ジェフリー・フォード「創造」を誤読する。

 タイトルの通りです。先日、個人的に参加している読書会で「創造」が課題短編となり、数年ぶりに再読しました。そこで考えたことを忘れないうちにメモしておきます。

 

 

 

【※本記事では、ジェフリー・フォード「創造」の内容に言及します。未読の方はご注意ください】

 

 

 

 

※参考テクスト:ジェフリー・フォード「創造」谷垣暁実訳『言葉人形 ジェフリー・フォード短篇傑作選』(東京創元社)収録。

「創造」の概要

  ジェフリー・フォード「創造」は、プロットが進んでゆくにつれて、複数のジャンルフィクションのレイヤーが織り重なるようにして語られてゆき、しかし最後には人生の豊かな側面を教えてくれる短編として受け取ることができます。

 まずはこの、作中ストーリーのそれぞれのレイヤーについて、ざっくりと整理したいと思います。

 ①:子供の語り手「私」が聞きかじった「創世記」のエピソードをもとに、自分も「人間」をつくる「ごっこ遊び」的な行為をおこなうジュブナイル

②:しかし空想であったはずの「私の人間」がほんとうに動き出してしまい、森のなかを徘徊するようになってしまうというホラーあるいはファンタジー

③:一連の出来事を父に相談し、「私」は父とともにその人間=「キャヴァノー」を捕まえようとする。森の奥で「私」は「人影」を目撃する。声をかけると「ありがとう」という相手の囁きが聞こえ、どさりという音を耳にする。「私」はそれを「キャヴァノー」が「つくられる前に戻った」のだと考える。

④:しかし20年以上経った大人になってから、あのとき「キャヴァノー」を演じていたのはもしかすると父だったかもしれない、と真実に気づくミステリー

 これらのプロットを順に追っていくことで、読者は「父」という存在の意外な一面に触れ、親子間の心のふれ合いがひとしれずあったことを理解します。そこには子供の未分化な「空想」すなわちファンタジーの世界を壊さないようにふるまう、父親から息子に向けられた優しいまなざしが流れているように思われます。

  ですが、「創造」とはほんとうにそれだけの短編だったのでしょうか。

 

父と子の対比について

「創造」の物語は「私」という主観的なフィルターを通して語られています。つまりは不完全な回想形式です。もちろんそれによって多くの読者は自然とこの「私」に寄せて事実を理解することができるわけですが、場合によっては、そこにはなんらかの読み落としが起きているかもしれないことについて、今回は考えてみたいと思います。

 つまり、本作において「私」から見た「父」というエピソードによって父子の関係は物理的にも精神的にも「守る→守られる」ものとして理解されています。ですがほんとうにそれだけだったのでしょうか? 自分はこれを考えたいのです。

 もちろんこの「守る→守られる」の一方的な関係は、一読すると、ストーリーの結論部にまで、じつにテクニカルなかたちで保持されているように思われます。なかでもわかりやすいのは「筋骨隆々」とまで書かれている「つよい父親」像のふるまいを序盤の段階でこれでもかと読者に対して見せつけてくれるくだりでしょう。

(…)あるとき、近所で飼われていた、ポニーほどの大きさのドーベルマンがどういうわけかひどく興奮して、うちの前の通りをプードルを連れて散歩していた女の子に襲いかかった。父は(…)犬をめった打ちにして殺した。(…)

 いっぽうで、「私」はキリスト教の信仰に親しんでいるため、まったく正反対の言葉を、ひとりでに歩き回っているキャヴァノーに対して思います。

(…)いずれにせよ、今となっては彼をばらばらにすることはできない――汝、殺すなかれ、だ。(…)

 十戒は動物を殺すなかれ、とはいっていなかったと思いますが、すくなくとも暴力を行使できる父と、それを行使できない私という対比がここには見られます。また、両者の違いは、その前に語られている信仰面においても記述されています。

