)

 二日前の雨で増水した安倍川と、正面の富士山を交互に見ながら橋を渡りきる。白い粉砂糖みたいな雪を頭のてっぺんに乗せた富士山は、今さら物珍しくもないけれど、五日前は灰色の雲に覆われて見えなかったものだから、久しぶりと頬を緩めてしまう。

 

・用宗海岸でのアキとの会話

「よく分からなかったんだ。冬休み明けに愛川に会ったとき、どっちでもないと思ったから。ナオでも愛川でもない、って」

 前巻において引きになっていた箇所の確認。

 

・ローファー

「また踏んじゃった」

 1巻で描かれていた素直の癖。踵を潰してしまうこと≒他者を大事にできないこと。無意識の行動。「私には、直さないといけないことが山のようにある」。ここでも素直が目指すべきところはナオのような姿、ナオに戻ることとされている。

 

・素直の成績について

「成績落ちたから、一応毎日やってる」

「落ちたっていっても、ちょっとじゃない」

 取り成すように言われるけど、私とナオの学力に雲泥の差があるのは事実だ。ナオは全科目で高得点を取っていたが、私の場合は英語が平均点以下、それ以外の科目はなんとか平均点を超える程度。

  おそらく素直の性格からして、不特定多数が集まるような塾に通わせてほしいとは親に言わない(言えない)のだろう。模試はひとりでも受けることができるからしている、といった感じだろうか。以前の巻からそうであったが、素直の勉強スタイルは独学のよう。ある程度はナオに対して一方的にやらせていた負い目もあるのかもしれない。

アニメ版ノンクレジットED映像より。これだけでもう泣けてくる。

 

 ・2話 三原との因縁、早瀬先輩と真田の出会い

「先輩からのありがたーい教えな。1on1は演技力が大事なんだよ。真田」

 1巻でアキがやり返した台詞。これについてはまた改めて言及される。

 

 

・五月二十七日の金曜日。六限終了の~

  金曜日!? じゃあ前回で言及した9月10・11・12日から作中年代を2027年と読んだのは間違いですね。2021年から2022年の出来事、ということになる。

 

・真田の試合、エコパアリーナ

www.ecopa.jp

 ちなみに現実の2022年5月28日にはあいみょんがライブをしていたらしい。ほんとうに汎用的な体育館らしい……。

www.aimyong.net

 

・吉井の下の名前「春華」

「母ちゃんによると、春華堂から取ったらしい」

「……えっ? 春華堂ってうなぎパイの?」

「そう。しらすパイもおいしい春華堂」

(…)

「まあ嘘だけど」

www.shunkado.co.jp

 大人のお菓子だとかいわれていた記憶がありますが、浜松の会社なんですね。ぼんやり静岡とは認識していましたが。ちなみに文化祭編で登場しており、アニメではちゃんとクレジットも「株式会社春華堂」と出ている。

劇の練習時にもみんなで食べていた。画像はりっちゃん氏。

 

・真田の試合

「こりゃあ、エース対決を制さないと勝ち目はねぇな」

「真田があの留学生を止められる確率、〇.〇五パーセント…」

 もしかしてテニプリの乾やってるのか? るろ剣、ヒカ碁につづき、平成キッズすぎる……。

スポーツ漫画におけるデータベースキャラの草分け的存在。

 

・早瀬先輩の応援

 ヒールとして自ら退場させたキャラのその後を書くの、ひとつの誠実さだ……。

 

・試合終了後

 向かったのは先ほど見かけた、アリーナに下りるための階段だ。『体育館シューズに履き替えて下さい』という注意書きもある。たぶん関係者以外は使っちゃいけない階段の前で躊躇わずにローファーを脱ぐと、黒い靴下に包まれた足で階段を下りていく。

 素直が意識的に「靴を脱いでいく」シーン。りっちゃんに謝れず、ナオに裸足で行かせたという自分の過去をここで暗にやりなおしている。

「すごかったよ」

 見上げる先で、真田が口を半開きにして固まる。

「すごく、輝いて見えた。あの広いコートで、真田がいちばんかっこよかった」

 1巻でナオが1on1を制したアキに対し、「かっこよかったよ」と伝えたシーンの再話。しかし喜んでみせたアキのようにはならず、秋也は泣いてしまう。

 そして早瀬先輩との感情の整理。アキとは違う自分を受け入れること。

「そんなに悲観してるわけじゃないんだ。前の自分と違うからこそ、バスケのプレースタイルにも変わった部分があってさ」

(…)

「でも、それって俺だけに当てはまる話じゃないと思うけど」

 

・VS吉井

「愛川さんって、どういう男が好みなん」

(…)

「髪の短い男」

(…)

 翌週。吉井が、髪を切った。

 すごすぎる。これまでの吉井=お調子者というイメージに対して、この一日で視線をどのように向けているかの話や、きらきらした青春の在り方の話、名前の話、とすこしずつ情報を更新させての、半分告白のちの、これである。いやまあ相手の女子からしたらまあまあ怖いんですけども、それはそれとしてすごい覚悟での応答だとは思う。

 

・第3話

 吉井が髪を切ったのは二週間前のことだ。バスケ部の準決勝翌週には、ワックスをつけたベリーショートになっていた。

 それからというもの、私は意識的に吉井と距離を置いていた。

 それはそう。急に距離詰めてきたらそうなるって。

 

・小野と三原

 私にも過去にそんな経験があった。意識の外側から思いがけない言葉を投げつけられるとまず思考が止まって現実に追いつかなくなるのだ。

 とっさの言葉を選べないということは、周囲の人がわるくいわれたときに、なにも言えない自分になってしまうことでもある。このシーンの挿絵、はじめて小野さんの運動が苦手であろう見た目と、素直のこれまでにないくらい困り顔が同時に出てくるの、ほんとうにすごい。語りは主観なんですけど、raemz先生の絵は明確にそことは違うレイヤーから殴ってくる。4巻の望月先輩の挿絵然り。ライトノベルかくあれかし。

 

・佐藤との口論

「ヒットアンドアウェイ」はあんまり女子と仲良くできなかった自分を評した佐藤自身の言葉。2巻に登場する。そして小野のために素直ができなかったことは、かつて佐藤ができず、レプリカを生んだが上手くいかなかった経験につながっている。3巻で泣いていた素直に伝えた佐藤の経験は、まっすぐでいることだけが、物事の正解になるとは限らないこと。それが身ににつまされているからこそ出てきた言葉だった。

「そうして生まれたレプリカは、Aちゃんを庇って『いじめなんて良くないよ!』なんて……いじめっ子たちを諭すことができる、正義の佐藤梢になるわけだ」

 正義。その響きの空虚さを皮肉るように、佐藤は唇を歪める。

「そうして役目を終えた正義の佐藤梢は、どこかに去っていきました。取り残された佐藤梢はいじめられはしませんでしたが、思った通り周りから爪弾きにされるようになり、まともに友達が作れず、中途半端にグループを渡り歩く佐藤梢になったのでした。ちゃんちゃん」

 

・吉井とのサボり、おせんげんさん

 傘をなくす、という経験はありふれた出来事だが、素直はもろい。もろいからこそ傷つかないようにレプリカを呼んでいたのだし、その日の雨で頼るものをなくしてしまうのは、相当こたえる事態だろう。そうしてふっと現れたのが吉井。学校をサボる行為という点では、こちらも1巻におけるアキとのデートシチュのやり直しである。

www.shizuokasengen.net

「でも、制服だし」

「何かきかれても、創立記念日か遠足的なやつで押し通せるって。だから、行ってみない?」

 温泉のときのアキとおなじ思考をしている。このくだりのすこし前に吉井が自転車通学だったことを素直が語っているが、もしかすると、1巻の日本平動物園に行こうとしたときにアキが借りた「鬼ハン」の自転車は、吉井のものだったのかもしれない。

「吉井が逆ポッキーとか言って、木刀とか買って、あほみたいに振る舞ってたのも……」

「ちょっちょちょ、愛川さん」

 慌てて吉井が片手を振る。その拍子に、ビニール傘についた水滴がはらはらと周囲を舞う。

「やめて。おれをシリアスキャラっぽくしないで」

「でも……」

「実際はさ、おばかな感じでいると周りが笑ってくれるとか、重い雰囲気をうやむやにできるとか、いろいろあるよ。でもおれは、みんなと一緒に楽しむのが好きなだけ。嘘を吐いてるとか、むりしてるとかないない」

 きっと、「逆ポッキー」が素直にとってツボに入る言葉だったのは偶然だろう。ただ、プリッツよりポッキーが好きで、世界をどのように見ようとするかの鍵として、そのギャグ(暗喩)がすっと胸のうちに入ってきたことは事実で、彼女がその瞬間に世界との距離をすこしだけ短く、親しくしたことに違いはないはずだ。

「別に……気に入ってるとかじゃなくて、単に覚えちゃっただけ」

「それ、気に入ってるからじゃね?」

 これは、真田秋也に伝えた「演技力」をなぜ覚えていたか、というレプリカの記憶の仕組みを利用した人間理解に重なっている。サンテグジュペリがいったように「人間は絆の塊りだ。人間には絆ばかりが重要なのだ」。そしてこれはのちのち、素直がナオと「共有したくないもの」を意識する理由のひとつになっていく。

 この物語の多くが視線の織りなしでつくられていたように、吉井春華もまた世界に視線を注ぐひとりであることがこのエピソードを介して語られる。

 私は無言で、一言多い男の脛を蹴った。「いってーーッ」と本気で痛がっていた。

 また、素直は暴力が好きな人間ではないだろうが、無意識のうちに相手やものを傷つけてしまうことがある。けれども吉井との対話においては、彼がそれを許容することによって、素直がナオのようになりたいと思い「矯正」したがっているものをそのままにして、引き出し、受け止めている。

 かつて、痛みの引き受けはレプリカの役割になろうとしていたが、素直から吉井へのそれは上下ではなく横のコミュニケーションの側面を持つように描かれている。端的にいえば「あまえ」ですよ。甘え。いい言葉だ。

 だれにも頼れなかった彼女が、ですからね。

 

・お好み焼きみかみ

okonomiyaki-mikami.com

 オタク(二人称)! ぜってえ聖地巡礼しような!!!!!!

 ほんとうにお祝いごとみたいな見た目をしているお好み焼きだ……。

 それから間もなく雨が降り出した。まるで吉井が少しの間だけ空を宥めて、雨を止めていてくれたみたいだと思った。

 ここでようやく出てくる「みたい」という比喩。ナオ視点の文章には頻発していたこのことばの使い方を考えると、やっぱり世界との距離の取り方として、作者はかなり文体レベルでの制御をしていると思う。比喩は、二者のあいだのイメージの異なり、あるいは類似という距離を視点(語り手の認識)によって橋渡しする。

 むろんそれだけでもないが。

 

・三原、小野、佐藤ふたたび。

「あっ! 小野さんと愛川さん、こんなところにいた」

 よく通る声で呼びかけながら、その場に現れたのは佐藤だった。

 さすがにここだけは平成少女漫画の空気になった。ちょっと粗めの描線のやつ。マーガレット系列か花とゆめ系列かはわからないが……。

 男性向け現代ものライトノベル(クソデカ主語)になっちゃうとこういうときなぜか解決のかたちを外的な(そしてクレバーじゃないのにクレバーな顔をした)解決、もっといえば脅威の排除として提示したがる傾向があって(ある意味それが本シリーズ1巻のトーンにおける違和感だったとおもう)、個人的には内面葛藤の克服でもちゃんと山場になりますよ、と示してくれるのはうれしい……。

 まあ若干ここはスカっと感があるが、素直だけじゃなく、佐藤さんにとっても葛藤の克服というサブプロットが活きているのがいい。

「だってそれは、佐藤が誰よりも友情を大事にしてるからでしょ」

 こうした捉え方は、ナオがリョウ先輩や佐藤さんを「口説いて」いた2巻のくだりを彷彿とさせる。ナオがまっすぐに相手の美点を捉えられるのとは違い、素直は自分できないものごとをできる、というかたちで人を見つめられるようになりつつある。それは自分のできなさをすこしずつ認めていくことにもつながっていく。

 

・素直の進路希望

「だけど、がんばって走り続けて疲れちゃった人たちを支えて、寄り添えるような……そんな人間になりたいって思えたの」

 相手を見つめられるようになること。心理社会学科。さすがに神奈川県だと候補となる大学が多すぎて絞れないかもしれない。

 すると、後頭部をかいた吉井が窺うような目で私を見る。ちょっとだけ髪が伸びていた。

 髪が伸びていたことに気づけるってことは、よく相手を見ている証拠ですよね。素直さん、ちょっとちょっと、もう意識しているんじゃないですか???

愛川素直さん、を見ているおれの顔たち。

・青陵祭準備

 時間が……流れるのがはやい!

「まぁ確かに、りっちゃん先輩は有名な新人賞の三次選考まで通った実力者だしな」

 電撃なら最終に残らなかったくらいかな。惜しいね。高校生なら大健闘している。

 あと新人賞公募オタクあるあるだと思うんですけど、「1次通った」と「2次落ちした」のどちらかを結果としてだれかに伝えるとき実質おなじ情報なのに自意識が邪魔をして数字大きく語ろうとすることにつらくなりませんか? えっ、ならない? あっ、はい……。おれは見栄っ張りのカスです……。

 

・新川和江「わたしを束ねないで」

 ナオが読んでいたのはおそらくこの選集ですね。「わたしを束ねないで」は新川和江代表詩のひとつなので、ハルキ文庫の詩集にも、現代詩文庫にもたぶんおさめられていると思います。ちなみに昨年公開のアニメ映画『不思議の国でアリスと』でもこの詩がサイレント引用されているシーンがあります(スペシャルサンクスで「新川和江」の名が出てくる*1)。フェミニズム文脈においても重要な詩。なお、新川和江は2024年に亡くなっている。

 同時に思う。この詩は、ナオだけじゃない。私の詩でもあるって。

 たぶんそれは、何もおかしいことじゃないのだ。まるで正反対の私たちが、同じ詩を共有できる日だってある。きっと、その真逆の日がたくさんあったように。

 ナオをなぞる、ではなく理解する。共有する。

 痛み以外に共有する回路としての、ワンクッションとしての言葉。

 

・りっちゃんの後悔

「自分も、去年の秋になってようやく思いだしたから。小学生の頃、素直先輩とナオ先輩を呼び分けたこと。……いつも自分は、引っかき回してばっかりです。あのときだって」

「去年の秋」とは3巻の修学旅行でひとり残されていたときのことを指しているのだろう。こうしたある程度までは流してもよい過去の記述に対して、作中のキャラクターを遇することで応えようとするあたりは早瀬先輩ふくめ、作品の誠実さだと思う。

 

 ・素直の見た夢

 おそらく「レプリカの国」で暮らしているナオ。

 

 ・けやきプラザのサイゼリヤ

keyaki-plaza.com

 オタク(二人称)! ぜってえ聖地巡礼しような!!!!!!

 

・終業式の放課後の教室、吉井

 終業式の放課後の教室に、なりたい。

 ちょっとだけ日差しが傾きはじめていて、窓からのぞく雲がうすく遠くなっていて、数時間前まであったはずの喧騒が嘘のような教室の空気に、なりたい。

 そんなふうに、種の詰まったピーマンを半分に切るみちあに考えられる自分が、ちょぴりおかしかった。ナオはそう言う。私はそう言う。その違いが何よりも苦しかった日を忘れられないまま、私はここにいる。

 それでも「苦しかった」と過去形になっている。彼女のなかで整理は進んでいる。

 

・そして吉井との唐突な告白シーン

 だって吉井って。

 吉井って、

「吉井って、ほんとうに、私のこと好きなんじゃん……」

そんな愛川素直さんを見ている、この冬最大の、おれの顔。このあと10pはこの顔。

 もうこのあと書くことないでしょ。泣くくらいしかないです。

 

・閑話 難攻不落の愛川さん

 急にシチュエーションラブコメみたいなタイトル出てきたな。吉井視点(三人称)。修学旅行のあの場面で自ら引き返そうとするの、お前すごいよ。なんだかんだいって他人を思いやろうとすることや、恋愛に浮ついてしまった相手になにもできなかった自分のことを反芻できる吉井、すごいって。この小説、もしかして人格者だらけか?

