ふたたび青い悪夢①ー『リズと青い鳥』解釈における誤謬にまつわる話

【※】本記事は、映画『リズと青い鳥』の内容に深く触れています。未見の方はご注意いただきますようお願いします。

 

 「鳥を見ていたんです。ほら、あそこに」

 ――法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』(講談社文庫)より

 

 2018年4月に公開されたアニメーション映画『リズと青い鳥』は息を止めてしまいたくなるほどに静謐でありながら、おびただしい数のイメージに彩られた作品です。昨年12月にブルーレイディスク・DVDが発売されましたが、その人気は公開から一年以上経ったいまもなお衰えたようには思えません。

 また本作は作中作および楽曲「リズと青い鳥」に対する読解(解釈)と登場人物の関係に対するある種の鞘当てをおこなってみせる(リズは誰で、青い鳥は誰だったのか?)という推理小説のような構造を持っています。傘木希美の「なんかちょっと、わたしたちみたいだな」といった台詞やフグに餌を与える鎧塚みぞれを「リズみたい」と評する演出は、観客をその物語「リズと青い鳥」の筋書きとパラレルに照応させようとする欲求をごく自然に喚起させています。

 むろん、このような演出は台詞だけに限りません。劇中で何度も画面に映る鳥の姿や、リズとおなじように青い羽根を握りしめる鎧塚みぞれ、軽やかに(あたかも鳥のように)歩いてみせる傘木希美、空を見上げるような角度のカメラ・アイ、窓の鍵を開ける音、互いに疎である数字の羅列など、あたかも画面に映るそれらが「リズと青い鳥」の物語に対する暗号であるかのように横切っていきます。

 そうしたイメージの奔流と反復、そしてその終盤における解決としての鮮やかな図の提示は、当然のように「このシーンの演出は何を意味しているのだろう?」という考えを遡行的に植えつけ、誘います。結果として、インターネットには『リズと青い鳥』めぐる考察記事が数えきれないほど存在しています(もちろん本記事もそれに含まれています)。

 しかし、とりわけ暗号とその反復というものはわたしたち観客の目には意味ありげに、そして魅力的な解釈の題材として映り込みます。そしてそれは、いとも簡単に作品イメージに対する行き過ぎた虚像をつくる欲求を呼び出しかねません。

 虚像は、「個」よりも抽象的で、それゆえに輪郭がくっきりして美しい。反復とは、他者の上にどこかでみた美しい虚像を重ね合わせてしまうことに他ならない。

 ――巽昌章法月綸太郎論「二」の悲劇」『本格ミステリの現在(上)』(双葉文庫)より

  その虚像を扱った好例が、以下にリンクを貼った考察記事でしょう。「リズと青い鳥 フグ 種類」でグーグル検索したところ、一番上に表示されました。人気の記事のようです。

彼女がフグを愛でる理由――映画『リズと青い鳥』における脚の表象と鳥かごの主題系 – ecrit-o

 上記記事では『リズと青い鳥』の監督、山田尚子が脚に対するショットを執拗に使っていることを手掛かりにして、それが作中のテーマそのものとしての「脚」と「脚がない」フグという存在(天と地の中間にある存在とのこと)にオーバーラップさせています。作中作「リズと青い鳥」における鳥が変身して翼を失った代わりに頑丈な脚を得ることや、パンフレットでの吉田玲子と山田尚子の対談における「鳥かごのような作品」という言葉を頼りに、作中で反復される鳥と籠のモチーフに注視しています。

 しかし、上記の記事はあきらかに先行するイメージ(脚というモチーフとその効用)とそれによって用意された結論にとらわれているようにも見えます。キャラクター間の関係性における前提*1は明確に描写された事実ではなく、記事の書き手による映画を見たうえの主観のように思えますし、そう語る根拠がどこにあるかわかりませんでした*2

 また記事にはあきらかに言葉の意味をずらすレトリックによって生まれる矛盾が散見され、意図的にそれを無視しながら論を進めている節があります。これは見逃してはいけない部分だと思います。

 たとえば「人間の脚は、足枷であると同時に、青い鳥にとっての翼に相当するような、両義的なものなのだ。青い鳥の飛翔に仮託されているのは、みぞれが希美への過度の依存を断ち切り、自らの音楽的才能を(もちろん比喩的な意味で)自由に羽ばたかせる姿である。」と書かれていますが、そもそも作中では「足枷」といった言葉やイメージはどこにも描写されていません。これは意図的に書き手が物語の外部でつくりだし、持ち込んでしまったものであると指摘できます*3

リズと青い鳥」の物語において「脚の存在は、青い鳥の自由を縛る枷となっている」と書き手が語るのも同様です。人間の姿になった青い鳥が空に向かって飛べないのは客観的に考えれば、翼がないことと、体重があること、でしょう。脚の存在が飛翔の妨げになっていると考えるのは、あきらかにレトリックによる誇張表現です。そしてこれは、行き過ぎた解釈をもたらす原因になっています。

