推理小説と〈偶然〉という回路について

国木田独歩も『運命論者』の中で甲が「僕は運命論者ではありません」といったに対して乙をして「それでは偶然論者ですか」と詰問させている。この詰問は単なる皮肉にすぎぬもので、運命と偶然が畢竟、同一のものであることが前提されている。

                 ――九鬼周造『偶然性の問題』

 つい先日のことですが、『現代思想』1995年2月号〈特集 メタ・ミステリー〉に収録されている、巽昌章「暗合ということ」を読んだところ、個人的にいろいろと考えたい部分が増えてきたので長めの備忘録を書くことにしました。

 途中で哲学や文学の話題が登場することになりますが、これについてはあきらかに素人によるものですので解釈が間違っている前提で、要するに話半分で書き進めて/読み進めていくことをご寛恕ください。

 また、以下の文章はあくまでミステリ読者としての考え方のもと書いている以上、既存の文学・哲学研究とは相容れないところはあるでしょうし、ところどころ論旨がつながっていない部分もあるかと思います。その点含めてご容赦ください。

 

ミステリという「メタ」構造体について

 巽昌章「暗合ということ」は松本清張の小説を枕に、リアリズムや合理性といった推理小説全般が持っているものが必然的にもたらしてしまう魔力、あるいは誘惑というものについて魅力的に語っている評論です。個別的な例をスタート地点に置きつつ、そこから抽象的な広い話題へと飛翔させていく語り口はさすがは巽(あるいはいつもの巽)というほかはありませんが、では具体的になにが語られているかといえば、「偶然」の重ね合わせについて。

 つまり、タイトルの通り「暗合」についてというわけです。

 巽はまず、松本清張「巨人の磯」という短編を紹介します。語り手の法医学者が常陸風土記に書かれている巨人伝説に惹かれて水戸へ旅をすると、そこで巨人のように膨れ上がった水死体に遭遇し、古代人もこのような水死体を見て巨人伝説を産み出したのではないか、と即物的な解釈をおこないます。そして他方でこの水死体がアリバイ工作に使われていることを見抜き、事件解決をするという筋がおおよその内容です。

 よって、ここでは常陸風土記の解釈と現代の殺人事件、ふたつの物語が重ね合わされながら、探偵役によってひとつに統合されるという構成が取られているわけですが、巽はこれに対して根本的な疑問を提示してみせます。

彼がこのような二系列の物語の交点に居合わせた理由は、単なる偶然として説明の対象から外れている。従って、殺人事件と巨人伝説との重なり合いは不思議な暗号として残ってしまう。(太字強調は引用者による)

 そして「実をいえばこのような不自然は推理小説全体の根底にあるものだ」と巽は話を広げます。なぜこれほどまでに密室をテーマにした小説が書かれるのか、あるいは、そもそもなぜ最後には解かれてしまう謎めいた事件をことさら作り出すのかという謎は決して作中で解かれることがありません。謎を解明するはずの推理小説そのものが構造的に謎そのものを呼び込んでいることを指摘しています。

 この疑問は、推理小説に批評的だったはずの清張ですら避けられていません。つまり清張の合理的でリアリスティックな(≠お化け屋敷的な)作劇手法でさえも、推理小説そのものが持つ非合理性じたいからは逃れることができていなかったことを意味しています。

 さて、思い出しましょう。

 雑誌の特集名はなんだったでしょうか。

 ここにおいて巽は、たんに推理小説について考えただけにもかかわらず、「メタ」という上位の(作者の/読者の)視点、あるいは自己言及的な(もしくはパラドキシカルな)構造がいとも簡単に引き出してみせたことになります。では、この不可思議な状況は、構造はいったいなんなのでしょうか。

 巽は次のようにつづけます。

美しい合理性に遭遇することが、逆に人を狂った論理、つまり強引な重ね合わせ、そしてそれを最も鮮明に表現する方法として図式への支配へと誘惑するのではないだろうか。

「暗合ということ」の話題はここから「図式」への誘惑を作品として昇華させていったエラリー・クイーンの諸作に移り、クイーンと浅からぬ因縁のあったボルヘス、そしてミステリの源流となるポオへと向かっていき、重ね合わせの「偶然」「運命」へと変貌していく推理小説の抗いがたい呪力についてひと息に語り、その幕を下ろします。

 いま自分がこうさらりと書いたところではこの評論の魅力は十全に伝わらないと思いますが、推理小説という存在に惹かれている人間からしてみれば、これほど自分の欲望を言語化されてしまうスリリングな体験はない、とさえ思ってしまいます。この評論の背景には、なぜ推理小説という歪なものが書かれ、読まれるのか、という根本的な問いが隠されているからです。

 というわけで、この読書体験を通して、自分はここから推理小説の「偶然」について、あるいは「運命」について、いま一度考える必要があるのではないだろうか、といまさらながら思い立ってしまったのでした。ひとりの読者としても、作者としても。

 