「優しさって心の内側から湧き出るものなんだよ」

 この言葉をギャグではなくまっすぐ伝えようとずっと考えて、ちゃんと伝えて、愛川素直さんの心のなかに住まわせたあなたは、ほんとうに素晴らしい人だよ。

 

 ・最終話 辿り着いた春

 自転車に跨がり、爪先で地面を蹴る。

 陽光を浴びて走りだすと、ホイールが回る。からから、からから、と楽しげに歌うように。

「からから」は1巻でナオがホイールに使っていた表現。一年をかけて、素直はナオが愛おしいと思っていた風景を、自分も愛おしく思えるようになっている。

 

・ナオを呼ぶ。4巻ラストシーンの切り返し。

「でもね。私はもう、大丈夫」

 4巻と5巻でおこなわれたリフレインに、ようやく答えることができるようになった素直。 

「大丈夫だよ、素直」

(…)

「これからの素直の人生には、楽しいことがたくさんあるよ」

 今さらになって気づいてしまった。

 海が嫌いなのは、向こう側の景色が見えないからだ。舟を漕いで沖に向かう誰かには、もう会えないと知っているからだ。

 ナオが散々抱いていていた死のイメージを、ナオは別離のイメージとして抱いていた。こうして彼女にとっての人魚姫の物語は幕を閉じる。そのハッピーエンドがなにによって結ばれているかは、もう言わなくてもええでしょう。

 

総評

 ””ありがとう””

 シリーズ全体としてはかなり構成がうまくできている印象だが、これはたぶん1巻のときにあった、うまくできなかった要素を即興的に分析して1冊ずつしっかり応えようとしてきて、結果的に足腰のつよい小説になったからだろう。

 2巻でやったことに対しては3巻で、3巻でやったことに対しては4巻で、と順々に世界の仕組みや行動、キャラクターの遇し方にかなり筋を通している印象があり、読んでいるあいだの満足感が大きかった。

 だんだんと作者を信頼しながら読む体験ってマジいいすね。

 

 おそらく1巻のコンセプトとしては、「現代版のおとぎ話」といったところで、念頭にあったとはいえ、そこまで『青ブタ』っぽいアプローチまで広げる感じではなかったのではないか。青ブタも野生のバニーガール先輩はアリスモチーフなのも含め、このあたりは作者のなかでも相当な意識があったと想像することはかたくない。

 もちろん1巻1話「レプリカは、夢を見ない。」は明確に青ブタと、青ブタが意識していたであろう『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』からのもじりであるが、作中のテイストとしてはむしろ人魚姫・シンデレラあたりの物語をうまく再解釈しつつ、現代的なラブコメをファンタジーふうに着地させていく気風がつよかった。

 2巻からは総じて、シリーズの構想がふくらんだのであろう箇所が随所にある。それについてはこれまでの3つの記事でキャラクターの台詞の裏にありそうな対応関係や小ネタを拾っておいたので、随時読み直しておいてください。

 

 むしろよいな、と思ったのはレプリカの実存の問題というナオの物語(おとぎ話のリミックス)をやりつつ、愛川素直というオリジナル(いわば1巻における「意地悪な継母」)の背景を深堀りして、そこにちゃんとストーリーとしての軸を用意してあげたことであろう。

 これって要は、ディズニー映画やウィキッドなどがやってきた、もともとヴィラン(悪役)側とされてきたキャラクターのリトールド(再話)メソッドですよね。

 敵対する存在としてではなく、共感や連帯の対称としてふたりの女性を遇すること。ライトノベルシリーズでこういう手際が出てくるのはふつうに意外だし、頼もしい。

 もちろんひとりの男性主人公をとりあってヒロイン同士がある種の共同性というか、親友性を得るのも好きなんですけど、それぞれの人生がちゃんとひとりひとり立ち上がってくるように書いてきたのはほんとうにうれしかった。サブキャラの扱いもそうだし。

 

 たまにやってくる平成ミッドふう価値観については、まあ、作者が好きなんだからしょうがないよね!くらいですが……(わたしも嫌いではない)。

 ゆうて告白実行委員会シリーズにくらべたらぜんぜん苦しゅうないよ。みなさんも作中どのくらいラブコメ要素で顔面がエイフェックス・ツインになったか、よかったらご家族やインターネットのお友達と話し合ってくださると幸いです。

 

 また何度か作中で言及されるし、6巻の短編集でも出てきますが、作中に登場する作品は近代文学が多いため、作者自身が「やっぱ違うな……」とおもって改稿している小説がいくつかあります。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』なんてその最たるものでしょう。

 おとぎ話のリミックス、リトールド、であるということは、当然、読者側がどのように受け止めるか、という視点のなかで書かれている小説であるということだし、そのような物語をめぐる物語、メタの側面が本作にも顔を出している。

 素直が「新訳竹取物語」の舞台のなかでリョウ先輩にアドリブを振ったのも、そのような在り方でしょう。それは生み出された側のキャラクターが自らを主張するということでもある。

 そういった点でいえば、『レプリコ』全体に、人間の都合によって生み出され、人間を慰撫するためにつくられた消費材の側面を持っているという目配せがあるのは、そこまで邪推ではないでしょう。これはストーリー設定というより、作品態度の話ですが。めんどいので、前回書いた自分の文章を貼りましょう。

 にしても素晴らしいのは、構成の妙によって、ナオから素直への主人公のバトンタッチをきれいになしとげてみせているところだろう。1巻の段階では輪郭もおぼろげだった、不機嫌で、世界をつまんなそうに見ている女の子が、ナオという「物語」の視線を通じて、どうにか生きた人間として歩みだそうとしていく構図。

 つまり「物語」のほうが、彼女を「現実」へと送り出していく構図がいつのまにかできている。それはむろん、わたしたち読者の似姿にもなるはずだ。

 人間となったレプリカたちと「さよなら」をするのは、愛川素直だけではない。わたしたち読者ひとりひとりもそうだし、わたしたち読者ひとりひとりも、これからの人生を歩もうとする愛川素直に「さよなら」をする。物語ってそういう側面があるよね。

 で、思い出したときにまたページを開けばいい。

「愛川」

 改まって名前を呼ばれた私は、真田を見上げる。

「卒業しても、たまに会おう」

「うん」

「電話とかメッセージとかもいいけど、やっぱり、ちゃんと顔も見たいから」

 あっ、いま猛烈にジーン・ウルフ引用したい。引用してええですか!!!!

 いいよ。ありがとう。

 デス博士は微笑する。「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」

「ほんと?」

「ほんとうだとも」彼は立ちあがり、きみの髪をもみくしゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」

 ありがとうデス博士。これからもずっと大好きだよ。

 かつて若島正はこの物語にジョン・ダンの詩にあった「どんな人間も孤島ではない」のテーゼがあることを読み取っていたが*2、それでいえば、海に泡となって消えていくイメージが散りばめられている本シリーズのもうひとりの主人公である愛川素直のなかには「すな」がある(部分ツイート)。

 いやこれは意外と冗談ではなく。

 海岸線、という言葉があるが、これはじっさいにはきまったひとつの線ではないし、とくに東海地方の海岸などは、年々、浸食が進んでいるため、むしろ海というのは、砂と海水とが常に混じり合っているものでもある。

 素直とナオのふたりは離れているようで、むしろ削られては、おなじものを共有し、めぐりつづけている、と思いながら本を閉じてもわるくはないんじゃないでしょうか。

 ちなみに、文化祭編でりっちゃんが「新訳竹取物語」に使いまわした「羽衣伝説」の舞台となる清水海岸は砂が流れきってしまわないようにしているとのこと。

一見動きの無い海岸ですが、海岸の砂は動いてます。寄せては返す波とともに砂も海岸に打ち寄せたり沖に流されたりしながら、少しづつ東へ東へと流されています。天女は羽衣を返されて再び空へと戻っていきましたが、東へと流された砂は三保半島の先端から駿河湾の底に流れ込むと二度と海岸に戻ってきません。
そこで、深海へ流れこんでしまう前に砂を採取して、砂浜に戻す工事を実施しています。伝説に例えると、「もとの砂浜に帰れない砂に羽衣を与える」ような工事です。

shimizukaigan.doboku.pref.shizuoka.jp

 さて。

 6巻、については書こうかな、と当初は思っていたのですが、このメモ記事を書きながらだんだん感無量になり、最終的にこのボーナストラック的短編集についてはなにか書くことじたいがぜんぶ野暮だな!!!!とおもったので書きません。

 ごめんネ!(ハルヒ驚愕延期の画像)

ハルヒ驚愕延期の画像

 わたしだって感想ブログかきかきマシーンではあるかもしれませんが、愛川素直さんとおなじように他人と共有しなくてもいいな、と思う部分はあるんですよ、とお伝えさせていただきたい。あとは君自身の目でたしかめてください。よしなに。おそらく顔面がエイフェックス・ツインになることでしょう。

 ではまた、どこかの読書会でお会いしましょう。

 

エンディング:JYOCHO「碧い家」


www.youtube.com

 

 

『青春ブタ野郎』シリーズこと『青ブタ』については、以下の記事でまじめにシリーズの試みを検討しています。ネタバレありきなのでアニメ勢は完結してから読んでね!

saitonaname.hatenablog.com

*1:これについてはあまりにも世間が理解していなかったので同人誌で書いたりした。近日中に電子化を予定しています。

*2:乱視読者のSF講義

『レプリカだって、恋をする。』を読んだりするメモ②

 タイトルのとおりです。前回のつづき。

saitonaname.hatenablog.com

 というわけで、感想整理のための読書メモです。本編および短編集(1~6巻)のネタバレを含みますので、未読・未見の方はご注意ください。

  今回「②」は3~4巻まで。ストーリーの謎解きをふくめた山場つづきです。

 

 

3巻

 修学旅行だ~~~!!!(ドコドコ)

 修学旅行の夜のホテルのロビーに、なりたい。

 

・構成

 今巻はナオ視点と素直視点によるそれぞれの旅、それから閑話として学校に残っている広中律子視点(三人称)で複層的な人間模様が描かれる。りっちゃん視点が三人称なのはぜんぶ一人称だとうるさかったり描き分けの問題があるのだろうが、結果的によいバランスになっている印象。

 ナオと素直とで語彙レベルで文体が異なっているのは、ほんとうに偉い。文体というか、本シリーズでは自己と外部への視座がなにをかたちづくっているかの話として次第にかたちが整ってくるため。いや~~~まさしく文体の舵をとっていますねえ。

 また、本作からは文化祭編以上に偶像劇としての面白みも立ち上がってきている。群像劇ラブコメといえば視線から視線の物語であることなので。

 例)『きみの横顔を見ていた』、『Just Because!』

アニメ『Just Necause!』OP映像より。群像劇は「視線」からなるんですよ(ろくろ

 

・素直の登校/ナオのお留守番

 私はお腹が空いたらたまに一階に下りて、お湯を沸かしたり、鍋を火にかけたり、レンジでチンしたりする。味ばかりが濃いラーメンや焼きそばやパスタをもぞもぞと食べたりする。

 今日は冷凍うどんにした。チンして、お湯で割っためんつゆをかけたら、あとはすするだけ。

 リビング兼ダイニングでは洗濯物が部屋干しされていて、鼻先に生乾きのにおいがまとわりついてきた。シンプルすぎるうどんの味は、そのせいでよく分からなくなった。

 おそらくは、素直のこれまでの家の食事をなぞっている。これまでのナオの食事描写に比べると味気なく書かれている。インスタントや冷凍食品というものの道具性。

 もう私は、何もしなくて良くて。

(…)

 素直が学校に行きたくない気持ちに、私は初めて、触れたような気がした。

  ぐったりとした諦めの心。わかる~~~。

 

・素直視点

 ナオに比べると二字熟語が多い。というか漢字/ひらがなの比率がコントロールされている。比喩もすくない? というかほとんど使っていない?

 そんな私の無関心が、新たなレプリカのことを打ち明ける気をなくさせたのだろう、とうっすらと想像はついた。

 でも事前に事情を知っていたからといって、果たして私は、なにか変わっていただろうか。

 近しい人との突然の別れに傷ついたナオに、寄り添えていただろうか。どんなに想像してみても、そんな気遣いができる自分の姿は、目蓋の裏でさえ思い描くことができなかった。

 素直の自己認識としても他者に目を注ぐことが得意ではないこと(じっさいはかなり注いでいこうとしているのだが)が改めて語られる。

 

・真田秋也(オリジナル)の描写

 しばらく人前に出なかった人間というのは、こんなにも自信を失って、萎縮するものなのだ。

 こうしてひとりで保健室にやって来ただけでも、相当のがんばりが必要だったはずだ。労りの言葉を投げようとして、私はやはり、中途半端に唇の動きを止めた。

 素直も素直で、他者への観察をおこなうことはじゅうぶんにできる。そのいっぽうで、どのように接したらいいか、言葉を選んだらよいのかがわからない。前回述べたように、他者にまっすぐ関わることのできる、意味を与えるふるまいをするナオとは対照的に描かれている。

 

・クラスメイトの吉井

(…)分かりやすくいえば、バレンタインに大量のチョコレートをもらって大はしゃぎするが、そのすべてが義理。そんなタイプの男子である。

 わかりやすすぎる。広く浅い交友関係になってしまうキャラクター。お調子者。

 彼らの目に、ナオじゃない私はどんなふうに映っているのだろう。

 それを私は、絶対に知りたくはなかった。

 素直にとっての劣等感は消えていない。

 

 ・修学旅行の班ぎめ

「つかさ。これも何かの縁、みたいな? せっかくだし、この四人で班作らねぇ?」

 これってもしかしなくても、〈青春やりなおし修学旅行もの〉、じゃないですか?

※青春やりなおし修学旅行もの:周囲の空気になじめなかったはぐれものたちが修学旅行の予定をハックして個人的な用事をすませたり、そもそも関係ない旅程を組んで「修学旅行」とすることで自分たちの青春を再定義する旅路のこと(ななめの

 人間関係の交差点というか極点として文化祭人間縮図演劇メソッドの次にこういう修学旅行を持ってくるの、ふつうに現代ラブコメ師として自覚的なふるまいだ……。

 

 ・中島敦『山月記』

 みんな好きな台詞としての「その声は、わが友、李徴子ではないか?」

 といっても、本作のいちばん切ないところはラストの言葉のない別れのシーンなんすよね。親友との最後の別れが映像的に語られるシーン。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

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 ・用宗みなと温泉

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 ほんとうに港にある温泉。すごい立地だ。

 髪が濡れているだけなのに。ただ、髪が濡れているだけなのに!

 すごい、ほんらい修学旅行の夜のホテルのロビーでやるノルマをこっちで消化している。そのために温泉に行ったというのか……。

 

 ・静岡駅発、新大阪駅行きのひかり

 そうなんですよね。「のぞみ」じゃないんですよ。東海地方の田舎は「ひかり」か「こだま」。東京新大阪間が世界のすべてだと思っている都会のみなさんにはわからないかもしれませんけどね。リニアモーターカーだって小さい頃からできるよできるよって言われ続けてきたんスよ。

 

・魔界の牧場→まかいの牧場

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 富士宮。『ゆるキャン△』のオタクにはおなじみ。駅前から山のほうにむかってまっすぐ路が伸びているのが印象的なつくりの町。おれは京都から実家に帰る夜行バスに乗れず、空いてたバスをその場で探したら早朝の富士宮で下車することになったうえ、そこで財布を落として泣きそうになった思い出の地でもある。富士急ハイランドはおなじみですが、白糸の滝もけっこう見応えがあるので、おすすめ。

 

・閑話 後輩は、待つ。

 でも律子は自室以外では一度も泣かなかった。二人の前では明るい自分でいると決めた。律子が笑いかけると、ナオはいつも嬉しそうに笑い返してくれるから。

 広中律子さんが本シリーズではいちばん人格者まである。この短い章だけで無限に彼女のことを考えてしまうもんな。こういう意図的に明るさを行使できる人、ほんとうにすごいよ。

 

・修学旅行

 私たちの班のテーマはというと、特に難航せず、『百人一首』に決まった。このテーマなら嵐山にさえ行っておけばどうにかなる、と佐藤が言い放ったのだ。

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 さいきんはこういうのあるしな。

 また、大覚寺には、

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ

  のうたわれた場所もある(名古曽の滝跡)。

 現在も案の定枯れているのでがっかりスポットといえばそう*1

ogurasansou.jp.net

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 秋ごろになると嵐山は紅葉が色づくので回遊式庭園は歩くだけでたのしいでしょうね。もみじの錦っすよ。まにまに。

 実のところ好きなアニメの聖地巡礼を目論んでいるらしく、(…)

 もしかして『俺ガイル』さんですか!? あなたもまた……。

 ぜひ石川博品の短編を読んでほしいです。

 私は思いっきり吉井の向こう脛を蹴った。

 最終巻まで読むとわかりますが、ここは1巻のナオ→アキの行動の対比。

 

・望月先輩

 秋頃合格、ということはAO入試組だろうか。

 

・木刀

 いやマジで最近木刀と新選組の服着てる気骨のある修学旅行生すくないんすよ。

「うおおお、喰らえ委員長! 壱の秘剣・焔霊!」

(…)

「ふっ。素人相手に振る剣はない。龍槌閃・惨!」

 平成すぎる。飛天御剣流(ヒテンミツルギスタイル)じゃん。

 

・リョウ先輩の絵

 消えても残るもの。リョウ先輩に見えていたものたち。忘れられないもの。

 二巻に登場した絵。

「富士宮に祖父母の家があるの。この絵に描いたのは、家の前にある畑。笑顔の二人は、わたしの」

 中途半端に止まった唇が、小さく震えていた。

「おばあちゃんとおじいちゃん」

 慈しむ指先が、二人の輪郭をなぞる。私はようやく、そうか、と謎が解けた気持ちになった。

「だから二人とも、笑っているんですね」

 それは視線の先に、森先輩が立っているからだ。

 書き写しながらうるっと泣けてきた……。あのとき「愛川さんにはそう見える?」と問いかけていたリョウ先輩の言葉の重さがここにあるから。 

 納骨をしていなければ、庭にお墓をつくることは禁じられていない。しかし、おそらくは近所の目を気にして、そういうわけにはいかなかったんだろう。その無念さがひしひしと感じられた。

  この世界におなじ人間の場所を複数用意できない以上、レプリカに優先されるべき立場はないことの再確認。ナオとアキにとって、現実的な未来(大学進学といったもの)は見えないことの再確認でもある。

 

・修学旅行の夜(告白タイム)

 修学旅行の夜のホテルのロビーに、なりたい。

「私、こんな、っいつも苦しくて……どうして……心にもないこととか、冷たいことばっかり言っちゃう。喉の奥から飛び出して、きて。止めようとしても、だめなの。ぜんぜん、だめなの」

 だめだ。私は、本当にだめだ。

 だめだ、だめだ。いつも、だめなんだ。

 私は自分がどんなにだめな人間か知っていて、でも、それを自分じゃどうにもできない。

(…)

 人間らしい温かみがない。気遣いができない。他人への思いやりがない。欠如している。欠落している。欠陥品なのだ。

 そんなこと言わないでほしい、と読みながら苦しくなってしまう本巻屈指のシーン。

 りっちゃんが呼び分けていた、ナオと素直。ナオとよばれていたのは、もともと自分のほうだったということに気づき、屈折した自己否定が加速する。

 そして生まれるのが、

 私って……どんな人間だったっけ?

