『刀と傘』個人解説へのお便りについて

saitonaname.hatenablog.com

 今年1月の文学フリマ京都にて、サークル〈ストレンジ・フィクションズ〉が頒布した『異色作家短篇集リミックス』というものがありまして、先日、そこに掲載していた「正‐情念小説としての『刀と傘 明治京洛推理帖』解説」に対するお便りが届きました。どなたかは存じ上げませんが、まず拙文をお読みいただきありがとうございます。また丁寧なお手紙を送ってくださりありがとうございます。商業作家ではない自分が先生と呼ばれることには違和感と困惑しか覚えないのですが、それはさておきです。

 同人誌には上記リンクに書いたものと基本的には同じ内容のもの(誤字脱字、ちょっとした言い回しの変更は除く)を掲載しています。また手紙をお送りいただいた方の名前は伏せさせていただきます(ペンネームなのか本名なのかわからなかったためです)。

 

 今回はそのお便りに書かれていた意見・感想に対する返答を以下に続けさせていただきます。ですが、なにぶんこういったことには不慣れですので、ちゃんとした回答になっていないかもしれません。また個人的理由から急いで書いたものになってしまったので誤字脱字があるかと思います。その点ご容赦ください。 

 さて、要約すると、いただいたお手紙の指摘は次の六点に絞られるでしょうか(カッコ内はこちらが補ったものであり、いただいた文章中にあった表現ではありません。またこちらの解釈がほんらい意図されたものとは違っているかもしません、重ねてご容赦ください)。

・伊吹作品を「正‐情念小説」としているが、その定義は不適切ではないか(実際の作品内容とズレがないか)。
・「正‐情念小説」というが、それはたんに「反‐情念小説」ではない、と述べているだけではないか(解説としての具体性に欠けるのではないか)。

・「心の動き」というものには読者側のものと作中人物側のものがあり、前提としている「反‐情念小説」と提唱した「正‐情念小説」とでは議論の階層が違い、論点がかみ合っていない(論点を取り違えているのではないか)。
・「反‐情念小説」との対比が連城作品ではなく、巽昌章の提唱した概念との対比に終始している印象を受ける。連城作品そのものを無視してはいないか。
・また作者自身の言葉でない概念(=「反‐情念小説」)を取り入れて使うのであれば、その検証をしておくべきではないか(実効性・妥当性の検証を怠っているのではないか)。

・そもそも「反‐情念小説」という概念じたいが作品の実態から離れたものではないか(解説の土台として使うのは不適切ではないか)。

 以上のことについて、いただいた文章を適宜引用しながらお答えできれば、と思います(もしかすると引用が恣意的なものに感じられるかもしれませんが、こういった答え方のため、そうならざるをえない部分があります*1 )。

 加えて、当該作品について、時間の関係上ちゃんとした再読などができなかったため、もしかしたらこちらの記憶や読み方に誤りがある可能性があります。いただいた文章からは連城作品をかなり読み込んでいるように見受けられましたし、そういった態度に対するこちらの臨み方はいくぶん不誠実に映るかもしれません、と先にお伝えしておきます。

 

「正‐情念小説」の定義と作品内容のズレについて

 当該解説において、自分は以下のように書きました。

 連城三紀彦『戻り川心中』(ハルキ文庫)の解説で巽昌章はその作品について、シナリオ作家志望だったという作者の経歴に重ね合わせ、次のように述べている。

「つまり、作者は一方で私たちをひきこまずにいないような劇的な場面を差し出しながら、それを包むひとまわり大きな真相を用意し、「カメラを引く」ことによってそれをあらわにしてみせるのだ」と。またとりわけその「花葬」シリーズと呼ばれる連作については、読者の抱く「心の働き」を利用して背負い投げをくわされるという意味で「反―情念小説」とでもいうべき存在だと規定している。

 とはいえ、筆者がここで述べたいのは、伊吹亜門の作品が連城作品とまったく同じ傾向にあるということではない。むしろ伊吹作品においては、あたかもその「カメラ」の取り扱いが、連城作品とはネガとポジが反転したかのような様相を呈しているのだ。

(…)
  つまり伊吹作品は、連城作品と並べて語るのであれば「心の働き」にどこまでもフォーカスした「正―情念小説」といってよいつくりをしているのだ。

  まずひとつ目は、これに対する疑義ですね。以下に引用します(カッコつきの三点リーダは中略、ほかは原文ママ)。

(…)『刀と傘』と花葬シリーズでは反転しているというふうに解説なさっていますが、その際に「心の動き」というものを無視して対比を行ってしまってもよいのでしょうか。『刀と傘』に納められた短編に読者の「心の動き」を利用した作品というのは収録されていなかったように思います。(…)「ミステリとしての枠」を意識させて読者にミステリとしての偽の構造を印象付けるというテクニックは使用されていると思うのですが、それは情念の領域ではなくどちらかというと理性の領域に区分されるものではないか、と思います。そうしたものに「正‐情念小説」と名付けるのはあまり不適説ではないのではないか、ということを思いました。

