2021年ベスト姉ヒロイン大賞

 少なくとも 姉は何かを失敗したことはなかったはずだ

                     ――ゴブリンスレイヤー

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前年に引き続き、本大賞アンバサダーを務めるゴブリンスレイヤーさん

 ベスト姉ヒロイン大賞とは、その年1月1日~12月31日までに発表されたアニメ作品(劇場作品も含む)のうち、姉に対する描写が特に優れていたものに贈られる賞です。昨年の選考では特別賞が新たに設けられ、姉フィクション界のさらなる発展が世間に訴えかけられることとなりました。

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 2021年でベスト姉ヒロイン大賞も発足してから九年の月日が経ちました。わたしたちの歩みを振り返る意味を込め、ここに改めて各年の受賞作を列記いたします。

 

2013年『境界の彼方

2014年『グリザイアの果実

2015年 受賞作なし

2016年『響け!ユーフォニアム2』

2017年『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ

2018年『あかねさす少女』『 ゴブリンスレイヤー』(同時受賞)

2019年『ぬるぺた』

2020年『アサルトリリィ BOUQUET』

 

2021年ベスト姉ヒロイン大賞候補作および受賞作品

 2021年ベスト姉ヒロイン大賞の選考は、事前の候補作品選出(推薦=エントリーについては公募制)ののち、2021年12月末におこなわれる予定でしたが、12月18日に選考委員の姉原理主義者より申し出があり、他委員の同意をもって2022年1月28日から29日未明の開催に延期されました。また新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)の国内感染状況を鑑み、2020年と同様、選考会はリモートでのオンライン会議となりました。

 選考には、百合アニメオタク、ゆるSFオタク、姉原理主義者の三名が選考委員として出席しました。また記録係として筆者が出席しました。

 今回の最終候補作品は以下の五作品です。

 

『IDOLY PRIDE』

『SSSS.DYNAZENON』

『白い砂のアクアトープ』

『闘神機ジーズフレーム』

『SELECTION PROJECT』

 

 上記五作品をもとに討議した結果、

 受賞作品を『IDOLY PRIDE』と決定いたしました。

 また、以下に各選考委員の選評を掲載いたします。

 

 

選評 百合アニメオタク

 私は2014年以来のベスト姉ヒロイン大賞ウォッチャーだが、今年はまったく経験したことのない景色を見た。以下に詳細を記す。

 今回の候補作が揃い踏みしたとき、私達はここまで「死んだ姉」に恵まれた一年があっただろうかと思わずにはいられなかった。なぜなら候補作五作のうち、四作の第一話において明確に姉の死亡が確認されている。残る一作の『ジーズフレーム』ですら第一話放送時点では姉はMIA、つまり戦闘時行方不明という状況で、10月の秋アニメ作品の放送がはじまった段階で、2021年の姉アニメは一年を通して絶えず「死んだ姉」を見ることができるという異常事態になってしまった。

「姉フィクション」界隈では「今は亡き姉ハンドブック:繊細な少年のための手引き」が聖典とされているのは周知の事実であるが、だとしてもこの東方の島国でここまで「死んだ姉」だらけの一年があっただろうか。いや、ない。

 そうした「死んだ姉」旋風のなかでもとりわけ新しい風を感じたのは『白い砂のアクアトープ』だった。第一話で短く挿入されるふたつの母子手帳。そのうち片方には自分の名前。もう片方は空白。喪失を示す表現としてここまでわかりやすく、しかし適度なドライさと気品を持ち、視聴者に想像を膨らませる余白を用意させた作劇は素晴らしいの一言に尽きる。

 生まれたときから欠落を抱えているくくるという少女、そして夢を失った風花という少女。このふたりが出会い、物語がはじまり、ひと夏をともに過ごし、そして凡百のアニメが向かうであろう結末をあえてかなぐり捨てたうえでの「お姉ちゃんになる」という宣言に至る十二話のシークエンスは、これが2021年のアニメなのだというほかにない迫力があった。

 物語は終始、海辺の生と死が織りなす世界を描いているが(主人公のふたりが出会うのは暗い歴史の残る「ガマ」である)、残された者たちが失われたものを引き継いで互いを支え合うという態度に「姉」を集約させているのは実に批評的だ。

 しかしそれどころか、二十三話においては「お姉ちゃんにさせちゃった」と、姉性を一方的に与えること、つまり姉の役割性に対する反省的な言葉も見受けられる。これは昨年候補作の『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』にもあった姉の持つ不幸性に対する現代的なまなざしであり、姉という存在の扱いを更新させようとするつよい意志に満ちている。

