コピーカードで買えないもの【創作】

 紅坂紫さん編集のフラッシュフィクション専門誌『CALL magazine』vol.64に「夏休みの工作密室」が掲載されました。詳細は以下のリンクをどうぞ。6月2日まで各種ネットプリントで印刷できます。以降はInstagram上で読むことができます。

https://www.instagram.com/call.zine/

 タイトルの「コピーカードで買えないもの」はそれと同時並行で執筆し、掲載を見送ったフラッシュフィクションとなります。こちらもよかったらどうぞ。

 

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 いまから十九年前、物語は第四講義棟にある地下印刷室ではじまりました、と先生ならばあえて言うのかもしれなかった。

 印刷室には課金式のコピー機が五台設置されていたのだが、学生たちはしかし硬貨を直接投入することは許されず、専用の自動販売機でプリペイド式の磁気カードを購入することでようやくその恩恵にあずかることができたのだった。当時、先生はまだ学部二年生の若造で、だから自分が詐欺に引っかかったことにも気づけなかった。

 ちょうど使っていたカードが残高切れとなって、さてどうしようかと思ったとき、後ろから声をかけられた。すみません、カードを買い取っていただけないでしょうか。間違って高いほうを押してしまって、もう使う機会がないんです。自販機で販売されていたカードは、千円、二千五百円、五千円の全三種類で、相手が持っていたのは五千円のものだった。パンチされた箇所を見るに、ほんとうに一度使っただけなのだろう。言い値で結構です、という提案を受け、先生はすぐさま了承した。金銭的な得もあったが、相手が異性でないというだけでつい警戒心を緩めてしまった。

 ほんとうは二千円で済ませたかったのだが、先生は見栄のために三千円を支払った。けれどじっさいにカードを挿入してみても、返ってきたのは短く反復するエラー音ばかりだった。あの、これ使えないみたいです、と困惑気味に振り返ったときには、もう相手の姿は消えていた。以降、先生は二度と彼女に出会わなかった。

 先生の仕事机にあるフォトフレームには、いまもその磁気カードが飾られている。冷静になれば、それが中古のテレフォンカードを下手に加工したものとすぐにわかる。こんなもの、持っていても仕方ないでしょう、と言ってから、わたしはつい訊ねていた。もしかして、一目惚れだったんですか。いいえ、違いますよ、と先生はかぶりを振った。

 人生にひとつくらい、答えのない謎があってもいいじゃないですか。三千円の使い途、気になりませんか。わざわざつまらない詐欺をしてまで必要だったお金です。いったいどんな目的だったのでしょう。先生はかすかに苦い笑みとともに、その日のゼミを終わらせた。本学では二〇二三年にコピーカードが廃止され、ICチップ式の学生証を使ったチャージ制に統合された。わたしはもう二度と生まれることのない謎の価値について考え、きっといまも三千円のままなのだろうな、と結論づけた。