  ここで「ミステリとしての枠」を意識させているのがどの作品なのかはわかりませんが、基本的な論旨はこういうことでしょうか*2

「反‐情念小説」が読者の「心の働き」(厳密には違いますが、これは「感情移入」のようなはたらきに近いと個人的には考えています)を利用することによって背負い投げをするものである、という定義を援用するのであれば、「正‐情念小説」たる伊吹作品も読者の感情移入を利用しているはずである。にもかかわず、それに該当する部分は見当たらない。つまりこの援用≒定義じたいが適切ではない。

 上記のように判断しました。基本的にネタバレをするつもりはありませんが、今回は『刀と傘』収録作の「弾正台切腹事件」を例にして一部ぼやかしつつ答えたいと思います。

「弾正台」の基本プロットはシンプルな密室トリックの謎解きですね。自刃したとされる被害者の状況が明らかに疑わしく、犯人と目される人物も存在しているものの、現場が密室状態であったという前提のためそこに加えられた作為を解かなくてはならない。ここから「ミステリとしての枠」を一定層の読者が想定する、と判断しますと、いただいた文章の論旨にそぐうものになるでしょうか。たしかに、ここには読者によるキャラクターへの感情移入といったはたらきは見えません。あるのは人物の配置関係やトリックという核への興味でしょう。

 ですが「弾正台」のラストに至るとき、読者はこうした思考を捨てる一文に出会うようになっています。具体的に言いますと、107ページの傍点部分ですね。ここで描かれる裏の動機はあきらかに合理ではなく、感情を優先したものではないでしょうか。この瞬間、理性の犯罪(≒密室殺人)だったものがじつは情念の犯罪であったということに気づかされます。そして同時に、冒頭部から配置されていた歴史的な背景や策謀、そしてキャラクターのたどってきた人生そのものが歯車のように噛み合います。

 その殺人における決定的な噛み合いの瞬間を《読者は》なにによって基礎づけるでしょうか。むろん記述されていた《感情》によってです。そして次に記述されるのは、その劇的なシーンにフォーカスしていく描写(≒カメラ)です。「師光の頭に、二つの影が浮かぶ。」以降の文章は、短いながらも雄弁にその加害者と被害者の関係性を語ってくれます*3。自分は伊吹作品のそういった部分を解説で以下のように述べました。

 そして謎解きの段階に差し掛かったとき、カメラは決して引くことはなく、むしろその焦点を合わせた一瞬にだけ、ようやくかすむように見えるひと握りの真意を拾ってみせている。その点にこそ、伊吹作品の特色はある。

『刀と傘』はこうした決定的なシーンの持つ雄弁さを、キャラクターの抱いた感情と映像的にリンクさせることで読者にイメージとして喚起させています。類似した演出例であれば「佐賀から来た男」56ページの傍点部の「~名残だったのではないか。」以降に連なっていく文章でしょうか。ここでもまた、極限の状況における加害者と被害者の関係性が短いながらも雄弁に語られています。

 この謎解きに至った段階で(ようやく語り手が一歩だけ客観から主観に踏み込んでいき)、「読者にキャラクターの関係性のイメージを喚起させる」技術こそが『刀と傘』の特色だと自分は思っています。ですから伊吹作品においては読者の「心の働き」を利用してだます、というものではなく、あくまで推理とも直感ともつかないギリギリの極点で感情に踏み込んだ記述を持ってくることで、読者とキャラクター間の「心」を同期≒認識させる「働き」がある、という点が重要だと思っています。

 ではこうしたシーンの持つ雄弁さは連城作品のどこにあたるかといえば、作品の大部分にちりばめられた印象的なシーン群でしょう。いただいた手紙のなかで言及なさっていた「桐の柩」内の描写をあえて例にあげるのならば、兄貴が「桐の花」≒きわの匂いを嗅ぐシーンや傘を燃やすシーン、意味ありげにあらわれる花札、そして扇子を燃やすシーンなどです。映像として魅力的でありながら同時にキャラクターの存在や関係性をより強く読者に訴えかけていく部分です*4

 だいぶ雑で取り落としが多いのが申し訳ないのですが、対比関係を図にしてみました(このくらいざっくりしたほうが掴みやすいでしょうという判断です)。

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 連城作品≒花葬シリーズの多くには、冒頭から幾度となくキャラクターを映像的なかたちで読者に結び付けていこうとする描写が挟まれていきます(これらはよく抒情的と評される文章のことだと思います。あたかも映画のワンシーンであるかのような)。そうした構図やイメージを多用することで読者に一定の「心の働き」≒感情移入を喚起させながらもじつはそれを裏で利用し、逆転の妙を見せるのが「反‐情念小説」なるものではないかと思います。