 なにより「今度は私がお姉ちゃんになるよ」という台詞はまさしく姉を介した連帯の新しいあり方であり、この作品なくして2021年の姉アニメを語ることはできないのは過言ではない。最終話放送終了後のTwitterでは彼女たちの物語が百合であるかどうか意見が大きく分かれたようだが、伏線描写やストーリーの必然性のあるなしに関わらず、彼女たちにしかなしえない関係(もちろんそこには「姉」の視線が介在する)があったことは否定できないはずだ。姉の扱いが観念的にすぎるという意見もあるが、それを含めて2021年のモードであるとして、私は『アクアトープ』を推した。

 

選評 ゆるSFオタク

 劉慈欣『三体』の大ヒット以降、中国SFの勢いは衰えを知らないが、こうした出版状況のなか、中国のアニメ会社制作による『闘神機ジーズフレーム』が姉アニメ界に現れたのを偶然と言い切るのはやはり難しい。12話の尺しかないなかで地球と木星間の往復をやりくりしていたため大味だった点は否めないものの、それでもロボットアニメらしい射程の広さを意識した脚本は私達アニメファンが求めたものだったことは間違いない。エッセンスとはこうして受け継がれていくものだろう。

 第一話で姉が行方不明になっていたのは当然のちに登場する伏線というわけだが、正直、ストーリーが予定調和すぎた印象もある。未確認生命体ネルガルに捕縛され、コミュニケーション用のインターフェースとして姉が使われるシーンのエグさは女の子の可愛さを重視する日本アニメとはまた違った味わいでよいものだったとはいえ、逆にいえば特筆するのはそのくらいだったかもしれない。

 他委員からは『シドニアの騎士』の紅天蛾クラスの展開を期待していたので、そうでなかったのは残念だ、という意見もあった。ないものねだりではあるものの、たしかに自分もそれを期待していたのは事実だったので反論はできなかった。戦闘面において姉のめぼしい活躍がなかったことは姉SFアニメとしては惜しい。

 とはいえ最終話が姉の結婚で終わるのは、「死んだ姉」作品ばかりの今回の候補作のなかでは清涼剤のような清々しさがあったのも事実だろう。姉の結婚もまた姉フィクションにおいてはクリシェのひとつであるが、やはりうれしいものはうれしいのだ。批判的な意見としては、全体的に姉の存在が舞台装置めいている、という指摘もあり、これを退けて受賞させるのは難しいと感じた。だが、このような姉作品が世界においても同時的につくられている状況は希望が持てるものである。

『SSSS.DYNAZENON』では特撮怪獣VSヒーローバトルもののプロットと並行して走らせるサブプロットとして「死んだ姉」が用いられていた。姉の死をめぐる関係者への聞き取りを通して、妹が姉の死と向き合っていく。

 特に、妹の知らない姉の姿が友人間に共有されていたYOUTUBE(っぽいもの)の映像のなかに見受けられた、という描写は現代らしさの表現として独特の質感がある。それだけでなく、怪獣の能力を通して姉との本来なしえなかった和解を描くのは『ダイナゼノン』というSFにしかできないやり方であったし、答えの見えない過去そのものを示すアイテムとして「解けない知恵の輪」があったのもじつにテクニカルだった。全体的に細かい演出がすぐれている。

 しかし、プロットの構成はあまりよいものではない。姉との和解を描く十話はよくできているが、そこまでの道のりにおいて、各キャラのお当番回をはさみつつサブプロットを進めており、間延びしている印象が拭えないからだ。おそらく姉シーンの強弱の差が大きすぎるのだろう。引き延ばされた姉との再会が十話でやってきて、それにより問題があっさりと解決してしまうことによって、かえって姉の不在よりも物語の装置らしさが強くなってしまった。そのあとにようやく姉の墓参りをするというのはよかったが、やはり姉の死を受け入れること=成長といった視点が見るからにあからさまで、「死んだ姉」だらけだった今年の選考において、それは及第点のヒットではあっても、ホームランではなかったといえる。

 ついつい辛口になってしまったが、姉SFがアニメにおいて複数作も見ることのできた今年は大変豊作であり、喜ばしい事態であることは改めて述べておきたい。ありがとう。ナイストライ。来年も期待しています。

 