〈偶然〉という回路

 ではそこから、いったいなにから調べたものか、と考えていたわけですが、ここでちょうど、参考になりそうなものがネットに転がっていることに気づきました。

 東京大学の講義(UTokyo OCW)です。

〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) Chance as a Way of Inquiry (The Asahi Lectures "The Harmony of Knowledge" 2017) | UTokyo OpenCourseWare

 全12回のうち、一部しか見ることはできないのですが、なかなか示唆的な内容なので、興味のある方は見ることをおすすめします。各講義のスライドのスクショをここで貼ることはできませんので、自分が言及するさいには、お手数ですが適宜講義をクリックして確認していただくようお願いします。

 まず、「偶然」をどう定義するかについて話したいと思います。

ocw.u-tokyo.ac.jp この講義において、三浦俊彦は「可能世界」の概念を援用して簡潔に語ってくれています(本題は悪名高き「二封筒問題」ですが、今回の内容とはあまり関係がないので、それは興味のある方だけ見てください。おもしろいです)。具体的には、講義資料1を見るか、動画の40:58あたりを参照していただくとよくわかります。

 ここでは、

 必然性=すべての可能世界で真

 偶然性=必然でも不可能でもない

 と、簡潔に定義されています。

 可能世界論における「偶然」とは「どれかの世界で成り立ち、どれかの世界で成り立たない」ものというわけです。もしあなたが確率論的世界観のもと生きているのであれば、この見方はおそらく納得できる定義だと思います。

 しかし、もしあなたが推理小説読者ならどうでしょうか

 推理小説とは過去にあった出来事を遡行して、もう一度語り直すという物語ジャンルです。ここでは一度はAと語られたものが、解決編においてはBと語られます。

 なにによってでしょうか。

 もちろん論理的な推理、証明によって、です。そこでは偶然であると語られたはずのものがいつの間にか必然へと大きく変貌してしまいす。あたかもふたつの世界のあいだをひとつの解釈によって橋渡しするかのように。

 ここでふたたび巽昌章の言葉を引用したいと思います。有栖川有栖『双頭の悪魔』解説のなかで、巽はこうも語っています。

犯罪を論理的に証明するという、それ自体は合理的な目的から、こんなものすごい偶然が構想されてしまうのはどうしたことなのか。そしてまた、この議論の背景にあるだろう、「証明された事実は存在する」という考え方のもつ、当たり前のようでいてどこか不安な魅力。とんでもなくこの世ばなれした不自然な出来事を完璧に「証明」してしまい、「だって証明されたんだから仕方がない」とうそぶくような小説、といったものを思い浮かべるのは私だけではないだろう。

 証明は論理的な、数学的な手続きです。

 近代以降の科学であればある事実を社会的に認めさせるためには、幾度となく実験をくり返したのち論文を提出し、学会等に受理してもらい、学術誌に掲載して発表するという手順が必要となりますが、ただの対人の「証明」であれば言葉だけで事足ります。加えて「偶然」はほんらい一回的なものにすぎないはずですが、言葉によって「反復」された結果、あたかもその存在は事実として「確定」したかのようなふるまいを見せます。「だって証明されたんだから仕方ない」わけです。

 この手続きは、推理小説において(基本的に)普遍的なものとされています。

 

探偵の推理=抽象化のレトリック

 とはいえ、もちろん探偵(役)の推理は厳密な証明ではありません。

 ロジックではなくただのレトリック、こじつけであることもままあります。たとえばポオ「盗まれた手紙」の推理はどこまで実証的な合理性を持っていたでしょうか。ここでは子供の遊びと政界の陰謀が同一視され、探偵の思考と犯人の思考が一致するという重ね合わせ(あるいは偶然といってよいかもしれません)が起こります。

 そこでは探偵の推理によって世界が一度抽象化され、一貫した意味によって語り直されます。このことを巽は「名探偵の正体」という評論のなかで語っています。

 もうすこし踏み込んでみましょう。この探偵の推理とはなんなのか。

 それは端的にいえば確率的な世界への不可逆的な「干渉」もしくは「操作」ではないでしょうか。言葉によって偶然が必然に変わるという、奇妙な価値の転倒、情報の、意味の書き換え、確率論的世界から必然的世界への移動。

 そこでこの抽象的な操作を扱った短編をひとつ思い出しました。泡坂妻夫「DL2号機事件」です。この短編では、確率という魔力に取り憑かれた(もちろん合理的な思考によって!)人物による奇妙な行動が推理によって明かされます。

 解決編において、探偵役の亜愛一郎はとあるアイテムを取り出してそのロジックをレトリカルに説明します。その説明に使われる物品とは、なんの変哲もないサイコロです。探偵役はただ、サイコロをじっさいに一度振ってみせ、語るだけです。

