ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」から遠く離れて

【※本記事では、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」、有栖川有栖「四分間では短すぎる」、古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』(「春の章」「夏の章」)、米澤穂信「心あたりのある者は」、阿津川辰海「占いの館へおいで」、青崎有吾「十円玉が少なすぎる」の真相に言及しています。未読の方はご注意ください】

光永康則『棺探偵 D&W』より。まして今やネットの時代なので、こうしてわたしも本記事を書いています。

 密室やアリバイといえばミステリの大きなサブジャンルであり、おおざっぱな分類といえますが、よりマニアックかつ現代日本の作家や読者に愛されている趣向として、ハリイ・ケメルマンの短編「九マイルは遠すぎる」を嚆矢とする推論の展開をテーマとしたディスカッションのスタイルが挙げられるかと思います。

 ほんの数年前の出版事情を例にみても、ごく短いあいだにおなじ東京創元社から刊行された戸川安宣・編『世界推理短編傑作集6』および小森収・編『短編ミステリの二百年5』といったアンソロジーにそれぞれ同作が収録されたことから、この短編の持っている歴史的な重要性がうかがえるかと思います。ただし後者については白須清美による新訳ですので、既読の人も、改めて読み返してみることをおすすめします*1

 編者による評価ではなく、現代で活躍する日本のミステリ作家側からのラブコールかつ応答作の例としては、有栖川有栖「四分間では短すぎる」米澤穂信「心あたりのある者は」青崎有吾「十円玉が少なすぎる」古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』阿津川辰海「占いの館へおいでなどが挙げられます。加えて2024年現在、森晶麿もこの趣向で短編連作に挑戦しているとのことですので、いわゆる「九マイルもの」の人気はまったくおとろえていないようです。

 さて、ではこの「九マイルは遠すぎる」とは具体的にどのような物語だったでしょうか。上記の有栖川有栖「四分間では~」では、語り手のアリスが端的にあらすじを紹介してくれていますので、以下にそのくだりを引いてみましょう。

 こんな物語だ。〈わたし〉は、友人で英文学者のニッキイ・ウェルト教授と〈推論〉について話しているうちに、「十語ないし十二語からなる一つの文章を作ってみたまえ」と言われる。「そうしたら、きみがその文章を考えたときにはまったく思いもかけなかった一連の論理的な推論を引き出してお目にかけよう」と。そこで出し抜けに返した言葉がーー

〈九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ〉。

 ウェルト教授はこれだけの文章に込められた意味を論理的に掘り出していき、ついには思いがけない事実に到達してしまう。

「推論というものは、理窟に合っていても真実でないことがある」ことを証明するためにふたりのキャラクターが当該の文章からディスカッションを重ねていくという、会話文中心の展開(捜査パートがまったくないということでもあります)で、最終的には想像もつかない場所にたどり着くというのが本作の魅力です。ジェイムズ・ヤッフェ『ママは何でも知っている』と並ぶアームチェア・ディテクティブの古典として現在は広く読者に受け入れられています。

 また、おそらく2024年現在、この「九マイルは遠すぎる」についてもっともミステリ読者に共有されている作品評は小森収によるものかと思われます。

 本格ミステリ大賞の評論賞を受賞した『短編ミステリの二百年』シリーズ*2の評論・解説パートにおいて、日本での評価が固まるまえの作品受容の経緯を説明しつつ、小森は「九マイル」を以下のようにまとめています。

 謎解きミステリの魅力の核は、名探偵の展開する推論にある。エラリイ・クイーンが強く意識し、持ち込んだ、このテーゼを、分かりやすく結晶化してみせたのが「九マイルは遠すぎる」でした。

 この部分については、ウェブ連載「短編ミステリ読みかえ史」にもほとんどおなじ文言で語られていますので、一緒にリンクを貼っておきます。

www.webmysteries.jp

 また『世界推理短編傑作集6』の解説において、戸川安宣もこの短編について「論理的思考を謳う小説形態としての推理短編の、まさにお手本と言える作品である」と述べています*3。ですから現代日本において、「九マイルは遠すぎる」という短編は、純粋な推論によってミステリの持つ魅力を取り出した作品としてもっぱら受け入れられている、とするのが妥当な扱いなのだと思われます。

 とはいえ、です。

 それらの評は、はたしてほんとうに正確な作品の捉え方だったでしょうか。すくなくとも「九マイルは遠すぎる」および、そのスタイルを模倣した後続の作品群を読んでいるうち、わたしはそこに疑念を抱かざるをえませんでした。

 さて、前置きが長くなりましたが、本記事は、「九マイル」およびその後続作品群である「九マイルもの」の謎解きがどのようにつくられているかを細かく検討しようとするものです*4

 例によって奇抜な話はしておりません。長くなりますが、よろしくお願いします。

 

〈推論〉というワードの取扱いへの疑義

 仮に、小森収の言うとおり、ケメルマン「九マイルは遠すぎる」がクイーンの理想としたテーゼの継承であり、結晶化した作品であるとするならば、そこにはある程度の疑義が挟まれるべきだと思います。

 なぜなら「九マイル」でおこなれているのは、厳密には、クイーンが得意としたような推論≒推理すなわち「演繹的推理法」*5ではないからです

 どういうことでしょうか。

 ここでいったん、小森が「九マイル」の推理手順をどのように読んでいたのか、改めて上記のリンクから引いてみることにしてみましょう。

(…)そこで「わたし」が思いついたのが「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章でした。ニッキイは、さっそく、そこから推論可能な事実を引き出していきます。その話し手はうんざりしている。彼は雨が降ることを予想していなかった。彼はスポーツマンや戸外活動家ではない。といった分かりやすい手近な推論から始まって、やがて、九マイルという距離に着目することで、推論はどんどん具体的で限定的になっていく。この部分のわくわくする感じは、パズルストーリイのもっとも人を高揚させるところでしょう。そして、状況は驚くほど狭まり、絞り込まれ、ついには、ある犯罪を推定させるに到るのです。(太字は引用者)

 ここで注意すべきなのは、探偵役のウェルト教授がおこなっているのは、当該の文章から「推論可能な事実」を演繹していたのではなく「周辺状況の追加」をしていたことではないでしょうか。というのも、作中の台詞を引用するのであれば、「九マイルもの道~」という言葉には「手がかりがあまりない」はずだったからです。

 ゆえに語り手と探偵役のふたりは、その一連の文章に対して、あくまで仮定を重ねることを許したうえで、ディスカッションを進めていきます。

「一つは、話し手の意図が気まぐれなものでないということ。(…)」

「まあいいだろう」

「もう一つ、ぼくは歩いた場所がここだと仮定したい」

 本作の出発点は、たしかに一連の短い文章でした。しかしそこから一本の糸を手繰っていくように、緻密な推理を、論証可能な事実そのものをリニアに展開しているわけではありません。

 もちろん小森の言うように推論が「どんどん具体的で限定的になっていく」のは物語上に描かれている事実です。しかしそれはクイーン的な演繹推理≒謎解きによって導かれたものではなく、探偵役が恣意的に問題文の外部にある状況としての「5W1H」を都度追加し、それを語り手がスムーズに承認してくれるよう、(見えざる手によって)作者自身が仕向けていたという経緯があります。

 ですからここにあるのは、一歩一歩、論理的な解明によって進んでいく緻密な謎解きゆえの知的スリルとは決して言いがたいはずで、むしろ連想や言葉遊びといった、気負う必要のないゲームが許されているがゆえに生まれる無邪気さのほうが大きいと思います。そしてその偶然性のたわむれであったものが、最後には裏返ってしまうアイロニーこそ本作独自の魅力であった、というのは小森自身も指摘していたとおりです。

