『千年女優』をあと何度も観直すためのいくつかのメモ。

 ???「千年女優を見たことがない? 初恋を経験したことがないならそれでいいけど」

 

【※】本記事はアニメ映画『千年女優』のネタバレを多数含みます。未見の方はご注意ください。

タイトルコール。ビデオの巻き戻しから入るのが示唆的である。

 2月に再上映がなされていたために映画館ではじめてみて(DVDなどではたくさんみていた)、いやいや~、映画ってほんとうにいいものですね~~というノリで「『千年女優』を誤読する。」ブログを書きたかったのだが、いろいろあって予定がはちゃめちゃになったり、体調が崩れたり、そうしているうちにテンションが落ちたり、論旨がまとまらなかったりしたので、メモのまま放流します。誤読の責任は取りません。よしなに。

 

ラストの台詞について

 多くの人が(たぶん)指摘しているように、千代子の結論はどこか自己充足的であり、他者を必要としないまま終わってしまう。これに対して過去さまざまな考え(時には穿った見方)が星の数ほどもたらされたと思うのだが、まあぶっちゃけ深く考えなくていいんじゃないですか。

 というといろんな人が怒りそうなものだけれど、この台詞はあえて外部からの結論(解釈)をもたらさないように構築されているとしたらどうでしょうか。意図的なブラックボックス。ということであれば。

 

移動のモチーフについて

 メタフィクション的境界侵犯(!)による地震のあとに流れるOPでは、車、電車、自転車、船、飛行機、宇宙船、と移動のモチーフとこれから語られるストーリーがザッピング的に、現実/フィクションの境目なくシームレスにつながれ、描かれる。

OP、焼け野原のシーンの次にこの絵。日本の戦後復興・発展を想起させる繋ぎ方(実際はつながっているわけではないのだが)。

 そして最終的に、千代子の隠居する家へむかうというストーリーになっている。最初からぜんぶ描かれているといれば、たしかにぜんぶ描かれており、物語のラストにおいては、千代子が冒頭の作中映画で乗っていた宇宙船(スペースシャトル)のシーンに戻っていくだけである。その傍証として、千代子とともに、鶴のモチーフがいくつも描かれていることが言及できる。

 

鶴のモチーフについて

DVDの特典冊子には日の丸をおもわせるワンポイント(よく見ると鶴)がある。

 千代子の家に着くと、部屋にはすでに劇中にくり返し登場する、鶴のモチーフが映り込んでいる。「鶴 千年女優」でグーグル検索をしたら「鶴は千年、亀は万年」という解釈がいちばん上にサジェストされ、それはまあゴロ遊び的な部分ではもちろん妥当なのであるが(なにしろ名前も千代子なのだし)、つくっている側がモチーフの源流として気づかせたかったのは、おそらくヤマトタケル伝説のほうでしょう。

 要するに、死んだら白鳥=鶴になって故郷に飛び立ったよっていうあれである。

www.shirotori-jinja.jp

日本武尊ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次とじ近江国伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野のぼのに至り病あつく、終に亡くなる。実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺しまつりしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る

 ここで敷衍して考えておきたいのは、『千年女優』という作品が「はじめに帰る」というメタ的な円環構造を持っていることだろう。

 もちろん冒頭とラストのシーンが作中作によってつながっているのは、映像編集のなせるわざ(トリックにほかならない)なのだが、これをメタ的なフィクションとして成立させてしまうのはむろん、ラストの千代子の台詞によって観客がいきなり置いていかれるという突き放し状態があるからだ。わたしたちはあの台詞によってぽかんと口を開け、気づけば二度目の視聴に入っていやしないだろうか?

 いや、果たしてそうだろうか? 正確には違うかもしれない。たとえばあなたはまだ一回だけしか『千年女優』を見ていないかもしれない。

 とはいえ、作中にあたかも謎解きのように置かれた伏線やモチーフの数々をまるで宝探しのようにちりばめられ、それらを見つけることに快楽をおぼえせられたのちに、あの台詞が来ることによって、じつは千代子の台詞には隠された理由があったかもしれない、と一瞬たりとも考えた、くらいはないだろうか? すくなくとも、「えっ、それでいいのか?」と彼女の結論を疑問に思ったことは?

 いや、そうではない。

 それはきっと意図的なものなのだ。

 わたしたちは千代子の台詞によって、『千年女優』に描かれた映像を複数回にわたり見ることを、しらずしらずのうちに約束されていたのではないか。

何度でもいうが、作品タイトルは「巻き戻し」とともに現われるのである。

 

フィクション論?的な「かのように」の映画として

 わたし個人はこのアニメについて、謎解きについてはぶっちゃけ結論はないよ派なので、とくに言うつもりはないが、『千年女優』という作品の持つイメージの源泉にはいくつか思うところがある。それは「停止」と「運動」である。

 千代子は「鍵の君」を求めるとき、いつだって走ることになる。これが『千年女優』の持つ映像の快楽であるのはまあ見ていればわかるので言うことはないが、じゃあその根本はどこにあるかといえば「錯覚」ではないか。

 映像における「錯覚」というのはもちろん、24fps的な連続再生、つまり、止まっているものが連続で見せられると生きているかのように見えるアレである。

 とりわけ象徴的に思えるのは、中盤『あやかしの城』に登場するあやかしの姿だ。彼女はのちに千代子自身の似姿としてあらわれる。彼女および彼女が繰っている糸車は黒澤明蜘蛛巣城』という作品リファレンスとして見るだけでなく、映画のための装置≒映写機のように思うことはできやしないか。