 という乖離。

 他者と自分のイメージの差に苦しめられること。勉強についていけなくなること。生理痛に悩まされ、自身の体調をコントロールできないこと。自己像を見失うこと。素直の苦しみはレプリカによる苦しみというよりは、思春期の人間にとっておおかれすくなかれ起こりうるものであり、より俗っぽく言ってしまえば、ありふれた経験のひとつでもある。しかしレプリカを呼び出すことによって、彼女はそれじたいから逃げる方法を、向き合う方法を失ってしまった。

 

・佐藤のレプリカ

「もういないよ」

「そんなとき、(…)……そんな強い自分がいてくれたら」 

 2巻リョウ先輩の台詞につづく、望ましい存在としてのレプリカという構図。

 

・望月先輩(生徒会)による早瀬先輩の事件聴取の話

 真田秋也がないがしろにされたわけではないことの事実確認。

 

・アロイジア・ヤーンの特番

 なぜレプリカが生み出されたかの副情報。設定の更新。

 

・ナオの再呼び出しによる素直との合流/嵐山・渡月橋

 改めてのギミック→設定検証(『青ブタ』フォロワーの顔じゃん)

「何が言いたいかっていうと、ドッペルゲンガーを見たっていう目撃者は、それと同時に本物を見てないよね。世界的には例外もあるんだけど、それも今さら本当の話か判断がつかないから」

 観測理論は厳密には世界の構造に採用されていないだろうと思われるが、これは青ブタフォロワーの顔なのでよし。眠っていた森先輩はおそらく24時間病院でモニタリングされていた点で主観/客観の処理もけっこう曖昧に濁されている、よってここで大事なのは、世界のかたちを言い当てることよりも、わかりやすいメタファーとして扱うこと。

 「層」としての世界。

 というよりより具体的に言ってしまえば、ここでの目的は、4巻の(同時登校)展開をスムーズにおこなうためのストーリー上の橋渡しと、タイムリミットの設定にあると思われる。

 これについては後述する。

「素直がなくした優しさ。私、どこに行ったか知ってるよ」

(…)

「私が、持ってたよ。素直、ここにあるよ、素直」

 追い詰められた末に、素直は自分自身の一部を切り離してしまった。切実に唱えられた願いを歪んだ形で叶えたのが、レプリカの正体なのだ。

 痛みや苦しみの切り離し。心の作用。

(こうした心の切り離しじたいはレプリカではなくとも多くの人が経験する、ごくありふれた心の動きだ。しかしだからこそ大事なのだということが語られているはずだ)

 いつのまにかオリジナルとレプリカの主/従が逆転していた可能性。ではどうしたらよいか。というところで4巻につづく。

 

 

 いや~~めちゃくちゃ高度なことしてんね(総評)。

 レプリカがどのような求めによって生まれ、その性格を設定されたかは、2巻ではナオだけしかリョウ先輩から情報をちらつかされるようにしか聞いていない。素直はこの点についてまだ考える機会を持っていなかった。ただし素直は、修学旅行中に佐藤からの個人的な経験を聞くことで、ナオ‐素直間の情報のすり合わせを(見えないかたちで)おこなっている。

 それが終わったからこそ、ふたりはおなじ場所に立つ。

 そしてもうおなじ場所にいられないことにも気づかされる。

 

 そのいっぽうで、青春やりなおし修学旅行ものをふたつ並行しておこなうという処理。ナオは喪の時間に向き合い、素直はすこしずつ人間関係の構築をはじめる。また2巻ゲストキャラかと思われた望月先輩の進路や彼なりの向き合い方についてもページを割いている。

『レプリコ』がほかの典型的なラブコメラノベ違うところがあるとすれば、各巻ごとにシナリオが寸断されず、ある程度の連続性を保っているところだろう

 かつて円城塔はラブコメ世界では作中の時間がバンバン飛ばされるという物語の構造における特徴を見事に言い当てていたが、レプリコは明確にそのスタイルを採用していない。前巻であったことに、登場人物たちはなんらかの心の整理を、責任を迫られるようになる。

円城 それに関しては、シーンごと、カットごとにかなり自由に飛ぶという技術が駆使されていて、ディテールはあるんだけれども、かならずしもリジッドなグラウンドが広がっているわけではない。今のエンタメ系の作品や群像劇では、カメラが向いていない時でも世界が存在するというものが多いんですが、ギャグマンガとかラブコメだと、世界が通底していると話がすぐ終わってしまうので、バンバン飛ばしてずらしていくというやり方がある。

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 時間が飛ぶというのは、どういうことか。

 たとえば、ヒロインが主人公に告白する。→次回へ続く。→なんやかんやあって告白はあったけど実質保留されたことになったり、ぼんやりとストーリーとしては持続する、といった連載における構造上の要請だろう。

 こういうのってじっさい、告白→えっ→次回へつづく→回想処理→あれってどうしたらいいんだろうな~~~……とされてしまう。

 どうしたらいいんだじゃねえ、ちゃんと告白に誠実に答えろ。

 これによって主人公はシリアスな場面に対しても(じっさいは内面でうんうん唸っていることも多いのだが)表面上は物語の進行に一時的なストップをかけることができるようになる。なんならその次回などでヒロインが「ってだまされてやんの~~!」と告白を臆病のために後ろキャンセルして意味を希薄化させてしまったり(やめろ……)、「返事はいらない」とか都合よく言ったりする(ほんとマジでやめろよ……)

あなたたちは蝶野雛さんについて考えていますか。いますぐ考えてください。

  しかし『レプリコ』では告白やキスは物語の要請上のまま延期されても、「死」は延期されない。オリジナルの死とともに、レプリカは「消失」してしまう。そして佐藤によれば、レプリカが消える要因はそれだけではない。

 3巻で提示されたのは、素直/ナオにとってのふたりが同時にいるという望みはおそらくもたらされない、けれどふたりでいたい気持ちだけはある、というダブルバインドの状況である。

 

 

4巻

 クリスマス回だ~~!!!(ドコドコ)

 クリスマスに水星は逆行する(竹宮ゆゆこ『とらドラ!』より)。

 

・構成

 ふたたび、視点はナオに統一されている。ただし、彼女の行動範囲はこれまでの学校行事中心(1~2巻)、家と旅行(3巻)という生活の内部と外部を経由したうえで、素直の学校生活に寄り添うところからはじまっている。

 

「今年中には、必ず答えを伝えるから」

 自身の存在のゆらぎを示されたうえで、タイムリミットの設定。これとともにナオが見聞きしてきたものを総合することにより、4巻の物語は駆動するようになっている。

 

・球技大会

「私のレプリカなんだから、せめて同じ痛みを味わってもらおうかと」

 すこしずつ明確になってきたふたりの差異のなかで、共有できるものは痛みくらいしかない。というよりこの世界でふたりがもっとも円滑にコミュニケーションできるのは、痛みそのものなのだ

 でも身体に感じる痛みは隠して振る舞うようにしていた。そうしないと、素直がわたしを心配すると思ったからだ。怪我が治るまで呼ばれないというのも、つまらなかった。

 そのとき、ふと思った。頭痛や腹痛は目には見えない。泣きたくなるほどもどかしい気持ちで、こんなに痛いのにと説明しても、周囲の誰にも分かってもらえなかったりする。

 すでにこの時点で、のちのち引用される『星の王子さま』のテーゼでありフレーズ「大切なものは、目に見えない」が出ている。

 ちなみに、大久保ゆう(上述した『文体の舵をとれ』の訳者としても有名)は「あのときの王子くん」という訳題で青空文庫に(朗読のための、かつ脱〈内藤[訳]〉として)翻訳を載せており「大切なものは、目に見えない」という訳についても、原文の意味との取り扱いを次のように述べている。

 そのため、この翻訳の訳文には、内藤[訳]のファンの方々には、我慢ならないような点がいくつもあるかもしれません。
 たとえば、キツネが教えてくれる秘密がそうです。この翻訳では、次のような訳文になっています。

 

「おいらのひみつだけど、すっごくかんたんなことなんだ。心でなくちゃ、よく見えない。もののなかみは、目では見えない、ってこと。」


 内藤[訳]でこの部分は「かんじんなことは、目に見えない」となっています。もしくはのちの方に出てくる「たいせつなことは、目に見えない」で覚えておられる方もおられるかもしれません。ここは原文では〈本質的なもの〉を意味する "l'essential" が取られています。単純に訳すのであれば、〈本質、もと、たま、核、芯〉などの訳語が考えられますが、あえて日本語で〈実質〉という意味も持つ〈なかみ〉という和語を取りました。ここは〈たいせつ〉よりは〈かんじん〉の方が優れていると思いますが、いかんせん言葉が古く、〈そのものの存在にかかわる本質的なこと〉という意味が伝わらないように思います。それに、〈本質が目に見えない〉というのは、キツネが言うように、本当に簡単で当たり前のことです。しかし、〈大切なことは目に見えない〉というのは、果たして当たり前のことなのかどうか、ちょっと疑問です。

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「たいせつなこと」=「本質」をどのように定義するか。

 これについては、レプリカのナオとオリジナルの素直のあいだにおける関係を再定義するうえでも必要な手続きにも思われる。

 なにが、相手を「たいせつ」にするか。

「人間」にするか。

 

・ナオから見える現在の素直について

 でも優しさを失った素直は、誰よりも優しさに厳しくなっている。ゲームの選択肢みたいに、曖昧さのない、百パーセントの完璧な優しさだけを追い求めている。それ以外が許せないみたいに。

 私には、それが怖かった。今の素直が、ひどく危うく思えてならなかった。

  前の巻でナオ→素直への視線の意味「人」→「神様」がここでは逆の構図になりつつある。ナオの考えに依存しようとしてしまう素直。

「私、冷たかったかな。言い方とか」

 言われてすぐは、なんのことか思い当たらなかった。

「そんなことないよ。真田くん、ほっとしたと思う」

「……そうかな」

 真田くんではなく、素直自身が、安堵したように微笑む。私の胸は、鉛を飲み込んだような息苦しさに満ちていった。

 最近の素直は、事あるごとに私に確認する。自分は合っているか。正しいことをしているか。優しさを奪った私が太鼓判を押せば、安心を覚えるようだった。

 もしも、と思う。

 もしも素直が、もっと物事を楽観的に捉える少女だったなら。素直が、もっと優しくない少女だったのなら……。

 きっと愛川素直に、レプリカは生まれなかったのだろう。

「どんなお話にも、悪い奴って必要だよね」とかつていったリョウ先輩の言葉が、タイムリミットを意識したナオの心のなかに滞留している。また「いじわるな継母」としての素直の立場がここでは逆転し、むしろナオの存在こそが素直の心を傷つけてしまう。

 

・翌日。十二月十五日の水曜日

  あれ、コロナ後であることを前提とするなら、作中年代って2027年?

 と、思い、アニメのほうの表現も確認してみる。

(3話に登場する)夏祭りのポスターに表記されている日程が、9月10・11・12日とあり、11日は青、12日は赤。この色付きを慣習的表記として土日とするなら、2027年で確定(2021年の可能性もあるが、いまアニメ化がされている作品で積極的に過去にはしなさそう、というかしないだろう)。*2

おそらく細かい年月日などは続刊が決定してから決まったのではないか。

・レプリカの統合について、佐藤の説

「で、最後に認識ね。オリジナルとレプリカでは、性格も経験した出来事も異なるから、物事の考え方や捉え方も違っていた。でも融合した場合、もしかすると……」

 バンプオブチキンが流れるかと思った。

 

・写真販売

 今週から、空き教室を使って修学旅行の写真サンプルが張り出されている。

(…)

 注文用紙は、二日前のホームルームで配られた。提出期限は今週いっぱい。各自で希望する写真や枚数を記入し、注文する仕組みになっている。

 この肖像権破壊されまくりのご時世に……写真販売……!? 平成すぎる……。

「ここだけの話だけど、昨日の時点で二年の男子四割がこの写真を注文してるの。そのうち半数が複数枚。先輩や後輩から頼まれた連中も多いんでしょうね」

 いわんこっちゃないし、愛川素直さんのモテ度ヤバすぎる。

 どう考えても、百パーカスみたいな転売されるに決まっている。『負けイン』では女子の隠し撮りだったかが裏取引されててそれも平成すぎるとは思ったが……いやもちろんこういうのがラブコメのモチーフではあるのはわかるが(視線の強調)……いやしかし……よくないって……いやでも……。

 

・クリスマス・浜名湖パルパル

pal2.co.jp

「浜松駅と静岡駅って……わりと似てる?」

(…)

「シマキンチャクフグとノコギリハギくらい似てる」

 時間の積み重ねが、レプリカのふたりにも存在することの、なにげない確認。

 

・望月先輩の進路(教育学部)

 座っている挿絵(p.126)。ライトノベルの単体キャラの挿絵にしては、ちょっとだけ中央からずれて描かれている望月先輩。raemz先生の手際。読者にその横をいやおうなく意識させる。さりげないけれど、上手いやりかただ……。

 

・コスプレについて

 りっちゃんが確認してくれたところによると、園内でのコスプレは個人的な利用であれば問題ないという。撮影するときは、他のお客さんの邪魔にならないよう注意してほしいとのこと。

 いまどき優しい施設だ……とおもったらコスプレイベンドなどもやっているらしい。いちおうこっちは有料イベントのようなので、もしオタク(二人称)が原作再現を考えているなら事前にお問い合わせをしておいたほうが無難でしょう。

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・雪、風花

「風花」ということばが自然と出てくるあたりに文芸部しぐさがある。佳いね。

 

 ・観覧車、ナオの結論

「アキくん、素直はね、いつも……苦しそうなの。何度も、何度も、私に確認するんだよ。今の言葉は間違っていないかって。冷たい態度じゃなかったかって。私、あんなの、見てられないよ」

 途切れ途切れになりながら、声を振り絞る。

「あれじゃあ、素直がずっと苦しいよ。素直がぼろぼろに壊れちゃうよ」

 現在の素直は、自己の決定権をレプリカのナオに求めてしまっている。ということは、ナオがそばにいる以上、素直はどこまでもナオの輪郭を追い続けることになる。

 

・宮沢賢治「やまなし」

 クラムボンみたいにかぷかぷ笑えなくても、それでも。

 泡のイメージ。死のイメージ。

「やまなし」は「五月」と「十二月」の章からなる。レプリコ作中で「五月」は真田のオリジナルが怪我をした時期。前者はともかく、ナオにとっては「やまなし」が十二月で終わる小説であるところに、おそらくつよい意識があるのだと思われる。

 私の幻燈はこれでおしまいであります。

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・レプリカの国、リョウ先輩。

「簡単に説明するとね、ここは、役目を終えたレプリカが集まってできた国なの」

 た、高橋源一郎「峠の我が家」じゃん!!!!!

「お友だち」は、ひとりの子どもが産みだす、たったひとりの、彼(彼女)だけの友人なのです。

「めびある」は(「めびある」でなくなってもかまいません。「お友だち」は、みんなちがった名前を持っているのですから)、いつも、あなたのそばにいます。でも、誰にも見えない。あなたが泣いていると、そっと近づいてきて、おもしろい冗談をあなたの耳にそっと呟いてくれます。あなたが眠れないときには、あなたと一緒に寝て、今日、保育園であったことを聞いてくれる。「お友だち」は、あなたの話を聞いてくれるし、あなたに話してもくれるのです。いつだって、あなたひとりのために。

 思い出しましたか?

「あなた」にも、「お友だち」がいたはずです。もう、名前はすっかり忘れてしまったかもしれません。なにしろ、ずいぶん昔のことだから。

「お友だち」は、彼を産みだしたものが、忘れてしまった時、もう必要としなくなった時、「ハウス」にやってきます。(…) 

 いや、レプリカの国の描写はいろんなものからインスパイアされてできたものだろうけれど(学校での第二の生ってほら、エ◯ジェル・◯ーツ的なものを彷彿とさせるし…)、とはいえ平成キッズの榛名丼せんせいならぜんぜん読んでてもおかしくない作品だとおれは思うぜ(超推理)。

 

・サン・テグジュペリ『星の王子さま』

 本作のテーマとして引用される作品のひとつ。

 さきほどの大久保ゆうによれば、星の王子さまの原題には定冠詞がつくが、作中では「定冠詞のときもあれば、不定冠詞になることもあり、また無冠詞にもな」るという。

 この "petit prince" に定冠詞がつくだけの関係が、操縦士と少年の間にあります。少年が星にいたから、操縦士にとって大事になったわけではありません。6年前、あるひとりの小さな王子が操縦士の前に現れ、その少年と操縦士はしばらく時をともに過ごします。つまり、操縦士は少年のために時間をなくすのです。そして、ふたりは絆を作ります。だからこそ、6年後の操縦士は、その少年に定冠詞を付けることができますし、付けなければなりません。

 わたし個人が思い出すのは、須賀敦子がまだ翻訳もなかった1949年に、大学での授業でこの小説をならったときのことをつづった「星と地球のあいだで」というエッセイだ。「飼いならす」や「なつかせる」と訳されることが多く、時間とともにつくられていく絆であり、他者をほかでもない「たったひとりの」相手に変える魔法のことば*3

 アプリヴォワゼ、という動詞が出てきたのは、そんな朗読も終りに近いあたりだった。砂漠の中に不時着した飛行士が星の王子さまから聞いたキツネとなかよくなる話だ。ぼくは、まだ、きみにアプリヴォワゼされてないから、とキツネがいう。ぼくときみのあいだには、なんの関係もない。きみとぼくのあいだに関係をつくるとする、それがアプリヴォワゼさ。

 ジグザグのように歩いてきたながい人生の道で、あのとき信州にもっていったサンテグジュペリの本のうち、『戦う操縦士』だけが、どんなめぐりあわせだろう、傍線・付箋だらけになってはいるが、まだ私の手元にある。黄ばんだ紙切れがはさまった一二七ページには、あのときの友人たちに捧げたいようなサンテックスの文章に、青えんぴつの鈎カッコがついている。

「人間は絆の塊りだ。人間には絆ばかりが重要なのだ」

 レプリカの国にやってきたナオにとって、ほんとうにとくべつな絆を持つと呼べる相手は、おなじ国には存在していない。さながら砂漠にあらわれた王子さまのように。彼にとってのとげとげしいバラは、おそらくナオにとっての素直に見える。

 だからこそ帰ろうとする。

 こうしてすぐに彼女は猜疑心と虚栄で彼を悩ませるようになった。たとえばある日、彼女は自分の4本のトゲのことを話しながら、王子さまに言った――

「鋭い爪のトラが来ても大丈夫よ!」

 きみは、きみのバラに責任がある……

「わかるだろ……ぼくの花……ぼくは責任があるんだ! あの子はとっても弱いから! とっても世間知らずだし。世界に立ち向かうのに役立たずの4本のトゲしか持っていないんだから……」

  おれはなっちゃん派なので。なっちゃん訳を引用しておく。

 

・ナオが消えたほんとうの理由について

「立つ鳥跡を濁さず、なんて無理な話だよ。(…)ねぇ、ナオちゃんは……どうしてあんなふうに、みんなの前から消えちゃったの?」

 リョウ先輩が消えても、彼女の絵は消えなかったように。その問いに答えるナオ。

「みんなに私のことを、……忘れてほしくなかったから」

 消えること。サンテグジュペリの物語がいまもなおわたしたちの記憶に深く刻まれ、くり返し語られつづけているのは、すくなからず彼がひとり消えて、二度と帰らなかったという逸話を通して物語を読まざるをえない影響もあるはずだ。

 先のエッセイで、須賀敦子はこう書いている。

 サンテグジュペリが、ドイツ軍に占領されたフランスの解放をねがって、北アフリカで軍事行動に参加中、一九四四年、偵察飛行に出たまま行方不明になったという話は私の意識を刺しつづけた。自分は中学生だったとはいえ、戦争中なにも考えることなく軍事政権のいうなりになっていたことが口惜しく、彼のような生き方への憧憬は年齢とともに私のなかでつよくなった。(…)

 現在では、サンテグジュペリは作戦中に撃墜されたことが報じられている(具体的な経緯、すくなくとも彼がどこまで自分の意志で行動していたかはわからない)。ただ、彼が撃墜され、亡くなって消えたのは、海のなかということは言える。

 ここにナオが自分が海に消えていくイメージを投影し、一定の共感を寄せていなかったかといえば、嘘になるのではないか。あるいはそれは、彼女自身が『帰ってきた人魚姫』のように、憶えられるもの「物語」になってしまうことを求めていたのではないか、という邪推にもつながるだろう。