 アダムがつくられたことについてどう思うか、あとで私は父に尋ねた。父は私が宗教にかんする質問をしたときにいつも示す反応をした。「あのな」と父は言った。「それは話としてはよくできてる。だが、死んだら誰だって、蛆虫のエサになるんだ」あるとき、体調不良の母に頼まれて、父が私を教会に連れていったことがあった。父は司祭とまともに向かい合う最前列の席にすわった。ほかの人たちが片膝をつく敬虔なお辞儀をしたり、立って歌ったりしている間、父はその場にすわったまま、腕組みをして、脚を組んだ姿勢でにらみつけていた。(…)

 こうした記述から、父が信仰を持っていないことはあきらかです。

 とはいえ、わざわざ「にらみつけてい」るとなると、なにか、恨みのようなものがほのかに感じられるかもしれません。もちろんこの段階で、父の内心を完全に理解するのは作中の記述からはとてもむずかしいところなのですが、ただ、この父が単なる「つよい父親」ではないことが語られる瞬間が作中にあったことは指摘できます。

 

父≒キャヴァノーという重ね合わせ

 つよい父親ではない姿。それは、何度かくり返される、「キャヴァノー」の声によって間接的に描かれています。私は彼のいる森から逃げる途中、「大きな叫び声」を耳にします。それが次第に父親のものと、しらずしらずのうちに重なっていくのです。

(…)私は通ってきた道を駆け戻った。逃げていく途中で、大きな叫び声が聞こえた。砦も動物でも人間でもなく、オークの古木から大枝が裂けて離れるような叫びだった。

どのような肺、どのような声帯がそれを生み出したのかはわからないが、彼は呻き声をあげた。それは私がそれ以前に一度、聞いたことがある声だった。父が悪夢に包まれて眠っているのを見ていたときに。

(太字は引用者)

シダの髪が茶色くしおれているキャヴァノーが、死んだリスたちの祠を見つけたところだった。切り開かれて、広げられ、壁にかけられている亡骸の毛を、彼が優しくなでているのが見えた。彼はカバの木の脚が折れそうになるのもかまわず、両膝をつき、もの悲しい叫びをもらした。その声は私の心に突き刺さり、いつまでもそこにとどまった。

 このキャヴァノーの姿を見聞きするのは「私」(の内面の投影といってもよいの)ですが、父に似た声を通して「私」は自分がつくりだしたもの、生み出したものが抱いてしまう悲しみや苦しみ、痛みに触れてゆきます。単純にストーリーテリングとしての関係を見出すのであれば、あるいはこれを「父=キャヴァノー説」の「伏線」と捉えてもよいかもしれません。ただそれはいったん措きましょう。

 そうして彼の「声」に何度も触れていったあと、物語の終盤、出来事の経緯を「父」に伝えた「私」はなにができるかを考え、こう言います。

「せめて何か言ってやりたい」

 森の奥、父と別れた私は「背の高い松の木の幹に半ば隠れている人影」を見つけます。「キャヴァノー?」私は叫びます。「きみなのか?」「そこにいるのかい?」

 それに対して、姿のはっきりしない人影は「なぜ?」と訊きます。わたしは言います。「だいじょうぶかい?」しかし相手はまた「なぜ?」とおなじ問いをくり返します。つづく記述は以下の通りです。

 私にはその問いの答えがわからなかった。そして、彼が生まれた日に、教理問答書の問いではなく、答えを読んでやればよかったと思った。(…)自分が嘘をついているのは、ほぼ確かだと思いながら、叫んだ。「ありあまるほどの愛があったから」と。

 すると聞きとるのもやっとなぐらい微かな、彼の囁きが聞こえた。「ありがとう」

 そうして「彼」はまるで呪いが解けたかのように「つくられる前に戻」ってゆきます。「私」は自分のつくったもの(≒被造物)に「愛があったこと」(≒神の愛)を伝えたことで、一連のホラー/ファンタジーめいた出来事を終わらせたのでした。