「一つの目が出ましたね」

 亜は賽をつまみ上げると、もう一度振る手つきをして、

「さあ、もう一度賽を振りますが、署長さん、あなただったら何の目に賭けますか?」

 この質問があの「図式」への誘惑の入口です。

 言葉による「反復」可能性が顔をのぞかせるのです。たったひとつのサイコロを使ったレトリックによってこの「DL2号機事件」の世界は、確率を恣意的にコントロールしようとする欲望/力学に支配され、抽象化されてしまいます。いったいどういうことでしょうか。これ以上はネタバレになるので、じっさいに読んでご納得いただきたいところです。

 しかしここで、探偵の推理がもたらす事態は明白です。語られた出来事に内包されていたあらゆる違和感はひとつの筋に重なって合流し、大きなひとつの意味体系を持つことになるのです。それが「証明」の、「図式」の正体です。

 この欲望を、快楽を、力学を、巽はこうも言い換えています。

 推理小説にはたいてい、主人公ないし探偵役が、「謎が解けた」と直観する瞬間が設定されている。(…)そこで私たちが一瞬世界が透明になると感じること、いいかえれば、世界を包んでいた余分なディティルが剥ぎ落とされて黒ぐろとした骨格があらわにみえたと感じることは事実である。そしてその奥に犯人という明確な主体の姿が控えている。あるいはそれに代わる、顔のない「運命」の輪郭がみえている。(太字は引用者による)

 

〈運命〉という回路 

 さて、ここで東京大学の講義(UTokyo OCW)に戻りましょう。

ocw.u-tokyo.ac.jp 第6回「フィールドワークでは偶然は避けられない:無形文化財という言葉が生み出した幻影」では、民俗学者の菅豊によって、「偶然/運命」の典型例としてこれ以上ない体験談が語られています。映像の全体は一時間半ほどですが、主要な話は一時間程度で終わるので(残りは学生との簡単なディスカッションです)、そこまで見ていただければよいかと思います。

 これを、面白ドキュメンタリー、というといろいろと語弊があるかと思いますが、そう思ってしまいたくなるだけのものがここにはあります。見終わったらこれについて説明したいと思いますので、下にはすこしだけスペースを用意しておきます。時間のない人はスキップしてそのままスクロールしていただいても構いません。

 

 

 

(よろしいでしょうか?)

 

 

 

 ここでは、いったいなにが起こっていたのか。

 端的にいえば、観察者であったはずの民俗学者が地域コミュニティの内部に入っていった結果、その立場を地域住民の思惑に絡め取られてしまい、逆に利用されてしまった、というイレギュラーな事態です。

 ただしここで注目していただきたいのは、菅がここで、ほんらいアンコントローラブルなはずの偶然性(地域住民の見えない行動原理)の背景に死者の存在の影を明確に見出しており、それをあっさりと「呪い」である言語化しているということです(54:20あたり)。

 ですが、これは奇妙なことです。

 ただの偶然が、特権的な「呪い」という名称に取って代わってしまっている。

 そしてもうひとついわなくてはならないことがあります。この一連の出来事は、推理小説読者であればおなじみの、あの「操り」の構図に見えてこないでしょうか。三十数年前のとある人物のたどった行動が、死者という(その場にいないはずの)存在が、未来の人々を駒のように動かして、偶然を必然へと確定させてしまう、というあの「図式」への誘惑が。あの独特の、運命への回路が開かれてはいないでしょうか。

 もう一度思い出してほしいのですが、「偶然」の定義とは、あらゆる可能性から必然と不可能を排したもののはずです、しかしここにはなにか見えない存在者による「介入」が、(確率)操作による「必然性」が顕在化しています。この偶然と必然、コインの裏表のような奇妙なことば上の結託はなんなのでしょう。

 というよりそもそも、わたしたちはいったいなにを思って「必然」を、あるいは「運命」という「図式」を定義づけるのでしょう。

 

九鬼周造による「運命」の定義について

 ここで哲学者の九鬼周造に出てきてもらいましょう。

 といっても主著である『偶然性の問題』は自分にはかなりむずかしい本であるので(偶然の定義がいろいろと細かいので)、岩波文庫の随筆集にある「偶然と運命」というラジオ講演から適宜引用していきたいと思います。ついでに参考書として講談社選書メチエの藤田正勝『九鬼周造』も見つつ。

 それならば偶然とはどういうものであるかといいますのに、偶然ということには三つの性質があるように思われるのであります。第一に何かあることもないこともできるようなものが偶然であります。第二何かと何かとが遇(あ)うことが偶然であります。第三に稀れにしかないことが偶然であります。

 第一の性質は、前述の三浦俊彦による定義(必然でも不可能でもない)と同様と見て問題ないかと思います。第二は(おそらく「仮説的偶然」というもので)、ふたつの因果関係のつながりのない因果系列が出会うこと(思いがけなさ)だと思われます。そして第三は、「可能的ではあるけれども不可能に近いようなこと」です。

 ただし、ここで注意しておきたいのは、九鬼は「必然」と「偶然」を明確に(現実的に/確率論的に)区分しており、推理小説読者/作者のように意図的に混同はしていません。

 曰く、「偶然は必然の方へは背中を向け、不可能の方へ顔を向けているといってもいいのであります」。もちろんこれは、偶然の世界において、ほんらい「語り直し」などは発生しないからだと思います。

