上半期よかったもの2025書籍編

 体調を崩しているうちに今年も後半にさしかかっていました。光陰矢のごとしワロタ。基本的にライフログの一種ですので、今後も半年ごとにやっていきたいです。

 また、今年上半期の個人的なデカい京都書籍トピックとしては北野白梅町近くにあった古書店「町屋古本はんのき」が営業を終了したことでしょうか。筆者はこのお店が上京区にいたころからお世話になっており、アニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』のエンドロールにもその店名があったことにテンションが上がったものでした。

惜しくも今年二月に閉店となった「町屋古本はんのき」

 

comet-bc.stores.jp

 あと今年は水声社の通販サイトが開いたことがうれしい知らせとして挙げられます(同社はアマゾンに配本をしないため、リアル書店の在庫が尽きると探すのがむずかしくなる)。『シンデレラ~』はディズニープリンセス以前から存在する「シンデレラ物語」について真面目に取り組んでいる研究書ですが、不案内な読者でも理解できるよう平易な文章で書かれているだけでなく、前章で紹介された概念が次章での論に組み込まれていくように置かれており、だんだんと視野が広がっていくつくりになっています。いちばん最初の論ではカルロ・ギンズブルグが無意識のうちに見落としていた部分を指摘するというたいへん刺激的な内容からはじまりますし、シンデレラ譚における階級移動がどういった社会的な意味を持つのかなど、とにかく骨太な書籍です。

 

 小説本文より長い!!! ぜんぜん読み終わらない!!! いわゆるテクスト論的な立場をとりづづけている蓮實が「テクスト的現実」の観点から縦横無尽に作中のあらゆるトピックとそれに付随する妄説を分離していく作業の徹底ぶりがすさまじく、かくありたいと思わせるだけの迫力がある。ちゃんと「読む」とはなんなのか、ということについてあらためて姿勢をただしたくなる一冊。

 

 平成生まれ女性表象クロニクルといった趣のオムニバス(リレー形式)連作。幼少期から大人になっていくにつれ、女性は常になんらかの意味不明なジャッジや異性愛規範のなかにさらされていること、そしてそうした求められによって、もしかしたら得られるかもしれなかった大切な関係を手放してしまう経験が「私たち」には傷みたいにあること。そしてそれを正しく修復する方法はどこにも書いていなくて、根拠のよくわからない女の子向けの占い雑誌くらいしか、手の届く範囲にはない。

 結論からいうと、このおまじないはさっぱり効かなかった。私はこのあと何度か、またしても青柳さんを傷つけるようなことを言うし、本人にはまともにあやまりもしない。うやむやにしたまま、時間だけが過ぎて、私たちは中学を卒業する。そしてもう二度と会わない。だけど私は親友という言葉を聞くたび、青柳さんのことを思い浮かべる。十年後も、二十年後も。

 

 やはり「水」はとんでもない短編小説の傑作であるけれど、佐多稲子という人物が戦中戦後を通して自身の文学観を反省させられつづけていた背景を思うと、まだまだ読みがいのある作家だとおもえる。

 

BanG Dream! Ave Mujica』で豊川祥子さんが読んでいらっしゃったので。読んだ所感としては、少年の性欲と中二病精神分析アウフヘーベンしてツァイトガイストアタックでターンエンド、つまりは仰々しい、あるいは陰鬱な黒胆汁っぽさ全開の自意識で書き殴った小説という感じ。アニメキャラクターへの当て書き/さや当てとして読むよりはフレーバーの拠りどころのひとつなのでしょう、という受け取り方が穏当ではないでしょうか。幼少期の欠落と欲望が他者に向けて重ね合わせられていくところは多分に精神分析的な(あるいはドイツ幻想文学的な)アプローチでしょうし。

『Ave Mujica』10話より。表紙デザインは若干違うが、おおむね高橋健二訳でよいだろう。

 

 昨年読んだ、同作者の『全校生徒ラジオ』がたいへんすばらしかったので。とにかく楽しい。上下巻というたっぷりの尺を使って学寮内の揉め事解決役「お庭番」に選ばれた三人がさまざまな生徒たちと関わって奮闘していくさまを描く(なにせ「お庭番」やりたくね~~というだけで上巻のうちまあまあのページが割かれる)。各巻の最初にかなりの数の登場人物リストが置かれているのだが、みなそれぞれの味を持って登場するのもうれしいし、寮という空間の持つ親密さと踏み込めなさが同時に浮かびあがり、期間限定である学生生活のせつなさを映し出していく。傑作~~。