「九マイルは遠すぎる」という物語が積極的に表現しているのは、このように実直でない方法によって導かれた言葉がなぜか事実を言い当ててしまうという、名探偵や推理小説が持っている、あたかも宿命的な「ねじれ」そのものではないでしょうか。

 もし仮に、本作を高度で純粋な推論手続きによる傑作ミステリと呼んでしまうならば、その評はいささか名探偵の存在を持ち上げすぎているか、都筑道夫が理想としたパズル・ストーリイ観に引き摺られているようにも思われます*6

 また、これはわたし自身もそうなのですが、だれかに向けて「九マイルは遠すぎる」をプレゼンめいたかたちで紹介しようとするとき、つい作者自身が短編集に寄せていた「序文」の、完成まで十四年もかかった、というおもしろ執筆エピソードに言及してしまいしがちです。しかしよくよく考えてみればわかるとおり、作品の出来と構想年数は決して相関するものではありません。

 けれどもわたしたちは、このあまりにも有名な「序文」に書かれた経緯を忘れることができません。それゆえあたかも、十四年ぶんにもおよぶ長い思考の過程が短編サイズに圧縮された推理こそ「九マイル」の持つ輝かしい魅力である/「九マイル」が傑作であるのは、作者が十四年も考えつづけたからである、といった物語を無意識のうちに仮構してしまっている気がします。

 多くの推理小説は、ふつう(ふつうでしょうか?)、作中に散らばっている複数の要素を細かく検討し、ちまちまと作者自身が手直しをしながら、ときにその場の思いつきを書き加え、最終的につじつまの合うよう完成させていくもので、まさか作中の名探偵のように一筆書きめいた、淡々とした思考のもとに書かれることはないはずです*7

 もちろん現代に比べ、ワープロなどデジタルツールがない環境の制約は大きかったでしょうが、ケメルマンの発明したこのワンシチュエーションがわたしたちを惹きつけてやまないのは、ただたんに推理そのものの完成度だけではなく、その長い推理を下支えするだけの道のりを、あたかも一本道であるかのように整備できてしまった「嘘」じたいの持つストレンジな魅力と不可分であるような気がします。

 

後続作家たちの自覚的なスタートライン

 さて、ケメルマンの話はここでいったん終わりにして、「九マイル」に感化された、後続の作家たちはどのように応答してきたか見ていきましょう。

 すくなくともフェアプレイに敏感な日本の本格ミステリ作家たちが当該作品を丹念に読み、そのスタイルを模倣しようとした過程で、上記の「周辺状況の追加」に気づいていなかった、とみなすことは難しい気がしています。

 なぜならその傍証として、彼らが「九マイル」のスタイルを模倣するさい、みな原案/元ネタ作品とは大きくシチュエーションを変更させていることが、一様に指摘できてしまうからです。

 ではその変更とはいったい、どういうことでしょうか。

 答えは一読すればわかります。つまり、有栖川有栖米澤穂信、青崎有吾、古野まほろ、阿津川辰海、彼らはみな「九マイルもの」として書いた自作において、語り手が一連の文章を思いついたとは設定せず、偶然、見知らぬ他人が発した言葉を聞いたものとしてストーリーを構築しているのです。

 前述の内容をくり返しますが、「九マイルは遠すぎる」においては、その推論という見かけ上のパズルの裏に、作者/探偵役による恣意的な「周辺状況の追加」がありました。問題文となる一連の文章から具体的な推理を導き出すには、いくつもの仮定という条件追加の手続きを経由しなければなりませんでした。

 対して、有栖川有栖「四分間では短すぎる」では、公衆電話での会話を。米澤穂信「心あたりのある者は」では、放課後の学校内での呼び出し放送を。古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』の「春の章」では、喫茶店に向かう街中で耳にしたフレーズを。青崎有吾「十円玉が少なすぎる」では、道行く人のスマホでの通話を。阿津川辰海「占いの館へおいで」では盗み聞いてしまったひとりごとを。それぞれ問題のテクストとして採用するという導入を与えています。

 これら上記の作品たちに共通している背景は、問題文の発話における「5W1H」といった周辺状況が探偵役による仮定の積み重ねではなく、最初から具体的な条件として(しかしその一部が隠されたかたちで)提示されている、ということです。

 そして、ここでの目的/メリットはおそらくシンプルなものです。

 なぜなら具体的な周辺状況を初期値として設定しておくことによって、論理展開に必要な「仮定」という探偵側の恣意性を(かたちだけでも)排除させておくことができるからです。また、加えて指摘するのであれば、このスタイルを採用することは、書き手にとって、最低限の創作倫理的なスタートラインだったのではないか、ということが言えそうです。

 なぜなら読者にとって「九マイルは遠すぎる」という短編が定立したフォーマットは「架空の話が現実を言い当ててしまう」物語でしたが、これを作者目線で捉え直すのであれば「現実を言い当ててしまうという結論ありきのもと、架空の話を誘導して展開させた話」にすぎないからです*8

 加えて後続作家たちにとっては、その元ネタをオマージュするという意図で作品を書いている意図が存在する以上、その皮肉なオチじたいはそもそも意外な結末でさえありません。探偵が事実を言い当ててしまうのは、どんなに「ねじれ」ていたとしても、この世界ではすでに当たり前の事象であり、想定内のこととして予感/期待されています。

 となると問題は、いかに仮定を重ねた推理と結末のマッチポンプ感を防ぎつつ、ミステリとしての面白さ/フェアネスを担保するかにかかってきます。

 ゆえに作者としては、語り手が「ふと耳にした奇妙なフレーズ」を対象とした、地に足のついたディスカッションというフォーマットに組み替えていたのではないでしょうか。後続の作家たちは、謎解きの主題を、メタ的な「ねじれ」のマッチポンプで終わらせるのではなく、あくまで「九マイル」の作品評に本来的に求められていたであろう、フェアな「推論」が駆動する物語として語り直す試みをしていたのではないでしょうか。

 あるいは、もっと単純に、このような言い方ができるかもしれません。かつて阿部屠龍*9『時間百合SFアンソロジーの「あとがき」でとあるジャンルフィクションを次のように分類していたことをわたしは思い出します。

 世の中には二種類のゾンビ映画があります。ジョージ・A・ロメロが存在する世界を描いたゾンビ映画と、とそうではないゾンビ映画です。前者において、動き出した死体を見た者の第一声は「死体が動いた!」ではなく「ゾンビだ!」です。

 二十一世紀の推理小説において、街中で奇妙なフレーズを聴いた登場人物およびわれわれが最初に抱く感想は「妙だな……?」ではなく「九マイルだ!」にほかなりません。ケメルマン「九マイルが遠すぎる」が確固として存在する世界において、当該作とまったくおなじ新鮮な驚きを得ることは、おそらくもうできません。

 ですから後続作家たちが「九マイル」以後であることを自覚したうえで、それぞれなにができるかを模索しているのは、当然のなりゆきなのだと思います。

booth.pm

 

有栖川有栖「四分間では短すぎる」について

 そうした論点に立ったとき、ようやく有栖川有栖「四分間では短すぎる」がなぜあのような物語になったのか、納得がいきます。

 本作は語り手のアリスがふと耳にした言葉から英都大学推理研の面々がディスカッションのゲームをはじめていく日常ベースのミステリですが、結論としては楽屋オチのような展開を迎えます。元ネタである「九マイル」のように推理が事実を言い当てていたのとは正反対に、「四分間では~」においては、彼らの推理がいかにも恣意的な演出と誘導によるこじつけであった、というわざとらしい「サゲ」がおこなわれます。