選評 姉原理主義

 今年も大賞を選ぶのに苦労した一年でした。優れた姉フィクションが多く世に出ていることを知らしめ、評価することはわたしたちの役割でもありますが、だからといって、大賞でない作品が優れていない姉フィクションである、ということには決してなりえません。悩ましい選択でしたが、わたしたちなりの経緯を詳しく語ることで、なるべく選定の意図を伝えたいと思います。少々長くなりますがお付き合いください。

『SSSS.DYNAZENON』と『闘神機ジーズフレーム』はどちらもロボットアニメらしい思い切りのある作品でした。前者はアニメ版の『グリッドマン』から引き続きパワフルな戦闘画面と日常のささやかさの対比がよくできていましたし、後者は統一感のないロボットたちや男性キャラのデザインの軽さがかえって風通しのよさをつくっていました。むろんそれだけで魅力的な作品たりえるのですが、そこに姉という存在が入ることで物語が引き締まっていたように感じられました。どちらも姉フィクションの佳作といえます。

『ダイナゼノン』はキャラクターの内面が見えにくい点がじつに素晴らしかったと思います。もちろんアニメですから、それぞれのキャラが考えていることはある程度画面から察することができます。しかし、だとしてもそれがそのキャラの全体ではない。この態度は最終話まで一貫していて、たとえ怪獣の力によって再会できた姉であってもそのすべてが語られているわけではありません。

 サブプロットの姉の死は、当初は不幸な事故であったとされていましたが、途中からはいじめを苦にした自殺であったのではないかと、あたかもミステリーのようにほのめかされていきます。関係者もそのことについては決定的な証言を口にしません。うわさとして姉の死はゆらぎ、姉の恋人だった人物は自殺を否定しますが、その人には現在すでにべつの相手がおり、もしかすると保身のための言い訳ではないか、と思わせる余地があります。

 その状況下でヒロインの夢芽は怪獣の力によって過去の世界に行き、そこで姉の香乃と会話を交わします。彼女は明るく自殺を否定しますが、いじめのような状況にあっていたことや、恋人を頼れなかったことを完全には否定しません。そして、それ以上なにがあったかはわからないまま、夢芽は現在に戻ります。

 香乃は夢芽と再会したとき、あくまで「姉」としてふるまっていたのでしょうか。わかりません。言葉の節々にはわたしは上手くいかなかったがお前は上手くやれよ、といった態度が見えていましたが、それがすべて本心なのかは判断できません。ですが姉は姉です。それは妹にとって自明すぎる事実でありつづけます。

 この十話はとてもよくできています。わたしたちは物語を語るとき、本当のことを語りながら架空の話をしています。架空に託して本当だったり本当に近いなにがしかを語るのも、そうしなければならないほど切実な現実があるためでもあります。ただ、提示された答えに納得すればするほど、人生のどうしようもなさに物語が回収されるようで、回収されることから逃れるためにどうしたらいいのか、立ち止まってしまうところがありました。大賞として推すには、われわれにとっては一歩足りませんでした。

 いっぽう『ジーズフレーム』は日本のロボットアニメ、また美少女アニメの再生産としてとてもよくできています。異星人のオーバーテクノロジーのロボットを宇宙戦艦の動力源にして燃料補給の必要がないという設定はロマンの塊ですし、そのいっぽうでパイロットがなぜか女の子だけしかいなかったり、作画の労力を削減するためにモブの船員が全員同じ顔のロボットであったり、人間のオペレーターは全員顔にバイザーをつけて画一化しているところは、あえて「そういうもの」として楽しめる部分であり、これはこれで味のある魅力でもあります。

 とはいえ、姉さえもそうした「ご都合」の内部に取り込まれており、それ以上が見えなかったのは惜しいところでした。物語の後半になればなるほど、姉の問題がことのほか簡単に解決されてしまい、起伏を生むに至っていないところが散見されました。

 開幕時には主人公の行動の源であったキーキャラクターの姉が、だんだんとただのサブキャラクターになってしまっていったのは、尺の短さゆえとはいえ、もっと違う景色が見たかったところです。行方不明になっている姉の愛機からの電波が遠く離れた宇宙から地球に届くよう発信されていた、というのは魅力的な序盤の引きでしたし、やはりそこから期待できる姉本来のポテンシャルが発揮されていない、と観客に感じさせてしまうのは、これだけロボットアニメが世に出ているなかでは瑕疵になりうる部分だったかと思います。