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 「じゃあさ、いつかまた、どこかで会おう」

(…)

「わたしさ。遠くないうちに生まれ変わって、ナオちゃんに会いに行くよ」

 こういう、未来を先取りするやつ好きすぎる。

 

 ・一年後の卒業式

「これからはナオとも、他の誰とも、共有なんてしたくない。分かち合ったりしたくない。この記憶も、温もりも、恥ずかしいのも、二人だけのものだから」

  物語の結論を、ここでも先取りする。ナオに認められることでは、素直は前に進めない。であれば、素直はだれでもない愛川素直ひとりとして生きていく必要がある。ナオ自身が見つめていた素直自身の苦しさを、素直も見つめていくことができるだけの心を持てるようになっている。だからこそ別れる。

 靴は履かなかった。どの靴も私のものじゃない。これから先、借りることもない。

  ナオが生まれた日、裸足で出ていったのは、りっちゃんに向かったときとおなじ行動だったことがのちに語られる。けれども、それは似ているようで、似ていない。彼女はレプリカとして生きないからこそ、靴を履かないことをみずから選ぶ。

 このあいだ、おれはずっと泣いています。

 というか、三巻の途中からずっと泣いています。

 

 

 総評。こんなん泣くしかないだろ。

 3巻から設定考察役としても活躍している佐藤によれば、イマジナリーフレンドや解離性同一性障害といった言葉も出てきたが、レプリカの設定としては正しくあてはまらずとも、いくつかの描写を統合すれば、この小説が目指しているナオという立場はもう「物語」だろとしかいいようがなくなってくる。

 存在せず、しかしわたしたちに親しくあり、そしていつか離れていくもの。けれどほんとうの意味では離れがたいもの。

 そういう点でも、本作は『青ブタ』フォロワーの顔をしていると思う。

 だれにでも、ありふれた不思議。

 作者が大学で日本文学を学んでいたこともおおいにあるだろうが、作中で引用される物語の多くは中学高校の国語教科書に登場する作家のものばかりだ。これはもう、作者のほうが読者に向けて、必要になったときに手を伸ばして、開いてほしい、というメッセージと受け止めていいだろう。そういう意味でも、この小説じたいがわたしたちにとっての「レプリカ」であると思ってしまっていいんじゃないだろうか。

 まだ本編あと一冊ありますけど、わたしはそう受け止めながら読んでいる。

 

  にしても素晴らしいのは、構成の妙によって、ナオから素直への主人公のバトンタッチをきれいになしとげてみせているところだろう。1巻の段階では輪郭もおぼろげだった、不機嫌で、世界をつまんなそうに見ている女の子が、ナオという「物語」の視線を通じて、どうにか生きた人間として歩みだそうとしていく構図。

 つまり「物語」のほうが、彼女を「現実」へと送り出していく構図がいつのまにかできている。それはむろん、わたしたち読者の似姿にもなるはずだ。


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 ところで前回は貼りませんでしたけど、ほんとうはこんなやるせなさに覆われた声音で喋りかけるんですよ、愛川素直さんは。そんな不器用な生き方をしている子だって知ったら、そりゃ好きになるしかないと思うんですよ(机をつよくたたきながら)。

 

 

 というわけで、なんかものすごく長くなりましたが、ラスト次回につづきます!!! 

 よろしくな!!!!!

saitonaname.hatenablog.com

 

 

エンディング:Negicco「Ghosts」


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 おまけ「アニメ4話予告」


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を、見ているおれの顔。

 アニメの予告編ボイスは榛名丼せんせいの書き下ろしで本編よりいくぶんみんなたのしい雰囲気だから、聴いておきな! オタク(一人称)との約束だぜ!

*1:学生時代、ここに失恋したばかりの先輩をねぎらうために同行したら途中で相手が号泣してしまい、最終的にべつの先輩にたすけてくれ~~と呼び出して三人で焼き肉を食って帰った思い出の地でもある。ありがとう、あのとき助けてくれた先輩……。

*2:これはのちの回で発覚するが、誤読。

*3:『STAR DRIVER 輝きのタクト』で知った人もおおい単語だろう。

『レプリカだって、恋をする。』を読んだりするメモ①

  タイトルのとおりです。

 だいぶ前に1巻だけを読み、前半の文章の質感はだいぶよかったいっぽう、後半のギミックやキャラクター処理の無骨さにびっくりしてしまい、違和感の小骨が残ったまま続きを読まなかったシリーズ。

 同作者の『義妹5人いる』はコメディ多めの家族からのラブコメ路線で、文体も異なり(語り手が男の子というのも大きいし、キャラクターのリアリティもかなり異なっている)、こちらは現在楽しくシリーズを追っている。

 レプリコ(そういう略称である)は、アニメーションが気になる座組(木村隆一監督、諸星すみれさん主演=『アイカツ!』じゃん)だったことや、直近で知り合いがみんなシリーズを読んで褒めまくっており、ほな、みんなで読書会するか……というモチベが再燃し、アニメを見つつ、1巻再読。

 結論:めちゃよかった……。

replico.jp

 というわけで、感想整理のための読書メモです。本編および短編集(1~6巻)のネタバレを含みますので、未読・未見の方はご注意ください。

 

 今回「①」は1~2巻まで。

 

 

1巻

・レプリカ(セカンド)は主の必要に応じて呼び出されるというルール説明。

・壊れかけの扇風機と真田が替えを持ってくる話。

・夕飯の残りによるお弁当のおかずレパートリー。

・踵が踏み潰され、駄目になったローファー。

 このあたりは、レプリカとしての道具性/機能性/代替性が強調されるモチーフ。日常の多くが意外と使い回されている。いっぽう、自転車といった欠けると困るものはちゃんと大事にされる(舞台となる静岡・用宗は海沿いの街のため、錆びないよう家に入れている、といった語りが入る)。

 では「私(ナオ/素直)」は?

 とくにローファーは後半で扱われる「痛み」の有無としても重要なモチーフのひとつ。踏み潰される側(道具)に対しておそらく意識ができていない素直。そしてそうした素直の一挙手一投足さえ見つめてしまえるナオの感受性の高さの対比。

 

・基本的に語りはレプリカのナオ視点で構成

 オリジナルである素直から「消えて」と言われると、意識は消えて、語りもそこで寸断される。彼女が呼び出されるたび、日常のあらゆるものに意味や喜びを見出していることがよく伝わっており、作品のトーンの明るさがつくられていくのがたいへんよい。

 私は文鎮代わりにとカエルの置物を、薄っぺらい紙の端っこに載せた。これで気がつかれないことはない。赤井先生は大のカエル好きで、机の上には旅行先で蒐集したカエルグッズがけろけろと転がっている。先生は職員室に戻ってくると、カエルたちが元気にしているか必ず一匹ずつ確認するのだ。けろけろ。

 こういう多くの生徒があまり気にしなさそうなところに向けられた語りがいい。

 

・アニメ版の追加要素

 ナオが消えたあとの素直が描かれるようになっている。構図は反復が多め。とくに素直とナオが同時にいるときの演技トーン(諸星すみれさんが二人一役を演じる)は各シーンごとにかなり調整されており、原作の文章だけでは見えにくかった素直側の感情がにじみ出るようになっており、これだけでもアニメを見る価値はある。

 

・おそらく短編集(6巻)のシナリオ執筆にあたって追加されたアニメのシーンとして、はじめてレプリカとして生まれたナオが裸足でりっちゃんに謝りに行く絵が追加されている。さりげないけれど、のちのちにも効いてくる。

 

・扇風機供養の台詞

「たくさん働いてくれて、ありがとうございました。私たちは大丈夫なので、どうか安心してお眠りください」

 だれかの困ったときに働かされ、大丈夫になったら、別れる。このあたりはドッペルゲンガーよりもゴーレム表象に近いかもしれない。

・アロイジア・ヤーン『帰ってきた人魚姫』

 童話モチーフをホラー味のあるドッペルゲンガー譚とミックス。異性と会い、最後は泡に消えること。また、人魚姫というか『リトル・マーメイド』はアースラとの契約によってほんらいの立場を成り代わろうとする物語モチーフでもある。この立場と見方の逆転は作品でもくり返される肝かも。

 世界中にあるドッペルゲンガー譚もまた「レプリカ」ではないか、という含み。もちろんこれは読者にも開かれている。よきジュブナイルしぐさ。

 

・50円玉を信金で両替

 おそらく静清信用金庫用宗駅前支店だろうか。メガバンクではなく信金というあたりに地方の持つ立地のパワーバランスらしさがあってよろしい。姉妹に命じられてせっせと働く構図は後述するが、シンデレラ。

 

・動物園デート。真田の脚

「真田くん」

 丸まっていた背中が身動ぐ。すぐに真田くんは姿勢を正したけれど、伸ばした手は右足首の付け根あたりに触れていたようだった。

「足、痛むの?」

「へーき」

 平坦な声色。不自然なほどに。

  痛みの描写。伏線として綺麗。ナオだけが知りえた情報になるため。

 

・『こころ』『銀河鉄道の夜』

 など、アキの読む物語には関係から押し出されるように亡くなる人間がいる。ナオのウェットな語りに対して、世界側はかなりドライだったりする。おとぎ話はだいたいドライっちゃドライだが、レプリカは生まれからして、自分の実存=最終的な死/犠牲に惹かれているという構図がある。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

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・神社のお祭りシーン(アニメ版)

を、見ているおれの顔。

 かき氷のシーン微笑ましくてええね。考えてみればシリーズを通してかなり詳細に描かれる味覚も感覚器官なわけで。

 「優しい手だもの。人を殴るための手じゃない」

 音を立てないように、そぅっと、ドアを開けるような人なのだ。

 差しだした手を傷つけないよう、こわごわと握ってくれるような人なのだ。その手に、痛ましいものをひとつも刻みたくない。

 呻くような、声がする。

「秋也のために、俺がいるんだ」

「違う。君は、私に会うために生まれてきたの」

 レプリカ=道具という構図の否定。

 こういうことをまっすぐ言えるキャラクターの美徳に泣いてしまう。あと身体の大きな運動部の男子ってどうしても日常動作でおおきな物音を立てがち(偏見)なので、ここでこういう言葉が出されることへのナオのまなざしもあってほんとうにいい。ナオは自分以外に意味を与えることができる存在として一貫して書かれている。

 

 ・例のシーン

 さすがにびっくりする。その後。レプリカのギミックによって服やローファー、道具だけが残り、駄目になる。レプリカは残らない。道具の代替、代替物でさえないもの。

 「ありがとうね、ずっとがんばってくれて」

 扇風機の台詞の反復。ナオが届けてほしかった言葉。道具としてではあっても。眠りは永眠ではなくて休息というねぎらいであり、人間としての扱いへの変化。

 

・海辺のシーン

「だって私、なんにもないんだよ」

 からからと、音がする胸を力任せに押さえる。

「名前だってただの借り物。保険証や、学生証や、家や、家族や、自転車だってそう。私はなんにも持ってないの。空っぽなんだよ」

「十九万八千七百五十円がある」

「違う。今は十九万三千四百三十円」

 電車賃に飲み物代、バス代、動物園のチケット代とか。

 二人で撮った写真の代金。カピバラ温泉のビーフシチュー。

 君の口の中で溶けたメロンのかき氷。半分このたこ焼き。かけがえのないたくさんのものが、ただでさえ軽くなった私の全財産を、もっと軽くしていった。

 ない、とないをつくる話。これはシリーズ全体に引き継がれていく部分。ナオは世界に対して感受性を持っているのはそういう性格として描かれている部分が大きいが、外部に意味を与えているのが彼女の行動や時間であることにまだ気づけていない。

 海が世界の表象として出てくる小説は、ええね(総評)。

 りっちゃんと遊ぼうとした堤防の話とかもそうだけど、生活していないと出てこないディティールがその土地に根ざしていることの佳さをおれは信じている。

広中律子さんは電撃大賞に応募しとる。お前はどうだ?

 

2巻

 文化祭だ~~~!!!(ドコドコ)

 文化祭準備期間のそわそわした空気に、なりたい。

 

・急に出てくる生徒会長と副会長のラブコメ枠。連れカノ生徒会編か?

「あっ、この髪は天然パーマだから、校則違反じゃないもりん。天パ仲間の生徒さんは、担任の先生に一言伝えてくれるとありがたいもりんよ」

 パーマ禁止て。さすがに平成初期で死滅したかと思ったのに……もしかして絶対不良都市・静岡ってこういう感じなんですか? ビーバップハイスクールのお膝元だし、初野晴と瀬名秀明の出身地イメージしかありませんが……。

 

・文化祭で部誌を百部売らないと廃部!?

「生徒会から文芸部に提案させてもらうのは、青陵祭での実績作り。青陵祭で、部誌を百冊販売してもらいたいの」

  百冊て。いま、伊原摩耶花さんが泣いています。おれのなかで。さすがに圧政ですよ、これは。食い物とちゃうねんで。20部とかでいいだろ。ぜんぜん物語にはなりませんが。

 

・素直とナオの会話

 素直がナオの体調面にかなり気を遣うようになっている。とくにアニメ版の声音の変化とか、すごい。こんな「消えて」を優しく表現できるんか。

 

・戦慄迷宮

  おれも行ったことあるよ! ナナシノゲエムのステージで再現されていて笑った。

ナナシ ノ ゲエム

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・「付き合ってないよ」

 レプリカっていう成り代わりの問題がある以上、そういう声を発せられないジレンマ。ラブコメが上手い。

 

・「新訳竹取物語」

「かぐや姫を森にくれ。僕は帝役だ」

「森と僕は幼なじみでな。幼稚園の頃、劇で白雪姫をやったんだ。森は白雪姫がやりたかったけど、人気のない意地悪な継母役をやらされた」

  人間関係縮図文化祭演劇メソッドを最初から隠そうとしないの、すごいぜ。求婚する帝、貴公子、そして拒否するかぐや姫の構図。

 羽衣伝説の小道具を再利用するのは、りっちゃんなり(作者なりの)のレプリカ=道具モチーフに対する物語的な優しさのあらわれでもあるのだろう。

 広中律子さんはほんとうにすごい人だよ。

 

・森先輩

「どんなお話にも、悪い奴って必要だよね。意地悪な継母がいなければ、白雪姫は森に迷い込んでこびとたちに出会わない。毒林檎がなければ、こびとたちとの平和な暮らしが続いて王子様だって通りかからない。これじゃあ、物語はいつまで経っても始まらない」

 独り言のようだったから、私は相槌を打つことも、否定することもできなかった。

「どうせならさ。かぐや姫じゃなくて、悪い奴の役をやりたかったな」

 かぐや姫の裏にある白雪姫という文化祭縮図演劇メソッドの倍がけ、と見せかけて、ヒロインと意地悪な継母という構図は、ナオと素直という1巻の関係にも重ねられているはずだ。ふたりの場合は人魚姫の下に隠されたシンデレラの構図だろう。家事にこきつかわれているのとか。電車に轢かれたローファーは、ガラスの靴。また、王子様の「キス」は当然、重要なモチーフになってくる。しかし完遂されない恋の話として。

 

・水族館(松坂屋)

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 高校生にも優しい入館料!ええね! アキくん、がんばれ!

 

・『るろ剣』『ヒカ碁』

 平成世代すぎる!!!!

「ひとりでいても、愛川さんはぜんぜん惨めじゃないよね」

 目についた本を取り出す佐藤さんの目は、羨ましいと語っている。

 他者からの認識をこういう言い方にできるくらいの、愛川素直さんについて無限に考えてしまうよ。

 

 ・太宰治『人間失格』

「このタイトルなんか、怖いよね。みんな、自分の悪口が書かれているか不安になって手を出すんじゃないかな」

「私は、読んだことないです」

(…)

「『人間失格』、私も怖いんです」

「どこが怖いの?」

「……こっちを笑いながら指してるような気がするから」

 ヒューマンロストというよりは、演技の話。2巻全体を貫くテーマ。

 もはや、自分の正体を完全に隠蔽し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣を着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
「ワザ。ワザ」

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 だれもが演技をしている。

「例えばさ、身代わりになったりはできる? 愛川素直さんが死ぬとき、レプリカのあなたが代わりに死ぬことはできる?」

 できない。『竹取物語』における「仏の御石の鉢」「蓬萊の玉の枝」、「火鼠の裘」、「龍の首の珠」、「燕の産んだ子安貝」にまつわるエピソードたち。模造品は本物ではない。

 

・1巻のおとしまえ

「早瀬先輩に、なにかされた?」

 した、じゃなく、された、とアキくんは言う。

 レプリカにできること。オリジナルの知らない情報を保有しつづけること。罪を背負うこと。ナオはここでアキと答えを分け合わないことを選択する。このナオの語りのなかに「エゴ」という彼女の語彙らしくないことばが出てくるのは、おそらく夏目漱石『こころ』の国語の授業で出てきやすい「エゴイズム」の問いを踏まえているのではないか。男性からのコミュニケーションの拒絶。ここでもナオはリョウ先輩と響き合う。

 

・お疲れ様会~

 1巻のグロテスクな構図の反転。レプリカにとって命とはなにか。最初からないもの。しかし残るものはあるか。これは3巻に引き継がれていく問いかけ。

 2巻で文化祭をするのは英断やね(総評)。

 お祭りムードで盛り上げつつ、感情の切り返しについてはものすごく冷酷に書けている。素直は今回ほとんどストーリーにかかわらないのに、ちゃんと存在感を与えているあたりにすでにキャラとしての貫禄が出ている。

 ほかにも登場キャラクターを自然とイベントで増やしつつ、けれど1巻よりギミックとキャラクターの配分が後者に傾いている印象がある。このあたりは作者が彼女たちひとりひとりにとっての人生を、サブキャラであっても小さい台詞ひとつでさらっと見せる瞬間を心がけているからだろうか。佐藤さんの図書室の会話はちょっとやりすぎなくらいよい。やっぱ少女小説の系譜たるもの、物語のなかで仲良くなる友達ポジはちゃんとほしいもんな。切実な話。

 リョウ先輩のあっさりとした退場も、レプリカがどういった望まれ方であったのか、という謎を生んで残すという点ですごい引きだ。また同時にレプリカと戸籍の問題をさりげなくやっていたりと、設定を社会のなかに位置づけるための手続きが増えている。さすがにここは手早くやりすぎてしまった感じがあるが、そのあたりも3巻以降でも改めて応答してくれるので、全体的に作者への誠意がにじみ出る小説になっている。

 ちょっとずつ、これ「物語」の話をしておるな、という感触が増えてきている。折り目正しくジュブナイルじゃん……。

 

 

第2回につづく!!!!!(はず!!!)

