映画は夢というか悪夢である――『フェイブルマンズ』感想

スピルバーグの自伝的作品」ということを念頭に入れる。


www.youtube.com

 

 これはたぶん、夢という名前の悪夢についての物語だ。

 具体的な理由とまではかたまっていないが、自分のなかでは、長年ずっと映画礼讃映画というか、”映像の力を信じろ”系の作品にはぬぐいがたい違和感が残っている。いや、べつに小説礼讃小説でも漫画礼讃漫画でもどのような芸術その他題材ものでもいいのだけれど、人々がそこにある”魔法”と信じているものの大半は(最初はたしかに魔法であったのかもしれないが、最後にやってくるのはただの)自己肯定感であってほとんど魔法とはいいがたい。汚れたなにかになっている。

 とはいえ「映像に魔法がかかっている――」というのは体感としてよい映画に触れているとき、”いまここ性”があるな、とか、”このフィルムにこれが映ってしまっているのはもう奇跡みたいなもんだな”だとか、”ここにはもうこれだけしか存在しないしほかはきっと全部嘘だな”とかいう現前性、卓越性の謂いとして受け止めることはできる。とはいえ、とはいえですよ。

 でもそれって結果論じゃないですか。

こういうこと言っちゃう小説家映画だってあるわけで。

 じつのところその”魔法”の正体が小手先のテクニックに起因していたり、俳優自身の持つたたずまいの魅力であったり、脚本の力であったり、光の差しこみぐあいであったり、その場の工夫というかいたずらであったり、劇伴演出のバランスのよさであったり、名も無きひとびとの努力であったり、たんなる偶然であったりするということもわかる。

 だから”魔法”という言い方をして、それらをどうにか魔術化して、スキップして、うまいこと煙にまいて、嘘にしたくないのもわかる。わかるが、創作物が出てくるフィクションのなかで人が面白さ=魔法に感動していくのってじっさいは少数例というか、本質的には嘘であるわけじゃないですか。それに向きあってくれる作品のほうが、個人的にはうれしい気がする。気がするだけかもしれない。

 だとしても、世界の人々の多くはべつにフィクションのために生きているわけではない。だからそんな簡単に思い通りなかたちでは世界は変えられないし、社会現象にはならないし、じゃあ創作対決だ!みたいな盛り上がりを仮につくろうとして、往々にして現実は片方のオーバーキルによって終了しちゃったりして、いい感じのドラマにはならない。なんかこう、創作によって感動すること、浄化されること、なにか現実の問題が解決することって、さすがにフィクションの持っている絶妙なぐだぐださをなめすぎじゃないですか? みたいな感じがしている。

 さらにいうと、作中作がそこまでおもしろくできるんだったら、そもそも創作者はそれを作中作というかたちでお出しせず、そのままおもしろい作品として発表したほうがずっといいのだと思う。だからふつうは作中作フィクションはいうほどおもしろくなってくれない。あるいは駄作であることをうまく説明することで逃げ切ろうとする。

 じゃあそれもできないときにどうするか。というと、こういうとき、作中作をおもしろいとあえて”思わせる”には料理漫画、あるいはバトル漫画メソッドを採用して、どのように「なぜ面白くなったのか?」を説明して、勝利のロジックを嘘でもいいから構成し、観客の気持ちをうまくハックして高揚させてみせるか、観客と作り手の感情をうまく同期させるルートを使うことで画面に映っているもの以上のものを現前させようとする。ちなみに『フェイブルマンズ』のなかではどちらも採用される。

 え、こわいね。

 さて、前置きが長くなった。

『フェイブルマンズ』本編の話に戻ろう。本作は、そういった中途半端な映画もの映画どころではすまないくらいに、映画がうますぎる化け物みたいな人間のはなしだ。

 そのために冒頭で、すでに”魔法”の在処は説明されている。主人公は人生ではじめてみた映画に魅せられてしまい、帰り道、ずっとうっとりとした表情を浮かべつづける。そしてそれから長い時間を待たずに、カメラとフィルムと投影機を手に入れて、自身の手のひらにそのすべてをおさめることに成功してしまう。

この画面は色相もあいまってドリーミーであると同時に英雄的な予言にもみえる。

 なので、この画じたいが魔術的で、完璧だし、すばらしいのだが、主人公の持っているマジックはたんなる創作の領域、つまりすばらしい映像を撮れてしまうどころではなかったことが物語のなかで、次第に明らかになっていく。

 彼は映画が隠し持っている魔術というものを本能的に操れてしまうし、ちょっとした工夫で観客を笑いの渦に巻き込むこともできてしまう。なにをするのが正解なのかわかってしまう。だから彼自身には表面上、創作のクオリティそのものへの鬱屈や屈託といったものがまったくといっていいくらいに描かれない。彼はなにひとつイマイチなへっぽこ創作者ではないし、常に作品を面白くさせつづける才能を持っている。

 だから彼をおびやかすのは、むしろその外部にあるものだ。彼は将来の成功を約束されているという意味で(英雄的なかたちで)映画そのものに愛されている。しかし、その能力を持っているがゆえに、多くの人以上にものが「見えて」しまう。なんならカメラを構えることで、人々のなかにある「大事なもの」を生々しいままに引き出したり、あるいは自由に「ねじまげる」ことができてしまう。

 作中でその点が扱われるのは二回(厳密には三回)ある。具体的にはどういうものかはここに書かないが、二時間ほどの映像による彼の来歴としての観客の脳裏に残るのは、映画は多くの人を幸せにできるかもしれないが、べつに被写体自身は幸せになっているわけではない、という強烈な矛盾であり、皮肉である。

 つまり、映画は多くの人にとってはたしかに夢みたいなものかもしれないが、特定の個人にとっては拭いがたいくらいの悪夢でもある。表面のきらびやかさに隠されているその両義性を、わたしたち観客は嫌でも意識せざるを得ない。

 ラストシーン。仕事に就いた主人公は、とある人物との出会いをはたし、映画に関する短いアドバイスを与えられる。そうして建物を出た彼もまた、映画のなかの住人となっていることにふと気づく。そのような「気づき」の演出が、まるで、スクリーンの向こうから制作者がウインクでもしてみせるようにおこなわれる。

 だからそのときようやく、主人公である彼もまた、被写体という魔法の素材の一部となって、スクリーンの向こうに消えることができてしまう。しかしそれは嘘だ。ただの嘘だ。しかし嘘である以上、それはやはり”魔法”でしかありえない。

 なぜならそれが”魔法”であり”夢”であるために、酷い話だが、わたしたち観客はなにかすごいものを観たと誤解を起こし、なんなら感動できてしまう。しかしエンドロールが終わって映画館が明るくなったとき、なにも映さなくなったスクリーンの、その誤解の先に、起きていたことのおそろしさに心のうちで気づいてしまう。

 なぜなら”彼”はついに、醒めない夢を見るために、ついには自分自身にたったひとつの魔法をかけてしまった。

「じゃあ、いったい”彼”は映画の中で/外で、はたして幸せだったのだろうか?」

 しかしいま、それはとけない魔法となってしまった。そうして生まれた彼の夢は、だからいつまでも答えは導かれないまま、光のなかで残りつづける。

 

エンディング:ArtTheaterGuild「Papermoon」


www.youtube.com