 しかしここではあきらかになっていない部分があります。だとすると、このとき問われた「なぜ?」とは具体的にどのような意味の問いかけだったのでしょうか。

 

痛みの問題

 自分は教理問答書というものに触れた経験がないのですが、物語冒頭のシーンで「誰があなたをおつくりになりましたか?」に対して「神さまがわたしをおつくりになりました」と答えているのを作中の記述にあたったことで知っています。

 ですから、これをもとに誤読してみましょう

 つまり、物語終盤の「なぜ?」という問いは、上記の問いを発展させた「なぜ神はわたしをおつくりになったのですか?」だったのではないか、と仮定します

 また仮にそれを前提としたうえで、大人になった「私」の出した結論(父=キャヴァノー説)が真であるとした場合、不信心者であったはずの父が、姿を隠した状態で、わざわざキリスト教的な「なぜ?」という問いかけを息子に向けていたことになります。

 しかし、これはいささか不可解です。

 なぜなら「なぜわたしをおつくりになったのですか?」という問いかけが彼のなかに抱かれ、「私」に投げかけられていたということは、一見つよく見えていたはずの「父」という存在が、人知れず苦しみや痛みを、まったき生に対する疑問を抱えていたのではないか……という可能性を示唆することになり、「つよい父親」像を正面から破壊してしまうことになってしまうからです。これでは、終盤まで維持されていた、「守る→守られる」の優しい関係は瓦解します。

 ならば、これはいったいどういう事態なのでしょうか。

 しかしすぐには結論に飛びつかず、いったん話を脱線させてみましょう。脱線といっても最終的には合流する予定です。ただ、その脱線という解釈のための副読本として、C・S・ルイス『痛みの問題』の記述を引いてみたいと思います。

 もちろんキリスト教といっても、ルイスは英国国教会の信者ですので、フォードの描いたアメリ東海岸部でのキリスト教信仰とはおそらくニュアンスが異なっています。とはいえ、ここで語られているのは普遍的な問いかけとしても成立するものであると仮定して考えていきたいと思います。

 さて、作中の「なぜ?」とは、かなり曖昧な問いにも思えましたが、具体的には以下のような問いかけに変換できるのではないでしょうか。すくなくとも、ルイス『痛みの問題』にはこう書かれています。

「もし神が善であるとしたら、被造物を完全に幸福にすることを願うでしょう。またもし神が全能なら、そうした願いを実現することができるでしょう。しかし被造物は幸福ではありません。とすると、神は悪しき神であるか、それとも力を欠いているか、もしくはその両方ということになりますが?」。さて、これは最も単純な形に還元された「痛みの問題」です。

 こうした「痛み」があることによって「現に救われていない以上、神を信じることはできない」という考え方を「父」が持っていたとするなら、彼の口癖は大いに積極的な意味を持ってわたしたち読者の前に現われます。

 つまり、父の人生に横たわっていたのは、作中の言葉を借りるのであれば「蛆虫のエサ」になるような生そのものの陳腐さ、あるいは死そのものへの諦観、ニヒリズムだったのではないでしょうか。無神論者であれば、こうした感覚はごくありふれたものでしょう。なにしろ神という存在は、生活の実感としては、個々人の苦しみを簡単に解消してくれるわけではないからです。

 もちろんルイス自身も、この問題解決は容易ではないことを語っています。

 人間の苦しみと愛の神の存在とを矛盾なく理解しようという問題は、わたしたちが〈愛〉という語に通りいっぺんの意味を付している限り、つまり人間こそがすべての中心であるかのように思いなすかぎり、解決できないのです。(…)わたしたち人間は本来、わたしたちが神を愛するためにではなく(もちろんそのためもありますが)、神がわたしたちを愛してくださるために、愛の神の「心にかなう」ものとなるように、造られたのでした。神の愛があるがままのわたしたちで満足してくださるように願うことは、神に対して神たることをやめてくださいと願うにひとしいのです。