 べつに推理研の彼らの出した答えが事実と一致していた、という名探偵物語として本作を終わらせてもいいようなものですが、あくまで作者がそうしなかったのは、やはり「九マイルは遠すぎる」が持っていた謎解きの恣意性を最後まで退けることができなかったからではないでしょうか。

 もうすこし言葉を費やしてみましょう。前述の通り「九マイル」においては遊びの言葉が、虚構の積み重ねが現実に反転してしまうという「ねじれ」そのものを表出させたミステリでした。しかし後続作品としてそのシチュエーションを真似てみた場合、状況はさらに厄介なものに変わっていきます。

 とりわけ「九マイル」を本格ミステリ作家がフェアに作り変えようとすればするほど、そのスタイルの歪さはより明確になっていきます。仮に探偵役によるウェルト教授的な「周辺状況の追加」メソッドを回避したとしても、偶然を装った、作者自身による細かい「5W1H」の状況設定が恣意性のかたまりである事実は変わらないからです。

 となるとそもそもとして、なぜ語り手は特定の「5W1H」の情報を細かく得られうる状況において「奇妙なフレーズ」に出会わなければならなかったのか? という問題が生じます。

 ミステリなんだから謎に出会うのは当然だろう、という向きもあるかもしれませんが、ここでわたしが強調したいのはそうではなく、むしろ「解ける謎」に出会ってしまっている、という都合のよさそのものです*10

 この仕組まれた出会いそのものについて、作品内においてフェアに説明できる方法は、すくなくとも原理的には存在しません。

 結局のところ「九マイル」スタイルのミステリは、どれだけ登場人物レベルにおいてフェアな推論≒謎解きを展開させたとしても、作者レベルにおいては、あたかも結論ありきのデータの集まりを、パズルのピースとして、わざとらしく配置させたものでしかないことになります。

 たとえば作中でアリスが指摘してみせた、電話番号の入力時間のロジックはたしかにすぐれていますが、これが「九マイル」的問題文の外側にある情報でありながら、しかしそれによって仕組まれた結論に飛びつくきっかけにもなっていたことは改めて留意しておくべきでしょう。

 であれば、それらの手がかりは、ケメルマンが「九マイル」の成立過程において標榜していたような、純粋な知的スリルの材料として採用するには不適格だったということになってしまいます。仮に「九マイル」の後続作品たちがフェアネスを保ちつつ「ねじれ」のルートを掘り進むことを目指していたとするならば、その物語ルートじたいがどこまでも人工的なものであり、アンフェアであったとする有栖川の居直りめいた結論は、むしろその幻想に対するぎりぎりの踏みとどまりであった、と言えそうです。

 

古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』について

 だとするならば「九マイル」が標榜していた推論ミステリの方向性は、登場人物レベルでは避けられたとしても、作者レベルではマッチポンプ的構図を避けることは不可能な、見果てぬ幻想にすぎないのでしょうか。

 そのスタイルを検討していった一連の試みとして、同趣向のみで一冊の連作にまとめあげた古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』を例に考えてみるのがよさそうです。

 本作は、有栖川有栖の楽屋オチ的態度に対して、むしろそうした面を積極的に受け入れつつ、登場人物たちが「九マイル」的な結末に向かおうとする連作といってよいかと思います。なぜなら彼らは英都大学推理研の面々以上に、自覚的に推理小説的な態度を前景に置いて会話をするからです。

 メインの登場人物ふたりは「論理的対局」と称して、日常のなかから問題となるフレーズを提示しては分析を重ね、意外な真相ーー作中の言葉で言うならば「エレファントな解決」ーーを共同的に/共犯的に導こうとします。

 けれども古野の手つきは、一読すればわかるとおり、「九マイル」的な恣意性のつよい仮定の積み重ねによる世界の広がりよりも、どのような文脈で発話がおこなわれていたのかを細かく検討し、文意を一意に確定させていく(いささか煩瑣にも思われる)手続きそのものにより重みを置いています。

「春の章」で問題文の「かけ」るという発音がじっさいにはどのような漢字と一致するかについて、正確に限定してゆくくだりはたしかに思考の飛躍を期待する読者にとっては迂遠に思われるかもしれませんが、これはまさしく一個一個可能性を潰していく消去法的な推理の実践であり、元ネタである「九マイル」そのものにはなかった厳密性のあらわれです。ここで古野は手がかりや状況設定の恣意性を退けることはできずとも、推論という手続きそのものに信頼を置くことはできるかを検討しているように思えます。

 とはいえ、です。最終的には「エレファントな解決」が求められていたことを考えると、その手つきは小さなジャンプ台を用意していたことにも気づかされます。あるいは作者は、状況証拠的な伏線回収/情報統合をおこなっている、と指摘してみてもよいかもしれません。

 思い出してみましょう。「春の章」において問題となったフレーズは以下のとおりでした。

”今かけ直そうか届けようか

でも残りは小銭だけだから、もう郵便局に駆け込むしかないのか”

 前述しましたが、「春の章」の白眉はこの文意に関する細かい吟味だと個人的には感じています。とはいえ、終盤に(潜在的なミステリ読者によって)求められているのは結末におけるツイスト、意外性です。では本作はどのように上記の文意からの飛躍をおこなっていたのでしょうか。

 それは簡単に書けば、以下のようなものとして説明できると思います。

発話内容(テクスト)の分析×5W1H的な状況証拠=エレファントな解決

 そう、重要なのは「5W1H」です。

「When(いつ)」「Where(どこで)」「Who(だれが)」「What(なにを)」「Why(なぜ)」「How(どのように)」という項目について、原案の「九マイルは遠すぎる」では推論の仮定として都度追加されていったものを、検討のための材料として初期設定として採用しているのが現代作家たちによる「九マイルもの」です。

 正確には「Why(なぜ)」については最終的な答えに結びつく部分でもあるので、深いところでは材料にはならないものの、基本的に登場人物たちは適宜、この六つの情報と発話内容をすり合わせていくことで推論を導き出していきます。たとえば「春の章」においては、発話された場所(Where)が「吉祥寺駅」であったことが推理の材料になったように、です。

 しかし、これはフェアであろうとすればするほど、より難しい部分でもあります。というのも、この「5W1H」は、じつのところ問題となるフレーズの検討よりも、ずっと結末に対して雄弁な重みを持つ記述になりかねないからです。

 つまり、もし物語において重要な伏線が、問題となるテクスト以外の記述にあったことを肯定するならば、「九マイルもの」=短い文章からの純粋な推論、というテーマ設定がそもそも成立しえないのではないか? という疑念を生じさせることになります。なにしろ「春の章」の冒頭シーンにおいて、吉祥寺駅に到着した語り手が目撃した、「制服警察官五名」といった「緊張感のあるもの」は真相を推理する傍証としてはあまりにも雄弁でした。推理小説のロジックや伏線処理にある程度慣れている読者であれば、このシーンだけで出来事の背景にある可能性をある程度までメタ的に想像できるかもしれません。

 これらの語り手が一瞬だけ注目した描写はメインとなる推論の材料としては(ほぼほぼ)登場しませんが、結論を現実に着地させようとするがためにフェアな伏線として張っていたことは否定しようがありません。要するにこれは、作者が最終的な「ねじれ」を物語として引き寄せるためには、問題文となるテクストだけでは不十分である、と理解しているがゆえの記述なのです。

 むろん古野自身、このことにはじゅうぶん自覚的であり、改善点を模索していったのではないかとも指摘できるはずです。なぜなら続く「夏の章」では、そもそも奇妙なフレーズを話していた人物の行動じたいが不審である、という点から総合した状態で推理を出発させるよう、登場人物たちをマインドセットさせていたからです。