 

 こちらも寮もの。百合要素もある。上述の『お庭番デイズ』でも触れられていたように、寮という空間に「放り込まれる」子供たちにある個々の事情への踏み込めなさ、というのは生活をともにする間柄によってもやはり気を遣うもので、しかしどこかで手を伸ばせたら、とも思いたくなる。そしてまた、本作の魅力は寮という空間のちょっと外部には見えなさそうなディティールを描写していくことの面白さにある。とりわけ部屋替えの直前にとある道具を使うエピソードはあまりにもまぶしい。

 

 テーマはほとんど児童文学といってもよい趣で、思春期になってから生まれの取り替えが起きたことが発覚し、いまの親との関係も意識しつつ、ほんとうの親に会いに行く。その移動の境目に描写されるのが表紙にもなっている門司港で、作中でも印象的なシーンとして描かれている。短くシンプルであるものの、胸を打つよい話だった。

 

『青春の逆説』の前半で、オダサクにとっての京都の高校生活(主人公は謝ったら死ぬ性格)が描かれるので、現在の地名を意識しつつ、あのあたりはいまも残っているな、みたいなところがたいへん京都在住の人間としてはゆかしかった。おもしろクズエピソードとしては、金のない学生ふたりが花街で遊んだのち、金がないので片方をその場に預けてもう片方が金を無心しに京極あたりをめぐるのだが、最終的にお腹がすき、なけなしの金で喫茶店に入りホットケーキとコーヒーを食らうという暴挙に出る。むろんそのあいだ、相棒は放置されている。

(…)当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。

先日、「スター食堂」で食べたオムライス。ホットケーキは現行メニューにない。

 

 スーパー京都生まれエリートの作者が、いかに戦後の京都は醜くなったかを舌鋒鋭く指摘しつづける激ヤバエッセイ。いつの時代も理想の京都は過去にしかないことが実感を持って伝わってくる。ちなみにこの作者の住んでいた杉本家住宅重要文化財の京町家として四条烏丸をすこし西に行ったところにあり、住宅周辺はアスファルトではなく、石畳の道が残っている。

www.sugimotoke.or.jp

 

 オーディブルで最終巻の四巻まで聴いた。中学生ながらひとつ頭抜けて成長し、大人びてしまった女の子とお隣さんかつ担任教師であるお兄さんとの関係を軸にした年の差ラブコメなのだが、本作の面白いところはむしろヒロイン側(学生たち)のシーンのほうが巻によってページが割かれるところで、どのように振る舞っても周囲からの視線を引きつけてしまう椿屋ひなたという台風の目、しかし心はやはり中学生である、といったアンバランスさがよかった。とりわけヒロイン役の田中あいみさんの演技がマッチしており、表と裏はたしかにあるはずなのだけれど、発声されている言葉がそのどちらにあるのかが周囲にも読み取れない、といった塩梅がとても魅力的だった。

 

 読書会で。かつてあったスモールサークルと幸福な修業時代、といった趣の空気感は須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』を想起させるところが大いにあるのだが、一種のプロフェッショナル性よりも心のなかの理想的すぎる仕事しかしない建築家像、火山といった舞台装置、といったところで物語の人工性もまた意図的に表明されており、それが全面に作者の美意識として出てくるところに倒錯したよさがあった。

 

 戦前に書かれた作者の自伝的小説『伸子』の続編。宮本百合子湯浅芳子が東京でふたり暮らしをはじめたころの関東大震災後の時代をベースに書かれている。『伸子』では結婚によってだんだんと夫や家やあらゆるものに幻滅していく過程をドライに書いていたが、『二つの庭』では職業婦人というかたちで生活をしていくなかで遭遇するナチュラルな女性差別や貧困の問題、芥川龍之介(作中では相川良之介)の自殺などの出来事を心のうちにため込んでいくなかで、ソヴィエトで育まれているという思想や社会への興味を抱くようになる。

「わたしね、だからソヴェトへも行ってみようと思うの。そこで生きてみたいの。いいことも、わるいことも、みんなこの目でみて、このからだであじわいたいの」
 一方からは楽土のように語られ、一方からは悪魔の巣のように語られているソヴェト同盟のほんとの生活の日々のなかへ、自分の眼と心とで入って暮してみれば、そこの生活の実際がわかるだろうし、それにつれて自分というものやその生きかたもわかって来るだろうと期待するのであった。
「うまく説明出来ないけれど……わかる? 自分を砥石といしにかけてみたいの。だから、わたしロシア語なんか知らなくたっていいわ。そこで生きてみるんだもの……」