 では「運命」とはなんなのか。九鬼は言います。

運命ということは偶然ということさえわかっていればすぐわかることなのであります。偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命というのであります。(…)人間にあって生存全体を揺り動かすような力強いことは主として内面的なことでありますから、運命とは偶然の内面化されたものである、というように解釈されるのであります。(太字強調は引用者)

 前述の「宮本常一の呪い」を考えてみましょう。なぜあれが、菅にとって「呪い」であったのか。それは菅という研究者のアイデンティティとして「民俗学者」という肩書きがあり、その存在の文脈において巨大な先人(これも民俗学者)が唐突に、「偶然に」、色濃い幻影として現れたからこそ「呪い」たり得たのはないでしょうか。

 なぜなら菅自身もまた「偶然に」民俗学者であったのですから。その偶然の重なり合いは、菅自身のアイデンティティを揺り動かした「図式」に違いありません。

 しかしもう一度言い直しますが、九鬼は「運命」は「偶然」の範疇のものであり、「必然」には含まれていない言い方をしているのも事実です。

 この「偶然」と「必然」が止揚して語られるのは『偶然性の問題』の結論部のみであり、その実践は「生の論理学」と呼ばれている実存的な問題としてつながっていくのですが、このあたりは急ぎ足すぎて、正直自分の手には余る内容です。

 とはいえ、九鬼がぎりぎりまでそのふたつを近づけなかったのもわからないでもありません。おそらく九鬼の「偶然」への言及は「現実」的な範囲での解釈にとどまらざるをえなかった、つまり、完全な「内面化」、理論化には至らなかったのだと思います。

 ですから同時に、推理小説的な「偶然」と「必然」の結託については九鬼の問題意識にはあったとしても語られずじまいです。そもそも彼は「実存」の問題について語っていたのであって、「虚構」についてはほとんど考えていなかったのではないかというのこともいえそうですが……。これについてはちゃんと調べているわけではありませんので、ただの雑感でしかありません。申し訳ありません。

 とはいえここにおいて、語られていない場所が見えてきました。

 つまり、「偶然」と「虚構」とが出会う場所を検討する準備がようやく整ったといえるような気がします。 

 

偶然文学論と国木田独歩「運命論者」について

 真銅正宏『偶然の日本文学』を読んだのはもう5年前のことで(アマゾンの購入履歴で確認した)、読んだ当時はあんまりピンと来なかったのも事実です。というのも、探偵小説について扱っている範囲がかなり狭かったため、自分の問題圏として意識できなかったからです(基本的に、乱歩と谷崎についてのみだった、つまり話題は「プロバビリティの犯罪」関連だった記憶があります。いまとなっては曖昧ですが)。

 じっさいに本を確認しようにも知り合いに譲ってしまったため、読み直しもできない状況ですが、とりあえず同志社大学リポジトリでヒットした論文を読めば、その一端はわかりそうな気もします。いちおう、以下に検索結果のリンクを貼っておきます。気になる方は読んでください。とはいえ、今回はここを迂回するのであくまで参考程度に、ということでお願いします。

doshisha.repo.nii.ac.jp

 今回、主に扱いたいのは荒木優太『仮説的偶然文学論』の一部の内容です。

 真銅正宏の先行研究を追いつつ、独自の視点で文学作品における偶然とナショナリズム的な観点が接続されているところがじつに肝要な部分ではあるのですが、推理小説との関わりを語るにはむずかしいところなのでこれも残念ながら迂回します。ご寛恕ください。

 ではなにを語りたいか、というと、荒木が言及している国木田独歩「運命論者」という短編についてです。

 そうです。

 このブログ記事の冒頭で、九鬼が言及していた作品です。

 作家論や文学史について自分は語るすべを持ちませんからほとんど引き写しになりますが、荒木によれば、国木田独歩の遺したテクストに共通する特徴に適当に名前をつけようとすれば「偶然性という言葉以外には考えられない」そうです。

 とりわけ、それは accident や chance ではなく contingency としての偶然性である。英語 contingency は、ラテン語の con(共に)と tangere(触れる、接するタッチする)、つまり相互的接触〈触れ-合うこと〉に由来している。コンティンジェンシーの語源には、異質なもの同士の遭遇(con-tact)によって予定調和的必然性を撹乱する意味合いが認められる。

 ここでいう「予定調和的必然性」とは偶然の乱用であるような、物語のご都合主義と考えていいと思います(荒木はこれについて序文で語っています)。

 作者による計画の作為性は物語から「自然」らしさを奪ってしまう。虚構の物語における現実性(じっさいに起こりそうなこと)を立ち上らせる手段として、この偶然性(contingency)がある、ということです。