 おそらく作者は、問題文の検討だけではなく、その前後の時間や状況も含めた「ホワットダニット」として「九マイルもの」の枠組みを捉え直し、『ロジカ・ドラマチカ』という連作を構成していったのだと思います。

 この「ホワットダニット」的フォーマットにおいては、問題文となるフレーズだけでなく、それを取り巻く周辺状況や視覚情報を手がかりとして柔軟に採用することができ、推理のヴァリエーションも増やすことができます。加えてここまで状況を複雑にできれば、あたかも問題となるテクスト外からの恣意的な伏線回収をおこなう(マッチポンプ的な)作者の像を、読者の意識からは後退させうるメリットも生まれうると思います。

 残りの「秋の章」「冬の章」も、文章の検討という大きな部分では変わらないものの、それが発せられた状況そのものに個別具体的なひねりを加えることで、テクストの意味を単線的に広げるスタイルではなく、テクストの背景にある全体像までをも推理させてゆく形式へと作者は手筋をマイナーチェンジさせています。

 ですから古野による連作の取り組みは次第に「九マイル」的な推理の持つマッチポンプ的「ねじれ」を突き放していくことに(見かけ上は)成功させたいっぽうで、当初想定されていた、シンプルなテクストから推論を展開するフォーマットからは離れていってしまったのではないか、ととりあえずは指摘できそうです。

 

米澤穂信「心あたりのある者は」について

 おそらくですが、現代日本の推理作家において、米澤穂信ほど「九マイルは遠すぎる」への偏愛を隠していない作家はいないと思います。

 エッセイや対談などをまとめた『米澤屋書店』でも「九マイル」に言及していましたが、よくよく考えてみると、デビュー作にあたる氷菓において、千反田邸で折木奉太郎が『神山高校五十年の歩み』をもとにおこなってみせた分析手法もまた「九マイル」的な文章精査によって答えを導く推理でした。

「そうだな。五W一Hで説明してみるか。いつ、どこで、だれが、なぜ、どのように、なにをした……で、あってたか?」

 そして二十年以上の作家キャリアのなかで、米澤は幾度となく「九マイル」のスタイルに戻っていくような推理を探偵役にさせています。

 さて、その米澤作品のなかでも、「九マイル」オマージュをもっとも明確に打ち出していた短編が「心あたりのある者は」です。

遠まわりする雛巻末のあとがきで明確に作品タイトルが挙げられていたこともそうですが、折木と千反田が謎に出会う直前に交わしていた会話に出てくる「理屈」や「推論」といった単語はもちろん元ネタである「九マイルは遠すぎる」から引っ張ってきた語彙でしょう。

 むろんそれだけではなく、米澤は「九マイル」をオマージュするにあたり、言葉がどのように受け止められるか、という話題から物語の導入をおこなっています。

 ある日俺がマイクを持ち、本日は晴天なりと言ったとする。それを聞いた相手はこう思うだろう、なるほど折木奉太郎くんはマイクのテストをしたいのだな、と。しかし別の者はこう思うかもしれない。折木奉太郎くんは今日は晴れていると主張したいのであるな、と。

 ここには素朴なメッセージ伝達のモデルが見て取れます。

 すなわち前者では、「本日は晴天なり」という発言が、発信者と受信者のあいだで「マイクのテスト」という共通のコードによって読み解かれ、メッセージ(意図)の伝達が成立するというもの。しかし後者のパターンにおいては、上記のコードが共有されておらず、ただ語義どおりの発言として受け取られるということ*11

 では折木くんが具体的にどちらの意味で発言したかったのか判断するには、それ以上の補足データがなければ判断できません。加えてデータがたくさんあったとしても、それは推論の蓋然性を高めるだけにすぎない、といった旨が語られています。

 ただこれについては、探偵役のおこなう推理の正しさを証明するのって難しいよね、といったような、折木自身によるポーズというだけでなく、もっと創作の実情に即した言葉であるようにも思えます*12

 どういうことでしょうか。

 もうすこし踏み込んだ話をすると、前述の『米澤屋書店』において、米澤自身は「九マイルは遠すぎる」を推理連鎖の「パイオニアにして決定版だったかというと、私は、必ずしもそうとは思っていない」と述べています。

(…)というのはですね、表題作は、実は最初の一文からすべてが始まってはいないんです。たとえば昨夜はこんなことがあったとか、この町はこういう状況でという情報が、あとからいろいろと付け加えられていくんですよね(太字は引用者)

 この指摘については、わたしも前述したとおりです。

「周辺状況」の追加を都度おこなうことで、推理の照準を合わせ、現実での出来事へと落とし込んでいくのが「九マイルは遠すぎる」という作品の取っている戦略であって、米澤自身の言葉を引いていうのであれば、それは厳密な意味での「推理連鎖」ではないということになります。

 であるならば、この点に対して極めて自覚的であった米澤穂信自身は、「心あたりのある者は」において、「九マイル」的推理にどのように挑戦していたのでしょうか。まずは作中で取り扱われている問題文となったフレーズを引いてみましょう。

『十月三十一日、駅前の巧文堂で買い物をした心あたりのある者は、至急、職員室柴崎のところまで来なさい』

 先に結論からいいますと、ここで米澤がおこなっているのは、極限まで情報を引き出せるように、発話内容と同時に参照できる周辺状況を詰め込んだ、ということです。

 具体的に、この問題文(テクスト)と同時に「5W1H」の枠組みがどのように提示されているか整理してみると、以下のように説明できるかと思います。

 いつ:十一月一日の放課後に→わざわざ効率が悪いタイミングに

 どこで:神山高校で→神山高校の生徒がいる場所で

 だれが:柴崎(教頭先生)が→生徒指導部の教員でない人物(管理職)が

 なにを:校内放送で生徒の呼び出しをおこなった(テクスト)

 なぜ:?(結論/真相)

 どのように:くり返さずに→イレギュラーで/急いで

 上記はとりあえず「5W1H」として即座に抜き出せる程度の部分的な要素にすぎませんが、にもかかわらず「ホワイ」を除いたすべての項目に問題となる「ホワット」すなわちテクストと相互参照すべき点が含まれていることがわかります。

 呼び出しの放送の読み上げでは「前日」や「昨日」とは言わなかったこと、「放課後」という非効率的なタイミングの放送であったこと、「神山高校」に用件が持ち込まれた必然性、発話者である「柴崎」はいち教員ではなく管理職であること、なぜか「くり返し」のおこなわれない放送であったこと……これらひとつひとつは小さな気づきですが、それらの推論を組み合わせ、つなげていくことが可能である状況というのは、作者自身が周到に作り込まなければ起こりえないものです。

 また「心あたりのある者は」では、基本的に推論がほとんど飛躍を伴わない、自明と思われる事柄のみを扱っている部分にも注目すべきだと思います。離れた複数の事象を関連性の高いものとして結びつけるのではなく、あくまで状況から導き出せる蓋然性の高い結論を都度採用することで、着実な推理を展開させています。

 作中で唯一、大きな飛躍といえるのは「偽一万円札」を使ったと推理してみせるくだりです。実質的にはこれが提示された段階で推理のインパクトとしては頂点に達するのですが、このあとも折木は、この偽一万円札の悪用に対して、追加で背景情報を想像し、些細な犯行動機までカヴァーしています。改めて、異様なまでの情報の詰め込みようだと思います。