 この部分はキリスト教の教義と絡まるように存在している道徳観として捉えるべきかとおもうのですが、だとしてもこのロジックは、無神論者からすれば、大いなる矛盾と欺瞞があるものとして映るに違いありません。

 とはいえ、造られるということと、そこに愛があった、ということは「創造」の物語のなかでも用いられていたロジックでした。

 また、もうひとつ言えることがあるとすれば、「創造」という短編は聖書の物語をベースにしたお話であると同時に、ゴーレム伝説にも近いということでしょう。

 神のまねごとをして生まれた命、それが「言葉の力」によって最後にはつくられる前に戻ってゆく(土に還ってゆく)。このような文脈を付け足して理解するのであれば、「なぜ」という問いかけは、より切実な言葉として響くのではないかと思うのです。

 どういうことでしょうか。

 つまり自分は、ここには祝福されることのなかった生命の物語であるフランケンシュタイン』の怪物のこだまが聞こえないだろうか、と考えたいのです。

 

「なぜつくったのか」という問いかけについて

 メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』の思想の源流とおもわれる言葉は作品に付されたエピグラフに書かれています。以下にそれを引用します。以降、『フランケンシュタイン』の引用として使うのは、すべて光文社古典新訳文庫小林章夫訳に準じます。

 創造主よ、土塊(つちくれ)からわたしを人のかたちにつくってくれと

 頼んだことがあったか?

 暗黒からわたしを起こしてくれと、

 お願いしたことがあったか?

           (『失楽園』第一〇巻 七四三~七四五行)

 これが『フランケンシュタイン』冒頭に使われているエピグラフです。

 わたしはミルトンについて明るくありませんし、『失楽園』は未読ですから、それについて、なにひとつ歴史的な背景や作品の位置づけを語ることはできません。ただ、上記の引用部が反語的表現であるとは理解できます。

 それらの言葉には強烈な苦しみと怒り、「なぜ/どうしてわたしをつくったのですか?」という創造者への訴えかけが(『フランケンシュタイン』という作品を通すことで)見えてくるはずです。

 なぜなら『フランケンシュタイン』の中核部分を占めるのは、この生み出された怪物自身による告白だからです。造物主に見放され、愛を求めて得られなかった男の苦悩。この怪物はアダムのようで、しかしまったくアダムではありません。怪物がフランケンシュタインに直接、語りかけていたように「おれはおれをつくったおまえにも嫌われている」のです。

 ですから、その怪物は、決して祝福されることはないのです。『失楽園』を読んだ怪物は、生みの親にこう言い、訴えかけます。

(…)自分の境遇を思わせる箇所が目につくたびに、おれはわが身と引き比べた。アダムと同じく、自分もこの世の存在とまったく無縁に見える。しかしアダムの状況は、ほかのどの点を取っても、自分とは似ても似つかない。彼は神の手から生まれた完璧な存在で、創造主の特別な配慮に守られて、幸福と繁栄を謳歌している。自分より高い存在と会話を交わし、そこから知識を得ることも許されている。

「呪われし造物主よ! おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ? 神は人間を哀れみ、自分の美しい姿に似せて人間を創造した。だがこの身はおまえの汚い似姿に過ぎない。おまえに似ているからこそおぞましい。サタンにさえ同胞の悪魔がいて、ときに崇め力づけてくれるのに、おれは孤独で、毛嫌いされるばかりなのだ」

 そうなのです。「なぜわたしをつくりあげたのですか?」という問いがここにもあるのです。またこのあと『フランケンシュタイン』の怪物はそこで自分の望みを造物主に告げますが、それは聞き入れられることはありませんでした。

 だとするなら、ジェフリー・フォードの「創造」は、この『フランケンシュタイン』の物語をなぞるようなかたちで展開しつつ、しかしバッドエンドにはならない展開での「再話」をおこなっていたのではないでしょうか。

