百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』第2回:梨屋アリエ「つきのこども」

 本記事は百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』の第2回です。 前回の記事は以下になります。読まなくても本記事の内容は読めます。

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第2回:梨屋アリエ「つきのこども」(『プラネタリウム講談社文庫 収録)

 夜な夜な、わたし(斎藤磨布:さいとうまふ)は家から抜け出し、太刀衣生(たちいなり)のヘーベルハウスに窓から入って、朝まで過ごす。

 わたしと衣生がほんとうの意味で出会ったのは三年になる春休みの夜だった。秘密の散歩に出る習慣が身についていたその日、「ねえ、斎藤さん」「皆明塾の斎藤磨布さんでしょ?」と、ベランダから衣生が見ていた。

「こんな時間に、ひとりでどこへ行くの?」

「月に、帰らなくてはならない」

 ふいにこぼれ出た言葉に、わたしは自分のしていた行動の意味を知った。

 少しの沈黙のあと衣生は言った。

「あたしは、森になりたい」

 それ以来、わたしたちは夜に会い、互いに自分でつけた傷をなめ合っている。

 これをただ、痛々しい、と言い捨ててしまうことは、おそらくできない。起きている出来事がファンタジーであるから、絵空事だと笑って決めつけることも、きっとできない。なぜならここに書かれている「月」や「森」といった言葉の裏にある感情は、たんに「ここではない場所」への淡い憧れとして扱うには、あまりにも切実なものにもとづいているからだ。

 おそらく彼女たちは、この現実ではうまく生きることができないことを、心の深い部分でわかっている。だからこそ、ふいに「月」という言葉が出てしまうし、お互いの言葉や視線を介して、自身の似姿としての相手を見つけ、肌を触れ合わせることになる。

 彼女たちが直面している事態はかなりシリアスで、重く、暗い。序盤は文字通り傷をなめ合っている描写から、どこか退廃的な作品にも読めてしまうところがあるものの、中盤あたりから示される情報によって、「わたし」も衣生も、家という空間やしがらみのなかで、長いあいだその自由を奪われてきたことが伝わってくる。

 だから、夜という世界が眠りきった時間のなかでふたりが秘密の逢瀬を重ねるのは、ある種の正常さとして示され、同時に彼女たちを脅かす昼の世界からエスケープしてゆく手段のひとつなのだ。つまり、あたりまえとされる正しさに対する、ささやかな反抗がそこにはある。

 そしてあるときを境に、衣生は「森になることにしたんだ」と「わたし」に告げ、文字通り、彼女の身体は植物へと変化してゆく。ここにはファンタジー的な飛躍はあるかもしれないが、しかし精神的な飛躍といったものにはまったくならない。あくまで現実と地続きの感情によって、彼女は森になってゆく。

 またここで重要なのは、植物となった衣生が、有性生殖的な、つまりヘテロセクシュアルな社会の構造から解放されているということだろう。「わたし」が図鑑で調べたところ、衣生の姿はブナに似ていた、ということがわかる。

 衣生が桜や藤の木にならなかったことが、わたしは嬉しかった。彼女は、花を愛でるために生きるのではなく、花よりも大きな喜びを持っている。衣生は、多くの生き物たちに命の糧を与える木となったのだ。

 ブナ科の植物にも花はあるが、雌雄同株であることをおそらくここでは意図されているのだろう。もともと衣生は「将来それなりの男性と結婚して子どもを生んで育てること」が家のなかでの「存在理由」とされていた子だった。また同時に、家族とはうまくいっていないことが察せられている。だからこそ「わたし」はそのような従来の役割から解放され「森」になった彼女を見て、嬉しいと思ったのではないだろうか。また同時にその森のなかで「わたし」自身も救われていく。

 わたしは森にいるだけで、衣生の子を身ごもったように、幸せだった。そして、衣生の胎内で夢を見る胎児のように、幸せだった。

 彼女たちはその関係のなかで生まれ直し、結ばれること想像する。彼女たちにとっては、そうした想像の世界のほうがずっと現実より優しい重みを持っている。

 

「森」になるということ

 女性と植物、あるい森といった表象関係は、吉屋信子花物語』(河出文庫ほか)に触れている/いないにかかわらず、百合や少女小説といったジャンルのなかでは、いつ知ったかはわからないが、すでにあたりまえのものとして広く内面化されている世界観といってよいだろう。

