真実は非情に揺れつづける――『由宇子の天秤』感想


www.youtube.com

 アーチャーは、ときにはアンチ・ヒーローにさえなりかかる主人公(ヒーロー)である。行動的な人間ではあるが、彼の行動は、主として他者の人生の物語を寄せあつめ、その意味を発見することに向けられている。彼は、行為する人間というより質問者であり、他者の人生の意味がしだいに浮かびあがってくる意識そのものである。

    ――ロス・マクドナルド「主人公(ヒーロー)としての探偵と作家」

 真実をめぐる物語ではありますが、ならばこれは真実をめぐるミステリでしょうか。そうではないと思います。にもかかわらず、わたしはロス・マクドナルドの名前を思い出さずにはいられませんでした。エンドロールが流れだし、荒涼とした風の音しか聞こえなくなったとき、わたしはその類比の欲求を抑えることができませんでした。

 物語はドキュメンタリー監督の木下由宇子が取材をしているところからはじまります。その取材対象は、三年前に起きた女子生徒のいじめ自殺事件について。女子生徒の遺族にアポを取り、ロケーションなどの「映え」を意識しつつ取材していることが冒頭の数分の動きからうかがえます。それだけでなく、いったん撮影を終わらせる宣言をしたあと、ぽろっともれる遺族の本音をじつは撮影していた、といった搦め手さえ使うあたり、じつに手慣れた気配すら感じます。彼女はたしかな技術を持った人間です。

 とはいえ手際のよさを持ちながらも、その後のシークエンスではテレビ局の都合によって「声」が会議室で握りつぶされてしまうといった苦々しい場面が映し出されます。彼女は当然のように憤りますし、その「声」を握りつぶしたTV局の相手が席を外したすきに注文して届いていたチャーハンのラップをはずして帰っていくあたりは怒りを示しながらもユーモラスな瞬間が見える一幕です。

 おそらくですが、彼女は真実を求めるタイプの人間なのでしょう。この物語で象徴的に扱われるのは、彼女の持つ腕時計というアイテムです。その時計は「狂い」ません。あたかも由宇子の「正しさ」を裏付けしているかのようです。

 にもかかわらず、150分強におよぶ物語を見ているあいだ、ずっとわたしたち観客は息を殺し、緊張した状態での観賞を求められます。なぜならその「正しさ」と「狂うこと」のあいだを行き来しつづけるのが『由宇子の天秤』だからです。いや、それどころかあたかも「正しく」ふるまいつづける姿こそ「狂っている」のではないか、とさえ思わせる凄みがこの映画にはあるのです。この映画を単純な人生転落もの、あるいはピカレスク映画として捉えると、なにかを取りこぼしてしまうような気配がします。

 そこまでいうのにも、もちろん理由があります。この映画はふたつのプロットによって支えられていて、それによって片方が片方を、まるで合わせ鏡のように映していく側面があり、そのために短い言葉で内容を言い表すことができないからです。

 物語の片側はもちろん、先ほど説明したいじめ自殺事件についてです。そしてもう片側は、中盤で明らかになるとある「事件」についてです。片方で起きた出来事がエコーとなって、もう片方の物語のあいだであっても不気味に響きつづけていくために、わたしたちはそのあいだを行き来していく由宇子という存在、そして彼女のもたらす選択と結果のすべてから目が離せなくなってしまうのです。

 ネタバレになってしまうのであまり物語には言及できませんが、この映画を魅力的なものにしているのはなんといっても主人公の由宇子というキャラクターだと思います。こういうと怒られるかもしれませんが、彼女は「仕事のできる女性」であり、「親思いの娘」であり、「子供に優しくふるまうことができる大人」です。そのいっぽうで、取材対象が歩み寄ってきてくれたさいには、喫煙所でたばこを手にしながら仲間と「面白くなってきた」とこぼすような、ある意味で残酷な顔も持っています。終始、わたしたち観客は彼女の多面さに驚かされます。