アニメ『氷菓』19話「心あたりのある者は」では冒頭に(学校/壁?)新聞らしきカットが折木のモノローグではなく視覚的な伏線として挿入されています。

 また「心あたりのある者は」は2007年の推理作家協会賞短編賞の候補作にもなっていました。選考委員による選評では、有栖川有栖が「オリジナルの趣向が付加されていたら、と惜しまれる」、黒川博行が「納得できなかった。(…)また、生徒が謝罪文を書いたことも不自然」、法月綸太郎が「ただ、今このパターンに挑戦するなら、逆にどこかで「定型」を踏み越える蛮勇を求めたくなる」と、概ねオマージュの枠を超えていない、といった扱いのようです。

www.mystery.or.jp

 ただ、わたし個人としては、本作は「九マイル」とおなじスタート地点に立っているように見えながら、まったく正反対の方法論によって推論ミステリを成立させたことに意義があると思っています。

 つまり「心あたりのある者は」は、問題文→推論→結論という一般的に考えられている「九マイル」的な推理の道のりをじっさいに踏破した作品ではなく、結論に至るためのフェアな問題文が発話される状況はいかに逆算してかたちづくることが可能か? といった問題意識のもとに設計された短編だったのではないか、ということです。

 であるならば、探偵役が「解ける謎」に出会ってしまうことの不自然さ、都合のよさ、マッチポンプ感を作品の瑕疵としてしまうのは、極めて人工的なつくりをしているこの短編に対して、人工的である、と当然のことを指摘しているだけにすぎません。

 米澤穂信もまた、有栖川有栖と同様に、高度な開き直りをキャラクターに代弁させている作家のひとりとしてみなしたうえで、当該作品がどのように構築されていたのかを捉え直してみるべきではないでしょうか。なにしろ本作において、最初と最後に折木が語ってみせるのは、あくまで「運」の話なのですから。

「だから、俺のことを運のいいやつだと言うのは構わないが、大したやつだというのはやめてもらいたい」

スイリ先生もこのように韜晦しています。推理ってはしたない行為ですからね。

 

阿津川辰海「占いの館へおいで」について

 今回の記事で取り扱っている「九マイル」の後続作品たちを読み比べてみると、阿津川辰海「占いの館へおいで」は明らかにほかの作家とは違うスタイルを採用してミステリを構築しているということが言えそうです。

 まずなにより、本作では、三名によるブレインストーミングによって複数の可能性を同時に提出させ、それらを総合判断することによって推論を進めていることが特徴として挙げられます。むろんこれは、たんに元ネタとの人数の違いがあることだけを意味しません。なぜなら阿津川はこの短編において、ディスカッションによる推論の緻密さや正確さをあまり重要視していないように見受けられるからです。

 すくなくとも、わたしの読後の印象としては、作中で展開される推理について、ほんらいの作者であればじゅうぶん検討できるレベルの前提を意図的に省いているように感じられました。ここではむしろ積極的に、連想ゲームやありなしクイズ、水平思考ゲーム*13的な態度を採用しているように思えます。つまり、ところどころで論理が急に、前提や根拠なしに飛躍するのです。

 しかしこれはロジカルな謎解きをおこなわなかった作者の手抜かりというよりも、「九マイルは遠すぎる」の成立経緯に対する目配せではないかと推察できます。そのいきさつの書かれた『九マイル』「序文」は以下のようにはじまっています。

 ニッキイ・ウェルトは教室で生まれた。そのとき私は上級英作文のクラスで教えており、言葉というものは真空中(イン・ヴァキュオ)に存在するものではなく、通常の意味を越える含蓄を持つものであって、使いようによっては、ごく短い組み合わせでも、幾通りもの解釈が得られるということを学生たちに示そうとしていた。(…)(太字は引用者)

 論理的な厳密性を重視するのであれば、基本的に推論による情報の引き出しは、単線的な経路をたどっていくことが期待されます。しかし「占いの館~」では事実を一意に定めようとせずに議論を進めています。これはなぜかといえば、推論によって相手を「ビックリさせる」ことが彼女たちの目的であり、それが成功できれば「勝ち」であると合意したうえで推理を余興にしているからです。

 よって、ここには元ネタにあったような「筋道立った推論」といったものは最初から放棄されています。しかし仮にそうだとするならば、なぜ阿津川辰海はわざわざ「九マイル」本編のスタイルから意図的に離れたかたちの作品を、それも論理の厳密性をあえて落とした状態で仕上げようとしたのでしょうか。

 おそらく、といってよいかと思いますが、作中の記述で示唆されている存在から、作者の意図はうっすらと想像ができそうな気がします。つまり本作の隠れたもくろみとは、「九マイル」という枠のなかに複数のミステリ作品や批評を合流させ、マッシュアップさせようとしたところにあるのではないでしょうか。

 では、その具体的な固有名詞はなんでしょうか。その前に、本作で扱われていた問題となるフレーズを引用しましょう。すなわち連想ゲームです。

「星占いでも仕方がない。木曜日ならなおさらだ」

 記憶力のよいミステリ読者なら、ここですぐに思い出せることでしょう。

 そうです。あの有名な台詞*14を『獄門島』に登場させた、横溝正史です。しかしイメージはここに留まりません。この横溝正史作品を「言葉の問題」としてミステリの歴史上に捉えるとき、それを評していたさらにべつの書き手へと文脈はつながってゆきます。

 ではいったい、その書き手とはだれでしょうか。

 こういう登場人物の(つまりは読者の)錯覚を、作者がたくみに利用して、あとでアッといわせるところ、を私は『論理のアクロバット』と呼んでいますが、非論理、超論理の支配する現代では、こうした論理のアクロバットを重視して、必然性第一にプロットを組み上げる以外、本格推理小説の生きのこる道はない、と私は思うのです。

 むろんその人物とは、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を書いた都筑道夫にほかなりません。

 また都筑は、この評論によって広く提唱されることになった「論理のアクロバットという概念を用いることで『獄門島』を横溝正史の「最高傑作」に位置づけています。しかしそれだけでなく、このタームを使うことでエラリー・クイーン『Yの悲劇』さえも現代パズラーの射程に入れて語ってゆくのです。

 論理的な解決というところで、おさらいをしなければならないことがある。それは、合理的な解決が提示されたとき、読者にもっとも強力に働きかける要素が、必要であることです。それを私は、論理のアクロバット、と呼んでいますが、動かない呼び方ではありません。論理的なおどろき、といってもいいし、論理の飛躍といってもいい。これだ、という呼びかたが見つからないし、説明もむずかしい。

(…)

 実例をあげましょう。(…)「Yの悲劇」に、論理のアクロバットを説明するのに持ってこいの例がある。お読みのかたは、こういっただけでおわかりでしょう。

 とはいえ『黄色い部屋はいかに改装されたか?』において、都筑的なホワイダニット重視のキラーフレーズとなった「論理のアクロバット」ですが、作者自身がファジーな使い方をしていたせいもあり、多くの読者のあいだで定義がブレてしまった、という問題があります。

 結果として、現代のミステリシーンにおいては残念ながら「なんかロジックがすごい/すごそう」くらいの印象で用いられるマジックワードと化しており、都筑が当時抱いていた危機意識はほぼ途絶えたと考えてよい気もします。

 しかしここであえて指摘するのであれば、阿津川辰海は、意識的にこの「論理のアクロバット」の原義を復活させようとしていたのではないか、と思うのです。都筑道夫『退職刑事1』(創元推理文庫)解説において、法月綸太郎はこの「論理のアクロバット」を次のように説明しています。

 都筑氏の用例を見ると、「論理のアクロバット」というのは、G・K・チェスタトン泡坂妻夫氏の作例に見られるような、転倒したロジックとは、だいぶ趣が異なるようで、むしろ言葉の使い方に関するテクニック(ダブル・ミーニングを駆使したミスディレクションといったほうがわかりやすいかもしれません。(…)(太字は院引用者)