 いっぽう伊吹作品では基本的に事件に対する簡潔な報告書から始まり、歴史的な背景やそこに生きるキャラクターの立ち位置などが順番に配置されていきます。たしかにここでは読者の感情移入ははたらきません。

 しかし推理が佳境になると、伊吹作品ではそれまで語られなかった(踏み込まれていなかった)他者に対する視線≒関係性があたかも決壊したかのようにいっきに現前化します。客観から主観への移行ですね。伊吹作品は、この推理におけるイメージ喚起の瞬間をかなり映像的に記述することに注力しています。おそらく、連城作品における映像的な記述のテクニックを(自覚的か無自覚的なのかはわかりませんが)取り込むことによって「正‐情念小説」なるものをつくりだしているのではないか、と自分は考えました。

 ですから、たしかにここでは「心の働き」を「利用して」はいないと思います。むしろやっているのは「心の働き」の強調≒瞬間的な結晶化でしょう。ですから両者にとってカメラ(≒映像的記述)の《利用目的》はネガとポジのように違っているのです。伊吹作品におけるカメラのフォーカスには、構図の逆転やだますこと(「ミステリとしての枠」に対するサプライズとしての部分もありますが)よりもキャラクターの内面性を鮮やかに描くこと(≒感情というキーに基づく理解と続く映像的に雄弁な描写により、ストーリーやキャラクターの関係性を読者の心の働きに訴えかけること)に大きな強みがあるからです。

 もちろんより正確にいえば、伊吹作品におけるテクニックは、連城作品のイメージ喚起とその書き換えにおける熱量の折衷あたりが妥当かと思いますが、傍点の直後に語られていくさいの文章が持つ独特の湿度は、連城作品の描くシーンの湿度に類似したものがあるのではないか、と個人的には考えています。ただこれは主観的な部分によるものが大きいのであまり強くは言えませんが……。また「桜」に関してはこうした映像によるイメージ喚起が連城作品と同様に冒頭からちりばめられていたうえでなお、その先でさらにフォーカスしていくものがある、という文脈で取り上げたつもりです。わかりづらかったのであれば、それはこちらの落ち度によるものだと思います。

 もしこうした映像的な描写によるイメージ喚起のテクニックによって読者とキャラクターの心情を瞬間的に同期させるダイナミズムが伊吹作品には存在していない、と判断していらっしゃるのであれば、たしかに「正‐情念小説」という言い方は不適切に感じられたでしょうし、そこにズレがあるようにみえていたかもしません。あるいはこの考え方そのものに関心できない、という認識であればそう取っていただいても構いません。また厳密ではなく、具体的な議論でもない、という認識に対しては、以下に続く文章で部分的ではありますがお答えできるのではないだろうかと思っています。

 

 解説としての具体性/「心の働き」の論点について

 次の指摘に移りたいと思います。以下引用です。

(…)あるいは、無機質な物語が登場人物の内へと迫っていく中で構造が転換し、登場人物の情念が明らかになる、ということを「正‐情念小説」と定義しているのかもしれませんが(…)、それは「反‐情念小説ではない」と述べているだけであって、『刀と傘』の特異性を語ることにはつながっていないではないか、と思います。動機を主眼に置いたミステリはそうした構造を必然的に備えているからです。

 また、次のような指摘もありました。

(…)そうした「心の動き」に関する対比論は巽昌章が主張する「心の動き」と同じ層にある「心の動き」、すなわち「物語を受け取る側」の「心の動き」と同様の階層にある「心の動き」と対比しなければ成立しえないはずです。作中人物の「心の動き」と、作品外部にいる読者の「心の動き」では明らかに議論の階層が異なり、対比をしようにも論点がかみ合っていない以上、「正‐情念小説」という議論は成立していないのではないか、と愚鈍な読者である私は思わざるを得ないのです。

 このふたつについては、前述した部分である程度までは回答できたのではないか、と考えています。

 まず「正-情念小説」という言い方について、いわゆる否定の否定を重ねているだけで、具体性がないのではないか、というご指摘として理解しました。

 とはいえ、自分は連城作品および花葬シリーズを「反‐情念小説」と捉える考えを起点にしてみえてくるものを語っているのであって(作品間の対比関係については前述しました)、ある種の影響関係もしくは類似性から伊吹作品を捉える解説をしたつもりです。ではその連続性/類似性がいったいどこにあるのか、という部分についての言及がすくなかった、という指摘であればその通りだと思います。またそれが単純な文意として理解するさいに「反対の反対」=「ただの表」のようなレトリックのあそびにかかずらっているものとして判断されたのであれば、こちらの説明不足だったと思います。

 ですが、それが動機を主眼としたミステリと同様になってしまうのではないか、という指摘はちょっと違うのではないか、と考えます。「佐賀から来た男」を仮に動機を主眼としたミステリとして(ネタバレを避けつつ)の評価軸から判断するのであれば、「限定的な状況下で生まれる独自の動機」の面白さ、ということになるかもしれませんが、それだけではもうひとつの動機である、56ページの傍点部がなぜ傍点部であるのか、という問いには答えることができません(なぜならこちらの動機は限定的な状況下だけでなく、キャラクターの関係性と不可分なものとして描かれているからです)。