 そして荒木は国木田作品の主題である〈断片性〉について語ります。そのヒントとなる、最晩年の未完作品『渚』の冒頭は以下のようにはじまります。

K生が転地先から親友のT君へ送った手紙を集めて『渚』と題したのである。『渚』には種々のものが漂着するか、どうせろくな物はない。加之(おまけ)に悉く断片(きれっぱし)で満足な代物は一個(ひとつ)もないという意味である。転地先が海岸だからでもある。 (太字傍点)*1

「断片の集合を介して実現されるのは、全体を見通せない断片的な出会いである。(…)〈断片性〉の主題で強調されるべきは、この非全体性、鳥瞰的な視点の欠如である」と荒木は述べ、ろくなものではないという、欠けた断片によって謎や不思議が生まれることを指摘します。

 その文脈において、「運命論者」は、国木田作品に頻発する登場人物同士の、偶然の「一期一会」、その断片性(全体像を見通せないこと)というモチーフを、その仕掛けを逆手にとった悲劇なのだと荒木は言います。

 では「運命論者」とは具体的にどのような短編なのでしょうか。

 少々長いですが、細かく説明していきましょう。

 おおまかなあらすじをいえば、鎌倉の浜辺で偶然に出会った高橋新造という男とブランデーを飲み交わしながら、語り手の「自分」が彼に起きた身の上話を聞くというものです。ただ、ここで面白いのは、会話の流れにおいて、「自分」は「偶然論者」としてあてがわれ、対する高橋は「運命論者」であるという立場を代表することになるということでしょう。

「(…)――貴様(あなた)は運命ということを信じますか? え。運命と言うこと。如何(どう)です、も一つ。」と彼は罎を上げたので

「イヤ僕は最早(もう)戴きますまい。」と杯を彼に返し、「僕は運命論者ではありません。」

 彼は手酌で飲み、酒気を吐いて、

「では偶然論者ですか」

「原因結果の理法を信ずるばかりです。」

 高橋はこうも言います。「ただその原因結果の発展が余りに人意の外に出て居て、その為に一人の若い男が無限の苦難に沈んでいる事実を貴方がが知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理の無いことだけは承知下さるだろうと思います。」

 つまり、ここから「運命論者」による説得の物語がはじまるのです。

 ならば、高橋という男にはなにが起きたのか。

  ある日、十二歳の(高橋)新造は父にこう問われます。「お前は誰かに何かを聞(きき)はしなかったか。」父の態度はどこか狼狽していました。しかし彼にはその原因がわかりません。その後はその話題についていっさいの音沙汰もなくなるのですが、しかしその出来事は彼の心に刻まれ、いつしかそれは、彼自身の身の上というものを考える根拠となっていきました。

 それから六年後、(高橋)新造はついに父に訊ねます。「父様。私は真実(ほんと)に父様の児なのでしょうか。」父は答えます。周防山口に馬場金之助という碁客がいて、父と懇親を結んでおり、その子が新造であったと。馬場が病で没し、残ったのは二つになる男の子。だから父は新造を引き取ったのだ、と。

 二十五になり、新造は法律事務所に勤めるようになります。そのころ横浜に高橋という雑貨商があり、主人は女性の梅、所夫は亡くなっており、娘の里子という子がいました。新造と里子は恋仲となり、新造は高橋の養子となったのでした。

 しかし結婚後、妙なことに気づきます。養母の梅は毎晩、一心不乱に不動明王を拝んでいるのです。けれど一月もしてある日、養母は突然雑談中に、「怨霊というものは何年経っても消えないものだろうか?」と問いました。「お前は見たことはあるまい(…)」「そんなら母上は見て?」「見ましたとも。」

 ところが、ある日、母に用事があったので高橋が別に案内もせず、母の部屋の襖を開けて中に入ると、その顔を見るや、母は「ア、ア、ア、アッ!」と叫んだのです。その後、母はさらに神経を病み、不動明王を拝むだけでなく、神符(おふだ)をもらってきては自分の居間の所々に貼りつけるようになります。そして新造に向かっても不動を信じろというようになります。

 母は「誰にも知してはなりませんよ。」となにがあったかを娘夫婦に話します。かつて彼女が若いころ、お里の父に縁づかない前に男に執着追い廻された、と。けれど母はその男に従わず、その男が病気で死ぬ間際に彼女を怨んでいろいろなことを言ったという。気にもしていなかったものの、二年前、所夫が亡くなってから、その男の怨霊が現れては自分を睨んでくる。それで不動様を一心に念ずると男は消えるという。しかしこの頃は、その怨霊が新造に取りついたらしい、という。

「だってね、如何すると新造の顔が私には怨霊そっくりに見えるのよ。」

 その後、新造は長崎に向かう用事があり、その途中で山口に寄ることに決めます。そこで馬場金之助の墓を見つけますが、しかし死んだという母の墓を見つけられません。不審に思って老僧に訊ねます。すると「あの女は金之助の病中に(…)遂に飲乳児(ちのみご)を置去りにして駈落(かけおち)して了ったのだ」と聞きます。しかし、その母、お信が高橋梅であることは、誰も知らないのです。高橋も証拠は持っていませんが、しかし話を聞いているうちに確信し、最終的に母との対話によってその事実を引き出します。

