狐と狼のゲーム――『冬期限定ボンボンショコラ事件』についてのメモ。

【※本記事は『冬期限定ボンボンショコラ事件』および〈小市民シリーズ〉の内容に一部言及します。未読の方はご注意ください。】

 

 

 初っぱなから脱線した話をさせていただきますが、クローズドな舞台における殺人事件(推理小説)を考えるとき、わたしがそこに敷衍するイメージはおおよそ人狼ゲーム(汝は人狼なりや?)のようなものです。

 死体が現われ、その下手人は夜に隠れ、残るは無力な人間たちと小さな光明を指し示す人間たち。それら複数人で構成される共同体の、合議制による吊るし上げのゲーム(狩り)こそがミステリの、あるいはクローズドサークルにおける連続殺人のプリミティブなかたちではないでしょうか。

 この人狼ゲームの攻略方法は諸説あるかもしれませんが、一般的に、人間(村人)側の最適行動は、だれもが言動における一貫性を自覚してふるまい、互いを信頼し、その情報に基づいて危害をなす存在をあぶり出すことでしょう。なぜなら犯人だけが嘘をつく合理的な理由を持っているからです。反対にいえば、無辜の民に瑕疵はなく、嘘をつく理由もありません。

 では本作、『冬期限定ボンボンショコラ事件』についてはどうでしょうか。という強引な問いかけによって本作の話をはじめたいと思います。

 そもそもの「小市民」のはじまり。過去の事件においてこのゲーム(狩り)をおこなうのはふたりの中学生、小鳩くんと小佐内さんのタッグです。ふたりは現場に残された証拠や人々の証言をもとに事件を都度、再構成し、その条件に合う人物Xをあぶり出し、揺さぶりをかけ、捕らえようと画策します。しかしこれは残念ながらうまくいかなかったことが、シリーズの初期段階から示唆されてしました。そして本作において、その理由はおおよそ説明されます。

 第一に、当時の彼らには謎を解く力がなかったこと。過去において、広義の密室は解かれないまま終わります。第二に、解き終わる前に事件そのものが終わってしまったこと。事件は小さな新聞記事として収束します。しかし最も大きな理由は、第三のものではなかったのか、とわたしは思います。つまり、彼ら彼女らの出会う登場人物はみな、ふたりに協力的ではなかった、ということです。

 クローズドな殺人ゲームにおける共同体のルールは単純で明快でした。登場人物はふたつの属性に簡単に分けられます。つまり「危害をふるう犯人」と「無辜の民」です。無辜の民は自分たちに危害がおよぶのを防ぎたいですから、全員一致で結束し、犯人をあぶり出そうと動き出します。

 しかし『冬期~』の物語は、そのような安定した、あるいは合目的なミステリにはなりません。犯人をあぶり出そうとした人々は早々に解散をはじめ、関係人物はみな隠し事を持っており、それぞれの理由によって動きます。そこにおいて証言はみな一様に信頼ならないものとなり、提出された証拠さえも検討の必要が生まれます。

 もちろん、クローズドな(あるいは伝統的でスタティックなミステリの殺人)事件においても、利害関係者は個々の理由で嘘をつくでしょう。しかし往々にして、探偵側がひとたび心の牙城を崩せば、探偵の目的に合わせてすらすらと丁寧に正しい情報を、余すことなく伝えてくれるようになります。さながらアドベンチャーゲームNPCのように。もちろんその理由として大きいのは、そうしなければ事件解決のための情報が最後まで集まってくれず、小説がいっこうに終わらないからです。

 であれば、『冬期』においてこの「失敗」が意図して描かれたこととは、示唆的なように思われます。過去シリーズを通しての解釈としては、過去、彼らは決して周囲の人間と友好な関係を結んではいなかったから、ほんとうのことを伝えてもらうこともなく、手痛いしっぺ返しをくらっていた。出る杭は打たれる、の法則が適用されていた。

 であるから、「小市民」たりえていれば、迫害されることもなかったはずだ――といった暫定的な結論にたどり着き、彼らは互恵関係を結んでいたはずです。

 とはいえ、です。

 しかし果たしてその認識は正しかったのでしょうか。

 もちろんこれまでのシリーズにおいて、ふたりは狩りの本能(推理/復讐)を隠せない動物としてときに戯画的に描かれますが、彼らのあやうさは謎を解きたい、復讐したい、というだけではなかったはずです。彼らは他人に対してときに無関心であったり、自分に都合がよいかわるいかで判断したり、あるいは意図して悪意を抱くことが描かれています。「小市民」を目指していた彼らは果たして「無辜の民」たりえていたでしょうか。

 というより、こう言ったほうがいいかもしれません。

 この物語に「無辜の民」などいたのでしょうか?