 だからこそ「創造」の終盤において、「キャヴァノー」は「なぜ?」と問いかけ、造物主である「私」はそれに対して「神の愛」があることを告げたのではないでしょうか。そうして命を祝福することによって、悲劇を回避したのではないでしょうか。

 

ふたたび、父≒キャヴァノーという重ね合わせ

 さて、これまで長ったらしく誤読してきたように、「キャヴァノー」という被造物は、造物主による愛を告げられることで、その生を祝福され、元の姿に戻り、その生を終えることができました。ですがそれは、おそらく表面上に起きていたことにすぎません。なぜならそれはあくまで「私」と「キャヴァノー」のあいだでの関係だけにすぎないからです。

 ですからここでさらに進んで考えるべきなのは、「父」と「神」の関係、つまりは信仰の問題ではないでしょうか。ふたたび父の記述に戻りましょう。

(…)あるとき、体調不良の母に頼まれて、父が私を教会に連れていったことがあった。父は司祭とまともに向かい合う最前列の席にすわった。ほかの人たちが片膝をつく敬虔なお辞儀をしたり、立って歌ったりしている間、父はその場にすわったまま、腕組みをして、脚を組んだ姿勢でにらみつけていた。

 先にこれを引いたとき、自分は語り手の「父」はたんに「信仰を持っていない」人物である、という解釈をしました。しかし『フランケンシュタイン』の物語をあえて挟んでから考えると、その先のものがおぼろげながら見えてきます。

 つまり、語り手「私」の「父」はフランケンシュタインの怪物のように「生そのものを呪っていた」のではないでしょうか

 なぜわたしはほかのだれかのように幸福をまっとうに受けることができないのか。神はこの世のすべてを最善とされたのではなかったのか。ならばなぜこのわたしは不幸であるのか。なぜわたしは醜くつくられたのか。なぜこの苦しい生はあるのか。そのような憎しみの感情を抱いていたからこそ、教会で信者たちのような敬虔なしぐさをすることはなく、彼はただただ「にらみつけていた」のではないでしょうか。

 

ほんとうのことがわかるまで

 そのような苦悩を抱えていた(かもしれない)父は、物語の終盤、森の奥で「キャヴァノー」という影となって語り手である造物主と対峙します。さながら生みの親と再会した「フランケンシュタインの怪物」のように。そして彼は問いかけたのです。

「なぜ?」

 ですからここにおいて、父と子の関係は「空想」という世界のなかでまったく逆転しています。そのなかで、父は子に向かって喋っていると同時に、親に向かって、あるいは神に向かって「なぜ?」と切実に問いかけていたのです。

 あの当時、なにが「父」の心にあったのでしょうか。

 これについては、ほとんど推測というよりは妄想でしかないのですが、「創造」という短編において、もしかすると、あまりにも存在感の希薄であった「母」の側になにかがあったのではないか、と勘ぐることはできないでしょうか。

 加えて、その事実は、語り手の「私」は知ることがなかったか、あえて語ろうとはしなかった。作中の記述をひとつ拾うことができるとすれば、父が私を教会に連れて行ったのは、母が「体調不良」であったためという部分です。

 であるならば、このさりげない一文のなかに、いずれはだれもが「蛆虫のエサ」になりゆくという、死の影を感じ取ることはできないでしょうか。もちろん穿ちすぎな見方であることは承知しています。

 そのうえで、森の奥で「なぜ?」を問われた「私」は考えます。

 私にはその問いの答えがわからなかった。そして、彼が生まれた日に、教理問答書の問いではなく、答えを読んでやればよかったと思った。(…)自分が嘘をついているのは、ほぼ確かだと思いながら、叫んだ。「ありあまるほどの愛があったから」と。

 ですからこのとき、つよかったはずの(しかしじっさいは弱い、悪夢にうなされるような存在であった、苦悩を抱えていたかもしれない)父は「だいじょうぶ?」と息子にはじめて声をかけられていたのではないでしょうか。