『白い砂のアクアトープ』は人によって好みが分かれる作品だと思います。なぜなら物語の随所で提示されていた設定やキャラに対して、明確なオチが用意されていないからです。というより、わかりやすい感動のための伏線回収や、2クールかけてつくってきた物語の盛り上がりを、あえて避けているような作品になっているのが本作の持つ特徴でした。1クールのラストにおいて風花の挫折からの立ち直りの物語をあえてはずしているのもそうですし、がまがま水族館を復活させる鍵になりうる不思議な現象を、それに立ち会った櫂自身が肯定しないのもそうです。視聴者にしか見えないキジムナーが最後まで物語に影響を及ぼさないものおなじです。

 こうした作劇における物語らしい盛り上がりの否定は、姉においてもいえることだと思います。本作の「死んだ姉」には呼ぶべき名前がありませんし、声もありません。キャラクターが命であるアニメにおいて、ここまで徹底して存在の不確かさを押し出していることもめずらしいと思います。ですから『アクアトープ』を十全に楽しむには、こうしたカタルシスや感動に向かうべき道を否定したうえで、主人公のふたりが大事にしていった、物語に描かれていない余白を見ていく観客側の努力が求められるようにも思えます。そうしなければ、ラストのふたりがもたらす余韻の美しさに浸ることは難しい。それがこの作品の美点でもあります。

 そういう意味で、姉フィクションとしての『アクアトープ』の魅力は『ダイナゼノン』や『ジーズフレーム』と正反対でした。姉としてのつよい実体がないからこそ、ある種の模範や理想として、主人公ふたりの生き方の内側に姉の存在は溶けています。それは生と死が混ざり合う本作のうつくしい世界像をそのまま写し取っているかのようで、この物語でしか描きえないたしかな感触があります。とはいえ、余白である部分に仮託しすぎているというも否めません。ラストシーンに別作品の要素が顔を出すのは監督や制作会社のファンにはうれしいところですが、知らない人にとってはノイズになりかねないあやうい部分でもあります。たしかに秀逸な作品であることに違いはありませんが、ほかに推すべき作品があった、というのが最終的な判断の根拠となりました。

 最後に、『IDOLY PRIDE』と『SELECTION PROJECT』は2021年に産み落とされた双子のようなアニメです。これはたんに比喩やレトリック上の謂いではなく、明確に両者のプロットが酷似していると委員たち全員の意見が一致したうえでの発言です。

 どちらの作品も、アイドルとしてトップに上り詰める途中であった姉キャラクターが不慮の死を経て、その数年後に物語が動き出します。そして姉の心臓はその意志を継ぐように未来のアイドルの卵のもとへひそかに臓器提供によって移植され、そのいっぽうで死んだ姉の家族、つまり妹もまたアイドルを目指すようになった、という核心部分がまったくおなじだったのです。姉の存在は呪いであり救いである、という思想が表面化した結果とはいえ、これらの未来世代のメイン格ふたりのキャラクターのカラーリングさえもが二作のあいだでは似通っており、当然ながら議論は紛糾することとなりました。この二者を比較せずに冷静に評価しろ、というのは残念ながらわたしたちにとっては不可能なことでした。

『セレプロ』はアイドルオーディションリアリティーショーを題材とした作品です。リアリティーショーの持つ厳しさとアニメキャラのアイドルものを同時にこなすには、こういうプロットしかないだろうな、という消極的な物語選択の印象がちらつきつつも、それぞれのキャラに等分の魅力があった点は脚本のコントロールが優れていたところだったと思います。

 各話エンディングで、姉の持ち曲をそれぞれのキャラが毎回入れ替わり歌い上げる演出は、アイドルものならではのやり方ですし、回を増すごとに姉の存在がつよくなっていくとともに、歌そのものの持つ力を感じさせるいい手法でした。毎週の話が最後の最後まで楽しみになるのはアニメを見る上で重要なことですし、じっさいその企みは成功していたように感じます。アニメーションの出来もよく、キャラクターの可愛さが画面から常に伝わってくるのは素晴らしい視聴体験でした。

 とはいえ、後述する『アイプラ』の作劇に比べると、姉の影響力がじっさいどこまでのものだったのか正直判断しかねる部分があり、そこで大きな差異が生まれてしまいました。これは物語のなかのキャラの取り扱い方は丁寧なものでしたが、丁寧すぎたがゆえに物語の外部の世界をほとんど語らなかったためだと思います。

 対して『アイプラ』もアイドルものであり、複数のアイドルグループがパフォーマンスで戦い競い合うといった内容ですが、その大きな戦いの舞台じたいが姉の死によって物語開始時点までは長らく凍結されていた、という大きな設定が序盤から提示されています。そもそも第一話で主人公であるマネージャーと姉との出会い、その躍進から死までを描いた「死んだ姉」フィクションの体裁を取りながら、悲壮感がほとんどないという特殊な立ち位置を本作は取っています。どういうことでしょうか。