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エンディング:beachside talks「海辺の話」


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少女と少女のための職業:『名探偵プリキュア!』のディスクール

【※:本記事は『名探偵プリキュア!』第15話までの内容に一部ふれています。未見の方はご注意ください】

 

オープニング:石井あみ「ハートにヒント!名探偵プリキュア」


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1 あの人はわたしにとっての善であり、知識である。わたしひとりがあの人のことを識っている。あの人をその真実の姿で存在せしめている。わたし以外のものは、誰もみな、あの人の本当の姿を識らないのだ。

   ――ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「真実」三好郁朗・訳

「さようなら」とキツネは言った。「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだ――ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」

「肝心なことは目では見えない」と王子さまは忘れないために繰り返した。

(…)

「人間たちはこういう真理を忘れてる」とキツネは言った。「でもきみは忘れちゃいけない。飼いならしたものには、いつだって、きみは責任がある。きみは、きみのバラに責任がある……」

  ――サンテグジュペリ『星の王子さま』池澤夏樹・訳

 

依頼という約束

 推理の物語は、犯人と探偵、被害者だけでは成立しないことをわたしたちは忘れている。ほんとうは、そこには必ず、助けを求める依頼人がいるからだ。探偵事務所のもとにはしばしば手紙や、電話や、依頼主や、そして犯人自身が訪れ、ささやかな謎の、あるいは事件の予兆を与えてみせる。

 依頼とは、正しく社会に届けることのできない(ごく私的な)、悲痛な声の叫びでもある。ときには声にならない声でもある。探偵はただたんに依頼人の声を聞き届けるだけでなく、その奥にひそむものを受け取ろうとする。ときにその声の主は息を引き取っている場合もある。物語の糸はどこまでも錯綜し、もはや当該の人物にとって、追う価値や意味さえも失ってしまっていることもある。

 それでも探偵は事件を追う。

 どうして探偵は事件を追うのか。

 それははじめに依頼があったからだ。依頼とは未来に向けた約束ごとである。たとえ金銭や名誉といった、その他の効力、報酬を失ったとしても、それはちいさな矜持とともに続ける価値があると信じられるものである。それを担保するものこそが依頼であり、探偵は約束を履行しようとする。

 オースン・スコットカード『エンダーのゲーム』において主人公がとある死者の声を聞き届けてから、ある種の探偵行為を宇宙的な規模に広げ、そして神なき宗教として描くようになった後世の世界が描かれるSFミステリ『死者の代弁者』はまさしく依頼を哀しみの声の発露として、長大な時間の流れを賭してもなお必要なものとして描いている。

 そんな暗い意志による絶望のなかで、頭に浮かんだのが『窩巣(ハイヴ)女王および覇者(ヘゲモン)』を、そしてそれを書いた死者の代弁者だった。著者である初代の代弁者は、何千年もまえに墓にはいっているはずだ。しかし他の代弁者たちがあちこちの惑星に渡っている。そして神の存在は認めないが、人間が生きることの価値は信じる人々の司祭として活動している。代弁者の仕事は、人々の行ないに隠された真の動機をみつけて、死後にその人生の真実をあきらかにすることだ。

(…)

 どこの代弁者も来たがらないかもしれない。ノビーニャの生存中に到着できる範囲に代弁者がいないかもしれない。しかし可能性はある。近くに代弁者がいて、依頼に応じてくれるかもしれない。いつか――二十年後か、三十年後か、四十年後か――宇宙港に代弁者が降り立ち、ピポの生と死の真実を解き明かしてくれるかもしれない。代弁者が真実をみつけて、ノビーニャの好きな『窩巣女王および覇者』のように明瞭な言葉でそれを語ってくれるかもしれない。そうしたら、この心を焼く罪から解放されるのではないか。

 ノビーニャは依頼をコンピュータに入力した。やがてアンシブル通信を通じて近隣の惑星にいる代弁者に通知されるはずだ。来てくださいと、会ったこともない代弁者に声もなく願った。この罪の真相が暴露されることになってもいい。それでも、来てください。

『名探偵プリキュア!』において、「依頼」がはじめて大きな意味を持つようになるのは第3話「みんなおいでよ!キュアット探偵事務所」である。

 このおはなしの終盤において、1999年にタイムスリップしてしまった主人公・明智あんなを助けつつ、探偵事務所を立ち上げたもうひとりの主人公・小林みくるは「はじめての依頼はどんな事件かなあ?」とつぶやくあんなにこう伝える。

「わたし、決めてるの。はじめての依頼人」

「あっ、あたし!?」

「ええ、あんな。あなたを元の時代に帰すって」

(…)

「わたしに依頼してよあんな!」

「みくる……わたしを元の時代に帰して!」

「うん。その依頼、引き受けた!」

 探偵にとって依頼とは、約束であり、指針であり、未来そのものである。

『名探偵プリキュア!』においてそれは、「困っている人を助けたい」というシンプルでありながら、つよい願いとして描かれる。そして本作における主人公ふたりの絆は、この「依頼」という約束ごとからはじまっている。

 思いがかたちになる瞬間、それこそが依頼である。どんな苦難があろうとも、それを叶えようとする姿こそが探偵自身をかたちづくる。

 いまなお人気の根強いハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウの生みの親であるレイモンド・チャンドラーは、こうした探偵のありさまを「この卑しい街を、彼自身は卑しくもなければ、汚れても臆してもいない一人の男が歩まねばならない」(小鷹信光・訳)と定義づけている。

「卑しい街(ミーン・ストリート)」は「陋巷」とも訳されている。探偵とは、コンクリートでできたジャングルを歩もうとするターザンである。ここでいうターザンというのは、ひとつの皮肉であり、時代錯誤的な人間の在り方でもある。

 だれもが汚くいることでしか生きれない世界≒現代の社会において、ただただ高潔でいるということは、それだけでまともな人物としては見られないことを意味している。であればそれは、どこか遅れた人物でしかありえない。しかしだからこそ、彼を彼たらしめているものがあるとすれば、それはだれにも汚されることのない、たしかな矜持であるといってよい。

彼はヒーローであり、なににでもなれる男である。充足完結した男でなくてはいけない。どこにでもいる男、それでいて非凡な男でなくてはいけない。月並みないいかたをするなら、矜持を忘れぬ男(…)

 ――レイモンド・チャンドラー「むだのない殺しの美学」村上博基・訳

 また、チャンドラーの小説作法を意識的に継承した作家、ロス・マクドナルドは、そのヒーロー像(リュー・アーチャー)を、わざとそこからずらして語っている。

 アーチャーは、ときにはアンチ・ヒーローにさえなりかかる主人公(ヒーロー)である。行動的な人間であるが、彼の行動は主として他者の人生を寄せあつめ、その意味を発見することに向けられている。(…)

  ――ロス・マクドナルド「主人公としての探偵と作家」小鷹信光・訳

 チャンドラー/マーロウはその矜持のつよさや精神のタフさゆえに他者への幻滅を物語として内面化し、(ひときわホモソーシャルな)感傷のカタルシスを描いてみせた。しかしロス・マクドナルド/アーチャーは、他者の感情を、人生を、矜持を、しずかに媒介させる存在として探偵を描こうとこころみている。

 こんにち、わたしたちが「探偵」という存在に、時代錯誤でしかありえないその職業の名前にひとつの小さな救いを求めるとするのであれば、他者の人生に触れ合うことのできる「温厚な観察者」(小鷹信光)といったすがたであろう。ただしそれは、ときにだれにも理解されない仕事になる。

 たとえば、杉井光『神様のメモ帳』において、ニート探偵を自称するアリスは語り手の藤島鳴海にむかって、次のように述べている。

「ふん。真の探偵は俗人には理解されない仕事だからね。その本質は、死者の代弁者だ。失われてしまった言葉を墓の底から掘り返して、死者の名誉を守るためだけに生者を傷つけ、生者に慰めを与えるためだけに死者を辱める。理解も歓迎もされるはずのない仕事だよ。(…)」

 だれかの矜持を守るということは、ときにエゴイスティックな行為としてあらわれてしまう。そしてその最たるものが「依頼」というかたちであらわれる。なぜなら「依頼」とは、その行為の責任を、互いに引き受けようとする儀式でもあるからだ。

 アリスはその契約の意味を知っているがゆえに、作中で「死者の代弁者」の言葉をくり返し強調し、ナルミにその選択がもたらす重みを伝えている。

 つまり、知ることは死ぬことである、と。

「……前にぼくが言ったことを憶えているかい。探偵の本質は死者の代弁者だと。墓を暴いて失われた言葉を引きずり出し、死者の名誉を守るためだけに生者を傷つけ、生者に慰めを与えるためだけに死者を辱める、と」

「憶えてるよ」

 アリスはまぶたを開いた。

「では今一度訊こう、ぼくの手は、彩夏が隠しておきたかった真実さえ暴き立て、無知によって保たれたはずのきみの平穏を破壊する可能性がある。それでも知りたいかい?」

「知りたい」という欲求は、そして謎を解くという探偵行為は、いわば墓荒らしのそれでもある。では自身の手を汚してもなお、だれかを汚さないでいようとする滑稽なすがたは、ヒーローといえるのか。果たしてそれは、名探偵として定義できるだろうか。

 改めて述べよう。

『名探偵プリキュア!』の主人公ふたりの絆は、関係は、なによりもその「依頼」というおこないによって明示化されている。

 

探偵という制度装置

 じつのところ、探偵、あるいは「名探偵」と呼ばれるそれは、ニート探偵アリスが(なかば)自虐的に述べていたように、本質的には正義の代行者とはいいがたい。

 そもそも現在の探偵の始祖といわれているエドガー・アラン・ポーの描いた名探偵デュパンは知的ディレッタントとでも呼ぶべき存在であり、その能力をふるうことに喜ぶような利己的な存在である。彼の推理は、社会的正義といったものよりも私的な欲求を優先している。探偵のプロトタイプとは、こんにちわたしたちがヒーローと呼ぶものとは遠く、あまりに子供じみた心を持っていることが語られている。

 そんなときには、デュパンの豊かな想像力の背後に必然的に控えている特異な分析力を認め称賛せざるをえなかった。彼もまた、分析力を駆使するのを――誇示するわけでなくとも――ひどく楽しんでいるようで、それがいかなる快楽をもたらすかを語ってやまない。(…)

  ーーポー「モルグ街の殺人」巽孝之・訳

 また、デュパンものの最高傑作と呼ばれている「盗まれた手紙」の終盤において、彼はさる貴婦人の手紙を取り戻す行為が、じつのところ犯人であるD―大臣に対する復讐をかねたものであることをあっさりと明かしている。

「ふふふ――手紙の中身をからっぽにしておくには忍びなかったなんだよ――あいつを侮辱することになるじゃないか。D―という男はね、いちどウィーンでぼくにひどい仕打ちをしたことがあるんだ。もちろんこのことをぼくは奴にあっけらかんと話したよ、絶対忘れやしないってね。(…)」

  ――ポー「盗まれた手紙」巽孝之・訳

 つまり、かれが名探偵という立場でいられているのは、たんにはその行為がたまたま社会的な求めに応じた結果になっているからにすぎない。

 オーギュスト・デュパンのイニシャルであるDとは、「盗まれた手紙」の犯人であるD―大臣とおなじ文字、Dである。ここで探偵と犯人は、同様の知性をもつ鏡像関係として映し出されている。ポーの提出した推理とは「人を読む」という営みであり、つまりそれは他者とおなじ思考を抱くことのできる能力、と言い換えることができる。

 そしてこのような点は、ポーのスタイルを発展させた後続の作家、アーサー・コナン・ドイルの名探偵シャーロック・ホームズもおなじである。『緋色の研究』においてホームズは自分の能力に自信を持っており、それが発揮できうる状況を、功名をたてることを望んでいるのであって、社会秩序といったものからはいささか遠いところに動機を抱いている。また彼はときに、事件解決のためであれば、違法行為もためらいなくできてしまうような人物として書かれることもある。

 つまり探偵とは、ほんのすこし在り方が違っていれば、犯罪者になりうる場所にいる。

「きょうび、まともな犯罪や犯罪者には、めっきりお目にかかれなくなった」と、後ろでホームズが不満げに言った。「せっかくぼくほどの頭脳をそなえていながら、職業のうえでは、それがなんの役にも立っていない。ぼくはこの仕事で斯界に名をとどろかせるだけのものを持ってる。そう自負してもいる。犯罪をあばくという点で、このぼくほどに研究熱心、かつ天性の才能をそれに傾注しているものはいないし、いままでもなかったはずだ。なのに、結果はどうだろう。あばくべき犯罪そのものが起こらない。いや、ぜいぜいよく言っても、起きるのはロンドン警視庁(スコットランドヤード)のぼんくら刑事どもだって用が足りるという、その程度のものばかりだ」(太字は傍点)

  ――アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』深町眞理子・訳

 こうした探偵が本質的に持っている仄暗いあやうさは、むろん過去描かれてきた日本の探偵小説にも受け継がれているところがある。

 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」は、のちに名探偵として知られることになる明智小五郎(明智あんなの名前の元ネタである)の初登場作として認知されているが、そこでは次のような、いかにも犯罪事件をたのしむ正体不明の人物として語られている。

「そうですね。家の中に別状ないとしても、外で何かあったのかも知れませんからね」
 私はこれが犯罪事件ででもあって呉れれば面白いと思いながらカフェを出た。明智とても同じ思いに違いなかった。彼も少からず興奮しているのだ。

 私は、かくも風変りな部屋の主である明智小五郎の為人ひととなりについて、ここで一応説明して置かねばなるまい。併し彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人世を送っているのか、という様なことは一切分らぬけれど、彼が、これという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。いて云えば書生であろうか、だが、書生にしては余程風変りな書生だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」といったことがあるが、其時私には、それが何を意味するのかよく分らなかった。唯、分っているのは、彼が犯罪や探偵について、並々ならぬ興味と、恐るべく豊富な知識を持っていることだ。

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 しかし佳多山大地「明智小五郎の黄昏」によれば、こうした初登場時の明智小五郎には違和感が残るとされている。近代的な物的捜査に対するアンチテーゼ、すなわち心理的な推理をみせたのにもかかわらず、彼はその真相を最後、届けられた新聞という「マス・メディア」に、制度そのものに答えをゆだねてしまうからだ。

 また「D坂」から十一年後、「少年もの」として発表された『怪人二十面相』のころになると、明智のすがたはどこかパロディーのように変わってしまっているという。

(…)だがしかし、読後にまず感じられるのは、明智小五郎という存在の耐えられない軽さである。もちろん、これ は明智の活躍が物足りないという意味ではない。それどころか明智はスーパー・ヒーローとして八面六臂に描かれる。けれどもそこには、初期短篇で垣間見られる生き生きとした存在感は失われているのだ。すでに明智 は 「ある重大な事件のために、外国へ出張」までするほどの「日本一の名探偵」であり、祭り上げられた偶像 としてのみ機能している。犯人と見誤われるほどの胡散臭さ(「D坂」)も、容疑者を罠にはめてジワリジワリと反応を楽しむシニカルさ(「心理試験」「屋根裏の散歩者」)も喪失してしまっている。(…)

(…)もはや、人間・明智小五郎は存在しない。在るのはただ様々な正のシニフィエを過度に背負込まされ、象徴としてのみ浮遊する〈名探偵・明智小五郎〉なのである――。

 佳多山はこうした探偵像の、如実な、しかし見えない変化を「誰が明智小五郎を殺したか?」と読者に向かって問いかける。明智小五郎は、この十年あまりのあいだに「明智先生」という別人にすり替えられてしまった。具体的には、『怪人二十面相』のラストシーンを引くことによってそのように看破してみせる。

 立ちならぶ警官たちも、この美しい光景にうたれて、にこやかに、しかし、しんみりした気持で、ふたりのようすをながめていました。少年探偵団の十人の小学生は、もうがまんができませんでした。だれが音頭おんどをとるともなく、せずしてみんなの両手が、高く空にあがりました。そして一同、かわいらしい声をそろえて、くりかえしくりかえしさけぶのでした。
「明智先生、ばんざーい。」
「小林団長、ばんざーい。」

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「D坂」の発表が1925年の「治安維持法」と同時期であり、近代日本の戦争国家への歩みとともに発表された『怪人二十面相』は「二・二六事件」の起きた年である。こうした時代の流れのなかで乱歩の探偵小説を見たとき、佳多山は、次のように述べる。

(…)明智は〈近代化〉する日本の思考類型にからめとられてしまったのだ。明智を殺したのは近代ナショナリズムであり、それを盲目的に支持した民衆にほかならない。

 このラストの「ばんざーい」がナショナリズム的なことばであるという佳多山の指摘はクリティカルである。当初、探偵は社会の側ではなく、ごく私的なディレッタントであったはずだ。「僕は人間を研究しているんですよ」という台詞はそのあらわれのはずだった。

 にもかかわらず、いつのまにか、彼は「名探偵」という記号に、象徴に、権力、秩序維持の代替物に変えられてしまった。彼の推理は、だからこそどこまでも「英雄的」なのである。彼は、かっこつきの「正義」の代行者になってしまっている。

 であれば、わたしたちはむしろ、ここにあやうさを見なければならない。

 

推理という虚構/物語

 巽昌章「名探偵の正体」という論考は、探偵のおこなう推理が抽象化の論理、いいかえればおおげさな語り(レトリック)に基づくある種のフィクショナルな価値転倒の架構であることを指摘している。

 名探偵の解決は、いかにも自信ありげで説得力に富んでいる。しかし、名探偵は同時に、自分の発散する「おかしなことをいいながらいつも事件を解決してしまう」うさんくささ、得体の知れなさによって、その解決を多かれ少なかれ宙吊りにし、読者が一定の距離を置くことを可能にする。つまり「推理小説には必ず解決がある」という一見当たり前の原則に、あたらめて目を向けさせるのだ。

 どういうことか。

 巽昌章の論においては、推理小説において、真実というもののすがたが、A=Aという変更しがたいスタティックな様相ではなく、むしろ探偵の言ったこと、なにか魔術的なことばによって論証してしまったこと、言いくるめてしまったことが逆説的に「真実としての価値を持ってしまう」歪さこそがあるのだと強調している。

 名探偵の提示する推理には、多かれ少なかれペテンのようなところがあるのに、結末ではなぜかそれが正解になってしまう。いわば小説が名探偵を支持し、名探偵の述べる奇抜な論理がその小説世界の「法則」であったことが確認されるのだ。(…) 

 このような異様な言葉、ペテンの使い手こそが名探偵でもあるのだということ。言葉(word)があやしげな力を持つ呪文(spell)に転じること。

 迂回するように話を進めてきたが、ここで『名探偵プリキュア!』に話を戻そう。

 ここからさらに詳しく考えていきたいのは、本作に登場する第三のプリキュア、怪盗団ファントムという敵対する陣営になぜか物語開始時点から所属しているキュアアルカナ・シャドウ(=森亜るるか)についてである。