 どういうことでしょうか。

 外部から持ち込んだ概念をもとに物語を解釈するということは、作品内に明確な論拠を見つけられなかったことを意味しています。あるいは作中で描かれたものを別様に捉え、拡大解釈してしまったことを意味しています。場合によってはそれは、描かれていないことをさも描かれているかのように語ることになりかねません。

 こうしたイメージへの固執とそれに伴うほころびは全体を通して感じられます。「みぞれにはまだかごから飛び立つための心の準備ができていない」説明として籠球とも訳されるバスケットボールのシーンに触れ「バスケットボールは本作にあって学校や水槽とともに鳥かごの主題系をなしている」ことを述べている部分もおなじです。鳥かごから出る物語のはずが、鳥かごに向かう競技を描いているという矛盾を、記事の書き手は意図的に省いて語っています。体育館の天井に見える鉄骨を「鳥かご」と類比させるのも先に決めた答えが先行しているがゆえの判断でしょう。

 ほかにもみぞれたちが学校の外で遊ぶさいにプール(人工的な水槽≒別種の鳥かご)を選んだことが「かごから解き放たれることの困難さがあらわれている」と評していますが、海でも川でもなくプールに行ったのはたんに彼女たちが京都府宇治市周辺に住んでいるからという地理的な理由が先にあるはずです。そのさいに撮った写真を「液晶画面という新たな水槽」と記すのはただの言葉遊びの枠を出るものではありません。仮にそれを妥当な、普遍的なものとみなしてしまうとするならば、さすがにそれは誤謬と呼ぶべきものです。

リズと青い鳥』に登場するフグが(鳥でも人間でもない)中間的な存在であり、みぞれを導く存在だとする考えはたしかに魅力的な発想ではありますが、そのロジックを取り巻く部分がほとんど書き手の内部だけで敷衍したイメージによるもののように思えてなりません。また、みぞれがフグ(のような安逸な日常生活)から鳥(のように外部へ羽ばたいていくように)になる、というイメージも「本作の現実パートで展開される物語は、絵本パートで青い鳥が自らの自由を縛る足枷から解放される寓話と軌を一にしている」という部分とはところどころでずれ、異なっているように思われます(フグ自身に足枷はなかったはずではなかったか)。論はいくつかのイメージを取り違えながら、その取り違えごとに必要なシーンを抜き出して書かれています。ですから、そこにはあるべき一貫性が見えていないように思われます。

全体の一部を引いてくる作業は、批評である。そこから全体にさかのぼり、引用の仕方がじつは恣意的なものであったと示すのもまた、批評の仕事のひとつだ。

 ――堀江敏幸「頑なに守るもの」『坂を見あげて』(中央公論新社)より

  もし作品そのものの解釈をおこないたいのであれば、わたしたちは、氾濫し、先行し、外部からやってくるイメージに重ね合わせたいという夢のような誘惑をいま一度、断ち切らねばなりません。あるいは恣意的な引用によって論を語るのであれば、その恣意性を甘んじて引き受ける必要があります。

 ではどうやってその恣意性から抜け出すことができるのでしょうか。あるべき妥当性をもう一度、獲得することができるのでしょうか。

 ウンベルト・エーコは、以下のように語っています。

 テクストの意図についてのある推測が妥当なものであることをどのように証明できるのでしょうか。唯一の方法は、ひとつの一貫したまとまりとしてのテクストにその推測を照らし合わせて検証してみることです。このアイディアは古いもので、アウグスティヌスの『キリスト教の教え(De Doctrina Christiana)』に由来します。テクストのある特定の部分の解釈は、それが同じテクストのほか部分によって裏付けられる場合のみ妥当と認められる(もしほかの部分によって反証されるようであれば、その解釈は却下されねばならない)という考えです。このような意味では、テクスト内の一貫性こそが、読者の制御不能な衝動を制御しているのです。

 ――『ウンベルト・エーコの小説講座:若き小説家の告白』(筑摩書房)より

 

 わたしたちはもう一度『リズと青い鳥』というアニメーションそのものに向かい合う必要があります。

(つづく)

 

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坂を見あげて (単行本)

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ウンベルト・エーコの小説講座: 若き小説家の告白 (単行本)

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*1:「希美との関係性を考えたとき、みぞれにはそこで希美の実力をはるかに凌駕するような演奏をすることはできなかった。みぞれと希美の音楽的才能が同程度であることは、二人の関係の前提となっているからである(二人は各楽器のエースとしてほとんど互角の実力を持つと他の部員から思われている)」と記述されている。

*2:筆者はパンフレットや原作を読んでいないのでそのように記述されている可能性もありますが、そのような部分の引用であることが示されていないので、書き手の主観によるものと判断しました。

*3:また「本作で描かれる鳥かごに入れられた青い鳥」という記述が記事内にありますが、そのようなシーンは『リズと青い鳥』には存在していません。鳥かごは存在しますし、その内部に青い羽根が置かれているカットはありますので、おそらく書き手が想像して補ってしまった描写だと思われます。