ゼロを失った男の話

 いつもなにかを失う予感がある、と彼女はそう言った。

 ――『雲のむこう、約束の場所

 過去の真のイメージはさっとかすめ過ぎていく。それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ。過去はそのようなイメージとしてしか、しっかりととどめておくことができない。(…)というのも、自分は過去のイメージのなかで意図された存在なのだという認識をもたなかったあらゆる現在とともに消え去ろうとしているのは、二度と取り戻すことのできない過去のイメージなのだから。

 ――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について Ⅴ」山口裕之訳

  ところで今朝、自分の使っている外付けハードディスクがクラッシュした。ちゃんと確認していないけれど、たぶん5、600GBはなくなったんじゃないかと思う。スマートフォンや別のドライヴに保存していたのもあったけれど、だいたい15年分くらい聴いていた約2万曲のデータが消えていった。

  すでに終わってしまった歴史や思い出そのものを救済することはたぶんもうかなわない。けれどそう思った途端、どこか長い夢から醒めたような気もしている。夢と喪失、そして忘却というテーマからいつも思い出すのは『雲のむこう、約束の場所』のことだ。村上春樹アフターダーク』の登場人物のように眠り込むサユリという少女はひとり、廃墟のような世界の夢を見る。その長い夢のなかで彼女は大切な感情を育てていくのだけれど、物語の最後、目を醒ますと同時にそのことを忘れてしまう。だから、それがどんなに特別なものであったのかを思い出せない。遠い憧れも、淡い思いも、相手の呼び名も、大切な約束も全部失くしてしまう。残ったのは、なにか大切なものがあったけれど、それがなんだったのかわからないという心だけだ。それでもなにかを失ったことに気づいている。そして、消えちゃった、といって彼女は泣き出す。それでも主人公の浩紀は言う。

「大丈夫だよ。目が醒めたんだから。これから全部、また――」

  ベンヤミンは世界を「いまだ―ない」ものと「かつて―ありえた」ものを重ね合わせるようにして見て、そのさきにあるものを捉えようとしていた。それは虚構ではあるけれど、星座のように不思議と手を伸ばしたくなるようなものに思える。

 もともと自分のものではないはずなのに、とりわけひどく悲しいと口にすると嘘な気がしてしまう。でも、ただこうやって空白が満たされていくのが、なぜだかひどく懐かしいと感じる。それでも、だからこそ、ぼくたちは大丈夫だ。だって、あとはそうやって生きていくだけなのだから。


『JFK空港』People In The Box / Covered by rionos

 ゼロ(年代)を失った男なので、この曲を聴くたび『CLANNAD』の一部シナリオが夢の記憶みたいにちらついている。