 彼女のすがたが、いかにも90年代的な魔法少女デザイン(念頭に置かれているのはむろん『カードキャプターさくら』であろう)でありつつ、大きな杖(ロッド)をたずさえた魔法使いのイメージに重ねられているのは、結果的かもしれないが、そうしたスペル、レトリック、ロジック、マジックといったものの呪術的イメージの近似性を増幅させている。また、彼女のおとも妖精マシュタンは「占いの妖精」でもある。

 言ってしまえば、森亜るるか=キュアアルカナ・シャドウは、こうした「名探偵」の制度性、記号性、象徴性について過剰なまでに自覚的な存在である。

 第4話「ドキドキ!初めての依頼!」では、あんなとみくるが、証拠や証言を集めることでようやくたどり着いた答えに、最初から別ルートで気づいていたことを森亜るるかは語ってみせる。じっさいは、るるか注目し、あんなとみくるが注目しなかった「パン」は傍証のひとつにすぎないのだが、真相が明かされたとき、逆説的に森亜るるかの推理が「より正しかった」ことが視聴者に向けて演出される。

 あんなとみくる、るるかが実質的な対峙をはじめておこなう回、第11話「キュアアルカナ・シャドウ、現る」では、こうしたるるかの自覚的なふるまいは、より強固な力を持つに至っていることが示される。るるかは怪盗団ファントムとして美術館から「星明かりのプリンセス」という首飾りを盗み出すことを予告するが、彼女がおこなってみせたのは、そうした演出のうえで「美術館の展示品がすべてニセモノだった」と公表することであり、それによって世間は動かざるをえなくなってしまう。

 ただ、むしろここで重要なのは、キュアアルカナ・シャドウの「ニセモノだった」という告発に関して、具体的な証拠や手続きはとくに描かれていないことである。彼女のブラフによって館長はいとも簡単に自白をしてしまう。よって、るるかがおこなってみせたのは、推理というよりも、「推理という権力をふるう行為」、つまりかっこつきの「名探偵」=制度装置であること、それじたいなのだ。

 つづく第12話「キュアアルカナ・シャドウの秘密」 では、るるかのこうした推理の舞台裏を明かすようなエピソードが開陳される。『名探偵プリキュア!』では毎話、「マコトジュエル」というモノに宿る人の気持ち(が結晶化したもの)をめぐって怪盗団とのバトルが繰り広げられるのだが、前話であきらかになったのは、「ニセモノ」であっても人々の気持ちがほんものであれば、「マコトジュエル」は宿るというものだった。

 第12話で「マコトジュエル」が宿ろうとしているのはとある女性が身につけていた「ミサンガ」であったが、ミサンガが切れてしまえば、そこに込められた気持ちは消えてしまい、同時に「マコトジュエル」も消えてしまう。

 こうした矛盾した状況に対し、るるかは「ミサンガはずっとあなたの気持ちに寄り添ってくれていた」と持ち主に伝えることで、切れたあとも気持ちを、「マコトジュエル」を残すことを成功させる。だから、るるかが伝えてみせたのは、真/偽といった二項対立で消失するものではないもの、「物語」という別軸の価値である。

 つまりここで彼女は、自分の、名探偵としての推理がただたんに「真相を述べること」ではないのだと自覚していることになる。

 また巽昌章はこうした一種のレトリカルな探偵のふるまいを前述した「名探偵の正体」のなかで、次のように総括している。

 このように、名探偵という視点は事件を抽象化する。その視点に読者が身を寄せるとき、事件は一瞬透明になったかのように思われるのだ。しかも、名探偵システムにおいては、読者は常に名探偵の口から真相を聞く。事件の再話=要約という推理小説そのもの特質が、ここで典型的に発揮され、要約による事件の抽象化、あるいは一貫した意味付けが最も能率的に行われるということになる。

 しかし、じつのところ、この森亜るるかの名探偵的なふるまい(=意味付け)は、なにも彼女だけがおこなってきたものではないことを、わたしたち視聴者は知っている。

 第10話「絵の謎を解き明かせ!」では、生前風景画しか手掛けなかった母親はなぜ一枚の自画像を残していたのか? という〈日常の謎〉にあんなとみくるは挑むことになるが、ふたりが解いてみせたのは、絵に隠された客観的な価値ではなく、絵に込められた主観的な価値、すなわち人生の「物語」のほうだったからである。

 そして、そのような物語が見えたとき、世界はすこしだけ透き通ってみえる。

 推理小説にはたいてい、主人公ないし探偵役が、「謎が解けた」と直感する瞬間が設定されている。それは演出であり、小説家が結末に向けて周到に提示してゆく諸場面の中の、ひいてはひとつの節目にすぎないのだが、そこで私たちが一瞬世界が透明になると感じること、いいかえれば、世界を包んでいた余分なディティルが剥ぎ落とされて黒ぐろとした骨格があらわにみえたと感じることは事実である。(…)

「「見えた!これが『答え』だ!」」とふたりが述べるとき、世界は一瞬だけ透明になる。

 推理というおこないがもたらす「要約」すなわち「物語」の提示は、ただ人々に対して、純粋な結論を、納得だけを引き起こすわけではない。わたしたちは「推理」という演出を通じて、なにか世界の一端に(あるいはその世界を動かしている「法則」めいたものに)触れたかもしれない、という錯覚を抱くことになる。それはわたしたちと世界の距離を、より近く、親しくさせることでもある。

 キュアアルカナ・シャドウが変身時の決め台詞として述べる「さあ、迷宮へいざないましょう」という言葉における「迷宮」とは、むろんミステリや警察捜査における解決不能の地点、すなわち「迷宮入り」が念頭に置かれているはずだ。

 探偵でありながら、たんなる「真実の提示」=「解決」とは異なる地平(≒物語)を見ているという点で、森亜るるかは(ホームズの敵役・モリアーティ教授のネーミングを引きずっていることも含め)、探偵の持つあやしげな部分、すなわち真実/虚構の両義性を、そのゆらぎを体得しているようにみえてならない。

口上全文「神秘と秘密で包み込む、キュアアルカナ・シャドウ。さあ、迷宮にいざないましょう」

 

『女には向かない職業』からのエコー

『名探偵プリキュア!』の本拠地である「キュアット探偵事務所」は物語開始時点ではもぬけの殻であり、あんなとみくる、そしてジェット先輩はその場所をどうにか引き継ぐことで探偵事務所を開業させ、多くの事件にかかわるようになる。

 事務所の同業者の喪失からはじまるシチュエ―ションはダシール・ハメット『マルタの鷹』からつづく私立探偵小説における定番であるが、あるじのいなくなった探偵事務所といえば、P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』における上司バーニイ・プライドを失ったことで事務所を引き継がざるをえなくなった女探偵、コーデリア・グレイにふりかかった一連の物語を思い起こさせるものがある。この上司の名前プライドは作中では冗談のように事務所の売り文句として使われている。

”プライド探偵事務所――われわれは仕事に誇り(プライド)を持っています”

 いささか皮肉であるが、しかしたしかにそれは探偵という職業に与えられたささやかな矜持でもあったはずだ。そしてあっさりと誇り(プライド)は砕けてしまった。コーデリア・グレイの物語はそこからはじまっている。

 では、『名探偵プリキュア!』はどうだろうか?

 第15話「森亜るるかの秘密」の冒頭では、キュアアルカナ・シャドウの正体が天才探偵とよばれていた森亜るるかであることが、ロンドンからの手紙によって伝えられる。こうして彼女たちが現在使っている「キュアット探偵事務所」じたい、以前は森亜るるか自身がいた場所であることがあらためて発覚する。

 また、このおはなしに先んじる第12話では、るるかは「事務所の窓、押し上げて開けるのがコツ」とあんなとみくるに向けて伝えていた。この台詞が内在しているのはもちろん、ミステリではよく使われる「限られた人物のみが知っている情報」である。たとえば謎解きでは、それを知っているかどうかで、犯人であるかどうかの重大な要素になることもある。るるかにとっては、それだけで自分が探偵事務所のあるじであったと伝えるにじゅうぶんだと思っていたのかもしれない。

 しかし第15話で強調されるのは、探偵どうしの持つ同質性と差異である。

 写真のなかの森亜るるかを見た明智あんなは、「十四歳、いまのわたしとおなじ歳だ……」とこぼし、その後も、敵対するキュアアルカナ・シャドウと戦闘中にコミュニケーションをはかろうとこころみる。

「力になりたいの!」

「……」

「写真のるるかさん……笑ってた! なにがあったのかわからないけど……力になりたい! それが探偵でしょ!」

「いいえ、探偵は依頼があって動くもの。……わたし、依頼してないけど」

 そして、去り際、彼女はふたりにこう伝える。

「元名探偵から、可愛い後輩たちへアドバイス」

「「……」」

「探偵では、解決できない事件もあるの」

 森亜るるかは、探偵であることを辞めたのか。

 おそらくこの一連のやり取りには、意識されているテーゼが存在している。それは、「探偵は事件に先んじて動くことはできず、すべてが起きてから動くことしかできない」という問題ではないだろうか。ここでより具体的に思い出されるのは「犯罪者は芸術家であり、探偵は批評家にすぎない」というG・K・チェスタトン『ブラウン神父の童心』の「青い十字架」に登場するフレーズである。

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『名探偵コナン』で怪盗キッドが引用するも、引用だと気づかれていないことでも有名。

(…)ヴァランタンは己の探偵としての頭脳が犯人のそれに劣ってはいないと思っていたし、それは事実その通りだったが、こちらが不利であることも良く承知していた。「犯罪者は創造的な芸術家であり、刑事は批評家にすぎない」ヴァランタンはそうつぶやいて苦笑いを浮かべ、コーヒーカップをゆっくり口元に運んだが、慌てて下に置いた。塩を入れてしまったのだ。

  ――G・K・チェスタトン「青い十字架」南條竹則、坂本あおい・訳

  名探偵はほんらい私的な欲求をもつ存在であった。しかし物語が広く普及するにつれ、それは社会的な色彩を帯び、いつのまにか、公的なヒーロー像へとすり替わっていく。しかし、ヒーローという偶像であればあるほど、探偵は自由な存在ではなくなってしまう。その存在の内側に蓄積されている暗い部分は濃縮されていく。じつのところ推理小説がつねに抱えているのは、犯人側の私的で、ダークな感情に傾いてしまう両義性である。なぜなら探偵は、なによりも犯人の理解者たりうる存在だったからだ。

 十四歳の明智あんなと小林みくるに見えているものと、十六歳の森亜るるかに見えている世界のかたちは、おそらく経験や知識、年齢の差によって、微妙に異なっていると思われる。そしてるるかは、ふたりよりも聡明であるがゆえに、世界に転がっている黒ぐろとした、怖ろしいなにかを見つけてしまっているのではないか。森亜るるかにとっての「誇り」は砕けてしまったのだろうか。

 なぜなら探偵は、その頭がよければよいほどに、自身の無力さにも自覚的になってしまう。『神様のメモ帳』のアリスもまた、そうした感情を持っていたことが語られている。

「でもね、ときおり不安になる。探偵はつまるところ、すでに失われたものに対してしか働きかけられないのではないか、と。起きていない事件は解決できない。まだできていない墓は暴けない。これから深く傷つくはずの人がいても、ぼくはけっきょくそれに対して無力なままなんじゃないか、とね」

 ではプリキュアである少女たちにとって、名探偵とは、いったいどのような存在であるのか。嘘と真実とそのあいだにある探偵はどのようにあるべきものとして映るのか。

 こうして長々といくつもの物語と絡めて『名探偵プリキュア!』を語ってきたのは、子供向けとしてつくられているアニメーションであったとしても、名探偵という表象に対して、本作は多くの物語の系譜を引き継いだ意識のなかでつくられている、と多くのひとに向けて伝えたかったからである。

 だからこそ、くり返そう。

 だれもが汚くいることでしか生きれない世界≒現代の社会において、ただただ高潔でいるということは、それだけでまともな人物としては見られないことを意味している。 嘘によって利益を得ようとすることや、その力によってすべてをうやむやに、ひとびとを分断してしまうことが容易であるような現代の社会で、名探偵でいるということは、少女たちにとって、どのような意味を持つのだろうか。

『名探偵プリキュア!』は、きっとそこに手を伸ばそうとしているとわたしは思う。

 最後に、オースン・スコットカード『死者の代弁者』に登場するもっとも美しい探偵の心を示すフレーズと、いくつかの物語を引用して、本記事を終えたい。

 エンダーは彼女を愛していた。深い悲しみのなかで自分の似姿のようなだれかをみつけたら、愛さずにはいられないものだ。

「大事なことは目では見えない」

「知ってるよ」

「花のときとおんなじなんだよ。どこかの星に咲いている花が好きになったら、夜の空を見ることが嬉しくなる。ぜんぶの星に花が咲く」

『名探偵プリキュア!』というタイトルには、次のように訳題が併記されている。

Star Detective Precure!

「目には見えないんだ。心で探さないとだめなのさ」 

「すぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」

 

エンディング:熊田茜音&増井優花「なぜ?謎?!ANSWER」」


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おまけ:おすすめのミステリまんが・ほか

アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』をおすすめするスクールアイドル・日野下花帆さん。

 

文学フリマ東京42寄稿情報。

 タイトルの通りです。

 2026/5/4(月祝)の文学フリマ東京42で初頒布する媒体に複数寄稿しています。どうぞよしなに。どちらも通販をやるかは現時点ではうかがっておりませんので、気になる方はお見逃しなく。以下、寄稿サークルほかの情報になります。ご参照ください。

 

 

NemeSis編集部『百合論叢NemeSis』

c.bunfree.net

 あまりネット上に情報がありませんが、仲谷鳰『やがて君になる』から10年がたったいま、百合の現在を語りましょう、という意識のもと製作されたエッセイ・評論集本です。

 百合の交通整理を、というご依頼を受けたので、ななめの/織戸久貴の両名義で「解放区」という文章を寄せています。内容は、上にもあるとおり『はじめての百合スタディーズ クィア/フェミニストの視点から』での百合作品の取り扱いを軸にして、百合言説についてなにが論者と読者のあいだで食い違ってしまうのか、といったことをざっくばらんに語っています。

 誤解を受けるのもいやなので念のためここに書いておきますが、こちらは『百合スタディーズ』を批判する内容ではなく、どうしてそれを批判する人がいるのか、あるいは言説が持つ力の勾配をどう見るべきかといった、状況のときほぐしを目的とした文章になっています。

 スペースは南3・4ホール【こー08】、評論島ではなく小説のほうですのでご注意を。

 

小市民研究会『砂糖と謎解きの季節』

c.bunfree.netnote.com

 本書の成立した過程から説明します。まず、数年前から、本書の執筆者のひとり・やもりさんを中心として、米澤穂信作品の読書会がおこなわれてきました。ゆくゆくは米澤穂信研究としてなんらかの成果が生まれるといいな~という企図のもと、最初に計画されたのが、当時アニメ化が発表されたばかりの〈小市民〉シリーズについて特集した研究誌でした。本合同誌はその読書会および企画を下敷きとしつつ、それとは独立してあらたなメンバーを加え、評論+創作を集めたものです。

note.com

 こちらでは、織戸久貴「小鳩常悟朗はマルジナリアの夢を見ない」という〈小市民シリーズ〉長編四部作のミステリとしての試みを再検討する大ボリュームの評論を、また、ななめの「仲丸十希子イメージ歌集 お姫さまにはなれない放課後」という短歌集を寄稿しています。どちらも気合の入ったものです。

 以下、上記ページより引用。

 

 織戸久貴「小鳩常悟朗はマルジナリアの夢を見ない」

《小市民》長編四部作において、謎はいかに生起し、語られ、季節をめぐってきたか。ポー、ドイル、テイ、アルフォンソ・リンギスのテクストを織り交ぜながら、やがて立ち上がってくる余白を捉える、四万字超のロングクリティーク。

 

 ななめの「仲丸十希子イメージ歌集 お姫さまにはなれない放課後」

 彼女といた秋。それから彼女と過ごさなかった冬。わたしたちは見えない足跡をたどりはじめる。それは架空の、三十首だけのショートソングス(短歌集)。“見上げなかったし見下ろさなかった火星/地球がすれちがった年”

 前者の評論はボリューム的にもそうですが、現時点ではあまり語られていない〈小市民〉の部分を拾っていくことができたのではないかと自負しています。おかげで迂回するような長い文章となり、論点が見えにくいところはあるのですが、シリーズの副読用の文章として視野を広げてもらうきっかけになれば、幸甚です。

 後者の短歌はです。よろしくおねがいします。以上です。

嘘のイラストです。こちらは収録されていません。

  歌集には、以下の旅で見てきたものが生かされている気がします。

saitonaname.hatenablog.com

 小市民研究会のスペースは南3・4ホール【か-9】です。こちらも評論島ではなく小説のほうです。よろしくお願いします。

 

『恋✕シンアイ彼女』より。

 では、よき文学を……。

 

エンディング:君が四角くなる前に「Dazzling city carries the life of others feat.みにあまる雅」

youtu.be

3DCG的な世界でアニメっていう死に方について

saitonaname.hatenablog.com

  だいぶ時間が経ちましたが、上記の話の続編にあたります。

  今回はマイムジ、ガールズバンドクライ、果てしなきスカーレット、超かぐや姫!あたりを扱いたいと思います。思い入れがあるぶん口もわるくなるかと思いますが、どうかご容赦ください。もろもろネタバレもします。だらだら書いてたら今回も一万字こえちゃった。やおよろ~~(∩ ▽ ∩)

 

 

 前回、『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の話の途中で時間がなくなって切れてしまった。ざっくりおさらいをすると、3DCGモデリングによって描かれたキャラクターたちは、手書きアニメーション以上に物体的な制約を与えられているという話をした。

 つまりそれはモデリングされた身体以上の動きはできないということ(肉体は人体ほどの収縮性をもたず、プリセットしていない表情や動きについては表現できないこと)であり、彼ら彼女たちになまなましい、人間らしさ、すなわち「傷」を与える表現方法は、そのモデルの表面部分に赤い色やテクスチャを加えるか、あるいは絆創膏といった物体を追加ではりつける以外にない、という技術的な限界が露呈している。

 ではこのような3DCG世界の制約のうえでどのような(生の/死の)アプローチを見ることができるだろうか。

 

BanG Dream! Ave Mujica』

『MyGO!!!!!』の続編にあたる『Ave Mujica』では、上記の問題意識が明確につよく出た演出が与えられていることを思い出してほしい。

 前作で「人間になりたい」と願った高松燈の歌詞は「心の叫び」だと劇中でいわれる。ここにあるのは「(まっとうな)人間であれない」=「迷子」である、という自覚のなかにいる存在が、音楽を通してみずからをさらけ出そうとするすがただ。