 キャラクターの関係性までを「動機」への「推理」あるいは「直感」によって描き出す/取り込んでいくことのダイナミズムに伊吹作品の強みはあり、それは「反‐情念小説」としての連城作品が使ってきたモチーフ/テクニックでもあるがゆえに、ようやく「情念小説」という共通項がなんであるのかがみえてくるものだと思っています*5。自分はその特色を「あたかも人々がひそかに結んだ「最後の絆」が推理によって鮮やかに解かれる」ものと記載しました。そしてこの「最後の絆」とは「夕萩心中」の以下の部分からの引用であることも解説で述べました。

 情死事件というのは、現世では愛を成就できない男女が来世に夢を託した結果起きる事件である。さまざまな事情で結ばれることのない二人が、死を最後の絆としてたがいの心を結ぼうとするものである。

 このキャラクターの関係性に対するまなざしが、ほかの動機を主眼としたミステリ群にも同様に適用できるものとは、申し訳ないのですが、思えません。何度も述べますが、連城作品との連続性/類似性からみえてくるものを解説したいのであって、その前提部分に対する同意がえられないのであれば、残念ながら見ているものが違いますね、としかこちらからは答えられないところです。なら最初からそう説明しろよ、という向きもあるかもしれませんが、それについてはこちらの言葉が足りなかった、ということでお詫びいたします。

 それからもうひとつ、「正‐情念小説」の指摘する「心の働き」はキャラクター側のものだが、巽昌章のいう「反‐情念小説」の「心の働き」は読者側のものであり、比較として噛み合っていないのではないか、という指摘です。

 すでにお答えした部分ではありますが、基本的にこちらは連城・伊吹両者とも作中の出来事への映像的描写→読者へのイメージ喚起、というところは通底しているものと考えています。解説ではこのあたりがとてもわかりにくく、かつ省かれて書かれているのはその通りで、心苦しいのですがこのたびの回答をもってご容赦いただければと思います。またこちらの提示する作品間の共通性についてよくわからない、とおっしゃるのであれば、やはり見ているものが違いますね、としか言えません。申し訳ないです。これ以上の説明は現状できかねます。

 

連城作品そのものを無視していないか

 引き続き、すこし長いですが引用します。

 また、解説の中で用いている反‐情念小説との対比が、連城三紀彦の小説ではなく、巽昌章の提唱した概念との対比に終始しているような印象を受けました。評論中においては対比例として「桜」と「菊の塵」あるいは「佐賀から来た男」と「菊の塵」を提示していらっしゃいますが、その他の作品との対比はできなかったのでしょうか。また、対比の際にも表面的な犯人像であったり、被害者像であったりという部分で肝心の構造的な対比、「反-情念小説」としての構造と「正-情念小説」としての構造の対比は行っていらっしゃらなかったと思いますが、それはメインテーマからはずれた議論ではないか、と個人的には思います。

(…)表面的な対比に終始していると、作品自体の共通性というのはそれしかないか、という印象をどうしても抱いてしまいます。そうなってしまうと(…)「反-情念小説」という一つの通説との対比でしかなくなってしまい、花葬シリーズという物語は無視したまま解説が展開していくようにどうしても思ってしまいます。

  という部分についてですが、「桜」について「菊の塵」と「表面的な犯人像」をなぞって解説しているだけのものとおっしゃりたい旨はその通りだと思います。ただし「これは言い過ぎかもしれない」とこちらは断っています。それ以上の過剰な意味や読み方を付与したつもりはありません。

 また「佐賀から来た男」についてですが、こちらも「菊の塵」同様「表面的な被害者像」をなぞって解説しただけものという指摘として受け取りましたが、そちらは若干、違っているかと思います。自分は「「ひとまわり大きな真相」に当事者が直面するという事件の構図」が「菊の塵」に「酷似している」という点を強調する旨を書きました。ですからここには単純な被害者像のみの類似ではなく、謎解きという根幹の構造にかかわる部分があったものと認識しています。そのように読まれていなかったのは残念です、としか言いようがありません。またネタバレの性質上これ以上は述べられませんが、「未読の方」向けにそれらの作品を「読み比べてほしい」と書きました。この部分について「表面的な議論/対比に終始している」とご指摘いただいても、特にお答えできることはありません。なぜならそのようにしているからです。あるいは「佐賀から来た男」と「菊の塵」の構造が類似している、と判断するのは間違っている、というご指摘だったのであれば、ある程度はこちらのスタンスをお答えできたと思うのですが。とはいえそれは議論の本意ではないように思います。

「反-情念小説」としての構造と「正‐情念小説」としての構造の対比がなかったという指摘はもっともだと思います。それについては前述した定義に関する部分で改めて説明したものと考えます。残念ながら現状、これ以上の踏み入った説明はできかねます。ご容赦ください。

