『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』が試みた、しかし誰にも知られていない小さな演出について。

【※】本記事は『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』への致命的なネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。

 

 

 

THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』がその前作であるTVシリーズを含め、画面の中に描写されているオブジェクトが比喩的な、あるいはほとんど直接的ともいえるくらいに劇中の出来事を補足し、描写していることは、比較的知られていることかと思います。知られていないということであれば後述します。

 このTVシリーズおよび劇場版アイマスの演出を担当した高雄統子氏が監督・シリーズ構成を務めた『アイドルマスター シンデレラガールズ』ではそうした演出がさらに進んでいったことも知られた事実でしょう(デレマスのアニメにおける時計の針の位置など、気になる方は検索しておくとよいかもしれません)。

 ですが、TVシリーズに比べ、この劇場版はあまり数多く言及されていないように思います。2023年現在、各配信サイトにはあるようですが、おそらくHD画質ではありませんし*1、作中のとある出来事が物語後半まで秘匿されていることもあり、ネタバレを避けたコメントをする方が多かったせいかもしれません。

 というわけで劇場公開からかなり時間も経っていることですし、改めてどのあたりがすごかったのかについて、本記事のなかで詳しく考えていきたいと思います。

 

例題として

 まずわかりやすい例題として、本編前半の合宿パートの終わり、矢吹可奈天海春香を呼び出しているシーンを確認しましょう。

「わ、わたしがアイドルになろうと思ったきっかけははるかちゃ……じゃない! 天海先輩なんです!」(…)「じゃあ、わたし……自分のことを……」とお互いにもじもじするような、修学旅行での告白のようにもみえるシーンです。

 このダイアローグがおこなわれているさい、背景には非常口の場所を示すランプが灯っています。つまりここでは、矢吹可奈から天海春香に向けた(憧れの)感情が語られているわけですが、この背景の「→」によってもこのような感情が画面上においてパラレルなかたちで語られています。

矢吹可奈天海春香、という感情の向きが非常口の「→」によって説明される。

 こういった語りそのものとしては間接的な、しかし画像表象としてはかなり直接的な演出手法は、近年のアニメーション作品では時折、現われますが、このアイマスシリーズはそれを自覚的に取り入れている傾向のつよい作品といってよいかと思います。ただし、この読み方/受け取り方を肥大化させると、図像学というよりは、陰謀論的になっていきますので、気をつけていきたいところです。

また、矢吹可奈天海春香の関係を表すカットは後半にも反復するように現れる。こちらは背景が微妙に傾斜しており、ふたりの関係の非対称性を示す(ようにも思われる)。

 とはいえ今回、わたしが語りたいのは、たとえば、本作のテーマとしておかれている「天海春香」が慣れないチームのリーダーとなって、トラブルと不安にかられつつも、最後は「自分らしさ」と向き合うことによって、765プロのアリーナライブを成功させる、といった筋についてではありません。

 正確に調べているわけではいませんが、おそらくそういった表現に対するコメントはネットを探せばきっとたくさんあると思います。

 序盤では取材陣や千早の向けたカメラ(物によりますが、もともとカメラは鏡を内蔵している機械です)にアイドルとして応えながら、中盤以降は鏡や窓によって天海春香は自分自身の姿と否応なしにぶつかっていくことになる、といったシーンが反復されていることに、複数回本作を観た人であれば気づくかと思います。なによりそういった演出は終盤の「わたしは、天海春香だから」というセリフによって集約されています。

星井美希に「美希は春香じゃないからわからないかな」と言われたあと。いっときは笑顔になったが、自分の姿を見て、表情を曇らせてしまう春香。

如月千早との会話シーン。悩んでいる自分の姿を窓に見てしまい、首を左右に振る。自分自身にまとわりつく悪いイメージを振り払おうとするかのように見える。

 加えて、この記事には直接貼ることはしませんが、つとめて明るく振る舞おうとする春香の表情が部屋の窓に映り、そこに伝う雨滴が涙のように見えるシーンは、とりわけ多くの人が胸を打たれたはずです。しかし、今回はそちらについては語りません。

 