 百合ジャンルの作品にそれなりに触れている読者であれば、一度や二度ならずとも、植物や花の名前を冠するキャラクターが登場する作品に出会ったことはあるはずであろうし、おそらくそれらをすべてを個人が網羅することはもうできない*1

 ただ、さらにその源流を探すとなると、ヒントになるのは渡部周子『〈少女像〉の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』(新泉社)かもしれない。本書では、明治期の段階ですでに「白百合」が女性に対する表象に持ち込まれていることについて述べているからだ。

 少女が見習うべき徳としての表象=「白百合」と国家により精神・肉体の「純潔」教育が明確に現われたのは明治末期とされる。これにはさまざまな文脈がさらに前提としてあるのだが、同時期には少女雑誌をの投稿を中心に、自発的に「白百合」という文字をペンネームに取り込む少女たちの言説が増えていく。1909年には青山学院高等女学校のエンブレムとして白百合が校章として用いられることもあった。

 百合というジャンルがこうした表象を前提として生まれてきたのかは、正直、資料不測であるためわからないものの、ただ日本国内において、女性が植物の表象と結びつけられることじたいは、百年以上前からすでにメディアを介したムーヴメントとして起こっている。

 よって、おそらく百合作品(などの蓄積された作品群)において、女性が植物と結びつけられるとき、それは大きくふたつの面を持つことになる。

 ひとつは将来的な結婚や妊娠を約束され、大人や国家に管理されてしまう、つまりは良妻賢母教育や異性愛主義のなかに含まれる、教科書的な都合のよさを持った「少女」像のための言説として。もうひとつは、それら大人や国家が持つ論理からは離れた、アンコントローラブルな存在、排除ができないほどしたたかに生きていく植物たちという価値転倒のためのイメージとして。

「つきのこども」における植物の表象は、おそらく意図的に後者を選び取っている。ものすごい勢いで生長して広がり、少女が森になっていくさまは、人間やシステムに支配されないつよさを持った存在として見出される。加えて自己完結した植物になるということは、生産のための肉体をだれかによって所有されないことを示唆している。都市のなかから「森」が生まれていくという演出も、それらの社会が持つシステムへの抵抗だとみなすことができる。

 もちろんこうした表現の潮流は、令和の現在でもつづいている。今後取り上げる予定の百合作品のなかでも、その二面のどちらか、あるいは両方が強調される作品はすくなくない。

 もちろんこの表象にも難しい面は残っている。たとえば前述した「純潔」にまつわる思想やまなざしは、「百合とレズは違う」といった偏った見方をいつまでも担保しつづけている前提としていまだ存在しているであろうし、植物という表象を戦略的に受け入れたゆえの価値転倒も、たんに作品の表層だけを見ているあいだは伝わらないことも多い(あるいはだからこそ戦略として機能するともいえるのだが)。

 また短編ではないが、現代の作品として、いくつか言及しておきたいものもある。たとえば昨年刊行された雛倉さりえ『森をひらいて』(新潮社)では、戦争のさなかで少女たちがつくりだす「森」がストーリーの鍵となっている。隔離された環境で一見のびのびと過ごす少女たちだが、次第にみえてくる背景には、あきらかに男性が利益を得るためにつくられた社会システムが存在する。よって少女たちはその犠牲者として用意されている。彼女たちはひとりひとりは無力だが、しかし手を取り合って抗うことはできる。「森」はその象徴的な存在として用いられている。

 ほかにも川口晴美『やがて魔女の森になる』(思潮社は男性的・異性愛的・従来的な家族の価値観からエスケープするための場所としての「森」を表現する。「世界が魔女の森になるまで」や「生き延びる」という詩はとりわけそのような意味合いがつよい。以下にその一部を引用する。

 ひとりになったら森へ行く

 毎日そればかり考えながら目が覚める

 アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て

 のろのろパジャマを脱ぐわたしの身体をこっそりチェックしてること

 気づいているけど黙ってる

 わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい

                 ――「世界が魔女の森になるまで」

(…)