 宮本の自伝的小説はさらにこのあと『道標』というスーパー長い長編へと続く。今年中には読みたいところ。

 

 以前のブログにも書いたが、大正・昭和期において職業婦人であることはそれだけでマイノリティ性をつよく持つことであり、周囲にロールモデルがいないということであり、女性がふたりで暮らすといったことになれば、さらに周囲からは奇異の目で見られることになる(『二つの庭』でも男性から無遠慮に詮索されるシーンがある)。ではそのような状況下で生きた人たちの姿をいかに無化させないか、という試みとして読まれうる本である。

 

 わたしたちがいまもそのイメージの在り方を勝手に歪め続けている土地として沖縄がある。本書は沖縄返還後に戦争を経験した女性たちの語りに耳をすませるものであるが、ここに出てくる人々は本州のことを「内地」とも「本土」とも呼ばす、「ヤマト」と呼んでいる。日本兵も「ヤマト」だ。むかしなにかの本でも読んだのだが、近代戦争にさしかかった沖縄の人々にとって、自分たちのアイデンティティは「日本」ではなく「琉球」にあった人のほうが大勢であったろう、ということがそのあたりの言葉遣いからなまなましく伝わってくる。

 

 ペリーによる開国以後、日本がアメリカというものをいかに捉え、内面化してきたかという角度で語るもので、帝国主義的な人種差別、劣等感、占領下における特別慰安施設や観光、そののちに意図して展開された歴史イメージの脱臭など、歴史修正主義というよりももっと現在のわたしたちに連続している問題としてトピックが連ねられている。とりわけ終章でディズニーランドというアメリカの開拓・占領・植民の歴史が日本国内の在り方に重ねられていく語りは圧巻としかいいようがない。

 

 オーディブルで。とくに印象的だったのは何度も(異なる人によって)インタビュアーに向けて「わかるでしょう?」とそれまで起きてきた出来事がすぐ手を伸ばせる場所にあるのを目配せするくだりがあったことで、語るものと聴くものとのあいだに連続性があることをこれでもかと思わせられた。

 ほかにも国民性かもしれないが、年齢をわざと高く偽ることで子供が戦地に赴こうとしたエピソードが複数あったことや(衣食を保証されたり、一人で生活する手段がないという事情もあっただろう)、女性の従軍といっても生理用品が配られず、ズボンに血が流れたまま移動していた話など、なかなか現代の日本人にはイメージしがたいことばかりがあり、終始体力を吸われつづけながら聴いていた。

 

 わたしたちは多かれすくなかれ資本主義というでっかいシステムのなかで消費活動を強いられているわけで、そうなるとどうしても褒められたものではないなにかに加担してしまってはいないか、という疑念が浮かぶわけですが、本書はそういった疑問をなるべく分解したうえで一緒に折り合いのつけ方、あるいは能動的なはたらきかけによって社会をよくするヒントを(大量の参考文献とともに)提示する。そのような点で、いわゆる「推し活の暗黒面」的なものを一方的に断罪するのではなく、わたしたちにとってのその「悪さ」と仲良くなり、コントロールすることができるのではないか、というポジティブな場所へむかう力を語ろうとしている。

web.kawade.co.jp

 

 哲学をクィアリーディングするという試みは、大学の授業などではなかなか遭遇することがなかったためたいへん刺激的な本だった。願わくば、レオ・ベルサーニの諸作がうまいこと復刊や新訳などされるかして、気軽に読める状況になってほしいところ。

 

 終盤のバトラー批判はうまくいってないだろ、と自分からすればバキバキに思ってしまうのだが、この本で展開される探偵小説(ノワール映画)論はもうすこしここから現代のミステリ全般のかたちに援用できる方法がないだろうか、というくらいに面白い。

 

 近代化以後のジェンダー表象を複数ジャンルを横断することで語っていく切れ味の鋭い本。たとえば第一章の百貨店文化の登場によって、ショーウィンドウやカタログが生まれ、それによって女性の消費スタイルや欲望のロールモデルが生まれるがそれは同時に女性自身の商品化も加速させることになる、といった指摘などはいまなおクリティカルである。

 

