きみはアニメ映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』の部屋を見たか?

 タイトルの通りです。

 電撃文庫『青ブタ』公式情報によれば、シリーズが完結するとのことで、めでたいね。アニメ化も最後までするのかな。待ってるね。

dengekibunko.jp

 

【注】本記事には、青春ブタ野郎シリーズ『おでかけシスター』『ランドセルガール』までの一部ネタバレがあります。

 

 

青春ブタ野郎シリーズ』の小物描写について

 わたしは原作もとても好きで、テレビシリーズも『ゆめみる少女~』も楽しく見たのだが、正直映像化という点でもっとも驚いたのは『おでかけシスターの夢を見ない』だった。

 いいな、と思ったのは、原作では描写されなかった咲太くんの表情もそうだが、とりわけ印象的だったのは、彼彼女らの周囲を彩る小物の描写にほかならない。

 と、一気に本筋に入ってもよいのだが、もうすこしだらっとした話をしよう。どういうことかといえば、青ブタシリーズは大学生編がすでにあることもあり、受験や進路選択に対して、物語内でしっかりと描く必要がある作品であり、それにそった美術が用意されている素晴らしい作品でもある。

 たとえばわかりやすいのは『おでかけシスター』の一場面。ファミレスの控え室で咲太くんが隙間時間の勉強をしているシーンだ。

咲太くんが読んでいる英単語帳はおそらく『ターゲット』の類似品。

 デザインは現実とは違うものの「1400」というデカい数字からして『ターゲット』シリーズが意識されているのは明白だろう。ちなみに続編の『ランドセルガール』になるとこの数字が『1900』になる。本格的に咲太くんも受験生である。加えていっておくと、作者の鴨志田一が脚本を担当している受験青春アニメ『Just Because!』でも「1900」の文字は登場する。

 ほかにも、彼の部屋には「チャート式」らしきもの(記載されているのはビュート式?)など、定番アイテムが並んでいる。『おでかけシスター』作中は一年の冬なので、大学受験の準備モードへと入っていく段階である。

説明会から帰ってきたときの咲太くんの机。

参考書以外にも彼の私物はそれなりにあるのがわかる。

梓川花楓/かえでの部屋について

 さて本題である。テレビシリーズの「おるすばん妹」編において、翔子さんが朗読したかえでの日記によって語られたように、藤沢のマンションにかえでが引っ越してきたときに、彼女が自主的に持ってきたものはほとんどない。

 咲太にうながされ、唯一かえでが藤沢の家に持っていくことを選んだのは花楓の「本と本棚」だけだった。

 だからここにはいくつかの推論が混じるのだが、おそらく「学校」を想起させるものを「かえで」は本能的に持っていこうとはしなかったのではないだろうか。

 かえではかつて自分を傷つけたネットや電話を嫌っていたように、同年代の制服姿に対しても過敏な反応を見せていた。となれば、そうした学校を想起される物品の類は目に入るだけで恐怖や混乱のスイッチとなりうる。また、彼女が主に時間を過ごすのはリビングで、学校とは関係のないパンダのDVDなどを見ていたことが描写されていた。

 彼女は自分の安全を確保するために、一度、勉強とは離れていた。

 だからこそ逆説的にではあるが、『おでかけシスター』編においては彼女の、花楓の部屋に追加されるものがひとつ要請されることになる。

 それはなにか。

 端的にいえば、勉強用の机一式である。

テレビシリーズでは、彼女の部屋には「勉強机」は存在していなかった。

 ちょっと思い出すのに時間がかかるかもしれないが、テレビシリーズ第7話「青春はパラドックス」において、双葉理央から子供状態の翔子ちゃんとともにかえでが勉強を教わるシーンがある。

 しかしそれがおこなわれるのはもっぱらリビングであり、参考書などが開かれるのはもちろん大きなテーブルの上だった。

 これはのちにのどかや麻衣先輩から教わるときも同様である。

 かえで/花楓は周囲に見守られるようにして勉強を教えられ、遅れながらも知識を身につけていた。しかし『おでかけシスター』において彼女が「受験」という選択肢を能動的に考えたとき、彼女は周囲の援助を受けつつも、それだけでは足りないことに気づかされる。

 だから彼女は「ひとり」で戦う必要にかられることになる。

 時間的にも、空間的にも。

 よって勉強用の机は、彼女の小さな戦場として、即席のものとして現われる。

もともと机を置くスペースがなかったことがクローゼットによって説明される。

 もちろん一見してわかるように、これは決して快適な環境ではない。

 机の天板の面積は小さいし、ノートを広げただけでスペースは埋まり、教科書や参考書の類はブックスタンドを置かなければじゅうぶんに見ることさえかなわない。椅子もそうだ。高いものではない。きっと咲太くんが気を利かせて近所で(バイト代を使うかなにかして)プレゼントしてやったのではないだろうか。容易に想像が浮かぶ。

 ただわたしは、この、小さな戦場を見るだけで泣きそうになる。

 なぜなら原作を発売当時読んでいたとしても、わたしはこの部分にいっさい想像をはたらかせていなかったからだ。

 ときおりインターネットでは勉強ができる環境があるかどうか、といった子供の生育環境のトピックが話題になることがあるが、「学校」という空気の苦しい場所から逃げてきたかえで/花楓たちのことを、すくなくともわたし個人は考えられていなかった。

 逃げる、というのは、それまであたりまえにあったものを捨てて、置いて、孤独になるということではなかったか。寄る辺なくなるということではなかったか。以前と違っている学習環境は決して十全ではない。休み時間に質問する教師もいなければ、一緒にはげましあう友達もいない。ただただ夜は、ひとりだけの時間が長い。

 もちろん『おでかけシスター』は作劇上、美術上、必要最低限の描写をほどこしたにすぎない。しかし、その選択に立ち向かい、努力した花楓は、たしかにすごいのだ。彼女の小さな机を見てしまったからには、そう思わずにはいられない。

 頑張ったんだよ。とわたしは声を大にして言いたい。

『おでかけシスター』終盤で花楓が出会う広川卯月は、自分なりに、置いてきたものがあったとしても、そことはべつの道を歩けばいいことを教えてくれた。必要のないつながりを求めなかった先達として、彼女は花楓の視界を広げてくれる存在となる。

 それは「空気」という見えない暴力に絶えずさらされていた花楓にとって、ひとつの解放になったのだった。

「おでかけ」は峰ヶ原高校の前で終わるが、それは目的地が変わったにすぎない。

 続編の『ランドセルガール』になると、花楓は麻衣先輩から進学先の学校のリモート授業に使えるようにと、ノートPCをプレゼントされている。かつてあれほどまでに電話やネットなどをトラウマ的に嫌っていた彼女が手にしたのは、もう一度、遠くのだれかとつながるためのツールだった。

 おそらく藤沢にある彼女の部屋はいまでも狭い。小さな机も、折りたたみの椅子もきっとそのまま残されていることだろう。

 けれど、そこはもうどこにもつながっていない場所ではない。

 梓川花楓は、あの小さな場所から、もうどこにだって行くことができる。

 

 

エンディング:17歳とベルリンの壁「透き通る群像」


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