 かわいそうな男の寝息を背に

 森へ行く

 ひとりきりでゆっくり歩く

 ここではおかあさんとかねえちょっととか呼び止められはしないから

 わたしはこっそりわたしの名を呼ぶ

(…)

 マユミ、

 アズサ、サツキ、カエデ、

 ミズキ、ナツメ、フヨウ、モモ、イブキ、カリン、ナギ、

 森のどこかにいるわたしのようなひと

                     ――「生き延びる」

 また「魔女」というのは、古くは共同体の外部に位置する存在であり、社会の決まったルールではない場所で生きる存在として、いま現在も表象されている。

 植物にしろ、魔女にしろ、男性中心的な既存の価値観をあえて受け入れて、それを脱臼させていくのは、なんども言うように、戦略的な読み換えといっていい。だから迫害されている対象である魔女と森のふたつが手を取り合うようにつながって語られることも決してめずらしくはない。

 なにしろ森は魔女のすみかだからだ。彼女たちは男のルールを自分たちに適用せず、それでも生きていくことのできる表象とまでなっている。こうした魔女表象と百合の結びつきについては、今後、杉元晶子「今日から魔女の材料になります!」でも語ることになるはずだ。女学校ものと森の関係については、明治女学校での体験をベースにした野上弥生子『森』(新潮文庫を読んでおきたいが、まだちゃんと読む時間が取れず未着手の状態であるため、それは宿題とさせていただきたい。

 

梨屋アリエ作品と百合について

 なお「つきのこども」は、世田谷ではなく、”世界谷”を舞台に書かれた連作短編集プラネタリウム』(講談社文庫)の四話目にあたる。各短編で舞台はゆるやかにつながっているが、それぞれ独立した短編として読むこともできる。続編としてプラネタリウムのあとで』(講談社文庫)もあるが、こちらから読むことも基本的には問題ない。

 上記のシリーズ内で共通しているのは、登場人物のまわりでは不可思議な出来事があたりまえのように起こることだ。ドキドキするたびに空を壊してしまい、割れたカケラを降らせてしまう少女やいつも15センチ宙に浮かんでいる先輩などが日常のなかに存在している。類例とまではいかないものの、ファンタジーと日常がまったくの地続きであるという感触は、衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』シリーズが近いかもしれない。

 また本作以外の梨屋アリエ百合作品として、『ピアニッシシモ』(講談社文庫)キズナキス』(静山社)を紹介したい。

『ピアニッシシモ』は亡くなった隣のおばあさんが弾いていたピアノの行方を追った先で新しい持ち主の女の子に出会う話。高飛車で、しかし「本物だ」と思えてしまうほど音楽の才能を持っている女の子に振り回され、次第に主人公はそのふるまいに傷ついていく。

キズナキス』は近未来の日本が舞台。内心が表面化され、コミュニケーションがエスカレートする「マインドスコープ」というICT技術が試験的に運用されている学校(主に吹奏楽部内の関係)を描いた作品。背景にあるのは企業による管理社会とSNSだが、その奥にはどうしたらこの社会でサバイブできるのかという感情に怯え続ける女の子たちの息苦しさがあり、終盤のたたみかけには圧倒される。

 上記二作品もまた、「つきのこども」と同様に、生きているだけで痛みを感じている少女たちの話だ。苦しみを抱えている彼女たちが幸せな場所にたどり着くことができるかどうかは、物語のなかでも保証されているわけではない。それでも届くべき場所に届いてほしい作品群であることに違いはない。

 

参考文献一覧

梨屋アリエプラネタリウム講談社文庫、2004年

梨屋アリエ『ピアニッシシモ』講談社文庫、2007年(現在は青い鳥文庫版がある)

梨屋アリエキズナキス』静山社、2017年

・渡部周子『〈少女〉像の誕生』新泉社、2007年

本田和子『女学生の系譜』青土社、1990年

稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書、2007年

・雛倉さりえ『森をひらいて』新潮社、2022年

川口晴美『やがて魔女の森になる』思潮社、2021年

・『文藝』2022年冬季号、河出書房新社

野上弥生子『森』新潮文庫、1996年

 

 

*1:名前以外にも、キャラクターと花との結びつきを強調した演出は多い。たとえばアニメ『やがて君になる』のOP映像など。