 連城作品を無視しているのではないか、という意見はそのように受け取られたのであれば、申し訳ないですがこちらの落ち度だと思います。今回の解説のフックとして「反‐情念小説」という概念を提示し、そこへの類推から伊吹作品を読み進めていく補助線を引く、というかたちをとったつもりでした(そのうえで「桜」や「佐賀から来た男」と連城作品を並べたつもりでしたから、その補助線の引き方が「表面的」にすぎないと思われたのであれば、対して言うことはないからです)が、そもそもその出発点のところに異論がある、というご指摘としても受け取りました。こちらについてはのちほど答えさせていただきます。

 

「反‐情念小説」という概念の取り扱いについて

(…)「反-情念小説」という通説を本当に正しいと思っていらっしゃるのでしょうか。作者自身の言葉でもない限り、他人の構築した概念を自分の解説の中に取り入れるのであれば、その検証を試みるのが評論をする立場の人間が最低限行うべきことだと思います。まして、そこを起点に自分の論を展開検証しないままに概念を用いるということは普通ありえないことだと思います。

 ここでいう「検証」というのは、議論として妥当性/実効性があるかどうかを検証する(堅固な議論であるかどうかを調べる)ことの意、として受け取りました。そして、それをこちらが怠っている。なぜなら検証したはずであれば、この概念を使うはずがない(べきでない)、と考えていらっしゃるものとして受け取りました。

 というのも、いただいた文章は次のように続いているためです。

(…)結論から先に申し上げますと、巽昌章の解説は優れたものではあったとしてもやはり的外れな議論に終わっているように思えてなりません。例えば、「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程はどこにも存在していませんし(ハルキ文庫版181ページに「今から思うとそれには別の含みがあったのである」という一文がある以上、連城三紀彦が読者に像を作らせようという意図がなかったのは明らかです)、「桔梗の宿」や「藤の香」といった主人公のキャラクターの透明度が低い作品においては読者が心の動きによって騙されている、というよりも主人公自身の方向を誤認した心の動きに読者が同調しているという構図のほうが実態に近いのではないか、と思います。そうした構造の物語と、読者の心に直接像を形づくらせる構造を持った物語(「戻り川心中」「夕萩心中」など)をひっくるめて一つの構造として捉えるのはやはり困難であるように思いますし、実態から離れた理論的な話にどうしても終始してしまいます。つまるところ、あの議論は他の議論の土台として存在できるほど強固なものであるとはどうしても考えづらいため、先生の「正-情念小説」という議論も空虚な議論の上に積み重ねられただけの土台のない建築であるようにしか思えなくなってしまいます。

 とのことです。いくつか議論が混在しているところがあると思いますので、順番に答えていきたいと思います。

 まず巽昌章の考えへの批判に対し、自分が反論を試みるのもどこかおかしな話ですが、援用した立場として(あくまで自分による解釈として)お答えします。

 巽による『戻り川心中』(花葬シリーズ)の解説の骨格および魅力は類推、もしくはいったん抽象化することによって作品に隠れていた部分を照射していくことにあります。「カメラ」という考え方はこの類推から生まれたものです。そして、そのような考えを述べる前に、以下のように書いています。

 連城三紀彦は、シナリオ作家志望だったという。私はあまり、その作家の履歴と作品を直結することを好まないけれども、この「花葬」連作に、スタジオのイメージを重ね合わせる誘惑には抵抗できない。

 

 つまりこの時点で、巽自身は作品の外部からイメージを輸入して語っていくこと(乱暴にいうなら、作品本位ではなく解説者本位であるという旨)を断っています。ですから巽が述べようとしているのは、あくまでそれぞれの作品を抽象化してみせたうえでみえるものはなんなのか、という視点の導入でしょう*6。いただいた文章からではそのような考え方に同意できなかったのか、もしくはそれを巽の解説から読み取れなかったのかはわかりませんが、すくなくとも見受けられるスタンスとしては抽象画を前にして「写実性がない!(だから評価に値しない)」*7とおっしゃっているようにしか感じられませんでした。そもそも作品を取り扱う態度や理念が根本から違っているのですから、それをご理解いただけないのも仕方のないこととは思います。

 とはいえ、です。巽の解説ではその概念がやはり連城作品を捉えるのが不十分だったのは部分的に正しいと思います。なぜなら解説内では「桐の柩」についての言及だけは避けられているからです。ですが「「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程はどこにも存在していません」という指摘は、批判としてはちょっと惜しい気がします。そもそも巽は「「桐の柩」においては読者が「心の動き」によって情念の物語を形づくるという過程」があるとは述べていないからです。批判するべきなのは、巽が「桐の柩」への言及を不自然に避けていたこと、つまり議論の不徹底さではないでしょうか(そうおっしゃりたかったのであれば、たしかにその通りだと思います)。『刀と傘』解説において、その部分への言及がなかったことを批判したい、というのであれば正当な指摘として受け取らせていただきます。