 だいぶ話が迂回していますが、いったんつづけさせてください。

 現代のミステリシーンにおいて、執拗なまでに「ダブル・ミーニング」を多用する作家といえば、阿津川辰海が第一候補にのぼることは論を俟たないでしょう。「あのとき犯人が言った「○○」は、じつはAではなくBという意味だったのか!」というような「おどろき」の展開は、阿津川の長編を手に取れば、ほとんど高確率で遭遇できる演出となっているからです。

 そしてふたたび「占いの館へおいで」の話に戻りましょう。この短編が本家「九マイル」と異なっている点は前述した「論理の飛躍」だけではありません。これは強調してもしたりない部分だと思います。

 というのも、語り手が冒頭で出会うフレーズは、会話文でも通話文でも放送文でもなく、だれにも向けることのない、純粋な「独り言」として登場しているからです。

 わたしはこの文章のいくらか前に、米澤穂信「心あたりのある者は」の冒頭部を引いてメッセージ伝達モデルの話をしましたが、改めて作品を比較してみればわかるように、「占いの館へおいで」における問題文の持っている大きな特徴は、その文章じたいには他者への伝達意志や目的が込められていないということなのです。であれば、だれかによって読み解かれる含蓄あるコードも、メッセージも、通常、合理的に期待することは難しいはずなのです*15

 しかし、その奥にある真相は、なぜか一足飛びに読み解かれてしまいます。通常、決定不可能であるはずのものが、推理という仕組みのなかに取り込まれたとき、無理やり確定させられてしまうこと。阿津川作品において推理小説的な「ねじれ」があるとすれば、この宿命性ではないでしょうか。

 たとえば『紅蓮館の殺人』からはじまる〈館四重奏〉*16について、よく「名探偵の苦悩」がテーマとして論じられている印象がありますが、二作目『蒼海館の殺人』以降、探偵役・葛城輝義がおこなっているのは、驚くほどに迷いのない、最短経路で導かれる明晰な推理でした。この名探偵のふるまいは人間というより、適切にデータを拾うことが保証され、即座に解決をたたき出す「物語装置」*17であるかのようです。

 もちろん「占いの館へおいで」で生まれた「独り言」については、発話者が誰にも聞かれると思っていなかったから「真」であると仮定され、そのまま推理の俎上に上げられるようになっています。これは『獄門島』のあの台詞が発せられたのと同一線上のシチュエーション・趣向として謎を扱いたかったための状況設定といえるでしょう。あるいは、無意識に出た言葉こそ真相を言い表している、という価値観のあらわれともいえます。

 長くなりましたが、これらを単純な図式としてまとめるならば、阿津川は「占いの館へおいで」という自作品のなかで、ケメルマン「九マイルは遠すぎる」ークイーン『Yの悲劇』ー横溝正史『獄門島』ー都筑道夫『退職刑事』および『黄色い部屋はいかに改装されたか?』というミステリ群をひとつの星座として見せようとしていたのではないでしょうか。このようなラインをメタ的につなげていく短編として、この作品の問題文は設定されていたのではないしょうか。

 しかし、とはいえ、です。

 やはり本作において、論理の飛躍や前提の欠落が目立つことは引っかかるポイントだと思います。なぜならここでは、前述した米澤的な謎の「人工性」よりも、アンフェアさのほうが色濃くあらわれてしまっているように見えるためです。

 たとえば、発話者「X」の属性が受験を控えた「三年生」であると問題文や周辺状況のみから論理的に演繹するのはかなりの豪腕といえるでしょうし、発話者が「タロット占い」についてどのくらい知っているかなどについては、登場人物の常識をどのくらい見積もるべきかという意味で、推理とは別軸の、論証不可能な問題になっています*18

 もちろん発話者「X」がもくろんでいたのが「犯罪」であることは「九マイル」的なお約束としてよいとしても、「交換殺人」からイメージをずらして「替え玉受験」と一足飛びに連想し、それが結論として採用される過程には違和感をおぼえます。なぜならそのように裁定されるのは、あくまで本文テクストのなかで「週単位」でおこなわれるイベントが「専門学校のAO入試」しか積極的に記述されていない、というメタ的な物語の要請があったためだからでしょう*19

 記述が存在するということと、その記述に重みがあると判断できてしまうことは、似ているようで、まったく領域の異なる出来事です。ですから本作の謎解きは推論や連想というよりはむしろ「伏線回収」の手続きと呼んだほうが穏当ではないかと思います。

 しかしそれでも説明できないものが残っています。この短編がラストに迎える大オチは、語り手を含むメインの三人ではなく、べつの人物もまた謎を解いていた、加えてたった「六分間」で結論まで検索しきっていた、というものでした。当然、ここで強調されているのは、超人的な名探偵像だと思います。

 けれども個人的には、前提となるべき情報や常識を完全に共有できていないはずの複数人が、なぜかまったく同一の論理操作をおこなったうえ、同一の結論にたどり着いてしまっている、というシンクロニシティのほうにより強烈な「ねじれ」をおぼえます。このような事態においては、もはや探偵役によって送られてきたURLの内容が推理の正しさを裏づけているかどうかは些細な問題でしょう。しかし作者の筆致からは、この状況をさほど疑問視していないようにも感じられるのです。

 じっさいは無秩序であるはずの個々の連関が、作者と名探偵の(見えない)共謀によって権威づけられてゆくこと。そのような意味では「九マイルは遠すぎる」も「占いの館へおいで」も変わりません。というよりミステリというジャンルは、多かれ少なかれそのような権力的構造を不可分に抱えているものだと思います。

 にもかかわらず、です。わたし個人が後者にのみ感じる、この、不自然に澄みきった水のような、得体の知れなさはなんなのでしょうか。

 新本格の世代、あるいは少し先行する笠井潔竹本健治といった人たちの書くものが奥泉光作品と共有しているのは、謎解き小説のもつあやうさの感覚でしょう。新本格とは決して英米黄金時代の単なる焼き直しではなく、担い手たちには「論理的に謎を解く」という行為を見直し、その不確かさや限界を自覚するところから、自分なりの想像力を開花させるといった面がありました。(太字は引用者)

 ふだんわたしが推理小説における作り手のメタ意識を感じるとき、頭をよぎるのは上記のような巽昌章奥泉光ノヴァーリスの引用/滝』の解説で述べていたような「ほの暗く濃密な空間」の手触りですが、しかし阿津川作品のなかに描かれているのは、どうもべつのなにかである気がしています。

 なぜ阿津川辰海は、あえて意図的にフェアネスを崩してしまう程度には、名探偵に超人的でさえある物語上の権能を与えようともくろむのでしょうか。その理由が世代差によるものとして回収されうる話題なのか、それともまったく異なる要因によって起きているものなのか、いまだわたしはうまく言語化できずにいます*20

 

青崎有吾「十円玉が少なすぎる」について

 こうして複数の作品を検討してきて改めていえるところですが、「九マイル」系統の謎解きにおいて、作者/探偵の推理(状況設定)から恣意性をなくすことはほとんど不可能な作業なのだと思います。

 あくまで発話されたテクストを解釈の対象とするとしても、そこから現実への着地を目的としたとき、どうしてもそのルートには取捨選択が生まれてしまううえ、推理の前提には、テクストの「外部」という文脈を導入せざるをえないからです。つまり、仮にテクストを殺人事件現場の血痕であるとするなら、文脈とはその飛び散った方向や推定される傷口の高さ、血液型、乾き具合のようなものだといえるでしょう。

 ほんらい謎解きミステリにおいてワンセットとして期待されるはずのものが、「九マイル」においては意図して分断され、独立した問題として扱われているわけです。であれば、こうした手がかりのなさから出発する枠組みにおいて、どのようにしてフェアな謎解きを担保してゆくことが可能でしょうか。そのヒントになりうる実作として、青崎有吾「十円玉が少なすぎる」を扱いたいと思います。