 なにより彼女は「真実を求める質問者」です。彼女はそれぞれの場面に応じて必要なふるまいを取って、取材対象に取り入ることもできますし、迷える人の支えになることもできます。それはすべて打算というわけではないでしょうが、やはりどこか技術によっているように見えるときもあり、本心からによるものなのか判断がつきません。そして恐ろしいことに、物語において、彼女の表情はほとんど醜く崩れません。いかにもタフで、優しい存在でありつづけます。しかしそのようなふるまいはグロテスクな行為ではないのか、と思わせるすきが、先ほど言った「エコー」としてつきまとっています。その様子ははてしなくスリリングであり、言い様もありません。なにしろそれがときに彼女自身の魅力として映るからです。

 また、質問者である、ということは、他者に対して攻撃性を持ちつづける、ということでもあります。彼女はカメラを武器にしています。だから彼女が「正しさ」を、「真実」を信条とするかぎりにおいて、そのレンズは身内にも容赦なく向けられることになります。ですからそれによって、彼女はどこまでも孤独にならざるをえません。あたかも探偵が孤独な存在であるように。しかしそうであればあるほど、わたしたちは彼女に感情移入していきます。物語が悲劇性を増せば増すほど、真実を求めれば求めるほど、彼女の孤独はヒロイックに切実なものとなっていきます。また同時に、彼女自身の浅ましさも際立っていきます。わたしたち観客はその両面の目撃者となるのです。

 予告編のラストにも映っていますが、物語の終盤、地下の駐車場に向かってひとり降りていく由宇子の背中はひどく印象的で、作中で起きている出来事を考えてしまうと、あたかも地獄に降りていくかのようなおぞましさを感じさせます。この映画は、カメラという存在が(物語内にすら)ありながらも、大事な場面では彼女の信条を説明しません。由宇子がカメラを向けて他者を糾弾するとき、映画の画面はその人物の動揺をあらわすように揺れるのですが、彼女に対しては感情を隠しているかのような撮り方をします。非情なまでに顔を隠し、その背中を映しつづけます。

 ですから、この映画はほとんどハードボイルドといっていいのだと思います。もちろんそれはわたしがミステリの読者という文脈を背負ってきたからに違いないのですが、たとえそれを差し引いたとしても、真実をめぐって人々がぼろぼろになっていくこれ以上ない悲劇として、『由宇子の天秤』はすばらしい作品になっていると思います。

 最後に余談を。ハードボイルドの紹介者として知られる小鷹信光は、ある時期以降のロス・マクドナルドの作品がマンネリに陥っていることを『ミッドナイト・ブルー』の解説で指摘しています。そこでは主人公リュー・アーチャーのことを「いまは悲しげなモラリストか、人を裁くことのない牧師となって、彼自身のアイデンティティさえ失ってしまったかにみえる。加害者でも、被害者でもない、語り手となってしまったのだ」とそのキャラクターの透明さを批判しています。しかしそれを打破する可能性についても語っていました。

 ロス・マクドナルドに、あと一作だけ、すぐれた小説をのこす可能性と力がのこっているとすれば、それは、彼自身が確立した技法と文章を、もう一度内部から破壊する精神作業を通じてしかない。主人公アーチャーは、主要登場人物の心に深くコミットし、傷つくまでたたかわねばならない。『長いお別れ』の轍を踏むまいと心に定めていたのでは、ロス・マクドナルドはチャンドラーも、彼自身をも、ついに越すことはできないだろう。

 ロス・マクドナルドは、「アンチ・ヒーローになりかかっている」主人公ともう一度衝撃的な対決をすべきなのだ。彼の創造した”分身”を”質問者”の地位から解き放ってやればよいのだ。

『由宇子の天秤』を観終えたとき、もしかするとこの映画は小鷹の言っていたその「対決」に向かうための物語を描いていたのではないだろうか、と言いたくなったのは、きっと嘘ではないと思っています。もし嘘だと思うのであれば、みなさんもぜひこの映画を観て確認してください。きっと地獄が笑いながら待っています。