本論:携帯電話による表現について

 わたしが語りたいのは、本作における携帯電話についてです。

 なぜ本作の演出が語られなかったのか? ということについてしばらく考えていたのですが、おそらく本作はガラケーからスマートフォンへの普及の移行期間の作品(劇場公開は2014年1月)であり、そもそも演出として気づかれていなかったのではないか、と仮定します。

 本作が劇場公開された時期というのは、だいたいiphone4sおよびiphone5あたりが発売されていた時期です*2。ですからそもそもガラケーを買わずにスマホから携帯を持つようになった世代も当然いるはずですし、となればガラケーというものがどういう機械であったのかもわからない、といったこともじゅうぶんありえたのではないでしょうか。

 では、こうした携帯電話の持っていた時代性は、具体的にどういう演出意図のもと描かれていたのでしょう。

 本作の特徴として、TVシリーズの『THE IDOLM@STER』のキャラクターに加え、同世界観の後発作品である『アイドルマスター ミリオンライブ!』のキャラクターが後輩として登場していることがいえますが、ここにおいて、ガジェットによる世代間の説明がおこなわれています。

 つまり、彼女たちは世代の違うアイドル(片やトップアイドル、片やデビュー前の新人)であり、その差異の表現として、ガラケースマートフォンが用いられています。

 ですからここでは「無印:ミリオン」≒「ガラケースマホ」といった対応関係があります。この枠組みに唯一あてはまらないのは水瀬伊織のみですが、彼女の家は裕福な設定があるため、新しいガジェットをすぐに自前の物として扱うようになった、ということとしてじゅうぶん解釈が可能です。

iphoneっぽいデザインですが、正確な機種を特定したい人は適当に調べてください。

 いっぽう、ミリオン組が合宿部屋でくつろぐさい、それぞれのキャラクターはバラバラに過ごしています。七尾百合子が本を読んでいるのは小説好き(トールキンとかブラッドベリが好きとかゆってた*3)という設定があるためでしょうが、馴れ合いのようなコミュニケーションを否定する北沢志保スマートフォンの画面をひとり離れた場所で見つめています。

 2014年ごろの作中における主な連絡手段はLINEやSNSのチャットやDMなどではなく、メールです。2023年からするとスマホ画面をキャラクターがふとしたときに見つめているのはむしろふつうですが、2014年段階ではすこし内向的な印象を与えていたように感じられます(個人差はあるでしょうが、自分はそのように受け取りました)。

スマホを見つめる北沢志保が手前に、ほかのミリオン組は近くにいる。距離感(仲のよさ)が物理的な距離としても描出されている。

北沢志保の持っているスマホiphoneっぽいかたちをしているので、もしかしたら伊織と志保の共通点としてこの機種が用いられた可能性がある。このあと、ふたりはちょっとだけ仲良くなるので。ただしこれは邪推。

物語中盤、メールの受信確認をする天海春香。彼女の携帯はイメージカラーとおなじ赤。

 すこし論を急いだかもしれません。

 たとえばスマートフォンによってガジェットの見た目がかなり画一化される以前の携帯電話であれば、それはキャラクターの「個性の表現」としてじゅうぶん成り立つ文脈がありました。

 どういうことかというと、スポーツ漫画などにおけるプレイスタイルやキャラクターのモデル選手に合わせたシューズなどとおなじと思ってくれればよいかと思います(いまでもスマホカバーなどのデザインやデコるなどといった方法で区別をつける演出はありますが、描写としての普遍性は大手メーカーの商品ほどの説得力は得られないように思えます)。これに馴染みがない人は音楽漫画やアニメのキャラクターの用いる楽器を想像してもいいかもしれません。

 つまり道具と持ち主のもっている属性はニアリーイコールの関係で結ぶことができ、普遍的なキャラクター描写の記号としてある程度まで仮定することが可能です。もうすこし砕けた言い方で説明するのであれば、持ち物にはキャラクターの「こだわり」が浮かびやすい、ということです。

別作品ですが『とある科学の超電磁砲』(2009)ではそれぞれが違ったデザインの携帯端末(PDA)を持っており、それによってキャラクターの「個性」が表現されている。まだスマホがそれほど普及する前だったため、iphoneっぽいものを持っている佐天涙子は「新しいもの好き」「ミーハー」といったキャラ表象に沿った印象を与えてくれる。カエルの携帯がだれのものかは作品内容を知っていれば即座にわかるだろう。