 青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア』は、「不可能」と「不可解」というそれぞれ異なる専門分野の探偵たちによって、事件の様相が二転三転する謎解きを楽しめるシリーズ*21ですが、その一冊目のなかでのいわば箸休め回が「十円玉が少なすぎる」という短編です。探偵事務所でアルバイトをしている薬師寺薬子が例外的に語り手を務め、「日常の謎」を求められた彼女が発したのが問題となる一連のフレーズでした。

「『十円玉が少なすぎる。あと五枚は必要だ』」

 この謎解きでは、ふたりの探偵がシリーズとしてはめずらしく対立することなく、一本の文脈を探っていくわけですが、本作において明確に徹底されているのは、テクストに付随する「5W1H」をまったく推理の材料に用いていないことでしょう。もちろん語り手は以下のように、その言葉を聞いたときの状況を最初に説明しているにもかかわらず、です。

「今朝学校に行くとき、そういう言葉を耳にしたんです。スマホで通話してる男の人とすれ違って、その人が通話相手に話しかけてるのが一部分だけ聞こえて」

「どうって言われても……三十代くらいの、普通の会社員って感じの人でしたね。スーツ着てて。あ、でもネクタイがアンティークっぽい時計の柄で、ちょっとお洒落でした」

 たとえば、学校に行く途中のどのあたりですれ違ったかについては話題にもされませんし、発話者の属性については、以後「男」として扱うのみで、それ以上の深掘りはなされません。なんらかの具体的な推理に容易に結びつくであろう「外部」を、作者/探偵たちは意図的に推理の材料から外しているのです。にもかかわらず、ふたりの推理は止まらず、ひとつの結論にまでたどり着いてしまいます。

 なぜでしょうか。

 理由は簡単です。「十円玉が少なすぎる」の問題文となるフレーズは、具体的な場所や人間といった「外部」の状況を参照せずとも、テクストの「内部」に最低限のヒントを置くことができるように設定されているからです。では、言葉の内部に置くことができ、かつ参照するにあたり十分な情報としてリンク可能なものとはなんでしょうか。

 端的にいえば、それは「制度」です。

 より具体的にいえば、本作では、日本国内の「貨幣制度」とその運用形態が言葉の内部に前提として埋め込まれているのです*22そしてそれは謎解きにおける「フェア」を担保しうる方法のひとつとして、じゅうぶん役割を果たすことが可能なのものだと思います。

 たとえば、〈国名シリーズ〉における探偵エラリー・クイーンは、しばしば現場に残された物証/手がかりをもとに推理しますが、そこに結びつけられていくのは、人間の持っている身体的な特徴もしくは物理的な制限といった条件になります*23。これはもちろん犯人をひとりに絞っていく、という最終目的があるためゆえの手がかりですが、しかしこれが「フェア」なものとされるのは、犯人による行動の結果として疑いえず、読者にも推理可能であると作者がみなしているからです。

 どういうことでしょうか。

 つまり、エラリー・クイーンがしばしば手がかりや推理に採用しているフェアネスの前提とは、読者にも共有可能な、一般化できる事象であるということです。

 実作を例に引くのもあれなので、以下に、即興でわたしが思いついた簡単な(たぶん?)クイーンっぽい演繹推理を書いてみましょう。たとえば捜査の結果、現場から五つコップが盗まれたことが発覚します。のちに現場の外で、それは洗浄された状態で発見されました。手がかりです。また犯人は、足跡から現場には一度しか訪れておらず、かつ一名のみであることが推定されます。

 そこで探偵が推理します。このコップはどう人間の手を大きく見積もっても(容疑者たちの手のサイズから考えても)、左右にふたつずつしか持てない大きさである。口にくわえることも、重ねることもできない。よって、犯人はコップを現場から持ち出すのに、箱やお盆、リュックなど、運搬に必要な道具をその場で用いる必要があったはずである*24。であれば事件当時、それを不自然に思われず使用していた人間が疑わしい。といったふうに。

 なにが言いたいかと申しますと、上記のように、人間の身体的特徴(腕は最大でも二本しかない)というものは、とくべつテクスト内に記述されていなくとも、基本的に読者と共有されている一般的なデータである、という話です。

 まさかここで例外的に腕が三本生えている人間が登場して犯人となるわけにはいきません。記述がなければアンフェアのそしりを免れませんし、むろん機械等による第三の腕なども同様です。つまりここでは、人間の腕は二本である→二本だけでは五つのコップは持てない→運搬用の道具が必要であった、といった自明な情報からあたらしく情報を演繹する手続きをおこなっている、というわけです。

 では改めて「十円玉が少なすぎる」の話に戻りましょう。本作は明確に、テクストの外部にある具体的な状況を推理の材料にしていません。あくまでテクスト内で推理は完結しているように思われます。しかしここには、日本の貨幣制度や公衆電話といったインフラなどがさらに(見えない)前提として想定されているのでした。そしてこれらの前提情報はとくべつテクスト内に記述せずとも、現実に存在しているため、読者とじゅうぶん共有可能な、フェアなデータ群として扱うことができるのです。

 もちろん、あえて意地悪にひとつだけ作者が意図的に推理のデータとして省いているアンフェアさがあると指摘するならば、発話者が「三十代くらい」であったという点でしょうか。この短編の発表時における三十代は、じゅうぶん公衆電話の利用法について理解しているとされるギリギリの世代の人物像だからです*25

 青崎有吾が「十円玉が少なすぎる」でおこなってみせたのは、複数の情報を都度加えていくダイナミックなかたちの推理ではなく、あくまでミニマルなスタイルを採用することによって実践できる、フェアな「九マイル」型の推理でした。

 このような推理法はおそらく、クイーン仕込みなのである、とわざわざ言いのけてしまうのはさすがに「平成のエラリー・クイーン」といった外部情報にいささか影響を受けすぎているかもしれません。まったくもってアンフェアですね。

 

まとめ:「九マイル」から遠く離れて

 さて、いろいろと考えていることを順番に書き出してみたところ、びっくりするくらい長い文章になってしまいました。ぜんぜん短編より長いやんけ。とにかくお疲れさまでした。本ブログ記事はおおむねこれで終わりです。思えば遠くにきたものです。

 わたしたちミステリファンはついその趣向を見るだけで「九マイルだ!」とはしゃいでしまいますが、こうして作品を並べて語ってみると、作者ごとにまったく違うアプローチをしていることがわかりましたし、このスタイルは常にフェアとアンフェアの境界に立たされているということも指摘できそうです。

「九マイル」の魅力とは、具体的な手がかりがない、というところから出発し、しかしなにか真実を言い当ててしまうという、あたかも無から有を生み出すような、手品めいたおもしろさが先鋭化されているところにあると思います。

 とはいえ、多くの後続作家たちは、その手品があくまで手品にすぎないことを理解しながら書いてもいます。

 探偵の推理も決してこの蓋然性を乗り越えることはできない。作者が探偵に与えるいくつかの重要な痕跡や告白の類いによって、たんに蓋然性にすぎなかった道筋が唯一の可能性であったと推測されるだけである。探偵小説はこの推測によって現実の不確定性を乗り越え、決定的な唯一の道筋によって過去が現在に到達したと思い込ませる。だが、このように現在と過去をつなぐ必然性を確認したいという願望は、結局のところ歴史的な時間の流れを乗り越え、現在と過去のあいだに密接で一体的な関係を復元することにならないだろうか。つまり近代の探偵小説は、世界にはらまれた深さの前にたじろぎ、深さを追求し、深さのなかにはらまれる不確定性・恣意性を祓い除け、それを理解可能な必然性に変える一種の呪術となっているのである。