 ただ、「ハルキ文庫版181ページ」の記述をもとに「作者が読者に像を作らせる意図がなかった」。ゆえに巽の考え方は妥当しない、というのは指摘としてはあまり的確ではないように思います。というのも巽は、作者ではなく、読者の側がどうしようもなく男女間の情念を描写から感じ取ってしまう「心の働き」つまり「紋切り型の世界」という構図の誘惑に注視しているからです。ここに巽解説といただいた文章における認識の相違があるように思いました。あえて表現を借りるなら、いただいた文章では巽解説のやろうとしていることを「ミステリとしての枠」≒「理性の領域」として判断していらっしゃるようですが、こちらの認識としては巽はその誘惑を「情念の領域」で語っているものと認識しています。

「桐の柩」ではおっしゃる「一文」に至るまでに、いくつもの「心の働き」を喚起させるシーンが導入されています(もちろんそれは決定的なものではないのですが)。当該作では、兄貴ときわというふたりの関係性≒情念≒その終着点としての殺す相手、加えてそこに挟まれた語り手が右往左往するという不安定なイメージを読者に植え付けるのに成功しています。それを「今から思うとそれには別の含みがあったのである」という一文を読んだ瞬間に読者が全部拭い去ることができるとは到底思えません。というよりそもそも「別の含み」というのはハルキ文庫版184~5ページにまたいで語っている言葉の解釈にまつわる部分のことであって、181ページの一文までに何度も語られていた男女の関係(≒情念の物語)がその記述によってただちに棄却されるものではない、とこちらは考えているからです(いただいた論旨の読み違えがあったらすみません)。

 また「桐の柩」の結末で語り手が直面するのは、その情念の物語が、当初考えられていたものよりもさらに複雑で歪なものだった、という事態だと思います。ですがその物語のイメージは同時に、読者の持っている紋切り型の思考をさらに強固なものへと深める効果(≒心の働き)を発揮していたのではないでしょうか。

 兄貴が最後に取った行動はまさしくその型の表れとでもいえませんか。その物語にすこしでも読者が共感するところがあったとすれば、それは巽の指摘である「私たちの心がいかに紋切り型に弱いかという事実を、残酷に暴きたてるといった面」ともなりますし(なぜならミステリとしてはその事実を冷酷に記載するという謎解きの側面が存在し、「一歩引いてひとまわり大きな事件の構図を発見する」という着想がそこでは捨てられていないからです)、しかしそのいっぽうで「作者はその彼らの愚かしさを、切り捨てかねて」いるそぶりを見せていなかったでしょうか(結局のところ、これは個人の読み方、主観でしかないので共有できるものではないのかもしれませんが……)。

 ただ、一部の作品において「主人公自身の方向を誤認した心の動きに読者が同調している」といったほうが実態に近いのではないか、という指摘はとても重要だと思いますし、同意します。というのもこちらとしても、そのような語り手の持つ心の動きと「読者が同調する」ことは、ストーリーやキャラクターの関係性を読者の心の働きに訴えかけることという前述した伊吹作品の強みにもつながる視点だと思っているからです。その文脈において、先に指摘なさっていた「作中人物の「心の動き」と、作品外部にいる読者の「心の動き」では明らかに議論の階層が異な」っているという部分の問題はその同調によって解消されないでしょうか。

 たしかに、連城作品における情念に対するアプローチのよりどころ(信念といってもよいかもしません)をいったん抽象化したなかで浮かび上がらせようとする巽の試みは、個別具体的、細かい技巧的な部分に対する解釈としては甘いところがあるのかもしれません。ですが、だからといってその「理論的」な部分が立ちすぎて「実態から離れ」ている(イコール論じるに足らない)、と即座に切り捨ててしまうべきであるようには思えないのですが……。というのがこちらの考えです。

 さて、ここで改めて「検証していたならば、巽の概念を援用するべきでないことに気づくはずだ」というご指摘に対して答えることができるようになったのではないか、と考えます。

 これらの話をもとに返答を考えますと、第一に、「抽象化」「類推」といった巽のやり方を、いただいた文章では「検証」できていないように見受けられます(もしくはその意図や価値を認めていない、ということでしょうか)*8。こちらとしてはそれを認めたうえで議論を進めよう、という立場です。ですから意見が異なるのは仕方のないことだと思います。価値基準が違っていれば、そこに対する態度が違ってくるのも当然です。第二に、その態度が「空虚」で「理論的」だと判断していますが、すくなくとも「理論的」であること≒「空虚」≒価値がないことである、とただちに結論づけるのは早計ではありませんか。たしかにあなた自身が理論的な解説そのものに価値や魅力を感じない、という限りにおいて、その認識は間違っていません。ですが、その価値基準を異なった相手にも適用し、それによってこちらを一方的に断じるのには違和感を覚えます。それは個人的な(もしくはその周囲によってかたちづくられている)価値基準の押し付けになっているのではないか、という懸念があるからです。