 さらに言うならば、バンドが空中分解しそうになったとき、高松燈が自らの言葉をポエトリーリーディングのようにしてひとりステージに立ったのは、千早愛音が留学時に教室で最初に言おうとして言えなかった「メモ」の、失敗のリフレインでもある。

 彼女たちは音楽を通して「やり直せる」ことをどうにか証明しようとする。そしてその証明の先には、「一生バンドやる」というシンプルな言葉がめぐってくるはずだ。彼女たちの比較的初期のバンドデザインやアイテムに方位磁針をあしらったものが採用されているのは、彼女たちの初期のシナリオを象徴するテーマに「進路」があったためだろう(最近の公式サイトでは見なくなっている)。マイゴメンバーは基本的に他者と同化できなかった人々、あぶれものである。

これは検索したらでてきたマイゴのトートバッグ。

 いっぽう『Ave Mujica』はそのような迷子とは逆の態度を取っている。迷子というのは、目的や道を見失った人の謂いであり、逆にいえば、ほんらいの目的地があることを許されている人の話でもある。迷子にはいずれは着くべき場所があり、帰るべき家がある。しかし『Ave Mujica』で表現されていくメンバーの来歴は、家に戻れない、つまりは帰るべき家すらないような状態にある(物理的にも、精神的にも)。

 よって、彼女たちのステージは自身の身分≒肉体性を捨象したマスカレードであり、持ち主を失った(=承認されえない)人間未満の存在としての人形劇として表現される。

 アニメシナリオについて毀誉褒貶はあるが、すくなくとも、音楽を通して人間性をさらけ出すMyGO!!!!!(青春パンク文脈)と音楽を通した虚構性でしか認められえないと主張するAve Mujica(ヴィジュアル系・ゴス系文脈)は根っこはおなじロックであっても、表現のかたち、精神性は対極にあるものとして出力されている。また自ら人形であろうと演じるのは、自分という人間そのものに価値を認めていない、認めるべきではない、という豊川祥子自身の態度表明でもある。

 なにより人形と3DCGという表現は本質的には近い場所にある。あらかじめ決められた表現を豊川祥子は目指すが、しかしアニメ本編においてその仮面は剥がされ、彼女たちは「演じる」とい行為の(アニメーション的)自家撞着にぶつかることになる。睦・モーティスまわりの話は物語としても、演出としても、生活空間と精神空間を行き来することで、その予定調和性を自壊させていたはずだ。もちろんここでさらに問題であるのは、睦・モーティスにしろ、初華・初音にしろ、その虚構を崩した先になにがあるか、なのだが、そこはまだ大きく作中では問われていない。

 いったんの結論を述べると、その問題にひとつ答えを出したのは豊川祥子その人だろう。人形たらんとしてきた彼女は終盤、あたかも『MyGO!!!!!』の序盤のエピソードのように、もう一度転び、血を流すことになる。その先にふたたび立つステージがある。


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 13話で挿入された「顔」のステージは仮面(ペルソナ)でもあり生身の顔でもある、というキャラクターの表層の在り方をもう一段階踏み込んだ演出に昇華している。

 幾度となくアップで映り込むキャラクターの表情は過去のステージよりも崩れていながら、むろん技術的にはプリセットの産物であるし、その二重性はこれまでのバンドのストーリーを象徴してきた天体モチーフとしての「月」に集約されている。月は光の照射によってその表情も、意味付けも変わってくる。これが3DCGとしての人形表現の延長線上にあるイメージと考えるのは、そこまで無理な態度ではないはずだ。

  たとえば和辻哲郎は「面とペルソナ」で次のように述べている。

 伎楽面が喜び怒り等の表情をいかに鋭く類型化しているか、あるいは一定の性格、人物の型などをいかにきわどく形づけているか、それは人がこの面をつけて一定の所作をする時にほんとうに露出して来るのである。その時にこそ、この顔面において、不必要なものがすべて抜き去られていること、ただ強調せらるべきもののみが生かし残されていることが、はっきり見えて来る。またそのゆえにこの顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。

(太字強調は引用者)

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 あたかも非生命とされたものが生命性を帯びること。

 3DCG表現が目指す方向として『Ave Mujica』が進もうとしたのは、おそらくこの地平にあるだろう。和辻の文章はこののち能楽へと移り、しかしそこでも「面」と「動き」によって表出していくもの、そこに人格性を見出している。

 わたしたちもまた、『Ave Mujica』という光のなかで照らされる彼女たちの「面」を介して、しかしその「内側」にこそあるなにかを見出そうとしているはずだ。面という表層は、運動を通して虚構と真実を転倒させてゆく。

 こうしたアニメーションの持っている記号≒身体表現の露出点としてステージや音楽が存在しているのは、商業的な理由もおおいにあるだろうが、その光学の詐術がもっともブーストできる場でもあるからではないか。

 

『ガールズバンドクライ』

 近年の3DCGでバンドアニメ、となると『ガールズバンドクライ』にも触れないわけにはいかない。残念ながら、わたし個人はこのシナリオについては渋い顔しかできないが(いちばんテンションが上がっていたのは放送に先立っていくつかの曲が配信されていたときだった)、その理由は今作が意図的に「嘘」をつくことへのためらいがないことにある。これはもちろん人によってプラス評価にもなる。


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 たとえば3話で挿入される「声なき魚」は河原木桃香が打ち込みでベースとピアノの音源を入れ、三人体制で演奏している体になっている(これじたいは現代バンドマンならぜんぜんやっている、ライブハウスにノートPCとDTMソフト持ち込みなどはめずらしくない)のだが、あまりにも音の装飾具合が「加入後」すぎる。そして途中からはステージじたいもまた架空の空間に置き換わっている演出がほどこされている。

 のちの話で、ルパと海老塚智が加入しスタジオ練習をしたさいに、ボーカルの井芹仁菜が音色が増えて感銘を受けるシーンがあるのだが、すでに見てきたように音はあったわけで、脚本・作曲発注から納品のあいだの制作段階のどこかで「リアル」志向を捨ててしまったようにも見えてしまう。

 自分の不満点は大きくいえばここにある。バンドっぽいけどよくみると異なる動きをしているなにかが「ロック」という未定義な通貨として流通していることに居心地のわるさをおぼえてしまうのだ。


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 とはいえ、逆に5話に挿入されている「視界の隅 朽ちる音」ではステージに聴衆のかかげたスマホのカメラが向けられていることや、ドラマーの安和すばるがノートPCで打ち込み音源の操作をしている配置になっている点など、現実のインディーバンドが演奏している環境にかなり近い演出がなされていることも確認できる。

 となると、本作での演奏シーンの立ち位置には、一貫したリアル志向の態度というものよりも、3DCG技術のプレゼンテーションのため、手を変え品を変え演出をおこなっているプロジェクトとして見えてくる。仁菜が日常生活でもまとっている「トゲトゲ」もまた、キャラクターの性格描写であると同時に、3DCG表現としてできる「嘘」のバリエーションのひとつとして評価できる。

 もちろんセルルックかつ、ぐにぐにと動く表情筋のこまやかさ(吐きそうな作業量が想定される)、肉体の制約を気にしないような空間を飛び飛びで移動する漫画的表現を取り入れた外連味など、無限にアニメとして見るところはあるのだが、個人的な「バンドもの」への思い入れから、この作品を現代バンド表象のひとつとして正面から受け入れていいのか困惑している……というのが正直なところだったりする。

 というのも、みなさんが思っている以上に、現代日本のガールズバンドに許されている活動可能期間は短い。わたしはかねてから「なきごと」というバンドが好きなのだが、ギターの岡田安未は駆け足するように人気を得ていった2020年時点のインタビューで当然のようにこう語っていた。 

―  先ほど“ビジョンを組み立ててから行動する”と話していましたが、具体的にどう進んでいくか考えていますか?

岡田  そうですね…。男性のバンドと違って、女性のバンドって消費期限というか、飽きられる時期が早いと思うんです。なので、スピード感をまずは大事にしています。あとは、好きな音楽を思う存分やれるようになるには、まずは売れなきゃいけない。みんなの目に留まらなきゃいけないと思うので、そのためにはどういう曲を作ればいいのか考えているところです。

(太字強調は引用者)

fendernews.jp

 ちなみに岡田は2025年を最後になきごとを”卒業””している*1。べつにアニメシナリオがリアルである必要はかけらもないし、リアルだからといって面白くなるわけでもないのだが、とはいえ「音楽業界」に対するさまざまな感情込みのドラマがある程度脚色され脱臭されたシンプルな構図の内部で完結したことにどこかさみしさも感じるのだ。感傷っすね。


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 わたしはゼロ年代育ちのロキノンキッズ、ヘッドフォンチルドレンだったので、ブッチャーズとか大好きだったし、そういうギスギスしたなかでどんどんすり減っていって気づくとふっといなくなっていった人たちのことも知っているし、最近ART-SCHOOLのトディこと戸髙賢史さんがTONEBOOK(ギターの音作りを公開できるアプリ)の動画インタビューで「バンドを長く続けるコツは許すことしかないと思います」と話していて、アートの活動遍歴を追っていた身からすると重い言葉だなと思ってしまう。

 そういうのの影響先の世代にいまkurayamisakaとかが活動しているのもうれしいわけだが、じゃあひるがえって河原木桃香、お前にとって今現在「バンド」ってなんなんだよ、お前の音楽ってよぉ……みたいなウザ絡みしたい気持ちがゼロにはならないわけで……。「名もなき何もかも」あの精神性だったからこそ名曲なわけで……。

TONEBOOKの無料公開分より。戸髙氏。

 てかこれってなんの話でしたっけ? 3DCGアニメの話でした。

 

『果てしなきスカーレット』


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 まず、面白いとか面白くない以前にわたしはインターネット(主にX)でのアニメ作品をダシにした人間への雑言及がほんとうに苦手であることを表明させてください。

 アニメの話をしたいならアニメの中身を見てすればいい派であり(テクストと向き合え2026年春)、インプレッションを内面化したパフォーマンスや過剰に冷笑をねらう(作品を見ても見なくてもできてしまいそうな毒のつよい)言説には内心でかなり警戒しないと自我を保てなくなってしまう。

「この監督のこういう表現が~」という分析はわたしたち視聴者には可能な領域だが、「この監督はこういう人間で~」は何段階か前提を飛ばしており、そこはさすがに無理くないかという話で。わたしはその人のひととなりを知らない。名探偵プリキュアも「見つめて感じて秘密をときあかすの」と言っている。感情も理性もCO2削減もアウトソーシングしないほうがいいです。自分に責任を持とう!

 もちろんゴシップ的態度はひとつのコミュニケーションツールとしては優秀で、近年的な意味で「考察」以上にわかりやすい「正解」が付与されているところがある。「おはよう」には「おはよう」を返すのがいちばん摩擦がすくない態度であるのだし、現在流通している言説をコピペしたら再流通はしやすい。

 これはべつにアニメにかぎった話ではないが、ネットではラウドな態度が一回でも広く流通するとそれ以外の声が後景に退く雰囲気があり、年々自分がリアルタイムでアニメを見てなにかいうのがダルくなっているのもそれが理由でもある。

 よってわたしがいま、こうしたちょっと時間をおいてから長い文章を書いているのは、そのほうが流通していることばや話法を内面化せず文章が書けるからだ。いや、長いのは単純に趣味かもしれません。

 あとアニメを見てないのは態度のなせるわざだ。他責思考にならない2026年春。

 本題に戻る。

『果てしなきスカーレット』について。

 本作に関していえば、最初の20分はかなり好きだといっていい。砂漠のような場所を歩いてきたスカーレットが水場を見つけ、泥水を飲もうとするが飲み込めず、いったん布に染み込ませてから絞って飲むシーンなどはなかなか見たことがないシークエンスでしかし理というものがそこにはあって、アニメと肉体の関係をどう描くか、という文脈において緊張感があり、どきどきした。

 序盤の聖と出会ったあたりの戦闘パートも好きだ。人間のなめらかな動きというよりはゲーム的な瞬速のモーション、それもソウルライクや『GHOST OF TSUSHIMA』の冥人プレイを思わせるダーティな戦術を採用するスカーレットの動きは他者を殺すことに特化していて、画面上にただならなさが満ちていく感じがあった。

 いっぽうで、世界の実感(感動・享楽)に対しては疑問が多く残る作劇だったのは否めない。いわゆる「地獄めぐり」的なノリで、地球の各地にあるような(宗教含む)モチーフの空間を旅していく、その過程で培った経験や感情が最後の答えとして結実する、といったストーリーラインを作中では展開していたように思うが、本作はオープンワールドゲームのような質感・雰囲気を視聴者に示しつつも、空間に連続性が与えられていなかったことは述べておくべきだろう

 物語中盤、キャラバンと合流し、テントでスカーレットが地図を見るシーンは、よくもわるくも表現としてこの作品世界を象徴してしまっている。両手で彼女が地図を持ちながら広げると、カメラは切り替わってスカーレットを正面から捉えるのだが、画面上には地図の裏側しか映らないのだ。わたしたちには結局、この作中の異世界がどのような空間であるかは最後までわからないまま、彼女たちの「旅」を点と点の集合として見せられていく。しかしそれらは、線のようにつながってくれない。連続性は設定されていない。

 そのような寸断された世界における移動は、ある意味では舞台劇的演出といえるかもしれない。しかし景色や世界に仮託できうる、生きている「実感」、たのしさ、キャラクターの性格やストーリーとの関連づけがこの作品においては後半どんどん重要になるはずが、世界観(設定ではなく、Weltanschauungとして)へのパスは失われていたように思う。

 わたしは前回のブログで『メダリスト』の話をしたが、そこでこうも書いた。

 僕たちはただ3Dアニメのキャラが演技するだけでは感動できない。そこに複数の要素を重ねるときに立ち上がる物語に、生きている存在を見つけようとする。

 だから『果てしなきスカーレット』は、そのような重なりにあまり意識的ではない作品に思えた、というのが個人的な感想になる。

 なるのだが。

 そのいっぽうで「人形劇」的な態度には、本作もかなり意識的であったと受け取ることができる。作中のメインテーマとつながってもくると思われるのだが、異世界で死ぬと「虚無」となるといわれる。じっさいこの台詞はその通りの演出よって説明される。致命傷になる大怪我を負うと、傷口などから枯葉が湧き出すように流れ、最後にキャラクターは霧散し、あとかたもなく消えてしまうからだ。

 しかしだからこそいえるが、このアニメーションには肉体的な意味での「死」を迎える瞬間は一度も描かれていない。

 スカーレットの父や民をはじめ、現実でも人が死ぬ事態は何度も描かれ、語られる。だが、人が息を引き取る、まさにその瞬間はどこにも映っていない。スカーレットの生まれ育った世界でも、人が死ぬのは、彼女が目を離しているそのときになっている。これは徹底されている。死は触れられないものとして語られる。

 そこにひとつのアニメーション的死生観を見て取ることは可能だろうか?

 何度も言っているが、現代の3DCGアニメには技術的限界がある。

 そもそも3Dモデルは現実のような有機的な肉体ではなくて、どちらかといえば立体空間の移動・変動を構成する内側のボーン(骨・関節・軸etc)とその表層を構成する皮のようなテクスチャ群からなっているわけで、内側には血や肉や臓器が詰まっているわけではない。顔が赤くなるのは血のめぐりや体温の上昇ではなく、表面に設定されたRGBの調整にすぎない。

 となると、アニメーションのなかで(肉体が?)死ぬイコール「虚無」になる、という『果てしなきスカーレット』作中世界の主張はかなり説得的な3D空間におけるvoidの在り方であり、死ねない身体をどう殺すか、という技術的な観点からつくられているのではないだろうか。

 つまり、血が流れるのではなく、表現形態として枯葉に変換されてしまう(死の死そのもの性を簒奪されてしまう)のは技術的な制約以上に世界の真実たりうる。

 かつて早瀬耕は「有機素子ブレードの中」という短編で次のように書いていた。

「駄目だっ。そこは設定していない」

(…)

「有」に対して「無」があるとすれば、その境界はどこにあるだろう?

「無」を確かめようとして、その境界を突き抜けてしまったとき、「有」からこぼれ出す時間は「無」を浸してしまい、「無」はその時間に「無」ではなくなる。それでも、「無」が「何もない」状態を維持できるとすれば、それを確かめようとしたぼく自身も「何もない」状態になるのか? そこに終わりはあるのだろうか?(…)

 結果的にではあるが、『果てしなきスカーレット』がストーリーテリング(ストーリーの進行とともに3Dモデルが怪我を負ったり髪を切ったりするのも成長をみせる手段のひとつだ)とはべつに迫っていったのは、むしろこのような肉体表現が表層ににしかとどまりえないという皮肉ではないか。それはどこまでも生命をうたいながら、電源を落とすだけでふとあらわれる対極としての「虚無」ではなかったか。この作品を覆っている死の多くには物語性がない。ただただ愚かな剥奪行為だけがある。

 言ってしまえば、復讐でさえも伝統的な物語になってしまうことをこの作品じたいが、世界が示してしまっている。だからこそ、その物語の呪縛から逃れるためには「虚無」しかなかったのではないか。悪役のラストはまさしく人形遊び的な構図による破滅であるし、それがカタルシスとして不完全なところもまた虚しい。

 では、虚しさを受け入れる(許す/赦す)ことはできるか。

 ラストシーンにおける人口密度のバグったかのような民衆の嘘くさいすがたは正直見るに耐えない画面でしかなかったが、人が人でなくなる世界を通したのちの為政者が立つ場所において、世界の在り方や見え方がそのように個々の存在を剥奪したかのような群衆であってしまうのは、むしろ気味のわるいまでの現実らしさかもしれなく、それはそれで苦しい話だが、そのうすら寒さから逃げなかったともいえる。

 だから問題なのは、Ave Mujica同様に、その表現の先になにがあるか、なにができるか、ではないか。問題は続いている。

 

『 超かぐや姫!』


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 前回と今回とで扱ってきた作品で唯一、『超かぐや姫!』は全編フル3DCGのアニメーションではない。けれどもこの作品は3DCG表現を前提とした物語でもある。

 もちろん作品に3DCGが使われていないというわけではなくて、VR空間ツクヨミでのゲームシーンなどは意図して3Dゲームっぽいポリゴンの質感を出している(篝火がブロック状なことや戦闘モーションのフレームレートを意識してつくっている動き、ぐりぐりとXYZ座標を自在に動くカメラワークなど)。ほかにも部分的に適宜3Dモデルを利用したり、配信画面にLIive2Dらしきものを使用しているのが確認できる。

 けれどもそれ以上に、本作にはどっしりと画面を構えて映すカメラワークがほとんどないことにも気付かされる。SNSなどではショート動画的、といわれがちな本作の演出面だが、むしろ(尺の都合なのか)世界の空間的把握や説明を無視した飛び飛びのカットが連続することのほうが印象的ではないか。

 たとえば本作には、曲がり角を折れた先に広がる道(キャラの視線の先にあるものの複眼的な把握、切り返しカット)や人物が階段を登ったときにそれを正面から迎えるように捉えるカットといったものはほとんど存在していない。登下校や学校のシーンがスワイプ演出でさくっと横の動きでスキップされるのも同様である。

 ここでは移動における連続性や奥行きは意図してオミットされ、カットが切り替わったあとはもう目的地になっており、そこでドラマがはじまっている。酒寄彩葉の住んでいるアパートやマンション(特に後者)の部屋ごとの位置関係などについては、見ている側がそれなりに意識していないとわかりにくいのではないか。

 いっぽうで、室内空間やVR空間におけるキャラクターたちをカメラが360度ぐるりと回って撮影するようなカットや手持ちのスマホカメラの手ブレのような動きのある画面はかなり印象に残る。そこにはキャラクターの(心の)距離を際出せるのではなく、ゼロ距離にするかのような親密性のアプローチとして機能している。どうもこのあたりに作劇の重みはありそうだ。

 3DCGのおもしろさでいえば、合戦バトルシーン(なにこのゲーム?)でブラックオニキスが壁面をぶち破り遅れて登場するときの「ステージ内でした」といった解説の空間わかりにくギャグなどはVRchatのワールドが意図して縮尺や重力を自由に変えたり現実には存在しえない建造物や自然物の連続性をもたらしたりすることへの自覚的な演出として機能しているようにおもえる。

 では、身体表現はどのような緊張感のなかに置かれているだろうか?