 上記のことばは内田隆三『探偵小説の社会学における一節の引用ですが、この一節の最後が「呪術」としめくくられているのは象徴的です。

 ほんらい還元不可能である事象を、理解可能なものに見せてしまうおこないは、ふつう、欺瞞や詐欺の類といわれてよいものです。しかし探偵小説≒推理小説のなかではなぜか、その行為じたいは気づかぬうちに容認できるものとして見事なまで転化されています。ゆえに「呪術」たり得るというわけです。

 それはふだん、わたしたちが推理小説に抱いている「理性主義」や「科学主義」といったイメージからは遠く離れたものでしょう。にもかかわらず、ここではまったく反対のものが(見えないルートで)つながっています。おそらくはそのような近代的欲求の産物がミステリであると理解したうえで、多くの作家はしかし謎解きを、「九マイル」を異様なまでの情熱によって書き継いでいるのです。

「(…)こういうのを瓢箪から駒っていうのかね」

「ハインリッヒ・ケメルマン*26の小説にそういう趣向がありますけどね。『九マイルは遠すぎる』だったかな。(…)」

(…)

「幻想に淫するとでも言うか。ちょっと危険なタイプなんですよ」佐川は説明した。

「しかし何のためにそんなことをしたのかね」

「そこがマニアのマニアたるところなわけです。目的なんてないんですよ。あれこれと怪奇な幻想に遊ぶこと自体が楽しいわけです(…)」

「まったく度しがたい輩だな。探偵小説マニアというものは」

 いや、もしかしたら、大層な理由なんてないのかもしれません。

 しかし、それでもひとついえるとすれば、「虚構」という存在ほどにわたしたちを惹きつけてやまないものはないということでしょう。なにしろ奥泉光『葦と百合』が上記のような会話をしょうもないギャグとしてわざわざ開陳しているのは、 なにより作者自身がその虚妄を振り払えていない証左なのですから。

 たとえば奥泉は法月綸太郎との対談で以下のように述べていました。

 それはともかくとして、合理性は重要であり、合理性を徹底することが合理性の反対物に転化する可能性はあると思うんですよ。中途半端な合理性はすごくつまらない。でも、合理性の徹底が反対物に転化する経緯というのをミステリというジャンルは常に孕んでいると思うんです。

(…)それが僕は見たいんだなあ(笑)。

 というわけで、これからもどんどん虚構に淫して書いていきましょうね、ミステリおじさん。……ああ、おじさん、泣いてるのね。

 

おまけ:「九単位は多すぎる」について

 上記のことをいちいちしっかり考えていたわけではありませんが、せっかくの機会でしたのでわたしも「九マイル」に挑戦してみました。『留年百合アンソロジーダブリナーズ DLCに収録されています。タイトルはずばり「九単位は多すぎる」です。

strange-fictions.booth.pm

 大学生の女の子ふたりが喫茶店でふと耳にした「九単位は多すぎる」というフレーズをもとにあれこれ推理するという百合ミステリ短編です。

 もし仮に、本ブログ記事が「理論編」とするならば、本作は「実践編」といえるかもしれません。なんだか小鷹信光『新・パパイラスの舟』みたいでワクワクしますね。とはいえ基本的にやっていることは先行作の模倣の範囲ですので、ご期待なさらず。また同人誌の売り上げはすべて能登半島地震の災害義援金等に寄付される予定です。500円で読めますので、よければご笑覧ください。

 また、一緒に好評配信中の『留年百合アンソロジー ダブリナーズ』本篇には、「春にはぐれる」という中編を寄稿しています。こちらも読んでくださったら幸いです。ただしミステリではありません。どうぞよしなに。

strange-fictions.booth.pm

 というわけで、みなさんもオリジナルの「九マイルもの」執筆に挑戦してみてはいかがでしょうか。もし新手筋を見つけられた場合には、こっそりわたしに教えてください。できれば街中で、すれ違いざまに、はっきりした発声で聞き取りやすく、30文字以内の心に残るフレーズですと、その、たいへん妄想が捗るかと思います。そのあいだ、わたしは佐野洋を読んでいようと思います。

 なお最後に、今回の記事で考えた「九マイルは遠すぎる」の捉え方について、自分と同様の考えを持っている人がいないか検索してみたところ、十年以上前から安眠練炭さんがツイッターで言及なさっていた旨を補足しておきます。

 

おまけ2:なんとなく意識下にあったものたち

www.kosho.or.jp

 

エンディング:fhána「lylical sentence」


www.youtube.com

*1:ただし本記事において「九マイルは遠すぎる」の文章を引用する場合は、永井淳訳を扱います

*2:本格ミステリ作家クラブ

*3:ただし、作品のあらすじについては正確な言及ではありません。

*4:個人的には、創作のためのリバースエンジニアリングが目的でした。

*5:ここでは国名シリーズのような物証から確定できる事実を導き出す推理の意、で使っています。

*6:じっさい、都筑道夫はヤッフェ〈ブロンクスのママ〉形式からスタートした『退職刑事』シリーズのなかで「九マイル」の趣向に挑戦した「乾いた死体」という短編を書いてもいます。退職刑事3 (創元推理文庫)に収録。

*7:たとえば殊能将之のとある作品で語られる荒唐無稽な真相などは、そうした修正作業をメタ的に演出したものではなかったでしょうか。

*8:ここでは「九マイル」の成立経緯を問題にしているのではなく、作者がじっさいに作品を書き、作者の想定する結末のとおりに探偵にしゃべらせている状況そのものを問題にしています。

*9:SF作家。現在は「阿部登龍」名義で活躍中。

*10:極端なことをいえば、語り手は「バナナのナス、バナナス」といった合理性の欠片もない、意味不明かつ謎解きの対象になりえない言葉とは出会うことが許されていません。

*11:シャノンやヤコブソンあたりをぼんやりイメージして書いていますが、専門領域ではないのであくまで素人のイメージとさせてください。

*12:いまわたしはデコードの濫用をしています!

*13:いわゆる「ウミガメのスープ」のこと。

*14:気になった方は実物を読んでみてください。

*15:たとえば「キュウリのリンゴ、キュウリンゴ」のように。

*16:2024年現在は三作目まで刊行されています。

*17:作中の言葉では「ヒーロー」と素朴に説明されていますが、いささかわたしはその表現に懐疑的にならざるをえません。

*18:仮に発話者が、「タロット占い」がカードを使うものであると仮定したとしても、「本人」がその場にいる必要があるかどうかといったルールまで熟知しているかは個人差によるとしか言えません。

*19:週単位で木曜におこなわれるイベントという条件であれば、テレビアニメやドラマの放送でも、ロト6の抽選でも、無数のものが登場人物の思考の選択肢には上がるはずだと思います。

*20:もし一点だけ言えるとすれば、阿津川作品においてなぜ「ダブル・ミーニング」という読者にはおよそ確定不可能な伏線が多用されるのか、という部分とも接続されうる話題かもしれません。

*21:しかしこのテイストはシリーズが進むにつれ、次第に崩れてゆきます。

*22:そしてここにはおそらく競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫) (創元推理文庫 M ん 3-1)の残響もあるのでしょう。

*23:具体的には実作品を読んでください。たとえばフランス白粉の秘密 (角川文庫)など。

*24:スーパーガバガバ演繹なので、別解はぜんぜんあると思います

*25:なぜならこの短編において、発話者が十代として設定されていた場合、推理の前提としての情報が作者と読者のあいだだけでなく、犯人にとっても共有されているかが疑わしくなってしまうからです。

*26:ここではなぜか作者名が誤って呼ばれています。