「これがただの源因結果の理法の過ないと数学式に対するような冷かな心持で居られるものでしょうか。生の母は父の仇(あだ)です、最愛の妻は兄妹です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。」

 語り手の「自分」は高橋と握手をし、別れます。そしてこう物語は結ばれます。

 その後自分はこの男に遇(あわ)ないのである。

 いったい、この物語はなんなのでしょうか。

 たしかに物語は、一期一会という〈断片性〉、あるいは、ふたつの偶然の重なり合いという〈断片性〉に支配されています。そして、ひどくあっさりと物語は終わります。ですから男の行く末については語られません。あるのはただ、「運命」にまつわる異様な迫力だけが残す余韻だけです。

 

プレ探偵小説的な想像力

 さて、荒木はどうこの物語を読んでいるでしょうか。

 長くなりますが引用しましょう。

 注目すべきは偶然的〈断片性〉が重なり合い、そのなかである符号が見出されると、本来は鳥瞰できないはずの超越的な全体像が幻視されるということだ。「運命」とはだから、複数の〈断片性〉から出来するが故に、単独の〈断片性〉を否定する超越的な物語である。

 その拘束力は極めて強い。(…)出生の偶然を仮に「運命」であると捉えたとしても、「自分」との出会いにも同様の「運命」を読んでしまう高橋の理解は客観的にみれば明らかに「運命」的解釈の過剰適用である。けれども、一旦「運命」の物語に囚われてしまった「運命論者」にとって、それと無縁な単独の偶然を信じることはできない。偶然はことごとく物語の体系のなかに回収されてしまう。(太字強調は引用者による)

 この論点は、これまでわれわれが扱ってきた推理小説の持っていた視点ともなじみ深いものであるといえそうです。というより、むしろ推理小説読者なら、「運命論者」を読み、こうは思わなかったでしょうか。

 まるでこの物語は、探偵(役)がいないだけで、ほとんど探偵小説/推理小説の動機にまつわるプロットそのものではないだろうか、と。「世界を包んでいた余分なディティルが剥ぎ落とされ」た「黒ぐろとした骨格」がそこには横たわっていないでしょうか。

 もちろん、「運命論者」が断片的な物語であることは否定できません。

 結末はドラマティックな部分をあきらかに廃して、男の破滅までを描きはしません。しかしこの物語に用いられた想像力は、あたかものちに登場する探偵小説のプロットを先取りしているかのようです。

 あえて『夜明けの睡魔』における瀬戸川猛資の(批判的な)言葉を借りるなら、古い日本ミステリにおける「とてつもない偶然を事件の発端、第二の殺人、最後の解決、と何度も使ったあげく、「ああ、なんと恐ろしい偶然の一致でありましょうか!」と作者が自ら弁解」しているかのような、あの偶然の「図式」です。

 いや、こういう言い方はあまりにも我田引水的な歴史観で、不適切かもしれません。

 ですから「運命論者」が「プレ探偵小説的な想像力」を用いていた、というよりは、のちの探偵小説がこのような物語的想像力をいつからか援用するようになった、といったほうが適切かもしれません。

 そのような見方。これもまた「図式」の誘惑のひとつでしょう。

 さて。

 しかし、そのいっぽうで、荒木はこの「運命」の重合を「相対化」する視点が用意されていることも指摘しています。いうまでもなく、「其後自分はこの男に遇ないのである」という語りで締めくるる、「自分」である、のだと。

「自分」にとって高橋との出会いは、おそらくは偶然の感以上のものをもたらさない。(…)そして、それ以後「此男に遇ない」のだから、「自分」にとってこの遭遇は重要は重合性のない一回的なものでありつづけている。つまり、「運命」に回収されてしまったはずの〈断片性〉が他者の視線の介入によって回復されるのだ。

 その後、荒木は中河与一の「運命論者」評についても説明しています(具体的に引用はしませんが、中河の読みも、われわれの「図式」への誘惑と同様のものといえると思います)が、荒木のいう、この〈断片性〉の「回復」については読み逃されていることを指摘してします。

偶然性は必ずしも「運命」化されねばならないわけではない。中河はドラマティックにならない、このような中途半端な偶然を無視している。

 しかし、はたしてこの物語は「中途半端」な「偶然」だったのでしょうか。ほんとうに、最後のたった一文によって〈断片性〉は回復されたのでしょうか。

 どういうことでしょうか。

 だから、自分はこう言いたいのです。

 これがたんなる偶然にすぎなかったのであれば、なぜこの話は「物語」になっているのでしょうか。

 つまり、語り手の「自分」にとって、これがただの「偶然」にすぎないのであれば、わざわざ物語として語られる必要性はなかったはずです。ほんとうに「ろくな物ではない」のであれば、そもそも物語としての価値は持たないのではないか。