 ここではどうしても自分の不見識を強調することに、もしくは意地悪な言い方になってしまいますが、「他人の構築した概念を自分の解説の中に取り入れるのであれば、その検証を試みることが評論をする立場の人間が最低限行うべきこと」であるとするルールをどなたかが明記していらっしゃったのでしょうか。それとも明文化されていない、いわゆる紳士協定のようなものだったのでしょうか。どちらにせよ、自分はその文化圏に属していなかった、ということになります。よってこちらの解説が文化的ではない、とおっしゃるのであればそうかもしません。ですが、それが致命的に悪いことなのかどうかについてはこちらとしても判断しかねます。

 あるいは、いわゆる「ファクトチェック」的な文脈で「検証」のことをおっしゃっていたのなら、たしかにこちらの理解が足りていなかったと断言できます。自分がおこなったのは当該文章における「反-情念小説」の「定義」と、それが文章内でどのような意図をもって用いられていたのか、ということの確認までだったからです。それが作品個別の描写と照応するかについて、個別具体的なチェックをすべてやった、とは決して言えません。

 とはいえ、こちらは抽象的な概念を厳密にファクトチェックするための具体的な方法を知りえません(また、それがあるとは思えないのですが)。もし小説の評論や解説というものを数学的な証明*9のようにすべきであるとお考えなのであれば、それは理念としてはあってもよいと思いますが、偏った考えに寄りすぎていませんか、と反論させていただきます。こちらとそちらとでは概念の認識に違いがあることがおわかりいただけたかと思いますが、その好悪を判断する基準をどのように設置するかについては(そちらにとっては自明のことなのかもしれませんが)、すくなくともご説明されていたようには思えませんでした。そもそもそこに好悪を持ち込めるという認識が偏っているものとご理解ください。

 そして、そのような価値判断のやり方が評論にとってあるべき理念だとお考えであるのなら、それがはたしてジャンルにとって長期的に利益を生むかどうかを考えてくれたらうれしいです。考えてくださるだけで構いません。

 前述したとおり、類推、もしくはいったん抽象化することによって作品に隠れていた部分を照射していくことにこちらの目的はありますから、その過程で捨てられているものに目を向けられていても、残念ながら立場が違うため応答のしようがない、ということが結論になります。またおなじ比喩を重ねることになりますが、抽象画と写実的な絵画には、双方同様に価値があるものとこちらは考えています。

 あまり建設的だったとはいえませんが、応答としては以上のようなものになります。ご指摘いただいた考え方をしっかり深めるすべをこちらはうまく理解できたとは思えませんが、そうした進め方をしよう、するべきだ、という強い意思と誠実さは感覚的ながら受け取らせていただきました。また「理論」が立ち行かないということであれば、それに対置されるのは「実践」の道だと思いますが、それは評論というより創作の領域のように感じたくもなります。そのような作品に出会えれば幸甚です。あるいは実践的な評論というものがもしあるとするならば、そちらも見てみたいな、と思います。

 

最後に

 議論にかかわることではありませんが、手紙の末尾に書かれてあったので、いちおう以下に引用させていただきます。

(…)文中において失礼な表現をしてしまった箇所もあるかもしれません。決して侮辱や中傷といった悪意からの表現ではないということをなにとぞ御理解いただきたく思います。

 上記のように理解しました。理解したうえでのお話になります。こういう態度は真面目さの表れだと字義的には感じますが、そのいっぽうであなたは自身のことについて語るとき「愚鈍な読者である私」や「私の浅薄な読書体験」*10などと書いています。これじたいは正直あまり褒められたことではないので、やめたほうがいいかと思います。

 へりくだることが美徳とされるのは一部の文脈ではその通りです。ですが仮に、あなたがほんとうにその自虐を正当なものと思っていらっしゃったとしても、これはさすがに過剰な行為にしか見えません。しかも自虐したうえで相手に対する批判を持ってきているのですから、暗にこちらがその自虐以下の存在であるように皮肉っているのか、と一歩引いて考えざるをえなくなります。そのように取らせる余地を感じます。そのような作為が文章から読み取れるようになっています。

 つまりあなたの態度はこちらから見ればじゅうぶん失礼なものですし、これを受け取った人間のうち、おそらく一定数は不愉快になります。そのような「悪意からの表現」がほんとうになかったのであれば、今後はもうすこし視野を広げていってください。なにがいけなかったのか、と友達に相談してみると非常によいと思います。