 レジェンド翻訳家の名前ばかりが出まくるすさまじい本。これを読むといかに戦前・戦後にわたって女性が学ぼうとする場所がすくなかったかがわかるし、そのうえで早川書房にいた福島正実がどこまでもキーパーソンとして存在していたかもよくわかる。ただ、なかでもショッキングなエピソードだったのは、アメリカでの万博でアシモフに会いに行った小尾芙佐が、しかし『われはロボット』の翻訳をすでに担当し出版していたことを告げられなかったくだりだろう。んな無茶苦茶な、とも思うのだが、当時の翻訳出版事情を伝える貴重な証言でもあるだろう。

 

 いわゆるまどマギ以後に定着したマスコットと契約して魔法少女になるフォーマット(しかしグロテスクや露悪的なノリではない)をオタク≒推し活的な30歳会社員の環境と並列することで理想の自分と現実の自分のギャップに悩みつつ生きるというめちゃくちゃまっとうな話になっている。サブキャラのアイドル魔法少女・宵町かのんさんが素晴らしくよい性格をしているし、甘春わすれ先生による各キャラクターのデザインも素敵である。終始、読んでいてたいへん気持ちがよかった。

 

 ほうぼう(?)から百合だろ、と言われてて積んでいたところ、たまたま識者が語っているのを聞いて、さすがに読むか……となった。二十歳になるまで別居していた父と主人公の娘が近親相姦するようになってしまう話、といえばそれまでなのだが、とにかく内省的な、けれども小さなディティールが積み重ねられる現在形の語りによって、それはどこまでも痛みを伴うエモーショナルな記憶でありつづける。にもかかわらず、主人公の語りはやがて、ほんとうに欲していたのは遠くにいた父ではなく、目の前にいる母の愛であったことに収束していく。

 

 性暴力について、話すことはとてもむずかしい。わたしは幸い男性に生まれたのでそれほど(それほど)人生で嫌な目にあうことはなかったが、じゃあわたしが知人の女性に起きたことを語るのもまた違う。けれど「ほとんどない」ことにされている側というのは決して「ない」存在ではない。「ない」としているのはあなたたちであるし、わたしたちである。とりあえず、わたしにできるのはこの社会に「クソがよ~~」と言いつづけることであると本気で思っている。

 

 ロラン・バルトが現代にいたら負けヒロイン論で一冊書いていたとおもうくらいには、恋愛を喪失の経験だと思っているフシがある。

 

 トラウマ的体験が遺伝すること。被爆n世になること。生殖すること。子供を産むということ(被爆n+1世を生むということ)。

 

 癖のつよい百合が好きなオタクにとっては福音のような小説。ライトノベルの賞からデビューしたのち一般文芸に移り、小説を出せばみなベストセラーになり、本屋大賞も受賞した主人公・天羽カインは、しかし直木賞の候補になっては何度も落ちつづけている、という悲喜こもごも具合のパワーがすさまじい。

 また文藝春秋の本であるため、直木賞日本文学振興会の名前もそのまま出てくる。中盤のハイライトとして、直木賞の待ち会で落選がわかったあとオール讀物の編集をその場に呼びつけてブチ切れて釈明させるくだりがヤバすぎる。けどその後の展開ももっとヤバい。なにより作中作として出てくる主人公の書いた百合小説がかなりしょーもない感じなのだが、それがたいへんよい結末につながっていくあたりがテクいな~~と唸りっぱなしだった。文句なしに上半期ベスト百合です。

 

 やっぱり現代のライトノベル作家がいかに村上春樹を咀嚼してきたかについてちゃんと考えてきたほうがいい気がするぞ!!!! それはそれとしてNTRレンタルビデオ店のアイデアは馬鹿すぎる。人間の駄目さと切実さはちゃんと同居できるってことを中西鼎はみんなに語って聞かせようとしている。ボンクラ小説としてのラノベの道ってあると思うんですよ。

ラテンアメリカ文学麒麟児、レコレータさん(『リバース:1999』より)

 以上、30冊。去年は上半期下半期合わせて100冊あげましたが、さすがに馬鹿なので減らしました。それに今年はそこまで多く読めてなかった印象です。ぜんぜん動けていないのでどんどんオーディブルへの依存率が高まっている感じもしますし、下半期は創作に力を入れたいところですが……いやはや。”Tommorow is another day” の精神でやっていきたいですね。やってやりましょう。

 

エンディング:「お願いオフィサー」


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