 よって、ここにおいて、父と子の「守る→守られる」という関係は、ファンタジーという空想のクッションを挟むことで、はじめて崩されたのではないでしょうか。あるいは『フランケンシュタイン』風にいうのであれば、そのとき父のもとには「創造主の特別な配慮に守られ」る瞬間が訪れたのではないでしょうか。

 だからそれは、無垢な子供の声として、しかしまっすぐに届けられたのです。そうして父は、息子の嘘を、ひとつの真実として聞き入れた。つまり「信仰による救い」という「よくできた話」が虚構であることをじゅうぶんに理解しながら、しかし自身の生はまったく呪われていたものではなく、じゅうぶんに愛されていたものである、と。そう考えたのではないでしょうか。そうして彼はそのときになってようやく、苦悩に満ちた人生を、はじめて受け入れることができたのではないでしょうか。

 だからこそ、父はこう答えることができたと考えることはできないでしょうか。

「ありがとう」

 そうして、物語は終わりに向かいます。

 幼いころの出来事もはるか遠く、語り手である「私」が結婚してから二十一年の時間が経ち、彼は二児の父となりました。「母は何年か前に世を去っ」ており、彼女についての言及はそれ以上はありません。すべては墓のなかにある以上、わたしたち読者はただ、その余白を想像で埋めるほかありません。

 とはいえ、母という存在になんらかの秘密があったのかもしれないことは、作者自身もおぼろげながら示しているように思われます。かつて「キャヴァノー」を生み出し、森で怖れを感じた「私」が家に帰った夜の記述に、それはさらりと書かれています。

 その晩、灯りを消してベッドに横たわり、傍らにすわっている母がクルーカットの頭をなでながら、優しい声で「ほんとうのことがわかるまで」を歌ってくれていたとき、(…)

 もしかすると、彼女はぜんぶ知っていたのかもしれません。少年のいたずらめいた生命の創造のことも、父のうなされていた悪夢の正体も、なにもかも。

 とはいえ、残念ながら、自分には英語圏の文化に関する知識をまったく持っていない以上、この歌のタイトルからだけでは、じっさいに曲そのものを確定することはできませんでした。もしかしたら、その歌詞になにか大切なものが書かれているのかもしれません。もちろんただの思い過ごしであるのかもしれません。

 だとしても、奇跡のような瞬間の訪れは、だれにも知られないうちに起きていたのではないかと、この短編を読んだわたしは思わずにはいられないのです。

 もちろんそう息巻いて訊ねてみても、きっと作中の「父」は決まってこう言うでしょう。生命の息吹をくゆらせながら。もうじき「蛆虫のエサ」になっていくことを待ちかねながら。土に還ることを理解しながら。

「いったい何の話をしているのか、さっぱりわからないよ」

 とはいえ、これはべつに、悪い結論ではないのだとも個人的には思っています。しかしそれだとさすがに拍子抜けかもしれません。ですからここまで付き合ってくださった読者のみなさんに、わたしも問答書のようにひとつ、あえてわかりきった問いを投げてみます。

 みなさんは、あの有名なゴーレム伝説のなかで、粘土からできた人形に命が宿るとき、額に書かれていた文字のことを覚えていますでしょうか。

 そうです。あの土人形の額にあった、

「emeth(真理)」

 は、一文字だけ削られてしまいます。そうして、

「meth(死)」

 となることで、すべては土に還ってゆき、「真実」というものはだれにも知られず、ただそっと、安らかに埋葬されるのでした。ですからその墓をあえて暴こうとするのは、じっさいは野暮な行為なのかもしれません。

 というわけで、この誤読はみなさんとわたしとの秘密にしておきましょう。

 

 

エンディング:odol「時間と距離と僕らの旅」


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※なお、本記事を書くにあたり、金森修『ゴーレムの生命論』および種村季弘『怪物の解剖学』が念頭にあったことをここに付記しておきます。