〈小市民シリーズ〉を通してわたし個人が感じるのは、登場人物だれもが犯罪に片足を突っ込みそうになっている、あるいはもう突っ込んでいるのではないか、という危うさにほかなりません。とりわけ『秋期限定~』の瓜野くんがみせた(過去の小鳩くんを嫌でも想像させたくなるような)ジャーナリズムという名前をした私欲の暴走もそのひとつです。

 にもかかわず、可愛らしいスイーツを冠したタイトルふくめ、シリーズを通してくり返される「小市民」に溶け込めば……というふたりの淡いもくろみの定期的な、あるいはお約束のようなお題目の失敗は、頓挫は、同時に「小市民」というテーゼそのものが依拠するもののあやうさを巧妙に隠していたように思えます。

 なぜなら「小市民」であることがむずかしい彼らは、「小市民」であることそれ自体によって牙を向けられたかどうか、決して判断がつかないからです。

 しかし考えてみると、本作の冒頭において、なぜ小鳩くんが車に轢かれたのかといえば、その「小市民」らしさを周囲に発露していたからにほかなりませんでした。彼を轢いた犯人の弁によれば、彼は客観的に見れば「笑ってた」がために害意を向けられるにふさわしい存在となったのでした。であれば「小市民」であることは、悪意を向けられない最低条件ですらないことになります。「小市民」という可愛らしい言の葉の皮一枚は、決して安全圏でいられることを意味しませんし、保証してくれません。

 いっぽうで、車に轢かれたのち、印象的な、事務的な手続きシーンがあったことをわたしは思い出します。事情聴取の最後、小鳩くんはこう警官に訊かれます。

「犯人への重い処罰を求めますか」

 そしてほとんど自分のしゃべったことが反映されていない書類を、理解したうえで彼は「おおむね間違ってはいない」と判断し、拇印を押したのでした。

 むろんこれは手続きに則った市民的正義であり、被害者は小鳩くんなのですから、とくに瑕疵はないはずです。ですが、この、異様な居心地のわるさはなんなのでしょうか。犯人を吊るし上げるという共同体のもつ正義にくみするというものは、たしかに「小市民」的ではありますが、それはほんとうによいものなのでしょうか。それは、たしかに本作においてあらためて検討されているように思います。これについてはのちほどまた触れたいと思います。

 閑話休題

 次に、本作のミステリの技巧について、書きたいと思います。むろんおいしいところに関しては巻末の松浦正人解説によってかっさらわれているので、言うことはほとんどないのですが、ひとついえることがあるとすれば、(これは物語の構成上の必然でもあるのですが)その謎の多くが、短慮によって一時停止させられたのち、再検討に向かっていることではないでしょうか。

 謎解きというよりは、伏線や証拠の処理として、中学時代の小鳩くんはテンポよく謎を解いてくれます。しかしそれは結論として妥当性を求める順当な手続きを踏んだり、消去法で確からしい答えを絞ったというよりは、都合の良い結論にさっと飛びついたようにも見えます(これは個別に検討したわけではなく、たんに最後まで読んだ印象からそう言っているだけなので恐縮ですが)。中学生の小鳩くんは、なんとなく、AかBか、くらいの大枠のなかに謎を押し込め、答えを捉えているような印象を与えます。

 そしてその構図は、過去と現在の事件とがおなじものであるといったことや、病室は安全地帯である、というわたしたち読者の抱きがちな短慮ともつながっています。

 とはいえ、わたし個人としては、そのような明快な推理の手続きは好みです。『春』で好きなのは「おいしいココアの作り方」ですし、『夏』で好きなのは「シャルロットだけはぼくのもの」です。即物的な情報の処理によるむだのない推理は手順がすっきりとしていて、解けたときの爽快感が違います。

 似たような事例でいえば、たとえば『秋』の仲丸さんがなぜトマト嫌いだと思ったのか? といった推理はまさしくそれでした。もちろんそれも短慮にほかなりません。彼女はトマト嫌いではありませんでした。では短慮によって結論を出さず、答えを見つめていく方法はあるのでしょうか。