 物語の後半になってから明らかにされるストーリーを敷衍して見てみると、想像以上に明確にかぐやの身体の扱いに尺が割かれていることがわかる。地球にやってきて、泣き、排泄し、食べ物の味を知り、音楽に感動し……といったかぐやの物理的な身体はいのちや文化の礼賛に必要なものであり、感動を受け取る(人間の尺度を得るための)インターフェースとしても機能している。

 物語との関係上、どうしてもわかりやすい食べ物(パンケーキ・寿司ほか)に快楽や享楽の印象は偏るが、かぐやは引っ越し先のマンションのベランダで風を浴び、空気のにおいをかぐシーンや、花火大会で火薬のにおいや身体が振動を捉えるシーンをはじめ、情報を身体で受け止め、そのひとつひとつに感動していることがたびたび描かれている。

 おそらく『超かぐや姫!』が仮想空間を作中で扱いながらも「生きている実感のようなもの」をテーマとしてある程度射程に入れつつ作劇としての強度を保っているのは、『果てしなきスカーレット』とは異なって、移動や風景そのものの美しさといったものをアニメ内で表現することに執着していないからかもしれない。フォトリアルの表現に対する自意識の違いとでもいうべきだろうか。

 ちなみにかぐやの感度の高さは、先日公開されたオリコンニュースのインタビューでもあらためて補強されている要素でもある。

得意な料理の話をするときに嗅覚から入っているかぐや


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  しかしなにより、物語の終盤であきらかになるのは、そのようなインターフェースを失ったあとのかぐやのもうひとつの生についてだろう。

 味覚、触覚、嗅覚といった享楽のための感覚器官は失われ、残っているのは精神的な、あるいは言語的なもの、そして歌になる。しかし逆説的に、彼女に残された「歌」がこそが世界への鍵となり、のちに電子計算機械といったインターフェースが発明されたあとは、彩葉もその「歌」が届くという再帰的物語構造になっている。

 音や言語は感覚を他人と内的に共有する必要がなく、音楽が配信文化の軸のひとつであること(ゼロ年代後半における初音ミク登場によるフィーバーのひとつに物理的歌唱者不在の楽曲群があったこと)とこうした作劇は無縁ではないだろう。いろPのPがボカロPのプロデューサーからきているのであれば、肉体のないものに歌という在り方を与えたのはほかでもない彩葉であるという見方もあるからだ。

 また、ヤチヨカップののちの三人でのコラボライブシーンでは、彩葉とかぐやがどんどん汗をかいて肩で息をしていくのとは対称的に、ヤチヨは当初汗をかかず、それまでの表現における表情の崩れも最小限になっている。彼女の身体に汗のエフェクトが出てくるのは「Ex-Otogibanashi」の後半部からで、このあたりの歌詞との対応が彼女の身体表現(≒人間性・精神性・物語性)とリンクしていると見るのもむずかしくはない。

 というのもヤチヨにとって「眠る」という行為は(本体の?)必要上存在するが、そのさいにする「あくび」の動きはかなりプリセットされた人間らしさとしてのモーションであるし(わざとらしく、このあくび表現はくり返し登場している)、うがった見方をすれば彼女が頻繁に見せる90年代アニメっぽい(?) 「∩ ▽ ∩」といった顔もまた、運動というよりはプリセットの産物であるといえる。

 であれば、ヤチヨは身体表現を意識的にコントロールしているのではないか

 そのいっぽうで現実空間でのかぐやがアニメキャラクターとしてはかなり美少女的な表象からかけ離れ、喜びながらも崩れた表情(口は開き、左右の目が違うところを向く)をくり返してみせるのもまた、ふたりのあいだの対比に思える。つまり、

 アナログ身体としてのかぐや(反射的表現)。

 デジタル身体としてのヤチヨ(意識的表現)。

 ここの対比関係の内実については、地球への帰還に失敗し、ヤチヨのインターフェースとしての身体性が剥奪されたのちの長い時間(八千年)が彼女の個性を以前とはべつのなにかに変えてしまうに足りる十分な材料となっていることを思い出すべきだろう。

 本作で描かれるもっとも大きな「移動」のモチーフとは、日常パートでザッピングされるように描かれるものではなく、かといって月と地球間の移動でもなく、「時間」スケールの話である。そこが現出したところであらためて、これまでスキップされてきた(かのように)見過ごされてきた長大な時間の在り方を、彩葉は認識する。そして彩葉自身も、その後の人生を決める「覚悟」と「やりたいこと」すなわち未来を描くようになる(物語のバトンが渡され、彼女もまた自分なりの「老い」を選ぶ)。

 そうした時間とキャラクター描写とのあいだの緊張関係は、髪色の変更にも顕著にあらわれている。当初はかぐやのゲームキャラメイク的な側面として、宇宙人性の描写として演出され、描かれているが、これはのちにかぐやとヤチヨの連続性と不連続性として語りなおされる(じっさいこのふたりを彩葉は後ろ姿から見間違える)。もしかすると、ヤチヨが海洋生物をモチーフとして周囲にまとわせているのは「時間」テーマのおとぎ話である浦島太郎や龍宮城からきているのかもしれない。

 よって、デジタルな情報体として「死ねない」ヤチヨが自身のスキンを意図して改変させていく(彼女いわく「もう、おばあちゃんです」)ということに、わたしたちがこれまで見てきた3DCG存在に与えられる傷や髪の毛、テクスチャの変化といった人間性を付与するためのアプローチの現代版を見ることができるだろう。

 手書きアニメから、3DCGならではの(制限と強みの)表現へ、そしてそれがまた手書きアニメへと流入していくのが、『超かぐや姫!』のキャラクター表象の芯にあらわれている。これもまた技術的制約から生まれたひとつの表現だろう。つよつよアニメーター集団とつよつよ3DCG予算投入によるハイブリッド。それを通して、非人間の生きる話が与えられていることは、ひとつの達成だろう。

 なにより人間の場合は死ぬことが物語になるが、ただの不死(3DCGモデル)は不変であり、そのままでは物語としてみなすことがとてもむずかしい。『果てしなきスカーレット』でも触れたように、それは構造上「虚無」を呼び込みかねない。

 物語の途中、かぐやは彩葉に泣きながらこう伝えていた。

「だって、映画とかだと人間ってすぐ死ぬじゃん!」

 ヤチヨ≒かぐやにとって、死の不可能性としての不死はしかし、不変ではなかったことで回避される。それは老化といういかにも人間的なイメージを抱えることで変容し、そして老化もまた「生」のひとつのかたちに、物語として回収されていく。

『超かぐや姫!』においてもそうであるが、VR空間はもはやわたしたち人類にとっての異者やオルタナティブを象徴しない(かつての『Second Life』を思い出そう)。かといって天国や冥界や異界でもない。最初から、3DCGをはじめとしたネット空間や仮想空間は「老い」や「死」を含んでいる。冲方丁脚本の攻殻機動隊でさえそうだ。わたしたちは常に劣化していく。

 だからそれは、わたしたちの生活の連続性と呼びうる――いまとなってはネットを介して知人や友人の訃報を知ることもすくなくない―‐場所のなかに、レンズひとつで重なって存在している。

 わたしたちはインターネットで笑い、泣くことができるが、それは現実をすべて忘れて享楽のなかにいるからではなく、むしろ忘れられないほどに現実を意識しているからだろう。2026年のわたしたちはもうインターネットが逃避やお祭りのためだけにあるとは思っているはずがないし、ひどい現実や差別や虐殺の映像はワンクリックでわんさか出てくるわけで、限界を超えたら赤子のように泣いてしまう。

 そういうなかで良心を失うことなく、抱きしめあって、死なないで(彩葉が「ふっていなくなっちゃいそう」といわれていたことを思い出してほしい)、愚かさとどうにか折り合いをつけ、やっていくこと。そのようにして生きることをわたしはアニメーションを通して知ってきたし、これからも抱きしめていきたいし。

 問題は続いている。

 

 結論はないぜ!!!!!

 

エンディング:Salyu「Dramatic Irony」

 

 

おまけ:映画『JM』より

限界を超えるデータを受け止めるキアヌ・リーブス。映画『JM』より。

 

 そのほか、言及できなかった近年の3DCGアニメ。


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『百合小説コレクション wiz2』扉裏紹介文作成協力をしました(およびその他作品紹介/告知)。

 告知です。タイトルの通りです。

「織戸久貴」名義で、2026年2月に河出文庫から刊行されました『百合小説コレクション wiz2』の扉裏紹介文作成協力をさせていただきました。

 物理版ですと、奥付(出版情報等が記載されているページ)の手前のページにわたしの名前が記載されています。『wiz』無印(第一弾)でも、同様に扉裏の紹介文の作成協力をしております*1。『2』を先に読んだよ、百合が気になったよ、という方はぜひそちらにもお手を伸ばしていただけますと幸いです。よしなに。

www.kawade.co.jp

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『wiz』の一冊目に引き続き、扉裏の紹介文の作成協力をしています。二冊並べると色のコントラストがいいですね。めばち先生/紀伊カンナ先生

 

『wiz2』執筆陣のwebで読める小説について。

 SNSをたまに巡回していると、「はじめて読んだ作家だった」という感想を見ることもあったため、2026年現在、webで読める『wiz2』作家陣の小説(一部はそうでない)を以下にあらためて紹介できたらと思います。

 こういうリンクつきの紹介文は紙の本には盛り込めなかった、という申し訳なさもあり、みなさんにもぜひ読んでほしいという思いもあるため……。

(※ちなみに本記事の内容は河出書房新社さんに依頼されたものでも、監修されたものでもありません。わたし個人の趣味です)

 作品の具体的な言及は『wiz2』の紹介文にもありますので、各作家の来歴ふくめた作風や近刊情報についてはそちらをご参照ください。

 紹介作家と作品は収録順に記載しています。また敬称略です。よしなに。

 

 

宮田真砂「天体の回転について」

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 第二回百合文芸小説コンテストでpixiv賞を受賞した作品です。いまのところ『wiz2』以外で独立したかたちで読める短編で、近年のミステリ文脈とは異なるアプローチながらも、芯の部分はしっかり伝わってくる佳品です。

 

文月悠光「すべての庭のために」

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 おそらく、文月悠光という名前は、百合小説の読者ではなかなか目にしないかもしれません。主な活動フィールドは詩(現代詩)だからです。第六回ブンゲイファイトクラブに投じられた作品はしかし小説で、言葉との距離や関係を整理していく筆致をみることができます。小説としてはほかに、「花首の気配」(『東京新聞』2020年11月28日夕刊)がありますが、発表媒体の関係上、図書館などで複写依頼等をしないとなかなか読む機会がないかもしれません。こちらもおすすめです。

 個人的には最近、君島大空と共作詩というかたちで小川哲原作のドラマ『火星の女王』の主題歌「記憶と引力」に参加していたのが印象的でした。わたしは去年、合奏形態での生演奏をロームシアター(「夜会ツアー 劇場版 汀線のうた」)で見たけど、君はどうする?(謎マウント


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麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』

 ネットで読める麻耶雄嵩作品はありませんが、「大行司春香最初の事件」を読み、『メルカトルかく語りき』に収録されているとある短編を思い出した人もいるのではないでしょうか。詳しくはいえませんが、そういうことですよね。たぶん?

 

宮田愛萌「羨望」

 近年、さまざまな方面での活躍めまぐるしい宮田愛萌ですが、発表した作品のなかでもかなり過去の作品で(おそらくこれが小説デビュー作品となります)、異性愛をベースにした関係ながらも、ふたりの女性の「side」を語るところにどきりとさせる落差があり、同時に小説としてのしたたかさが見えてきます。「羨望」というタイトルの言葉がどこにかかっているかを考えれば、百合のオタクとしても満足できる作品かもしれません。電子限定のアンソロジーですので、見逃していた方はぜひ。

 

雛倉さりえ「森」

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 作者本人のnoteでも言及されているが、この「森」はやがて発表されることになる長編百合小説『森をひらいて』の原型となっています。投稿時のコメントとしては「森林系百合」というのが語られているのが確認できました。というか金子玲介とここで邂逅しているの、同世代作家としてものすごいアツい組み合わせですね。

 また、この「森」をふくめた短編集がご本人のBASEでも購入できるそうなので、気になる方はどうぞ。ほかに『森をひらいて』のセルフ二次創作「泥」が「春昼昏睡」に収録されているとのこと。ご興味のある方はこちらもご確認ください。

hinakura.base.shophinakura.base.shop

 

空木春宵「4W/Working With Wounded Women」

www.webmysteries.jp

 空木春宵作品のなかでも『wiz2』を読んだ方にとりわけ手を伸ばしてほしいのが、「4W/Working With Wounded Women」です。こちらは現在『感傷ファンタスマゴリィ』に収録されています。本としてのテーマ統一感もたいへんすばらしいため、もっとこの作家を読みたい、と思ったら迷わず一冊まるごと買ったほうがよいです。SF要素が濃い作品集かつフェミニズム、ディストピア(管理社会)、幻想、痛みなどなど、さまざまな要素が作者の手腕によって凝縮されています。同短編集ですと、「装い」が数値によって管理されているSF「さよならも言えない」が個人的には双璧です。空木春宵作品は大槻ケンヂファンにおすすめ、というのはまったく過言ではないので、そちらの向きにもアピールを入れておきます。わたしは『縫製人間ヌイグルマー』が好きですが……。

www.webmysteries.jp ほかに、第一短編集『感応グラン゠ギニョル』収録の「徒花物語」も読むことができます。こちらはタイトルの通り「花物語」をモチーフにしつつ大胆な世界構築をしている女学校SFです。

 

阿部登龍(屠龍)「n回目のエピローグ」

www.pixiv.net

 わたし個人としても、阿部登龍(創元SF短編集受賞前は阿部屠龍名義)のすごさを思い知らされた経験があり、具体的には「乗用竜の前十字靱帯断裂症の治療法としての脛骨高平部水平化骨切り術の開発と検討」という短編(こういう無機質な説明タイトル好き)で、その世界の奥行きとキャラクターの感情の向き方に胸うたれ、以降ファンになっています。こちらは現在は読むことができないのですが、ドラゴン百合SFという点でこれに触れないのはおかしいだろ、と思い、どうにか『wiz2』の紹介文でも名前をあげさせてもらいました。

「n回目のエピローグ」『時間百合SFアンソロジー』(同人誌)が初出で、いってしまえばメタ時間SFの系譜のひとつです。詳しくは上のリンクから読んでいただくとして、恒川光太郎「秋の牢獄」などのイメージをわたしは初読時に思い浮かべた記憶があります。時間SFで百合をどう書くか、ということへのひとつのアンサーといえます。またウェブ掲載小説というところですと、Kaguya Planet掲載の「父のある静物」(果樹園×SF )があります。短いながらもここまで読ませるのか、という力のある一作です。

booth.pmplanet.kaguya-sf.com

 

桜庭一樹『ファミリーポートレイト』

 もう『wiz2』を読む人にとって、この作家を紹介することじたいがすでに野暮かもしれません。とはいえ、個人的に過去の自作をいかに乗り越えるか、という点で「少女」のその後を描いたといえる『ファミリーポートレイト』をぜひともみなさんには読んでほしいと思います。『私の男』とは異なる場所からの声が、あるいは過去作品からのエコーがここまでえぐってくるのか、という気迫にみちみちている長編です。

 

 

 というわけで全八作家を駆け足で紹介しました。まだ読んでいないよ、という方も、読んだよ、という方も、今後とも『wiz2』をなにとぞよろしくおねがいします。

 また、紹介文作成にあたり、こころよく資料提供の手助けをしてくださった某氏、ほんとうにその説はお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。それではみなさま、よき百合Lifeを……。FOR GOOD...

 

 

その他の告知:ラジオ『備忘録音』のジングルを作成しました。


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 こちらもお知らせです。

 日頃からお世話になっているお二方がパーソナリティーをつとめている読書ラジオ『備忘録音』の第16回から使用されているジングル(冒頭BGM)を作成しました

 もともとはX(旧ツイッター)でやっていたラジオだったのですが、YOUTUBE進出したさいに「ジングルつくりますよ!!!」と冗談で言ってたらほんとうになりました。ウケんね(激苦笑)。

 学生時代によく聴いていた「文化系トークラジオLife」でパーソナリティーで社会学者の鈴木謙介がジングルを自分でつくったという話をきいておもしろそうだな~~っとぼんやり思っていたら自分もつくることになるとは……。せっかくなので、サウンドクラウドにもあげました。よろしくね。

soundcloud.com

 

エンディング:kurayamisaka「cinema paradiso」


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【あらすじ】
「私のこと忘れないでね。」春休みも終わりを迎え、松井遥香は進学を期に生まれ故郷を離れることとなる。それは同時に、ただ1人の親友である向井あかりとの別れも意味していた。伝え切れたことなんて何ひとつないまま、発車ベルは鳴り響く。

 

 kimi wo omotte iru って百合、なんですよね。

*1:紹介文の情報は初版刊行時に基づきます。