※本記事は映画『アリスとテレスのまぼろし工場』のネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください
本記事の態度
・『アリテレ』は岡田麿里的な作品の集大成だが傑作ではない
・『true tears』『凪のあすから』『あの花』『空の青さ~』『フラクタル』あたりのマッシュアップな感じはある
・ところどころ面白いところもある
・とはいえトンチキなところも多いが
・というか背景担当の東地和生がいなければ生まれなかった作品である
・岡田麿里はセカイ系ではなく「セカイ系の亜種」といったほうがいい
・それはそれとして作品の感覚に首肯はできない
・性表現に関しては岡田麿里だから~というのは思考停止ではないか
・性欲ではなくただの性癖になった感じがする
・小説版は未読です
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タイトルについて
「アリスとテレス」というとRADWIMPSの「ソクティックラブ」(2009)の歌詞の一節を思い出すが、まあそこらから取ってきてもいいし、してなくてもいい。だいたい最近のバンドはみんなそのあたりの影響を受けてるのでふつうに使っている語句。めずらしい言葉ではないし、独創性もない。ふつうに言葉遊びの範疇。
とはいえ「まぼろし工場」とつづくので、まあプラトンとアリストテレスの対比をあらわしている絵画『アテナイの学堂』くらいはイメージしてもいい。要するに現実や本質の居場所をどこに置くか、くらいのところで、それ自体は作品テーマともつながっている。「アリスもテレスも出てこない」と文句はいわないでほしい。

『アテナイの学堂』詳しくは歴史の教科書とか見といてください
作中で「もっともっと!」天に手を伸ばした五実と正宗が、世界の秘密を知るあたりはこのあたりに対する倒錯的な演出なのかなと思いました。いやべつにいろんなフィクションでやってるやつなので、参照元かというとむずかしいですが。
世界設定について
岡田麿里は『凪のあすから』でセカイ系的なだれかを犠牲にするシステム(トロッコ問題ではなくただの人身御供である)に人格神的な属性を与えていたという点でセカイ系に近いのであるものの、完全には一致しない。よって彼女はセカイ系の亜種を描いているものとする。ただ、同時にここにおける明確な(機械的な)結論は同時に存在してもいない。存在しないゆえに人間賛歌に向かおうとする。
その文脈で考えると、見伏(名前からして空を見ないようすることを示している)の町は鉄工所に祭壇があるというまあ近代日本の発展をアニメ的な縮図として表現した感じですねっておもむきにも見える。
じっさい山を削っていることが神様(御神体)を削っていることとして作中では揶揄されることになるのだが、結局この神様がなにを思ってなにをしているかはあきらかにならない(『あの花』でめんまの成仏方法がわからなかったり、『凪のあすから』で結局、神様そのものとはコミュニケーションが取れないように)。
おそらく佐上はこのあたりをいちばんわかっている人間で、五実を神に差しだして世界を維持させようとするとする(結婚という制度はもっともわかりやすい人身御供だ)。とはいえ、それが正解であったのかもわからない。代わりに時宗などは色気づくし、製鉄所を再稼働させて状況を(終わりは来るとして)コントロールしようとする。これも人間の営みを肯定しようとする動きのひとつだ。
また、終盤で「神様が一番いい時を保とうとした」(正確な引用ではない)といった台詞はまあビューティフルドリーマー的であるし、すでにネットにいくつか言及もあるが、その文脈はちょっと強引な感じがする。むしろこの「いい時」というのは社会的なメッセージ性の部分のはずなので、そこは保留したい。
しかしいちばん考えなくてはならないのは「なぜ人を愛したら世界が壊れる」のかではないか?