 本編の描写を拾いますと、望月杏奈はスマホを使っていますし、矢吹可奈スマートフォンと思しきディスプレイの大きな端末を持っています(androidかどうかはちょっと自信がありません)。いっぽう双海真美の携帯電話には大量のストラップがついており、いかにもゼロ年代の子供、といった印象を与えます。

どうしてごちゃごちゃしたストラップが一部であんなに流行ったのかは正直よくわかっていません。

ちなみに見直すまで完全に忘れていたが、ガラケーはメールの受信をいち早く確認するためには適宜、問い合わせる必要があった。なにが言いたいかというと劇場アニメ『夏へのトンネル、さよならの出口』にけるLINEじみたメールのテンポ感はほんらい出ない。

 さて、前置きが長くなりましたが、いちばん語りたかったシーンについて説明したいと思います。天海春香が自室にて、矢吹可奈にメールで連絡を取り、そのあと非通知で着信がかかってくる、という苦しい場面です。

非通知設定ということは、矢吹可奈は自分の電話番号をそもそも教えておらず、今後も知られたくない、というコミュニケーション上の断絶がわかります。よい。

「もしもし、天海です……あの……可奈ちゃん、だよね……?」と問いかける春香。遅れて「はい」と返事があります。

一瞬だけ喜ぶ春香。

 しかし、「すいませんでした。わたしも、天海先輩とこのままお別れするの、嫌だったから」と声はつづきます。春香の目元はすこしだけ下がり、声のトーンも落ちます。

「お別れする」という矢吹可奈の言葉に合わせて、画面上で変化したものがある。

 なにが起きたか、わかったでしょうか。

 つまり、矢吹可奈のゆるやかな拒絶に合わせて、携帯電話のサブディスプレイの光が消えているのです。これは一定時間、携帯電話を操作していないと省電力のため自動的に消灯する仕組みなのですが(みなさんが現在使っているスマホにサブディスプレイはないかもしれませんが、基本的には同様の仕組みです)、あたかも天海春香の持っていた希望の灯火がふっと、音もなく消えてしまったかのように映るのです

 いまだかつてこのような表現にガラケーを使った作品はあったのでしょうか、正直、わかりません。しかしすくなくとも、ここに一作だけ、作例がありました。

 そのあと、劇中においてなにが起きたかについてはみなさんの知っているとおりです。むしろ、もっと強烈な印象を与える演出がそこにあったことは前述しましたので、ここに文章は重ねません。

 しかし、このような、あまりにもさりげなく、ほとんど言葉にならないにもかかわらず、心を削るような演出があったことはやはり記載しておくべきだと思いました。作品の公開からだいぶ経ち、本作はネタバレといってもそこまで気にしないような作品としての強度をたしかに持つようになったかと思いましたので、このたび、このように書きました。

 上記の見方とは若干違いますが、ディスプレイライトの省電力を使ったアニメ演出はほかにもあり、はばたくキツネさんが『冴えない彼女の育て方♭』について書いた記事がネットでは有名かと思います。こちらもぜひご参照ください。

foxnumber6.hatenablog.com

 また、筆者がそのむかし書いた、『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』における水とキャラクター間の親和の表現について書いた文章もありますので、ご興味のある方は恐縮ですが、こちらもお読みくださるとうれしいです。こちらは前半部の合宿編を中心に記載しており、細かいネタバレは避けています。PDFへのリンクを求めています。面倒ですがその点についてはお許しください。

saitonaname.hatenablog.com

 というわけで、今後も、スマートフォンなどの小道具を使った最高の演出が増え、アニメ界が発展していくことを心より祈願いたします。ちなみに2022年は『映画ゆるキャン△』の犬山あおいであったことは論を俟たないでしょう。

 それではみなさま、今後もよきアニメライフを。ほな……。

 

*1:dアニメストアにあったものは720pでした。

*2:ウィキペディアの記事iPhone - Wikipediaを参考にしている。

*3:ブラッドベリの発音がいつまでも気になっている。