「運命論者」は自分の身に回りに起きた事実をただ語ったものかもしれません。しかしそれは、「高橋」による「語り直し」であっただけでなく、「自分」自身による語り直しでもあったはずです。それにおいて、この出来事は「物語」という「虚構」を、「反復」性を獲得してしまっている。

 ふたたび九鬼の言葉を引用しましょう。

国木田独歩も『運命論者』の中で甲が「僕は運命論者ではありません」といったに対して乙をして「それでは偶然論者ですか」と詰問させている。この詰問は単なる皮肉にすぎぬもので、運命と偶然が畢竟、同一のものであることが前提されている。

 物語という「虚構」の形式を採用してしまったが最後、この「同一」性というものは決して捨て去ることができないのではないでしょうか。果たして「自分」もあの「運命論」から逃げ切れていたのでしょうか。

 むしろ「虚構」のなかに身を置いてしまったがゆえに、この「自分」もまた「偶然」と「運命」の結託に呪われてしまったのではないか。

 そう、自分は言いたいのです。

 そしてその「偶然」と「運命」にまつわる想像力というものは、いつしか探偵小説/推理小説に過剰適用されてしまった、虚構的な「回路」なのではないでしょうか。

 

推理小説陰謀論的な想像力

 ここまで語ったところで、この想像力は昨今の世情によく似ていると思った方もいるかもしれません。つまり推理小説とは、あらゆる体系に意味を持たせようとする「陰謀論」的なもの、あるいは「ポスト・トゥルース」的なものなのではないか、と。

 とはいえ、なにもこの発想は自分が最初に思いついたわけではありません。

ジャーロ』vol.79において荒岸来穂が「探偵小説研究会のミステリを編みたいっ!・第24回「陰謀論的想像力とミステリ」」で似たような観点からすでに語っています。

隠された真実、無関係に見える事象同士の結びつき、複雑な世界がある一つのパースペクティブから説明される快感。これらの要素はミステリの魅力である同時に陰謀論の魅力でもある。

(…)

証拠や手がかりとは、探偵がそう思い込んだからこそ存在する。偶然でしかないものにも意味を見出してしまう。その瞬間の快楽を探偵と陰謀論者は共有する。(太字は傍点)

 荒岸は、この陰謀論的な魅力に抗う小説として、法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』を紹介しています。

 この物語では、登場人物のアイドル歌手、中山美和子の出生の秘密(かつて『雪密室』において触れられた出来事)が背景にあります。その秘密とは、幼い頃、母が双子の兄と父を殺して自殺したのではないか、というものでした。同時に、彼女は殺人者の血を受け継ぐ自分が、殺人を犯したのではないか、という「図式」そのものにおびえるのです。

 ここで再三にわたり巽昌章を引用しますが、巽はこの作品の問題を「名探偵の正体」と「法月綸太郎論 「二」の悲劇」それぞれで検討しています。端的にいえば、それは「名探偵は図式の誘惑に抵抗できるのか」というむずかしさです。はたして探偵は、推理によってその「悲劇」の「図式」という呪いを解けるのか。

「しかし、ここには、微妙な問題がひそんでいる」とも巽は「法月論」で指摘しています。

事件の真相を探ることが彼女を救う道であるとすれば、その捜査の結果、母が本当に殺人者だったと分かったとき、もはや救いの余地はなくなるのだろうか。それでは、彼女の母親が殺人犯だという、彼女自身にはいかんとも難い事柄がその人生を支配することになり、この根本的な不条理に対しては何ら抵抗が試みられないで終わってしまう。

 推理小説が好んできたこの「図式」は、探偵がどれだけもがいても、決して殺すことのできない、抗いがたいイメージなのです。

 たとえばそれは、殺人ゲームの影響によって現実においても殺人を犯している人間がいるかもしれない、といった有栖川有栖「絶叫城殺人事件」や、9.11の惨劇に対して映画的なスペクタクルが、あるいはISISなどによる殺人イメージ(たとえば彼らの勧誘動画はFPSゲーム的な、スタイリッシュな映像だったりします)の氾濫が暴力を、殺人をさらに誘発しているのではないか、という『イメージは殺すことができるか』の抱いている問題系とも無縁ではないように思えます。

 また、真実を明かすことが人を不幸にするかもしれない、という問題は日常の世界とも無縁ではありません。酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』シリーズは推理/ジャーナリズムによる他者への暴力性とどう向き合っていくか、といった青春ストーリーでした。特に4巻で発生した「真実」をめぐる登場人物同士の対立は、明確な答えのないままになってしまった、という点でむずかしい問題です。

 これは、探偵を「ヒーロー」とみなせばみなすほど、倫理的な問題じたいは棚上げにされてしまいかねない、というエンタメの構造的矛盾をはらんでいる部分です。ヒーローが活躍すればするほど、「図式」への誘惑が残されたまま、善の面だけが取り上げられる、ということは今後もじゅうぶんに起こりえます。これは決してわすれてはならない宿題ではないでしょうか。