「我はそなたが憎い。憎くてたまらん。そして愛おしい…」激重感情キャラ。

  いや、まあ、たんに糸は運命のメタファーなのかもしれませんが。

 でもほかのカットでも見てわかるように、このあやかし、ただ糸をくるくる回しているだけで、撚っているわけではなそう。なので映写機かな、と感じたというくらいの雑な感覚といえばそうですので雑にそう思ってください。とはいえ、錯覚という部分についてはそれなりに意図的ではないかとも感じるところはある。

あやかしが去ったあとの城の壁。どこか人の姿に見える。これも錯覚。

 なにしろこの木目というのはじつに周到な表現で、隠居したあとの千代子はそうしたものたちと長らく一緒に過ごしていたことが容易に想像できるからである。

源也たちが千代子の家を訪れたとき、しっかりと映るのは家具の木目なので。

後半、終盤、源也が訊ねる。「なぜ突然に、姿を隠されたんです?」

 というのも後半、劇中最も、少女から遠い見た目の、深いしわを湛えた千代子のカットがあるのだけれども、彼女はその理由は答えない。代わりにその次に映るのが木目だからである。彼女と木目は並んだかたちで示される。

その次のカット。雷鳴とともに一瞬だけ映る異様なカットである。

 年輪というのは伐採された木であり、死んでいる断面にほかならない。しかし材木としては日々呼吸し、使われ、生きているのであって。そういう二重性のなかにこそ千代子はいたのではないか、と思わせる。映画もまた然り、と考えてしまうのはさすがに言い過ぎであるだろうか。とはいえ、である。

 わたしたちは千代子という人間を最後まで知ることはできない。

 しかし役者としての藤原千代子を見ることはできる。

 その結論として源也は五十回以上おなじ映画を観てしまうのだし、「あの方は歳をとらん!」と言ってしまうのではないか。これはギャグだが、しかし複数にわたっておなじ映画を観ているわたし(たち)は彼をほんとうに笑えるのだろうか?

 

映像にしかない「錯覚」の物語として

 もったいぶらず、さっさと結論に移ろう。『千年女優』という作品は本質的に映像作品でしかありえない。それはひとりの人生を恋の錯覚という枠組みに無理やり落とし込む技法として、アニメーション的な重ね絵による錯覚を採用する詐術にどこまでも自覚的な作品であるからだ。

 わたしたちは動いているものに注意を抱き、あまつさえそれに快楽を抱いてしまう。千代子が魅力的なキャラクターであるのは、彼女が最後まで(恋のために)走りつづけるキャラクターであるからである。

映画の歴史からしてそうですよね(ろくろ)

 そしてその詐術というのは観客との共依存的な関係によっていつまでも保持される。要するにわたしたちは、何度も『千年女優』というアニメ映画を再生し、見ることによって、彼女自身の、そして作品自身の円環構造に加担することになる。そしてなによりその構造を維持するためのキーとして、最初にも言ったように、千代子の自己充足的な、謎めいた台詞が必要なのである。

 なぜならそこには結論はなく、運動だけがあるからだ。

「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」

 くり返そう。

 わたしたちは千代子という人間を最後まで知ることはできない。

 しかし役者としての藤原千代子を見ることはできる。

「だって私、『千年女優』を見ている私が――」

 というと、たくさんの人に怒られるかもしれないが、藤原千代子というあたかもフィクショナルな存在を延命させてしまう方法は、わたしたちがこの映画を見つづけてしまうこと以外に残されていない。

 わたしたちが『千年女優』をVHSやDVD、ブルーレイその他の再生メディアで見つづければ見つづけるほどに、彼女は長い時間を生き、くり返し恋をすることになる。そしてそのあいだ、彼女は死なないし、「歳をとらない」。運動だけがそこにある。プロジェクト・ゴーズ・オン。

 つまり『千年女優』というアニメ映画は劇場では終わらないのだ。観客が意図的に、自主的にその映像を再生することによって完成する。映画でありながら、テープやディスクでこそ完成することが意図されたフィクションなのではないか。そしてそれは何度も指摘したように、物語の一番最初に示唆されている。

本作は映画的な映画でありながら、ビデオ的表現によってはじまっている。

「鍵の君」の完成されなかった絵。十四日目の月。開ける先のない鍵。中断されたドキュメンタリー。考えてみれば、本作においては、ひとつもちゃんと終わったものがないのだった。わたしたち観客はいつだって欠けたものを満たそうとして、終わらない映画を再生しつづける。運動以外にはなにもない映画なのに。あるいはだからかもしれない。

 まあ、とはいえそろそろ冷静になったほうがいい気がするので、作中冒頭にあった台詞で締めることにしましょう。

「行けば二度と戻ってこられないんだぞ!」

 ところで『千年女優』を見たそこのあなた。あなたはどうにか現実世界に戻ってこれた側ですか。それとも残念ながら戻ってこれなかった側ですか。おや、それを確認するためにおすすめのツールがここにひとつありますね。『千年女優』のブルーレイディスクっていうんですけど、どうかおひとつ再生してみてはいかがでしょうか。

 わたしはこのブログを書いて、ようやく『千年女優』との折り合いがつけられた気がします。次はきみの番だ。

千年女優 [Blu-ray]

 

 注:今敏のブログは読んでいません。これから読むか……。

konstone.s-kon.net