 というのも姉、長瀬麻奈は死から数年後、幽霊となってふたたび主人公のもとに現れるからです。天真爛漫を絵に描いたような彼女のほがらな姿は死後も物語を明るく牽引し、それ以降に現れるアイドルたちにすくなくない影響を与えていることが提示されていきます。ストーリーの展開に合わせて、当時姉と直接対決するはずだったアイドルが新世代の主人公側アイドルの敵として出てきたり、姉の大ファンの後輩が出てきたりと、まさしく数年前のアイドル界においては姉が台風の目だったことが伝わりつつ、しかし主人公のマネージャーにとっては現在進行形でくちうるさい幽霊となっている、という巧みな二重写しの構成になっています。

 特に『アイプラ』が面白いのは、姉の姿を見ることができるのが主人公だけではない、というところです。あとから登場し、主人公の事務所に所属するとあるキャラクターも姉とコミュニケーションはとることができるのですが、しかしその子は姉のファンではなかったため、事の重大性がわかっていません。

 そういったかたちでコミカルな要素を付け加えることにより「死んだ姉」の持つ底のない暗い引力をほとんど感じさせないのは案外思いつかないもので、古典的ですが素晴らしいアイデアだと思いました。『セレプロ』では、姉の存在感をあえて希薄にすることによってトーンの暗さを減らしていましたが、やはりそれでは姉の魅力じたいも同時に減ることになっていましたし、このあたりは設定やアイデアの転がし方の差が明確に出てしまったところでした。

 もちろん『セレプロ』にも独自の部分はあり、第一話における黙祷シーンや、最終話で鈴音と姉が夢のなかで対話をする、という盛り上がりは姉フィクションらしさに満ちています。とはいえ、いくぶんか唐突さが否めなかったところではあります。また、鈴音の物語に集約されてしまった結果として、妹である玲那と姉の灯との関係の精算がうまくいってなかったのではないか、という意見も出されました。

 妹と姉の関係もやはり姉フィクションでは欠かせない要素のひとつです。『アイプラ』のトーンは全体的に明るいのですが、やはり妹の琴乃は姉という大きすぎる存在の影に悩むことになりますし、さらに姉の心臓を移植された少女さくらは、姉の声で歌うことができてしまうという特異体質を持っており、しかし次第に姉とは違う歌い方を目指すようになり、そしてその決断を琴乃が受け取る、といった複雑な群像劇を展開していきます。そしてさくらと琴乃のふたりとも、姉とのコミュニケーションが十全に取れないところはやはり「死んだ姉」フィクションの系譜をなぞっており、しかしその不全さのなかであっても、最後に妹は歌を通して姉と通じ合うことができたという物語が提示されています。その光景はとても力づよく、美しいものでした。

 最終的な議論は『アクアトープ』と『アイプラ』のあいだで何度か揺れ動きましたが、決定的な違いは『アイプラ』には姉という存在の持つ華がどこまでもあった、ということだったと思います。五本の候補作どれを見ても、姉の存在のしなやかさは描かれていましたが、ヒロインという立ち位置としての姉にここまで向き合っていたのは『アイプラ』だけでした。それは本作を見ていただいた方であればご納得いただけるかと思います。

『IDOLY PRIDE』の長瀬麻奈は姉キャラクターとしての特権性を失うことなく、「死んだ姉」をめぐるキャラクター同士の精神的な距離と品位を物語において保ちつつ、それでいて、ひとりの少女、ヒロインとしての姉の魅力をどこまでも引き出していました。なによりわたしたちがおこなっているのは『ベスト姉ヒロイン大賞』なのであり、そこから離れることは賞の本意ではありません。元気に歌い、笑い、泣き、周囲に幸福をふりまきつづけていた長瀬麻奈こそが2021年を代表する魅力的な姉キャラクターであることは疑いようのない結論でした。受賞作の決定後、選考委員一同でアニメ一話を見直し、一緒に笑い合いました。ほんとうに素晴らしい作品です。ありがとうございました。

 よって、『IDOLY PRIDE』を2021年のベスト姉アニメとして表彰させていただきます。おめでとうございます。


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 2021年12月18日、『IDOLY PRIDE』長瀬麻奈役の神田沙也加さんがご逝去されました。ベスト姉ヒロイン大賞運営一同、心より感謝と哀悼の意を表します。