 陰謀論的な、現実でない世界に足を踏み入れなければ、事件が解決できない、といった物語も存在しています。有栖川有栖『インド倶楽部の謎』はその典型例です。ここでは登場人物たちは転生を信じており、前世といった概念に縛られています。それゆえに、その非現実的な想像力の内部に探偵は入り込むことになります。

 むろん、探偵役の火村は観察者として適切な距離を取ろうとしますから、彼が「運命」という「図式」に支配される姿はあまり見えてこないところではありますが。

 またいっぽう、陰謀論的な想像力を逆手に取ることで、人の死の「無意味さ」に抵抗を試みようとする物語も存在しています。

 それは大樹連司『勇者と探偵のゲーム』です。本格ミステリというよりは、ファンタジーであって、舞城王太郎セカイ系の文脈に連なっている作品ではありますが、これは、事件性のない女生徒の「ただの死」に過剰なまでに複雑な「虚構的な」意味づけをおこなうことで、周囲を想像力によって感染させて、世界の不条理さに反逆をおこす、というある種未熟な(しかし切り捨てることのできない)感情が描かれています。

 しかし推理小説的な想像力はときに他者に無力であることもあります。

 法月綸太郎『密閉教室』の結末部は、そのようなあたりまえの事実をわたしたちに突きつけてはこなかったでしょうか。

 では、わたしたち推理小説読者はこのような「想像力」とどう向き合っていくべきでしょうか。ただフィクションとして楽しめばよいのでしょうか。

 これからは「ポスト・トゥルース」の時代なのだから、虚構的なミステリをさらに発展させていくべきなのでしょうか。しかしそうこうしているうちに、いつしか自分自身もなにかの暗い影に絡め取られてはいないかとおびえずにいられるでしょうか。

 すくなくともこれを書いている自分自身、すでに逃げられない場所に来ているのではいないだろうか、と思わずにはいられません。

 念のため言及しておきますと、法月綸太郎は『ふたたび赤い悪夢』執筆のあと、瀬名秀明との対談で「神という概念をなるばく消す形でできないかなと考えているんです」 と語っていますが、『犯罪ホロスコープ』という黄道十二宮の「図式」の、「メタ」が作中へと介入していく世界へと、もう一度探偵を送り出しています。これをどう捉えるべきでしょうか。しかしそこまで考える力は、残念ながらいまの自分にはありません。

 

「図式」への誘惑と戦っていくために

 最後にここで、ミステリではなく近親ジャンルであるSFの言葉を引きたいと思います。日本SF作家クラブ編『未来力養成教室』の長谷敏司「皆さんに受け渡す未来のバトンについて」という文章です。

 ここでは長谷が、「想像力」と「未来」について誠実に語っています。

 想像力は、時代が移ろうと決して手を切ることができない、もっとも近い友人です。だからこそ、その悪い面をも直視するよりありません。彼らはときにわたしたちの背中を刺す質の悪い友人です。たとえば、想像力は不安を煽り立てます。見えない敵を作り出して、人を攻撃的にします。かたちのない鎖で人を縛って、とんでもない場所で動けなくしてしまいます。生きづらさのかなり部分は、想像力が関わっているのです。

 想像力は、わたしたちの判断力をくもらせる作用も持っています。わたしたちは、心や理解の隙間に、想像で補助線を引いて、情報を誤読してしまいます。この性質は、予断と呼ばれる判断ミスの発生源です。予断はたくさんの人間に未来を空費させてきた、人類の業病のようなもので、これから完全に逃げるすべはありません。

(…)

 そして、ここまで悪い話をしてきましたが、皆さんは想像力という劇物を扱うことに慣れてください。

 ここで、長谷は本を読むことで「想像力」を「飼い慣らそう」という提言をします。それは言葉にすることはひどく簡単ですが、大変むずかしい問題です。

 しかしそこから逃げることはしたくない、とも思っています。

 推理小説が「想像力」を扱う物語ジャンルであるのなら、それがもたらす結果についても、「想像」していくべきなのではないでしょうか。そのとき〈偶然〉という回路を、「図式」をもう一度捉え直すことができるかもしれない。推理小説の持つ抗いがたい暗さを飼い慣らすことができるかもしれない。

 そこで「虚構」の持つ魅力とはなにかをようやく考えることができるような気がするのです。もちろんそれは、あやうい試みなのかもしれませんが。

 というわけで、そういうことを考えています。

 いまのところは。

 そのようなぼんやりしたことをみなさんにお伝えして、この長い備忘録を唐突に終わらせたいと思います。ひどくとりとめもない話題になってしまい、あまり実のない話で恐縮ではあります、お付き合いいただきありがとうございました。

 願わくばまたどこかでミステリについて、お話ししたいと思います。

 

エンディング:österreich 「swandivemori」


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今後の宿題としたい書籍リスト

*1:全文が渚 (国木田独歩) - Wikisourceで読めます。