これは鹿島田真希の傑作小説。
むつみといつみ
岡田麿里に性表現はつきもの、と思っているそこのあなた。ちょっと反省したほうがいい。なぜ、今作にわざわざふたりのヒロインがおり、そこに同じ顔があり、しかしなぜ名前の数は違うのかくらいは考えておくべきではないかと思うからだ。早い話が、
睦実=むつみ=六の罪。
五実=いつみ=むつみよりひとつ罪が少ない五つの罪。
であり、ここで前提とされているのは、もちろん「七つの大罪」だろう。日本神道の話に西洋の大罪をあてるのはだいぶてきとうなしぐさなのだが、作中で言及されていることを考えると、考えるわけにはいかないわけで、こうして検討する。
睦実 五実
傲慢 ○ ○
強欲 ○ ○
嫉妬 ○ ×
憤怒 ○ ○
色欲 × ×
暴食 ○ ○
怠惰 ○ ○
○と×がうまく表示できているがわからないが、作中で恋をするということは、「罪がすべて揃う」ことはないだろうか。そしてその代償として人は神機狼に呑まれる。なぜなら罪深いので。という図を採用するのであれば、ある程度の作品の持っているロジックは立てられそうだ。
空が割れるのは、強い感情(マイナス感情?)を持つことによってであり、それは人間らしい営みとして認められる。それは痛みを伴う。けれど同時に、地獄に堕ちるというよりは、成仏に近い演出にも見える。なぜなら見伏の人々はすでにまぼろしであって、実体はないからだ。死を受け入れる、ということに近いかもしれない。
世界が止まったのは災害(人災)が原因か?
いわゆる災害描写のとしてあるかというと、そうはあまり感じない。環境的な部分への目配せはあまりにも少ないし、製鉄所の人災として記憶されるのであれば現実パートの見伏は観光地にはならないだろうし、寂れるのではなく土砂崩れや波によって破壊されるからだ。神に祈ることで保たれるのは現実ではなく、むしろ幻想なのかもしれないが、こちらについては言葉を持っていないのでこれ以上は考えない。
端的にいうと、原発の比喩などとはあまり考えないほうがよいでしょう(ただし曇った夜空に差す光というと2011年3月をある程度想起するのはわからなくはない)。
五実のにおいについて
映像はにおいを持たない。よって正宗たちはまぼろし(≒フィクショナルな存在)としており、そこに「現実」からやってきた「五実」はくさい(≒観客とおなじレイヤーにいる存在)として解釈はできる。映画の比喩。
現実について
現実の時代がいつなのかはちゃんとわからないが(製鉄所は10年ぶりに人が動かすので、1991年から10年後と解釈するのが有力だが)、エピローグの観光地化したあと寂れきった製鉄所のある未来がそこからさらにx年後にはちょっと思えないので、もしかしたら時間がねじれているか、作者の人そこまで考えてないかのどっちかだろう。
ただ、自宅の一階で縁側に座る現実の睦実の新聞には「憲法改正」と太いゴシック体でわざわざ描かれており(どう考えても正宗くんというよりは観客への目配せだろう)、そんなに未来がまっとうに良くなっているとは思えない印象を残す。その解釈には個人差があるかもしれないが、自分はそう感じる。
生きることは失うこと
ここには強烈なねじれがある。1991年に閉じ込められた14歳たち正宗たちは、要するに「大人になれなかった子供たち」となる。ロスジェネののち、バブル崩壊後の就職氷河期に巻き込まれ、日本の不況やらなんやらに直撃した世代といっていい。
彼ら大人らしい大人になれなかった、全能感を手に入れられなかった世代として(すくなくとも作中では)表現される。大人からは何年経っても大人扱いされないし、割を食い始めた世代といっていい。
しかし作中において、彼らにできることはほとんどない。できるのは現実から目を背けることだけだ。現実を直視すれば死んでしまう。ただし五実だけが現実を生きられる可能性を持っている。
なので、なにがなんでも生きてもらう。未来を肯定してやる。
けれども、前述のとおり、べつに未来が生きるのにいい場所であるというわけではない、それでも感動するもの、心動かされるものはあるはずだと正宗はいう。いっぽうで、睦実は五実のいちばんほしいものだけをさらっていく。五実にとって最上の幸せはもう生まれる前から失われている。
だからここでは生きることと失うことが、同じ場所に置かれている。
加えて、映画でトンネルを通るといえば『北北西に進路を取れ』のエンディングだ。要するに、五実は暗いトンネルを通って生まれ直し、「赤ちゃんのような泣き声(産声)を上げる」。
生きるとは失うことだからだ。
彼女は失恋の痛みを知って、ようやく人間として歩きはじめる。
同時に彼女を送り出した正宗たちの空は不思議と晴れており、ふたりは草地に仰向けになっている。ふたりはほんとうの空を見ている。
逆行の夏
痛みとは現実を知ることであり、失うことであり、生きることでもあり、罪深いことでもある。キスをしている正宗と睦実を見て、五実は、快と不快とが入り混じった感情を抱き、空が割れることになる(このとき正宗と睦実は残りの罪を引き受け、五実は同時に残りふたつの罪を抱くことになる)。
だからほとんどそれは、心象風景の反映といってよい。
五実の心の傷は、世界が壊れることとまったくおなじだからだ。
けれど逆にいえば、この空が割れるというのは、卵の殻を割っていくさまににも見えるはずだ。だれかを心から愛し、傷ついたときに見える景色が割れて、ほんとうのものが見えるようになってくる。うつくしい夏があらわれる。
痛みを自分のものとして抱えていくこと。生きる、生まれるというのはそういうことではないか? 傷を抱えたとき、罪を抱いたとき、人は人になるのではないか?
もちろんそれは『空の青さを知る人よ』のテーマでもあったし、『凪のあすから』で世界が美しくなればなるほど、心は傷ついていく演出と呼応している。
だから世界をほんとうの意味でいとおしく思い、罪を背負い、愛していくことができるのは、心から傷ついたことがある人だけなのだ。

円城塔「なにも失くしたことがないならそれでいいけど。」
また、こうした演出において、東地和生の繊細な背景がなければ物語じたいが成立しない。その意味では、本作は脚本よりも背景のほうがすぐれた仕事をしているはずだ。空が割れ、雨が降り、あれだけ冷えきっていた町の雪がぼたぼたと溶けていくさまは素晴らしかった。東地がいなかったら、今作はかなり平凡な作品になっていたはずだ。このシーンを見るためだけに劇場には足を運んだほうがいい。
総論
『アリスとテレスのまぼろし工場』はたんなる岡田麿里の性欲劇場ではない。むしろ性欲に欠けている(罪の欠けている)主人公(五実)が、初恋を知り、罪を抱き、同時に失うこと。この物語は永遠に失われ続ける甘美なひとときであり、やがては消えていく廃墟、つまりはわたしたちの青春そのものであり、ノスタルジーの持つ夢なのだ。
それはそれとして
おれはみとめーねからな!!! 岡田麿里ッ!!!!
氷河期世代がなにもできなかった苦しみを抱えたままなんとなく子供つくったからって次の世代にエールを送ったくらいで気持ちよくなるな! おまえの死を美少女に看取られるな! 責任をノスタルジーの墓場にすり替えるな! 逃げるな!!!!! 自分と対峙しろッッ!!!!
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