 ですがもし、ちょっとくらいなら相手を不愉快にしてもいいだろう、という気軽さでわざとこれを書いていたとするのなら、あなたは、一層タチが悪いです。

 なぜなら見ず知らずの相手に手紙を送るにあたり、推敲してこのような表現を削らなかった段階で、あなたの見識を疑いたくなってしまったからです。

 あえてあなた流の言い回しでお伝えするのであれば、あなたは自身の言葉が他者にとってどういう意味を持つのかさえ「検証」していらっしゃらない、ということになりませんか。不特定多数に向けた言葉ならともかく、今回はお手紙ということで、一対一のコミュニケーションがほんらいの目的だったと考えたいのですが、真面目にそれをする気がなかったように思われました。文面からは、たんにあなたの憂さ晴らしに付き合わされているのではないか、という疑念を振り払うことができませんでした。オイオイ、友情はバッドコミュニケーションからだろ、と肩を叩きたかった可能性があったのかもしれませんが、あいにくとそういった文化圏にこちらは属していません。

 つい茶化すような言い方になってしまいましたが*11、言い直します。

 これはあなたの議論がすぐれているとか、正しいとか、検証に足るとか、そういったお話以前の問題です場合によってはこうした些細な箇所により、あなたの発言じたいがそもそも信頼に値しないのではないか、と心象的に判断されてしまうことにもなりかねません。これは品位だとか、尊厳だとか、およそ人間がだれかと関わっていくにあたり、大切にすべきことの問題にあたるからです。

 つまりあなたの文章は最初から「こちらを対等な人間として認識していない」ということをわざと表明している、ということです。それを構わないと思っているうえで、悪意はない、ともおっしゃっていることになります。こういうやり方をされると、ふつう、多くの人は返事をすることをためらいます。内心でかなり引きます。関わりたくないな、と思います。本は熱心に読むのに、手紙を受け取る相手の「心の働き」を平気で無視できる感性を持った人間なのだな、と悲しくなります。

 もしこういったこと*12をほかの方にもなさっていらっしゃるようでしたら(違うのでしたら単純にこちらが嫌われているだけなのだな、思うだけですので問題ありませんが)、即刻やめたほうがいいです。それは将来的にあなたの友人や家族、所属する組織・団体などに不利益や不名誉を与える可能性があります。ですからほんとうにやめたほうがいいです。簡潔にいうと、それは友達をなくすやり方というものです。ほんとうにやめてください。

 書いててほんとうに悲しい気持ちになってきたのですが、以上になります。お手紙ありがとうございました。お手紙そのものについては、自分の考えを練り直すよい機会になったと思っています。あなたにとってもそのような実りのある機会であったなら、と切に願います。あなたが今後、よりよい読書生活を送ることを心より祈念しております。とりいそぎ、ご返事まで。

 

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で

 

 

*1:よく小説系雑誌の時評とかでありがちなのですが、質問に対し応答すると互いの認識がそもそも違っていることに気づかず最後まですれ違い、距離だけが遠のくことを懸念しています。結果的にそのような文章になっている可能性が高いのですが、それはお許しください。また念のため書き留めておきますが、いただいた手紙の内容については本記事での引用の許可をいただいております。

*2:ここでは「心の動き」と書いていらっしゃますが、おそらく「心の働き」のことだと勝手に理解しています。「動き」と「働き」とでは文意の捉え方が変わってしまうのではないかと懸念しますが、これについては以下触れずに進めていきたいと思います。

*3:「弾正台切腹事件」で描かれる加害者と被害者の関係性はそれほど濃密なものではありませんが、『刀と傘』における、かつては志をおなじくしていたはずの人物たちが直面してしまう断絶、というモチーフの変奏パターンになっています。

*4:もちろんこれらのシーンが出てきた段階では、関係性の本質を明確には語ってはいないのですが、読者に「どのような関係なのだろう」とキャラクターを印象づけることには成功している描写だと考えています。そしてその印象が、「逆転」とまではいかないまでも、のちの推理によって裏の心理と歪みをも同時に描き出している作品であると捉えています。

*5:そう書かれているようにみえなかったのはこちらの落ち度です。

*6:巽昌章によるメフィストの時評をまとめた『論理の蜘蛛の巣の中で』でのスタンスは、基本的に同時代の作品における共通項をあえて抽象的に取り出し、そこからなにがみえるのか、といったものだったと認識しています。『戻り川』の解説も同様、花葬シリーズをあえて並列化/抽象化させ、そこから思考を進めていくものだったと捉えています。

*7:いくぶん権威主義的な言い方に感じられるかと思いますが、これは自分が適切な説明を思いつかなかったためです。あくまで比喩としてご理解ください。

*8:「ハルキ文庫版」とわざわざおっしゃていますから、こちらの引用部だけでなく、巽の解説そのものもすでに一読している、という認識で語っています。

*9:雑に述べています。

*10:こちらは引用しませんでしたがお手紙のなかにそのような表現がありました。

*11:そのような感情のはたらきをおさえられませんでした。ご理解いただけるでしょうか。

*12:手紙を送ることそれじたいを指しているわけではありません。それはとても勇気のいることだと思っています。ここでお伝えしたいのはあなたが他人の信頼を最初から得ようとしない方法を自覚的に選んでいる、ということです。その自覚を持つだけの文章力と読解力はあったものと認識しています。