 これはただの妄想ですが、もし仮に、このむずかしさを乗り越える可能性があるとすれば、それは「積み重ね」ではないでしょうか。

 人間というのは――推理小説を読んでいるとつい忘れがちですが――じつはそれほど一貫性を持たない存在です。人を本気で殺そうと思った人が、職業倫理にもとづいて人を助けようとすることもありますし、自殺しようと思った人がまた生きようと思い直すこともあります。その矛盾を受け入れることで、その人自身がいくつもの層や面をもった存在として、立体的に見えてくることがある、そのように思えてなりません。

 なにしろ『冬』の終盤において、小鳩くんがある意味で(正しい意味ではないかもしれませんが)、被害者から「悪かった」と言葉をかけられるに至ったのは、彼自身の持っていた複雑さゆえでした。小鳩くんが人の秘密を暴くことに、正義のお題目を担ぐことに快楽を抱いていたことはたしかに事実ではありますが、しかしそれのみで生きていたわけではない可能性が、その人物によって語られます。

 その小鳩くん自身の「傷ついた顔」はまるで、彼が轢かれるに至った理由である「笑ってた」顔と対極でありながら、同時に地続きにも置かれています。

 すくなくともわたしには、そのように思えてなりません。

 その後、事件が収束したのち、また同様に、小鳩くん自身も、彼を襲った犯人が処罰されることに対して、自発的に「狙っていた」と証言するつもりはないことを明言します。それはどこか厳罰を求めるような「小市民」的な正義をふりかざさないことであり、儀礼的な無関心ではなく、事務的な言葉のなかに相手を押し込めることでもなく、だれかを矛盾を持った、あるいは血肉を持った他者として(あるいは自分自身をも)見つめることにつながるのかもしれません。

 AかBか、ではなく、CもDもあるし、あるいはそれらすべてが同居するかもしれない。そしてそれらすべてを受け入れることが、彼らなりの思春期限定のこざかしい理屈のさきの「大人」になっていく姿なのかもしれません。あるいはどんな人にも理由があって、害意や善意をなすかもしれない、というドライな「小市民」的な世界観で生きていくことにつながるのかもしれません。

 とはいえそれは、ハッピーなエンディングであるかどうかの保証にはならないでしょう。もちろんそのドライな、一方的な視線を向けられてしまう世界において、小鳩くんはその「傷ついた顔」によって他者からの信頼を得ています。しかしそれは短慮のなせるわざかもしれないことは留意すべきです。彼の受け取った評価は不相応で、不当なものかもしれません。もちろんあくまでそれを「赦し」と表現することは可能かもしれませんが、彼の手が「返り血」を浴びていることもまた事実です。

 であっても、ただひとつだけ、さらに深く誤読することが許されるのであれば――もしもの話をするのであれば――、小鳩くんが高校三年間を通して「小市民」を目指さないまま、中学時代と変わらずあらゆる他人の秘密を暴き、正義の限りを尽くしていたとしたら、もしその知恵働きの「噂」がかつて彼を殴った同級生の耳に届いていたとしたら、あの「悪かった」という言葉は引き出されなかったのではないか、と思うのです。もちろんこれはテクストにない話であって、意味のない短慮でしかありませんが。

 さて、この三年間の物語を通して、果たして小鳩くんと小佐内さん――狐と狼――が他人の生き血をすするゲームから降りて、ぬくぬくとおいしいスイーツを食べるだけの幸福な生活に向かうことができたのかというと、正直むずかしいところではあります(とりわけ小佐内さんに関してはなにひとつ変わっていない可能性もまたあります)。小鳩くん自身も知恵働きじたいは嫌いではないでしょうし、彼らの人生はつづきます。大きくはなくとも、小さな謎に出会うこともあるでしょう。物語がいったん幕を下ろしても、謎は向こうから勝手に転がってくるものです。

 とりあえず現状の次善の策としては、「大人」を目指す彼らのことについて考えつつ、京都のおいしいスイーツのお店をリストアップしておくことではないでしょうか。わたしは四条烏丸をちょっと南に下ったあたりの路地にあるたい焼き屋さんをおすすめしておきます。

 それでは。

 

エンディング:穂ノ佳「やさしい雷」


www.youtube.com